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俳聖松尾芭蕉 ~ 妻寿貞 ~ 甥桃印

2020.11.08 04:29

http://www.basyo370.com/?p=67  【恋する芭蕉】 より

俳諧には、「花の定座」「月の定座」と言って、月や花を詠み込むところが決まっています。同様に、「恋の句」も詠みこむ約束があります。俳諧にも人生にも、恋は不可欠のようですね。

芭蕉には、一人、妻のような女性がいました。寿貞尼(じゅていに)です。

元禄7年6月、彼女の死を知らせる手紙を、京都の落柿舎で受けとった芭蕉は、故郷での盂蘭盆で次のような句を作ります。

寿貞尼がみまかりけるをききて「数ならぬ身となおもひそ玉祭り」(取るに足らぬ、数に入らないような自分だとは思わないでおくれ。今、こうして初盆会をおこなって、あなたを弔っているのだよ)

寿貞の死を知らせてくれた甥の猪兵衛には、次のような手紙を書いています。

「寿貞無仕合もの,まさ・おふう同じく不仕合,とかく難申盡候」(寿貞は不幸せ者、まさ・おふうも、おなじく不幸せ、とにかく言い尽くせません)「まさ・おふう」は寿貞の子どもたちです。

薄幸の妻(?)に対する愛情があふれる句と手紙ではありませんか。寿貞の死の4ヶ月後、芭蕉もあとを追うかのように逝去しました。

芭蕉は、江戸に出てきて日本橋で暮らしていたとき、寿貞と同居していたようです。芭蕉と同じく伊賀出身で、芭蕉を追って江戸に出たのだという説も、江戸で知り合ったという説もあり、詳細は不明です。

寿貞には次郎兵衛・まさ・ふうという3人の子がいましたが、父親は、芭蕉ではないようです。

寿貞がどのような女性であったのか、それ以上は分かっていません。そもそも「寿貞尼」という名も出家してからの名前で、本名は何といったのか、それさえもわかっていません。

明治45年に、芭蕉の孫弟子にあたる風律の『小ばなし』に次のような一文があることが紹介されました。

「寿貞は翁の若き時の妾にて、疾く尼となりしなり」芭蕉の門人、志太野坡(しだやば)が情報源のようですが、又聞きですから、正確性には欠けます。

また、こんな説もあります。

芭蕉は日本橋で寿貞と暮らしていたが、こともあろうに、寿貞が、芭蕉の甥の桃印と駆け落ちしたから深川に移ったのだそうです。藤堂藩では、5年に1度帰郷して近況報告する義務があったが、それができなくなったので桃印は死んだことにし、自分は知る人のない深川に隠遁したというのです。

よくわからないことだらけです。が、だからこそ、興味がつきませんね。

芭蕉は、恋の句の名手でもありました。

芥川龍之介は『芭蕉雑記』で、「芭蕉の付け句を見れば、芭蕉が恋愛や人情を描いた詩人であるとわかる」という意味のことを書いています。さて、どのような恋の句があるのでしょうか。

宮に召されしうき名はづかし 曾良

手枕(たまくら)に細きかひなをさし入いれて 芭蕉

(元禄2年「風流の」歌仙)

(高貴な方のお相手に召し出され、浮き名を流したのが恥ずかしいわ。あの夜、細い腕をあの人の手枕として差し入れたのよ)

この句ができたのは、『おくのほそ道』の旅の最中。須賀川で巻いた歌仙の中に入っています。

足駄はかせぬ雨のあけぼの 越人

きぬぎぬやあまりか細くあでやかに 芭蕉

(元禄元年「雁が音も」歌仙)

(逢瀬の翌朝、雨の中を帰ろうと足駄《あしだ》をはくことができない。

後朝《きぬぎぬ》の別れにあたって、姫君があまりにもか細く、あでやかであるので)

「後朝の別れ」とは、一夜をともにした男女の翌朝の別れのことです。王朝の物語の一場面ような妖艶な句。

起きもせできき知る匂ひおそろしき 東睡

乱れし鬢の汗ぬぐひ居る 芭蕉

(貞享4年 「旅寝よし」半歌仙)

