ホテルハドソン殺人事件7
ツイッター交流企画『ホテルハドソン殺人事件』参加作品です。
アドラ・アルムニアが私のキャラで、話によりNPC或いは他の参加者様のキャラクターをお借りしています。セリフの一部は公式による提供、または他の参加者様とのキャラロールでのやりとりでいただいたものになります。
ホテル探索【ラウンジ】【白衣と紳士の会話】【スリの少年】
外の空気を吸いたくなったアドラは、再び庭園を訪れていた。
見た限り、フレドリックが憂慮していた惨劇は起きていないようだ。今はまだ、というだけの話かもしれないが。植物は手入れが行き届いてるとみえて、枯れた葉の一枚も見当たらない。緑の葉は瑞々しく、花は鮮やかだ。さながら、緑の絹地に色とりどりの染め糸で刺繍を施したかのような景色が広がっていた。
もっとも、ただ美しいだけではない。入り口には警備員が立っているし、柵には『毒草あり、注意』の看板が掲げられている。注意して見れば、確かに幼少のころ母に「触ってはいけない」と注意を促されたものによく似た葉が見て取れた。アドラの目には判別がつかないだけで、他にもありそうだ。
そんな危険なものが植わっているこの庭を、あの手を包帯だらけにしエプロンにシミを付けていた従業員エミリーが臨時とはいえ世話できるのだろうか、と他人事ながら心配になる。
散策路を歩んでほどなく、アーツ・アンド・クラフツの影響がみられる優美な木製のガーデンベンチに、大きな革の鞄が置かれているのが目に留まった。
「何か御用?」
無意識に見すぎていたらしい。鞄の傍らに座る女性に声をかけられて、アドラは顔を上げた。
「まあ、不躾に申し訳ありませんわ。お気を悪くなさらないでくださいましね」
「いえ、気にしませんわ」
ふんわりと波打つ金色の前髪が揺れる。年のころは、アドラと大体同じに見えた。赤い石飾りのついた大ぶりのベレー帽、深いグリーンのコートの上からベルトを巻いたスタイルは個性的だが、絵筆を持つ彼女の雰囲気には不思議と調和している。
「実は先程、ホテルの二階で鞄の盗難騒ぎがあったようで……この辺りでよくスリを働いているらしい少年が警備員と揉めているのを廊下で見かけましたの。それでつい、貴女様の大きな鞄が気になってしまったんですわ」
「まあまあ、スリだなんて!」
よろしければ、と誘われて、アドラは女性の鞄が置かれているのとは反対側のスペースへ腰を下ろした。
「私はマリア・ピラー。見ての通り画業で生きている者です」
「素敵なお仕事ですわ。わたくしはアドラ・アルムニアと申します」
微笑みを交わすと、マリアは手にしていたスケッチブックをめくった。ホテルにいる人々を写し取ったらしいクロッキーや、水彩絵の具で色を付けられた花の絵がちらちらと覗く。
素人目にもなかなか素晴らしい腕前の持ち主であることが見て取れ、アドラは密かに感心しながら話を続けた。
「……その少年が言うには鞄はたまたま拾っただけで、最初から空っぽだったそうなんですけれど。警備員がそれを信用したようには見えませんでしたわね」
事細かく明文化されているわけではないにしても、高級ホテルにはそれなりのドレスコードというものがある。二階に行くまでに咎められなかったのを不思議に思ってしまうくらい、みすぼらしい身なりの子供であった。
「幸い、鞄は持ち主の方がご自分で取り戻したそうですわ。ただ、中身がどうであろうと愛用の品がなくなるのは悲しいものですわよね」
どうか貴女もお気をつけなさって、とアドラが言えば、マリアは自分の鞄を心持ち引き寄せた。
「画材が盗まれたりしたら大変……教えてくださってありがとうございます。絵を描いてるときは荷物に気が回らないから、注意しなくちゃ……」
「レストランの事件のことで、どうもホテル中が浮ついているように思えますわ。ほかにも気になることがちらほらと……」
「また皆さんで捜査するようなことが起きるかしら。指輪の件では、私も少しばかりですがお手伝いしましたのよ」
ふふ、とマリアが笑う。淑女としてのあるべき姿よりも自らの冒険心や探求心を優先してしまうところは、アドラと似ているのかもしれない。
「気になることと言えば、私も先ほど妙な会話を耳にしましたの」
話しながら、マリアは白いページに鉛筆を動かす。黒い線が描き出すのは、どうやら男性のシルエットのようだ。迷いなく引かれる線を、アドラは興味深く見守った。
「ラウンジの絵を描きたいと思い立って、そちらへ向かっていたんです。そうしたらラウンジ前の廊下で、白衣の方と紳士さまがお話してらしたんですの。遠巻きに伺っただけなので断片的なんですけど、内容が少し物騒で……」
鉛筆を持つ手を顎に当て、ええと、と記憶を思い起こす。
「片方が『今夜で……ベラさんの遺体は……』って言ってて、もう片方、確かベネットさんと呼ばれていたかしら。そちらの方は『妻が……』とか『全てが“そのまま”に……』と話してらしたの」
