松尾芭蕉と老荘思想
http://www.eonet.ne.jp/~kyosyuu/basho.html 【不知利害】 より
あさがおや昼は鎖おろす門の垣 ばせを 爽やかに咲く朝顔も、昼には花を閉じる。
それにならって、老後は門に鍵をかけ、 静けさを楽しむことにしよう。
三ケ月や朝顔の夕べつぼむらん ばせを 「つぼむ」の両義性=萎む/蕾む
cf. 小宮豊隆著 『芭蕉句抄』(岩波新書)1961
煩悩増長 して一芸すぐるヽものは、 是非の勝(すぐる)る物なり。
是をもて世のいとなみに当(あて)て、 貪欲の魔界に心を怒らし、
溝洫におぼれて生かす事あたはずと、 南華老仙の唯利害を破却し、 老若をわすれて、
閑にならむこそ、老いの楽とは云べけれ。
『 閉関之説 』 堀切実編注『芭蕉俳文集』(上)岩波文庫、pp.99-100
名利に使われて、閑かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚なれ。
財多ければ身を守るにまどし。害をかひ、累(わづらひ)を招く媒なり。
・・・智恵出でては偽りあり。才能は煩悩の増長せるなり。
伝えて聞き、学びて知るは、誠の智にあらず。いかなるをか智といふべき。
可・不可は一條なり。いかなるをか善という。まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰が伝へん。
これ、徳を隠し、愚を守るにあらず。本より賢愚・得失の境にをらざればなり。・・・
『 徒然草 』 第三十八段
子不知利害、則至人固不知利害乎、・・・ 若然者、乗雲気騎日月、而遊乎四海之外、
死生无変於己、而況利害之端乎、 子は利害を知らず、則ち至人は固より利害知らざるかと。・・・かくのごとき者は、雲気に乗じ日月に騎りて、四海の外に遊び、死生も己れを変えうることなし。
而るを況んや利害の端をやと。
『 荘子 』 斉物論篇 第二金谷治訳注 『荘子』 第一冊内篇(岩波文庫)、p.77
http://www.eonet.ne.jp/~kyosyuu/basho4.html 【夏炉冬扇】 より
《随風庵の瓢》
…我にひとつのひさごあり。 是をたくみにつけて、 花入るヽ器にせむとすれば、
大にしてのりにあたらず。 ささえに作りてさけをもらむとすれば、かたちみる所なし。
あるひといはく、「草庵にいみじき糧入るべきものなり」と。まことに よもぎのこヽろあるかな。 … ものひとつ瓢はかろき我よかな 芭蕉 松尾芭蕉 『 四山の瓢 』
『芭蕉俳文集』下、岩波文庫、p.35
予が風雅は、夏炉冬扇のごとし。 衆にさかひて用(もちゐ)る所なし。松尾芭蕉 『 許六離別詞 』『芭蕉俳文集』下、岩波文庫、p.128
以夏進炉、以冬奏扇、為所不欲得之事、獻所不欲聞之語。其不遇禍、幸矣、何福祐之有乎。
…夏時炉以灸湿、冬時扇以翣火、…不求自至、不作自成、是名為遇。
夏を以て炉を進め、冬を以て扇を奏(すす)め、得んことを欲せざる所の事を為し、聞かんことを欲せざる所の語を獻ず。其の禍に遇わざるは幸いなり、何の福祐か之れ有らん、と。
…夏時の炉を以て湿を灸(あぶ)り、冬時の扇は以て火を翣(あふ)ぐ。
…求めずして自から至り、作(な)さずして自から成る、是れ名づけて遇と為す。
王充『論衡』上 「逢遇 第一」 (明治書院)、pp.28-32
今、子有五石之瓠、何不慮以為大樽而浮乎江湖、而憂其瓠落無所容、則夫子猶有逢之心也夫、
今、子に五石の瓠(ひさご)あり、何ぞ慮(くりぬ)きて、大樽と為して江湖に浮かべずして、其の瓠落(かくらく)として容るる所なきを憂うるや。則ち夫子には、猶ほ 蓬の心あるかな と。註:「蓬の心」=塞がった心
金谷治訳注 『荘子』 第一冊内篇(逍遥遊篇 第一)、岩波文庫、p.35
風狂も風流も世俗に対立する概念である。世俗から逸脱してゐる。
世俗の常識をもって健康とするからこそ狂でもあり、変でもあることになり、
風流は世俗を無視するからこそ夏炉冬扇ともなるのである。
『唐木順三全集』第四巻 「詩とデカダンス」 (筑摩書房版)、p.43
⇒ 石川虚舟 《不繋之舟》 2007
http://www.eonet.ne.jp/~kyosyuu/basho3.html 【飛花落葉】 より
八咫烏奈良へいざなふ落葉哉 虚舟
師の曰、乾坤の変は風雅のたね也といへり。静なるものは不変の姿也。動るものは変也。
