Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

松尾芭蕉の旅

2020.11.07 06:15

【西鶴、芭蕉、そして秋成のこと。】

最近、西鶴、芭蕉、秋成の関係に関心があります。

芭蕉は言わずもがなですが、西鶴も秋成も俳諧をやっています。西鶴は「矢数俳諧」といって、一昼夜かけてどれだけたくさんの句が詠めるかを競うパフォーマンスで、二万三千五百句(ほんとうかどうかは分かりませんが)という前人未到の記録を打ち立てた人です。

西鶴の文学は、『好色一代女』にしろ『日本永代蔵』しろ『世間胸算用』しろ、封建的な制度の衰退と堺を中心とした商人文化や町人文化の興隆が金と色のうずまいたダイナミックな世界として描かれています。そこには革新的なものがあったと言っていいと思います。簡単に言えば、資本主義的なものが、伝統的な制度を破壊していくということです。芭蕉は、その西鶴の文学にある革新性を認めてはいました。しかし、それを「いやしい」といって退けました(保田与重郎『芭蕉』)。それでどうしたかというと、旅に出たわけです。なぜ旅なのか。

元禄時代は、まだまだ西鶴のいる上方に文化の中心があったけれども、芭蕉はその上方の武士の家に生まれ、早くから貞門派と呼ばれる伝統的な俳諧を学びます。しかし、三十歳を過ぎてから江戸に入り、当時の前衛文化であった談林派の俳諧にひたります(ちなみに西鶴は談林派)。芭蕉が当時、再開発の真っ最中といっていい江戸の社会に暮らして経験したものは、江戸には西鶴が描くような上方の縦糸と横糸が複雑に絡み合うようなダイナミックな力ではなく、きわめて平面的にととのった、今でいえば「郊外」のような社会ではなかったかと思います。芭蕉は、そこにも嫌気がさす。西鶴的な世界の先にあるものとして見いだすべきであった江戸の社会にあっても、芭蕉が理想としたような世界は何処にもなかったわけです。そうして有名な芭蕉開眼の古池の句が生まれるわけですが、芭蕉はそれから晩年の十年間は「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」という辞世の句にあるように旅に生きる。芭蕉にとって「旅」とは何だったのかという問題も非常に大きなものをはらんでいると思いますが、芭蕉のよりどころは、西行でした。

芭蕉死後、「蕉門」と呼ばれる俳人たちは、こぞって旅をして発句を詠む。芭蕉と蕉門派を痛烈に批判したのが、秋成です。芭蕉と西鶴は同じ元禄の人ですが、秋成はそれより少しあと、十八世紀後半に活躍した人です。秋成は、そもそもは俳諧でデビューしています。しかも、秋成の発句は、直接的に交遊があった蕪村や几董以上に、芭蕉の句の影響を強く受けているといわれています。秋成はその後、国学を学んで、その俳諧を打ち切って読みもの作家となり、『雨月物語』や『春雨物語』といった名作を残します。その秋成は『去年の枝折』という紀行文の中で芭蕉のことを「ゆめゆめ学ぶまじき人の有様なり」と、芭蕉の生き方そのものまで痛烈に批判するのです。なぜ、若き日に影響を強く受けたはずの芭蕉を、秋成がそれほど嫌ったのか。それは「旅」に関係しています。

西行は旅に生きざるをえなかったが、芭蕉はそんな必要はない。江戸で成金を相手に相当、金を儲け、その金を費やして出る旅などは、今の旅行のようなものだと、秋成はいうのです。

中世的な社会が崩れても、富の不平等はまったくなくならない。むしろ、互酬的な再分配の仕組みが弱まるほど、その差ははっきり見えてくるわけです。とりわけ、江戸は堺のような伝統的な商業都市のようなところにあった抵抗もなしに、すっきりと格差社会ができていたのではないかと思います。そのような社会で、芭蕉が人気をはくし、富をえて、世俗的な社会から自由になった気でいるように、秋成には思えたのでしょう。