「まぁ、……それは確かに気になりますわね」
「喋っていた様子からするとベネットさんの妻がベラさん、……こんなところで遺体だなんて言葉、あまり使わないで頂きたいですけど。他人の事情に口出しするべきでも無いですね、何も言わずにお二方の横を通り過ぎたわ」
アドラはチェルソムから聞いた話を思い出していた。ホテルの外に止まった霊柩馬車からガラスの蓋の棺が降ろされて、ラウンジへ運び込まれたという件だ。遺体は夭折の歌姫ベラ・ベネットのもの。
ラウンジ前の廊下でベネットと呼ばれていた男性は、おそらくベラの夫であり男優のクラウス・ベネットだろう。
チェルソムと別れた後にリネットから聞いた従業員ジェシカの『今日は死者が蘇る奇跡の日』という言葉、それにフレドリックが再演してくれた怪しい演説家の『魔法の実在を証明する』という話、その全てが繋がっているのだとしたら。
蘇りという魔法を実証するには、死者が必要だ――。
突拍子もない空想に気を取られたアドラをよそに、マリアは話を続ける。
「肝心のラウンジへは入れませんでしたわ。いざラウンジへ! と思ったら従業員さんに止められてしまったの。ええと、オーウェンさんだったかしら?」
「ラウンジは今、晩餐会の準備中だそうですわね」
「ええ! 十九時が開場だって言われたわ。それでふと気が付いたの。晩餐会ってお呼ばれしないと入れないから、今日はラウンジの絵が描けないわって……」
至極残念そうに、マリアは溜息を吐いた。
招待されていたとしても晩餐会の間に絵を描くのは難しいのではないかと思うのだが、どことなく奔放そうな彼女ならばやりかねないような気もしてくる。素晴らしいホテルの大きなラウンジに、思い思いに着飾った客人たち。スケッチブックは見る間に埋まることだろう。
ともあれ、謎の会話よりもよほどラウンジに強い関心を向けるマリアへ、アドラは自分の中に生まれた荒唐無稽な推測を伝えるのは差し控えることにした。
遺体は故人を悼むために運び込まれたのかもしれず、演説家は単なるペテン師であるかもしれない。罪なき死者が関係している以上、確かな裏付けのない憶測であれこれというのは不謹慎であるし、なんにせよ晩餐会に招かれていないアドラとマリアでは答えを知ることはできないのだ。自分ひとりの空想にしておく方が賢明だった。
「このホテルに宿泊して二、三週間になるけど、もう少し滞在を伸ばそうかしらって考えていましたの。ラウンジの他にも描きたいものが沢山ありますもの」
「まぁ、随分長く逗留なさっていらっしゃいますのね。うらやましいですわ」
気分を切り替え、アドラは率直に感想を述べた。
部屋によって多少の差はあろうが、ホテルハドソンは素晴らしい施設とサービスを誇るだけあって、その宿泊費は決して安くない。雇用主の支払いでなければ、アドラには一泊するだけでも大ごとだ。
アドラの驚きを感じ取って、マリアは恥ずかしげに笑う。
「画業で日銭は稼いでいますけど、あまり十分ではなくて……。お恥ずかしながら、未だに両親から援助を受け取っていますの」
「絵がお好きなマリアさんのことを応援してくださる、よいご両親でいらっしゃいますのね」
小さく頷いたマリアは、またスケッチブックの新たなページを開いた。
「良ければ絵のお仕事を頂けたら光栄ですわ。ふふ、本業は風景画なんですけど人物画も褒められるんです」
スケッチブックを垣間見ただけでも、マリアの実力は伺える。アドラの脳裏に、まだ架空のものでしかないカフェの壁に飾られる絵のビジョンがよぎった。フレドリックが描いてくれた設計図をしまい込んだ懐を、そっと押さえる。
マリアの絵は、きっと空間に華やかさを与えてくれるだろう。
だが、
「是非ともお願いしたいところですけれど……そうしたことはわたくしのパートナーが決めることになっていますの」
いくら華やかに着飾り、資産家や貴族と並んでみても、それは仮初の姿。今のアドラには自費で絵画を頼む余裕はない。
「今度、話をしてみますわ」
「ええ、いつでもお声掛けくださいな。ここの花々を背景に貴女様みたいな素敵な方を描けたら、非常に素晴らしい作品になると思いますの!」
マリアの声音は天真爛漫と言ってもいいほどだ。依頼による収入を得たいという以上に、良い絵を描きたいという思いが伝わってくる。
アドラは翳りかけた気持ちが晴れやかになるのを感じた。
「ふふ、審美眼のある画家の方にそう言っていただけるなんて、嬉しいですわ。すぐには無理ですけれど……都合がつきましたら、ぜひお願いさせてくださいませね」
今が無理なら、将来のいつか可能にするだけだ。もし自分のカフェを開くことが出来たとしたら、一番初めに飾る絵はマリアに描いてもらいたい。
夢をまた一つ育み、アドラは微笑んだ。