時としてとめざればとヾまらず。止るといふは見とめ聞とむる也。
飛花落葉の散乱るも、 その中にして 見とめ聞とめざれば、おさまることなし。その活たる物だに消て跡なし。
・・・
句作に な(成)る と、 す(為)る とあり。内をつねに勤めて 物に応ずれば、 その心のいろ句となる。内をつね勤めざるものは、ならざる故に私意にかけてする也。
服部土芳 『 三冊子 』 (あかそうし)『去来抄、三冊子、旅寝論』岩波文庫、p.103-104
問題は「その中にして」の一語にある。飛花落葉を外から写すのではない。
・・・
物が物として見えてくるということは、「物に応ずる」ということである。
唐木順三 『無常』 (ちくま学芸文庫)、pp.236-238
庭掃て出ばや寺に散(ちる)柳 芭蕉
先ほど掃き清めたばかりなのに、寺の庭に柳が散っている。
入れかわり立ちかわり宿泊する旅人は、落葉に似る。(虚舟)
http://www.eonet.ne.jp/~kyosyuu/basho2.html 【 不易流行 】より
石川虚舟 《古池や》 2013凝灰岩(笠松石)、大理石、180×150×95mm
古池やかわずとびこむ水の音 芭蕉
半ば朽ちた瓢箪池。蛙がとび込むと、陰気が拡散する。しかしその陽気も、つかの間。
でも又、そのうちに。
⇒ 石川虚舟 《随、No.2》 2014
⇒ マルセル・デュシャン 《自転車の車輪》 1913
The wind, Nature's flute, sweeping across trees and waters, sings many melodies. Even so, the Tao, the great Mood, expresses Itself through different minds and ages and yet remains ever Itself.
⇒ 『 荘子 』 斉物論篇
Kakuzo Okakura, The Ideals of the East, 1903, London.
【註】 wind = 気/ Mood = 理 ⇒ 岡倉天心 『理気説』
師の風雅に万代不易有、一時の変化あり。この二つに究り、其本一也。その一といふは風雅の誠也。不易をしらざれば實に知れるにあらず。不易というは新古によらず、変化流行にもかかわらず、誠によく立たる姿なり。 服部土芳 『 三冊子 』 (あかそうし)
『去来抄、三冊子、旅寝論』岩波文庫、p.100
天道の万古不動の象を理、流行活動の相を気としてとらえ、そうしてその本体を誠とする朱子学的思考形式を適用して、俳諧の本質をとらえようとしたもの…。
尾形仂 『座の文学』 講談社(学術文庫)、pp.177-178
陰気流行、即為陽、陽気凝聚、即為陰、陰気が拡散すると陽となり、陽気が凝結すると陰となる。
朱熹 『朱子全書』 巻四十九、三十四葉表 ⇒ 『老子』 第36章
波の間や小貝にまじる萩の塵 ばせを
万古不易、寄せては返す波、そして 雅やかなますほ貝と萩の花の儚さ、 そのもとに宇宙の鼓動(pulse)が…。
鈴木大拙の影響を受けたBill Viola(1951〜)は、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」をモチーフに、ヴィデオ作品《Reflecting Pool, 1979》を制作したのであろう。彼は、古池の余白である「空中」に、蛙はまず「飛び」、そして水に落ちると解釈。「空中」は鈴木大拙の「無」、つまり空虚な空間(the empty space)。芭蕉は禅仏教、さらに朱子学に傾倒していた。
http://www.eonet.ne.jp/~kyosyuu/basho6.html 【 色即是空 】 より
雲雀より空にやすらふ峠哉(笈の小文)
廓庵和尚 『十牛図』 「第七 忘牛存人」
「第八 人牛倶忘」
(部分/天理図書館蔵)
ドイツ近代詩を研究する手塚富雄は、1954年にハイデガーを訪問する。
ハイデガーはまず、 「九鬼周造之墓」 の写真を示した後、鈴木大拙の禅の考察は、広大な世界に開かれ、興味深いと述べる。
次いで、ドイツ語訳で読んだ芭蕉の俳句の中で、非常に感銘を受けたという次の句が話題にされる。
Wer vermag es, stillend etwas ins Sein zu bringen? / Des Himmmels Tao.