つまり、秋成には、芭蕉が西行においては真であった漂泊や放浪をただ気取っているだけに見えた。秋成が批判した旅とは、決して現実は何も変わっていないのに、あたかも現実と距離をとっているような気分にひたる、そういう旅であり、そういう生き方です。秋成にとって、芭蕉の開眼とは閉塞した社会から自己逃避する場所(内面)を開いたにすぎず、蕉門派はむしろそこに閉じこもろうとしているように見えたのかもしれません(ちなみに秋成の紀行文は、芭蕉のような漂泊の心などなく、ガイドブック的なんだそうです。秋成の「去年(こぞ)の枝折」という紀行文のタイトルをみても、西行法師の歌「吉野山去年の枝折りの道かえて まだ見ぬかたの花をたずねん」からとられているわけですから、西行から芭蕉というラインそのものが「去年の枝折」だと言っているような気もしてきます)。

西鶴が描いたような立身出世の物語のようにはいかず、芭蕉の開いた自己逃避の内面に閉じこもってしまう。そういう「格差社会」の住人を秋成は批判する。そんな秋成の思想は、かなりスピノザ的なのではないかという気がしています。暇なときにまた調べていきたいと思います。


https://dot.asahi.com/tenkijp/suppl/2019051600082.html?page=1 【「旅人」といえばこの人!漂泊の俳人・松尾芭蕉の、人生をかけた旅の軌跡】より

梅雨入りが気になる季節が間近に迫ってきました。

今日5月16日は「旅の日」。「ともすれば忘れがちな旅の心を、そして旅人とは何かという思索をあらためて問いかけること」を目的に、「日本旅のペンクラブ」が提唱して1988年に誕生しました。

1689年のこの日(陰暦元禄2年3月27日)、松尾芭蕉が『おくのほそ道』で知られる東北・北陸を巡る150日間に及ぶ旅に出ました。漂泊の俳人といわれる芭蕉の旅中の句から、その人生観を紐解いてみましょう。

道程はるか2400キロ、齢46にして『おくのほそ道』の旅に出る

松尾芭蕉(1644年・陰暦寛永21〜1694年11月28日・陰暦元禄7年10月12日)は、江戸時代元禄文化期の俳人。三重県上野市(現在の伊賀市)に生まれ、江戸の街で俳諧師として成功を収めるものの、46歳の時に「芭蕉庵」といわれた深川の草庵を捨てて旅に出ます。江戸から東北、北陸をめぐり、岐阜の大垣で終着を迎える約2400キロにのぼる道程でした。当時としてはかなりの高齢、しかも持病を抱えた身でありながら、1日に平均して数10キロも歩いた計算になります。出身が伊賀であることも影響して、「芭蕉忍者説」が浮上。こちらも歴史ロマンとして興味深いですね。

この旅から生まれた『おくのほそ道』(1702年・元禄15年)は、俳諧集と思われがちですが、日本の古典における紀行文の代表的存在。作品中に50を超える俳諧が詠み込まれる体裁になっています。冒頭には、古代中国・唐の詩人李白や杜甫、敬愛する西行を念頭においた、芭蕉の人生観を凝縮する味わい深い文章が綴られています。

時は永遠の旅人、時を生きる人もみな旅人

「月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行(ゆ)きかふ年もまた旅人なり。」

有名な書き出しからはじまる『おくのほそ道』。この一文に、芭蕉の人生観が込められているといっても過言ではありません。

時は永遠の旅人であり、人生は旅そのものである、と芭蕉はいいます。人生の真の意味をつかむために、草庵を後にして旅に出たのです。目指したのは、西行が500年前に訪れた奥州平泉をはじめとしたみちのくでした。同行したのは門人の河合曾良。彼は蕉門十哲の一人とされ、詳細な記録を描写した覚書『曾良旅日記』を著し、『おくのほそ道』研究の重要な資料となっています。

旅のなかに、俳諧の理想と人生の意義を求めた芭蕉

芭蕉は、江戸を出発してから44日目の6月22日(陰暦5月13日)に平泉に入ります。11世紀末から12世紀にかけて栄華を極めた奥州藤原氏が滅び、源頼朝に追われた義経が最期を迎えた場所でもあります。西行が2度目に訪れたのもこの頃でした。