(起き出さなくても、よく知った匂いからあの人が忍んできたことがわかって、不安と期待とでいっぱいよ。逢瀬の後は、乱れた鬢の汗をぬぐうの)

源氏物語の一場面のような、何とも色気のある句です。

只そろそろと背中打たする 去来

打明けていはれぬ人をおもひ兼 翁

(元禄4年 「蠅並ぶ」歌仙)

(病床で背中をゆっくり叩かせている。それは、思いを打ち明けて言うことができない相手への恋心が募ったせいなのだ)

身分違いの恋に病む人の苦しさを歌っています。

いかがでしょうか。

さても、匂い立つような芭蕉の恋の句の美しさ、あでやかさ。

どんな恋を経験してこんな句が作れるようになったのか、芭蕉の恋に思いを巡らせてみるのも、一興です。


https://ameblo.jp/ambakrymd/entry-12551760549.html 【俳聖松尾芭蕉 ~ 妻寿貞 ~ 甥桃印】 より

≪ハイデルベルクにて≫というエッセー(宮坂静生 2019/7/28付 日本経済新聞 朝刊)に、気になる記述があった:

“6月の初め南ドイツのハイデルベルク大学で松尾芭蕉の話をした~

芭蕉の私事を記すならば、妻寿貞が甥(おい)桃印と消えてしまい、行方知らず。ほそ道はその最中の旅である~芭蕉のままならない恋情の表現をここにみることはできないであろうか~”

≪妻寿貞が甥(おい)桃印と消えてしまい≫とは何のことか。俳聖と崇められる芭蕉の妻が芭蕉の甥と駆け落ちしたなどとは直ぐには連想できなかった。

しかし、文意はまさにそうだった。

芭蕉についてはほぼ人物像を把握している積りだった。妻が甥と駆け落ちしたのが事実だとすれば、とっくに承知していて当然だと思うのだが、単に我が勉強不足の報いなのか。

遅ればせながら、≪芭蕉 寿貞 桃印≫などでネット検索した。

その結果、芭蕉には妾がいたとの説が明治末年に紹介されて以来、その方面では想像を逞しくした議論が為されているらしいと判った。

芭蕉と寿貞なる女性とが親密な関係にあったことは確かだが、妻だったのかどうかなどについては資料が無いらしい。

日本史上のビッグネームにして、プライヴァシーとは言え、このような重要項目が不明あるいは曖昧であるとは信じがたいことだ。寿貞、桃印、芭蕉は短期間に相次いで没している。

このエッセーは、今年2019年が「奥の細道」330年の節目であることを思い出させてもくれた。

当時の(新暦)7月28日、すなわち(旧暦)6月12日を旅程表でみると、鶴岡滞在三日目であり、翌日に酒田へ向けて出発している。


http://intweb.co.jp/miura/myhaiku/basyou_jutei/jutei01.htm 【芭蕉と寿貞尼(じゅていに)】より

尼寿貞がみまかりけるとききて 数ならぬ身となおもいそ玉祭り  はせを

元禄7年6月2日、江戸深川の芭蕉庵にて寿貞尼死去。享年42歳?

芭蕉の甥の猪兵衛が、寿貞の死を知らせる手紙を芭蕉のいる京都嵯峨の落柿舎に届けた。芭蕉の深い嘆き。 「数ならぬ身となおもいそ玉祭り」

元禄7年7月15日、伊賀上野での松尾家の盂蘭盆(魂祭=玉祭)で寿貞にささげた句だった。芭蕉51歳。寿貞の訃報の4か月後、芭蕉逝く(10月12日)。

寿貞は、我が身を「数ならぬ身」と思うような境涯だったのだろうか。芭蕉は「そんな風に思ってくれるな」と慈しんでいる。玉祭りは魂祭りで、盂蘭盆(うらぼん)の行事。芭蕉と寿貞との間に何があったかわからないが、芭蕉の寿貞への切ない思いが衝撃的に伝わってくる。

 芭蕉がこんな句をささげた女性寿貞とは何者だったのか。芭蕉の深川隠棲と何か関係があるのだろうか。ややスキャンダラスな匂いのする芭蕉と寿貞の関係には興味がつきない。残念ながら、寿貞の肖像はないようだ。