その場で、日本語表記とローマ字表記が手塚に求められる。
ひばりより上にやすらふ峠かな Hibari yori, ueni yasurahu, touge kana
ハイデガーはそのローマ字表記を黙読し、そのような単純な表現の中に広大な世界を感じとることができる、単純であることは無内容ではない、と感想を述べる。
⇒ 『 老子 』 第45章 (大弁は訥のごとし)
手塚レポートの英語訳では、その句は次のような表記である。
Higher than the lark, ah, the mountain pass! - quietly resting.
さらにハイデガーは、日本の「ことば」は「物」(Ding)を意味するのではと述べ、
Erscheinung (appearance) とWesen (essence)のそれぞれに対応する、
学術語ではない日本の慣用語は何かと、ハイデガーは問う。
手塚は、仏教用語に由来はするが、
「色」と「空」をそれぞれに対応する慣用語と考えると答える。
cf. Tezuka Tomio,'An Hour with Heidegger', in
Reinhard May; Heidegger's hidden sources, 1996 (First published 1989 in German), p.60-61.
因みに芭蕉のこの句は、『笈の小文』では中七「空にやすらふ」になる。
⇒ ハイデガーの秘密
http://www.eonet.ne.jp/~kyosyuu/basho5.html 【 空即是色 】より
草臥て宿かる比や藤の花(笈の小文)
廓庵和尚 『十牛図』「第九 返本還源」
部分/天理図書館蔵)
世阿彌の演能といふ行為、また当時の庭造りとか、 書画とか喫茶といふやうな、単に言葉だけにたよらないもの、 即ち行為的なものに支えられて初めてつれづれのすさびが、 さびとして転化継承されるにいたったと考える。
・・・
すさびは色即是空の方向においてあるもの、 さびは空即是色の方向においてあるものといひうるであろう。
『唐木順三全集』 第五巻 「中世の文学」 (筑摩書房版)、pp.95,112
「色即是空」は、ただちに「空即是色」とひるがえって、「妙有」という肯定門に出なければならない。「無相」がそのまま「妙有」であるところ、そこに「真如実相」の世界がある。…その「如」のところを、また「柳は緑、花は紅」ともいうのである。
これがほんとうの「自然(じねん)」である。…「真空」は”無相”であり、同時に”妙有”である。ここに「空」ないし「東洋的無」が、「創造的無」と呼ばれて、西洋的な単なる ニヒリズム と違うところがある。 秋月龍珉 『十牛図・座禅儀』 禅宗四部録(上) 春秋社、p.119
色即是空から空即是色と転ずることによって、なまの色は空に媒介されて変貌する。…
山は山、水は水に違いないが、山是山において山は本来の面目を現成するといってよい。
藤の花は藤の花に違ひないが、くたびれて宿かるころや藤の花 と芭蕉にうたはれることによって、本来の藤の花の面目を顕現する。
認識の対象としての藤の花から、天地山水を背景にし、物我両境にわたっての藤の花が出てくるのである。…
芭蕉の風雅、風流とはそういふものであった。これが禅を根底にしてゐることはいふまでもない。さびは禅の精神の美的表現であるといってよい。…
『唐木順三全集』 第六巻 「千 利休」 (筑摩書房版)、pp.137-138
物我一如(もつがいちにょ)
「物我一如」というのは、「天地と我と一体、万物と我と同根」という境地である。
秋月龍珉 『十牛図・座禅儀』 禅宗四部録(上) 春秋社、p.44