夏草や兵どもが夢の跡

草むらと化したかつての戦場に佇んだ芭蕉は、500年前の藤原一族の滅亡と義経の最期を想います。『おくのほそ道』には、杜甫の「国破れて山河在り 城春にして草木深し」のとおりだと時を忘れて悲劇を思い涙を流した、と記されています。

藤原氏三代の棺が納められた中尊寺金色堂では、草むらと化することなく往時を偲ばせる金色の輝きに目を奪われます。

五月雨の降り残してや光堂

すべてを朽ち果てさせるような五月雨も、光堂だけは避けて降ったのだろうか。

「五月雨」に500年間の風雨の意味を込め、変わらぬ黄金の輝きを想起させる「光」に藤原三代を慰霊する想いが込められています。

芭蕉は、平泉で鎮魂歌といえる2つの句を残しました。藤原氏への弔いと西行の足跡を辿るこの地は、みちのくの旅最大の目的地だったのではないでしょうか。

平泉を発った芭蕉は、出羽三山、新潟、金沢などを経て、8月下旬についに旅の終点、岐阜県の大垣に到着しました。その後、芭蕉は5年をかけて『おくのほそ道』を完成させます。しかし、この直後に病にかかり大阪で客死、51年の生涯を閉じました。

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

芭蕉はこの句を詠んだ4日後に世を去ります。九州に向かう旅の途上でした。辞世の句といわれますが、死よりも生への意識が勝っているようにも感じられます。芭蕉の漂泊の魂は、めぐる時のなかで永遠の旅に出たのですね。

「日本旅のペンクラブ」は、会長は西行、副会長は松尾芭蕉というのが設立当初からの申し送りだそうです。西行と芭蕉、時空を超えて終わりなき旅へ。


http://www.anokoro.co.jp/2015/11/20/%e6%97%85%e3%81%af%e5%a4%a9%e5%91%bd%ef%bc%81%ef%bc%9f%e6%9d%be%e5%b0%be%e8%8a%ad%e8%95%89%e3%81%8c45%e6%ad%b3%e3%81%a7%e4%b8%8b%e3%81%97%e3%81%9f%e3%80%8c%e5%a5%a5%e3%81%ae%e7%b4%b0%e9%81%93%e3%80%8d/ 【旅は天命!?松尾芭蕉が45歳で下した「奥の細道」への決断力がすごい!】より

俳人である松尾芭蕉が、「奥の細道」という俳諧紀行文を書いたことは有名です。その「奥の細道」が刊行されたのは実は松尾芭蕉の死後なのですが、50歳で亡くなる直前まで、執筆に時間をかけていたそうです。

旅をこよなく愛していた松尾芭蕉が奥の細道への旅を決断したのは、その数年前の45歳の時でした。今回は、そんな松尾芭蕉が「奥の細道」への旅を決断した背景とともに、どのように晩年を過ごしていたのかについてご紹介していきます。

奥の細道への旅を決断した背景は?

伊賀に生まれた松尾芭蕉は、20歳の時に詠んだ俳句が入賞し、28歳のころにはすでに伊賀で若手の代表格としての地位を築いていたそう。その後江戸へ出て、俳人になり修行を積むようになりますが、そのころに流行っていた俳句の傾向は、滑稽の機知や華やかさを競うものばかりで、自然の美しさなどを表した俳句を好んだ芭蕉は、この状況に失望し、江戸を後にしたそうです。

その後、40歳のころに母親の訃報を聞き、墓参りを旅の目的にし、奈良、京都、名古屋、木曽などを半年間めぐりながら俳句を詠みました。この時にできたのが、「野ざらし紀行」と呼ばれる紀行文です。この旅をきっかけに、旅の面白さに気がついた松尾芭蕉は、やがて、自然と向き合い魂を晒すような本当の旅への憧れを強めていくことになります。

そして45歳になったとき、全く知人のいない東北地方への長期旅行を実行することに決めたのです。全行程約2400km、7ヶ月間という大旅行は多くの困難が予想されていましたが、「たとえ旅路の途中で命を落としてしまっても、それは天命だと思い全く後悔はしない」と覚悟を決めて臨んだそうです。

晩年はどのように過ごしていた?