1.江戸日本橋の芭蕉

1672年、芭蕉29歳、故郷の伊賀上野から江戸に出る。 芭蕉は、藤堂新七郎家の長男・良忠に台所用人として仕えていたが、良忠が亡くなったため仕官の道をあきらめ、俳諧師として身を立てようと決意した。 

江戸での身元引受人である小沢太郎兵衛家で、「書き役」といった仕事をし、日本橋小田原町で間借りしていた。小沢家は日本橋で名主をしており、芭蕉はそこで業務の記録をつけたり、文章の草案を作成する仕事をしていたようだ。(「芭蕉」田中善信 新典社新書)

芭蕉は34歳の時、江戸小石川の水道工事の監督ないし請負の仕事に従事した。深川の草庵に移るまでの4年間にわたる。監督といっても肉体労働ではなく人夫の管理のような仕事だったようだ。

なぜ水道工事の監督のような仕事をしたのか。俳諧師芭蕉とどうしても結びつかない。名主である小沢太郎兵衛家の仕事「書き役」の延長なのか、生活のための俳諧から離れようとしたためなのか、単に経済的な理由のためなのか、実際どうだったのか、事情を説明する資料がないし、芭蕉自身もそのことに直接には触れていないのでよくわかっていない。

この時期、芭蕉は「書き役」とともに、俳諧の宗匠もしており、経済的にはそれなりに潤っていたのではないかという見方もある。俳諧の宗匠として、経済的には「書き役」として、それだけをとれば順風満帆の生活と仕事ぶりだったといえるだろう。

芭蕉は「寿貞(じゅてい)」という女性と同居して、家庭らしいものを持っていたようだ。だが寿貞とは、後で尼になったときの名前で、その前の名前や寿貞がそも何者なのかもわかっていない。(「芭蕉」 新典社新書、「芭蕉二つの顔」講談社学術文庫、ともに 田中善信著)

芭蕉37歳。突然、住んでいた日本橋小田原町から、隅田川と小名木川の合流点で元番所といわれたあたりに引っ越した。門人でありパトロンでもある杉山杉風(さんぷう)の下屋敷とも、生簀の番所とも、さらに通行する舟を代官所が管理するための番所の跡地だともいわれている。

芭蕉が深川に越した時には、寿貞とは生活をともにしていなかったようだ。日本橋では芭蕉のもとにいた寿貞が深川ではいなくなっている。芭蕉と寿貞との間には何があったのか。

そもそも芭蕉はなぜ、日本橋での安定した生活を捨て、隅田川の向こうの深川村に遁世することになったのか。芭蕉の深川遁世は大きな転機となった事件だが、寿貞とは何か関係があるのだろうか。

深川隠棲が問題なのだが、これについては別の章に譲るとして、ここでは芭蕉のまわりにちらめく寿貞についてまとめてみる。

2.甥の桃印と内縁の妻寿貞

松尾甚七郎宗房(むねふさ)後の芭蕉が伊賀上野から江戸に来たのが29歳のとき。

江戸くだりに妻を同伴した形跡はない。だから寿貞とは江戸で知り合ったと考える人がいる。いや、彼女は芭蕉と同郷で、芭蕉を追ってあとから江戸に来たと考証する人もいる。彼女は死んでから伊賀上野の寺で供養されているところから、いずれにしても芭蕉とは同郷であったという説が有力なのだが。

芭蕉を追いかけて江戸に出たか、芭蕉が彼女を連れ出したのか、何かの都合で江戸に出た彼女が再び芭蕉とめぐり合うことになったのか、それはまったく不明。憶測だけが飛び交っている状態が現状。

次のような説がある。

やや衝撃的な桃印・寿貞駆落ち説。

とにかく芭蕉は江戸にでて数年後、どういきさつか彼女と同居していたようだ。31歳頃か。

芭蕉は伊賀上野から江戸に出てきた後、姉の子供で甥の当時16歳だった桃印(とういん)を連れてきている(芭蕉33歳の頃)。この桃印と、すでに同居していた内縁の妻である寿貞とが不義密通し駆落ちしてしまったというのだ。そしてそれが深川隠棲の原因であったというのがこの説である。

