「宇田川源流 日本万歳!」 「立皇嗣の礼」から見える「日本の伝統」
「宇田川源流 日本万歳!」 「立皇嗣の礼」から見える「日本の伝統」
月曜日は日本のすばらしさや日本の誇らしいところを考える「日本万歳!」をお届けしている。
いつもは日本人の何気ない習慣や、常識と思って行っていることなどを考えて、その内容の意味や素晴しさ、そしてその内容が及ぼす日本の社会への影響はそのことによって発展す日本の姿などをすべてしっかりと感がてえ見るということを行っている。
日本という国は本当に世界各国から素晴らしいと思われており、世界各国から日本のすばらしさをまねようとしているのである。しかし、日本人と東アジアの数カ国だけはなぜかそのような感覚が全くなく、また日本のマスコミはそのような感覚をあまり持っていないことと、日本やその日本の政府を悪く言うことで、自分体tの視聴率を稼ぐというようなことしかしないので、日本人の中には日本はあまり良い国ではないのではないかというような感覚が根付いてしまっている。そのうえ、日本の中には謙譲の精神のような、何か自分自身を卑下することが素晴らしいと思っているような不思議な風潮があり、その風潮そのものが日本人全体を覆ってしまい、その日本の自信喪失の内容になってしまっているのである。
このように考えると、日本は本当は素晴らしいのに、日本人と日本のマスコミの報道によって、なぜか日本人自身がそのすばらしさを最も理解していないのではないかという気がするのである。そのようなことから、日本人の中をしっかりと考えて日本のすばらしさを見直すということを見てゆかなければならないのではないか。
その上で、今、コロナウイルスなどで日本人が閉塞感と自信喪失の中にいるところで、日本のすばらしさを再確認し、そのうえで、同じ日本人としてのプライドをもって、様々なことを考え、また様々な分野で活躍していただきたいと考えているのである。
今回は、その日本の「精神的な根源」とされる皇室についてである。
秋篠宮さま「立皇嗣の礼」=「責務に思い、務め果たす」―皇居
秋篠宮さまが皇位継承順位1位の皇嗣になられたことを国内外に示す「立皇嗣の礼」が8日、皇居で行われた。天皇の弟を皇嗣と宣言する憲政史上初の儀式。上皇さまの退位、天皇陛下の即位に伴う国の儀式の締めくくりとなる。
中心儀式「立皇嗣宣明の儀」は、国事行為として、宮殿「松の間」で午前11時すぎから始まった。天皇、皇后両陛下と秋篠宮ご夫妻、9人の皇族方のほか、三権の長や閣僚、地方自治体の代表、外交団長ら46人が参列。陛下は「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」、秋篠宮さまは「黄丹袍(おうにのほう)」の装束姿で臨んだ。
陛下が「文仁親王が皇嗣であることを、広く内外に宣明します」と述べた後、秋篠宮さまが「皇嗣としての責務に深く思いを致し、務めを果たしてまいりたく存じます」と決意を述べた。この後、菅義偉首相が「一同心からお祝い申し上げます」と祝辞の「寿詞」を述べた。 【時事通信社】
2020年11月08日 11時44分 時事通信
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12145-853148/
皇太子、または皇嗣というのは、「日本の皇室を継ぐ継承順位第一位の人物である」ということである。当然に「立皇嗣の礼」とは、そのような人物であることを「日本の神々」と「世界の人々」に宣言し、広くそのことを披露することを目的とした儀式である。
現代日本の皇室においては皇室典範(昭和22年法律第3号)第8条により「皇嗣たる皇子を皇太子という」と定義され、他の条文と併せ、同法に基づいて「皇太子」の称号を受けるのは皇嗣のうち『今上天皇の男子(皇子)』のみとなる。
「皇太子」の語や概念がいつ成立したのか、また最初の皇太子が誰であるか等については議論があるが、『日本書紀』に最初に「太子」「皇太子」の語が登場するのは巻第三の神武天皇紀である。この皇太子になっても「廃太子」の例も、歴史上は少なくない。第46代孝謙天皇から第54代仁明天皇までの約1世紀の間(奈良後期~平安初期)に、皇太子の地位を剥奪された「廃太子」が5件(5名)集中的に発生している。特に特徴的なのが奈良時代末期の光仁天皇は、宝亀元(770)年、前代の称徳天皇の崩御に伴い、天皇の遺言で、62歳で皇太子となった。光仁天皇は、、親王の母が天皇を何度も呪ったことから就任三年後に皇太子としていた子の他戸親王の身分を剥奪して庶民に落としてしまっている。代わって皇太子に立てられたのは、平安京に遷都することで知られる後の桓武天皇だった。このことが先例になって、その後も廃太子が習慣になっている。
廃太子がなくなるのは文徳天皇の後であり、儀式も平安時代後期ごろには確立したとされ、中断や修正を経ながら受け継がれていく。南北朝時代、後醍醐天皇などがすべて南朝に行ってしまった後室町幕府は天皇を指名する条項などもすべていなくなってしまったので、後光厳天皇の祖母が、上皇の役割を代行して天皇を指名した。祖母は皇室出身ではなく、異例の即位となった。
このようにしながら残された「立皇嗣の礼」は、やはり日本人の皇室が今後も続いてゆくということをしっかりと見せてくれているのではないか。