奥の細道の旅の途中では、芭蕉の中に「不易流行」という俳諧論が生まれました。目標とするべき理想の句は、時代とともに変化する流行を含んでいますが、その中には永遠性を持つ詩心が備わっているというものです。

48歳で江戸へ戻った芭蕉を待ち受けていたのは、芭蕉の力を借りたいという毎日押し寄せてくる大勢の客人たちだったそうです。過密なスケジュールに疲れ切ってしまった芭蕉は、「来客謝絶」という張り紙をし、一ヶ月の間誰とも交流しなかったというエピソードもあります。

その後、1694年には、ついに俳諧紀行文「奥の細道」が完成します。この作品は、原稿用紙50枚程度と、決して多くない文量だそうですが、芭蕉は、練りに練って、約3年がかりで原稿をまとめ、その後2年かけて清書を行ったそうです。

松尾芭蕉が、生涯で詠んだとされる俳句は900句以上で、紀行文の中で感じられる芭蕉の感性に多くの俳人たちが虜になり、いつしか「俳聖」と呼ばれるようになったそうです。

いかがでしたか?松尾芭蕉は、その生涯のほとんどを俳句にかけ、自分の好む俳句を極めるために危険を顧みず困難な旅へと挑戦を続けていたそうです。奥の細道の旅を始めたのは、45歳のときだったそうですが、その歳から7ヶ月間も旅を続けるというのは、中途半端な気持ちではなかなかできませんよね。

しかし、強い覚悟を持って旅に出たからこそ旅の途中では、俳句に対する「悟り」も生まれましたし、何よりその後作成した紀行文はとても素晴らしいものになったのですよね。松尾芭蕉が「俳聖」と呼ばれるまでの感性を身につけることができたのも、強い覚悟で臨んだ厳しい旅があったからに違いありません。


http://www.akitakeizai.or.jp/journal/201610_zuisou.html 【松尾芭蕉『奥の細道』現代考】より抜粋

4.『奥の細道』の旅の真の目的

 元禄期のアーティスト・芭蕉が『奥の細道』の旅に出立した真の目的は、先人の旅跡を巡り、俳諧を極めるだけでなく、①亡き人々への鎮魂と②不易流行の境地に辿りつくことにあったとする長谷川櫂氏の説4があります。

 ①については、「夏草や兵どもが夢のあと」(二十五「平泉」)が、一般には、源頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏と義経主従を鎮魂する名句として知られていますが、同氏はそれを含めた長い戦乱の時代に散った多くの人命に対する鎮魂句として、より広く解しています。

 ②については、芭蕉が、越後(現在の新潟県)・出雲崎で詠んだ「荒海や佐渡に横たふ天の河」(三十三「越後」)からも読み取れるように、不易流行の境地に辿りつくことも旅の真の目的だったと解しています。筆者も同感であり、筆者は、当句が「人間の愚かな営みが波のように荒々しく多くのものを飲み込んで流れる中(流行)で、日本海に厳然と横たふ佐渡島とその上空に悠然と横たふ天の河が示す不変の存在感(不易)を表現している」と解しています。さらに、同氏が不易流行の境地のさらなる先の人間の営みのあり方を「かるみ」5という概念で説いている点は、非常に興味深いと考えます。

4長谷川櫂『100分de名著 おくのほそ道』NHK出版、2013年。同氏は東日本大震災の後、松島、平泉、立石寺を辿った結果、この鎮魂説に至ります。『奥の細道』の旅の目的は諸説があり、この他にも、日光東照宮の修復工事の視察、仙台藩や加賀藩の密偵にあったとの説もあります。

5「かるみ」については、鎌倉時代、やはり平泉・松島を始め、諸国を旅した時宗の祖とされる一遍上人(1239年-1289年)の思想が思い浮かびます。仙台市若林区新寺町にある阿弥陀寺には上人の像と「かるみ」を唱える石碑が置かれています。