藤堂藩は、藩民が他藩で仕事をする場合は5年に1度は帰郷して近況を報告する義務があり、それに反すると一族にも厳しい累が及ぶという決まりがあり、芭蕉は桃印の件でそれに対応する必要があった。そのため、芭蕉は苦しんだあげく、桃印を死んだことにし、自らも誰も知らない深川に隠遁したのだと。(「芭蕉」 新典社新書、「芭蕉二つの顔」講談社学術文庫、ともに田中善信著)

桃印・寿貞駆け落ちの根拠が希薄だが、深川隠棲や寿貞やその子供たちにへの芭蕉の微妙なまなざしや距離感など、それなりの説得力はある。

だが、寿貞と桃印の年齢差はどうなのか、寿貞の3人の子、次郎兵衛・まさ・ふうは桃印の子なのか、疑問も多い。また、桃印を死んだことにし、深川遁世までして桃印の帰郷を免除してもらうようなことが本当に必要な措置だったのだろうか。

芭蕉隠密説というのもある。

芭蕉は藤堂藩との関係なしには江戸に出ることはかなわず、芭蕉が日本橋から深川に移り住んだのも、背景に、4代将軍家綱が死去し綱吉が第5代将軍に就任するのにともなった老中の権力争いがあるのだという。大老の酒井忠清が失脚し堀田正俊が大老についた。酒井忠清に繋がっていた藤堂家も逆風をうけ、隠密の体制も大きなリストラをせざるを得ず、芭蕉も深川に移り隠密としての現場仕事をすることになったのだと。隠密はその仕事がら正式に妻をもつことができず、そのため寿貞も内縁のままに置かれたということになる。(「芭蕉めざめる」青草書房 光田和伸著)

芭蕉が藤堂家からの保護を受けていたり、幕府に繋がる筋からの給金をもらっていて、その筋の仕事の手伝いをしていたという説は、芭蕉にまつわる様々な不思議の説明として、彼の出自を考えればそれなりの説得力を持っている。だが、裏で隠密もどきの仕事の手助けをしていたとしても、それは小石川上水工事と同様、身過ぎ世過ぎのこと、芭蕉にとっては風流の誠を極めようとしたただ一筋の道を揺るがすものではなかっただろう。

寿貞とは、後で尼になったときの名前だが、寿貞はなぜ尼になったのか。尼にならなければならないような自分と世を厭うような出来事があったのだろうか。芭蕉とは内縁の妻ということだが、実際、どういう生活関係を持っていたのか。それはほとんど推測の域を出ない。

●芭蕉没後210数年も経った明治45年に国文学者で俳人の沼波瓊音(ぬなみ けいおん)が「芭蕉に妾あり」という一文を発表(「俳味」三巻一号)し、内縁の妻寿貞の存在を紹介した。それにより芭蕉の妻帯説が世に知れることとなった。この発表は、俳聖芭蕉も人の子ということで納得する人が多かったという。

これは風律(ふうりつ)の「小ばなし」に記述されている次の一文を根拠に紹介したもの。

「寿貞は翁の若き時の妾にて、疾(と)く尼となりしなり。次郎兵衛もつかひ申され由よし。浅談」 「浅談」とは浅尾庵野坡のこと。

これから推測すると、次郎兵衛は芭蕉の子供ではなく寿貞の連れ子であるということ、母親と一緒に身辺の世話をさせたということ、寿貞には他に夫または男がいたということになる。ただし、野坡は門弟中最も若い人なので、芭蕉の若い時を知る由もなく、これが事実とすれば、野坡は誰か先輩門弟から聞いたということになる。(このあたりに信頼性に問題があるようだ。)

寿貞に関する記述や資料は極めて少なく、芭蕉とは少なからず深い関係にあった女性であるという以外に、現在でもなおその詳細は謎のままである。

風律(ふうりつ)の「小ばなし」は残念ながら現存しないという。若い時の「妾」とは何か。若い頃とは芭蕉が藤堂家に仕えていた頃のことを指すのか。江戸の日本橋の8年間の頃なのか。

甥の桃印と内縁の妻の駆落ち話しはずいぶん現実的で生々しいが、私にはこのほうが芭蕉の人間的現実として納得しやすい感じもする。原因はともかくとして、深川遁世は芭蕉の生き方に大きな変革を迫ることになった事実である。芭蕉はこれにより名声と富を手放してしまうことになるのだが、芭蕉の内で何かが大きく変わった。世捨て禅僧の厳しい修行のような深川隠棲を生き抜くことで、後世の「俳聖」といわれるまでの「芭蕉」が誕生したのだともいえる。

3.寿貞とは何ものなのか

『数ならぬ身とな思ひそ:寿貞と芭蕉』(新人物往来社 別所真紀子著)では、伊賀上野で幼馴染の芭蕉と寿貞が生活をともにしている様子が描かれている。藤堂藩の思惑を背景に芭蕉と寿貞のほろ苦くも切ない出会いと別れのロマンティクな小説である。この小説では、伊賀上野での2人の生活と別れ、江戸での寿貞の結婚と3人子の出産、夫との死別と出家、芭蕉との再会と束の間の生活、そして死別、それらが扱われていて興味深い。

寿貞の出家の理由は、かっての芭蕉との関係を自身の夫の死床で告白し、罪深い自分の許しを請うということにある。現代と違って、封建社会での男女の出会いと別れはこれほどシリアスなものなのだろうか。そして芭蕉と出会って、また生活を供にするということになるものだろうか。このあたりについては私は判断するものを持ち得ないが、時代の中でもっと激しい人間ドラマがあったのではと期待する向きにはやや物足りない。

寿貞の本名はわからない。「尼」をつけて呼ばれるが、いつ脱俗したのかなども不明。ただ、 芭蕉が愛した唯一の女性であることには間違いないようだ。

芭蕉と同じ伊賀の出身で、伊賀在住時に「二人は好い仲」だったという説もあるようだ。江戸に出た芭蕉を追って彼女も江戸に出てきて、その後同棲していたとされる。

事実としては、寿貞は、一男(次郎兵衛または二郎兵衛)二女(まさ・ふう)をもつが、彼らは芭蕉の子ではないようだ。桃印と寿貞が関係があったとすれば、まさ・ふうは桃印が父である可能性があるが、次郎兵衛は桃印の年齢からいっても他の男の子である可能性が高い。そのことが、芭蕉と寿貞と桃印の関係を微妙なものにしている。芭蕉は上の次郎兵衛を手もとにおいて付き人にような世話をさせていたようだ。

伊賀上野か江戸日本橋で、芭蕉と寿貞の関係があり、日本橋では内縁の妻=「妾」というれるような関係があったことは事実であろう。その後は何の音沙汰もなくなり、晩年の寿貞は3人の子を抱え、病んで芭蕉庵に住んでいたというのも事実である。寿貞はすでに尼になっていた。尼になったので名を寿貞に変えたのだろう。

甥の桃印も肺結核に病んで芭蕉庵の病床にあり、元禄6年芭蕉庵にて没。この時、同じ芭蕉庵にて寿貞もやはり結核を患っており、翌年6月に逝くことになる。芭蕉も同元禄7年10月に寿貞の後を追うように逝ってしまう。

 数ならぬ身となおもいそ玉祭り

芭蕉がかっての内縁の妻の死にささげた句としては、あまりにも悲しく切ない。

寿貞は、我が身を「数ならぬ身」と思うような境遇だったということだが、芭蕉は「そんな風に思ってくれるな」と慈しんでいる。玉祭りは魂祭りで、盂蘭盆(うらぼん)の行事。芭蕉と寿貞との間に何があったかわからないが、芭蕉の寿貞への切ない思いが伝わってくる。

かって「妾」だったという寿貞に何が起こり、芭蕉との関係はどういうものだったのだろうか。また、寿貞の3人の子供は誰の子だったのか。350年の時を経て事実は歴史の闇にまぎれてしまったようだ。

●芭蕉からの村松猪兵衛宛書簡(元禄7年6月8日)

「寿貞無仕合もの、まさ・おふう同じく不仕合、とかく難(二)申盡(一)候(とかくもうしつくしがたくそうろう)。好斎老へ別紙可(二)申上(一)候へ共(こうさいろうへべっしもうしあぐべくそうらへども)、急便に而、此書状一所に御覧被(レ)下候様に頼存候。・・・

 何事も何事も夢まぼろしの世界、一言理くつは無之候。・・・ 」

寿貞尼の急死の報に接して書いた猪兵衛宛の追悼的な手紙である。猪兵衛は芭蕉の甥で芭蕉に寿貞の死を手紙で知らせた。寿貞尼は、元禄7年6月2日死去。悲報は、6月8日、芭蕉のいる京都嵯峨の落柿舎に届けられた。芭蕉は、上のような手紙を書いて次郎兵衛に持たせて江戸に向かわせた。

芭蕉は7月に帰郷し魂祭りを営み冒頭にあげた「数ならぬ身となおもいそ玉祭り」の句を手向けている。

●伊賀上野の念仏寺の過去帳には、元禄7年6月2日のところに中尾源左衛門が施主になって「松誉(しょうよ)寿貞」という人の葬儀がとり行われたという記述があるという。中尾源左衛門とは芭蕉が藤堂新七郎家に仕えていた頃の同僚で、後に芭蕉の弟子となった。

「松誉」の文字は芭蕉の松尾家とのなんらかの関係を匂わせているものなのか。6月2日は深川で亡くなった寿貞の命日でその日に伊賀上野で葬儀が行われるというのは理解しがたい。別人の寿貞なのかなにかの間違いなのか。

芭蕉は桃印同様、寿貞についてもほとんど記録としては残していない。ただ、芭蕉没年の元禄7年に4通の手紙でわずかに寿貞について触れているのみ。

曾良に寿貞が深川の芭蕉庵に移り住むようにしてほしいと頼んだり、寿貞の病状への気遣いなどと、最後は寿貞の訃報を受けての上の「寿貞無仕合もの、まさ・おふう同じく不仕合」の手紙である。病んでいる寿貞に対する芭蕉の心遣いは、やはり並みの関係でないことをものがたっている。

芭蕉の弟子たちは芭蕉と寿貞の関係はある程度知っているものと思われるが、芭蕉に気遣ってか、桃印や寿貞、その子供たちについてもほとんど書いていない。

4.結論?

 結論的にいえば、

芭蕉に「妾」=内縁の妻がいても少しもおかしくはない。藤堂家奉公中に寿貞と芭蕉の関係があってもおかしくはない、寿貞が他の男と結婚し子をもうけ、甥の桃印と寿貞が駆け落ちしたとしても、それもあり得ることだろう。

次郎兵衛、まさ・おふうの3人は芭蕉の子なのか、桃印か誰か他の男の子なのか、まっ、それはどうでもよいことにしよう。寿貞の子であってみれば、芭蕉にとって子供の夫は誰でもよいことで、寿貞への対応の仕方はほとんど変わらなかっただろう。

ただ、芭蕉には深い関係のあった寿貞という女性がおり、寿貞には3人の子があり、芭蕉はそれなりに精いっぱい愛情をそそいでいたということだ。それでよいではないか。

俳諧師芭蕉が俳聖芭蕉になるためには、深川隠棲という契機がどうしても必要であったのであり、その原因が何であったのか、何が芭蕉に深川移転を決意させたのか、あるいは何が芭蕉に深川移転を強いることになったのか、私にとっての興味・関心の所在はそこにある。

寿貞がそして寿貞と桃印の関係が、深川隠棲を決意させる原因であったという確証はないが、ひとつの可能性としては残る。

だが、そこに深川遁世のすべての原因があったとすると、「俳諧の誠」を求めようとする深川以降の芭蕉の生き方が見えてこない。やはり、日本橋の生活と寿貞から離れ、俳諧の世界に一筋の道を求めよう、そのためにはすべてを捨ててもよしとする内在する欲求があったはずである。

何が、芭蕉に深川隠棲を強いたのか。それを調べたいが資料がない。資料がないなかで、そのことについていつかまとめてみたい。芭蕉の大きな転機となった深川隠棲、芭蕉という生き方の秘密がそこに隠されているように思うからである。