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Okinawa 沖縄 #2 Day 53 (7/11/20) 旧具志頭 (4) Gushichan Hamlet 具志頭集落

2020.11.09 13:54

具志頭集落 (ぐしちゃん)


具志頭集落 (ぐしちゃん)

伝承では九州から島伝いに沖縄に渡来し、知念そして玉城から字具志頭のユッタチジョウに定住したアマミキヨ族が集落を形成し、この集落をよりたち (ユッタチ) 村と称した。これは11世紀から12世紀と推定されている。これが事実とすると、沖縄の人のルーツは九州にあることになる。よりたち村が発展するにと、13世紀から14世紀に、ゆったち村から仲間に移動し、そこの先住民と合流して集落を造る。ここが現在の東風平村落の起源 (タチクチ) となる。14世紀の南山時代に、この仲間が具志頭の名前が変わるのだが、まずは「くしかみ」と呼ばれた。知念や玉城を「前 (メー)」に対して仲間はその後方にある。つまり「後 (くし)」にある「上 (かみ) 」= 東方で南山の中心地であった高嶺大里の「上 (かみ)」という意味で「くしかみ ( 具志上)」と呼ばれた。くしかみ村はその後人口が増え、集落を拡大することになる。新しい場所に村分れをして、村渠 (ンダカリ) を形成し、くしかみ村の東方には東村渠 (アガリンダカリ) ができ、その西方には西村渠 (イリンダカリ)、更にその南方に前村渠 (メーンダカリ) ができ拡大していった。それぞれの村渠 (ンダカリ) の道路は不整形なので、碁盤型の集落区画が実施される寛文年間 (1661-1671年) 以前に村渠 (ンダカリ) が成立していたことになる。この「くしかみ ( 具志上)」は17世紀に薩摩の支配が強くなってきた時代に琉球の地名や姓名などの名称が大和風に変えさせられた。その際に具志頭 (ぐしかみ) と変わった。18世紀後半に「ぐしかみ」が、拗音化で、「カミ」が「キャミ」となり、「チャミ」と変わり、更に「チャン」となって「ぐしちゃん」と呼ばれることになった。

2000年代になって人口推移は停滞していたが、ここ5年は人口はコンスタントに増加傾向にある。世帯数についても同様な傾向だが、この増加は顕著だ。八重瀬町 具志頭は那覇へ15km車で30分程度のばしょにあり、那覇のベッドタウンとなっている。2017年に約100世帯も増えている。他地域からの流入が要因で、沖縄本土復帰時の3.6倍にもなっている。 具志頭は、合併した東風平に比べて人口は少ないのだが、この字具志頭と字後原は人口増加が他の字に比べて高い。

字具志頭は旧 具志頭村の中心地で最も人口が多いと思っていたのだが、昭和の初めから沖縄戦前は字港川の方が人口が多い。これは様相がいだった。この地域を走って気が付くのは、 具志頭は地図では海岸線にあるように思えるが、海岸に直接面しているわけではなく、50m程の断崖の上にある。一方港川は海に直接面しており、漁港もあり、かつては立地条件が港川の方が生活がしやすかったのかもしれない。現在は港川はあまり人気がないのか、人口は減少している。


具志頭村史に掲載されている具志頭の拝所


世立門 (ゆったちじょう) 之御嶽

11世紀から12世紀にこの地に移住してきたアマミキヨ族が最初に建てた御嶽とされている。"ゆったち“とは”世立ち“と書き、よりたちと言う部落の先祖神を祭ったのがこの御嶽だ。世立ちといって具志頭の村のはじまりの場所とされている。具志頭集落では最も古い御嶽の一つ。現在は集落はなく畑の中にポツンと御嶽があるのみだ。ここに住んでいた集落の人々が仲間村へ移動した後は、徐々に忘れらえてしまったのか、琉球国由来記にも記載されていない。


仲間遺跡

よりたち (ユッタチ) 村から、13世紀から14世紀に、仲間に移動し、そこの先住民と合流して集落を造った場所が白水川と 具志頭城の間にある。ここが現在の 具志頭村落の起源 (タチクチ) となり、いつの時代からか「くしかみ村」と呼ばれるようになった。


屋富祖井(ヤフガー、ヤフソガー)

屋富祖井は仲間地域の西端に現存する。大正時代に飲料用水汲易、洗い場、ンマアミシー (牛馬を浴びす所) が併設されていた。仲間地域は、厚い琉球石灰岩の層の上に立地しているので、積井 (チンガー) を設けることは不可能で、天水以外の飲料水など生活用水のすべてをこの井に頼っていた。屋富祖井の由来について次の伝説がある。「昔、大早魃に遭いこの附近の住民は飲料用水に渇していた。たまたま、屋富祖家の犬がずぶぬれになって山中より出て来るのを人々は見つけ、こんな旱魃に田野に水のあるわけはないが、ある日、何処で浴びたのだろうかと不審に思い、山中深くわけて行くその後を追うた。果たせるかな清水の湧き出る泉があった。人々大いに喜びその周囲の山を切り開き、設備を施し通路を設けた。そして、ここより水を汲むようになり、以後、いかなる早魃にも水に渇することがなかったと言う。そして、屋富祖家の所有であることにちなんで屋富祖井 (ヤフスガー) と呼んだ。」


屋富祖ギシノ嶽

屋富祖井の上方大岩の下方に「ガハラ森ノ御イベ」を祀った屋富祖ギシノ嶽があると書かれていたので、井戸の周りのそれらしきところを探したが、拝所らしきものは見当たらなかった。井戸から石畳の坂道を上ると大岩がある。そこではないかと思うのだが、ゴミが散乱しており、御嶽の拝所も見当たらない。このお嶽は、このお嶽の付近に在った屋富祖村の人々が崇信し、具志頭祝女と仲座祝女が祭祀を行っていたが、崇信する者が少なくなり、今では僅かにその跡を留めるだけだそうなので、世話をする人もおらず、草に埋没しているのだろう。別の資料では、 具志頭のお宮に合祀されたとある。


屋富祖遺跡

仲間集落 (くしかみ村) の近くにも別の初期集落が形成されていた。屋富祖村で遺跡の発掘がなされて集落があったことがわかっている。現在は、民家も少なく林となっている。


大岩 (ウフブリ) 下洞穴遺跡

屋富祖遺跡から丘陵に入る階段がある。中に入って進む。巨大な岩がある。この岩の下に洞窟があり、発掘調査で住居跡と考えられている。具志頭海岸からも、目立っているので、漁師が沖に出て漁港に戻る際に目印になったそうだ。


具志頭城 (グシチャングスク)

グスクは、具志頭集落東側寄りの標高約58mの石灰岩丘陵にあり、北、東、南側が 断崖で、グスクには、仲間村のあった西側の傾斜地から入ることになる。この場所に城門があり、ニノ郭に続いていたと推測されている。このグスクに関しては、古文書や伝承がほとんどなく不明点が多いのだが、伝承では英祖王統第二代 大成王の第二 (三?) 子が具志頭按司を命じられ築城したとある。そうであればこの具志頭城は仲間集落ができた後の14世紀初頭に築城されたことになる。その後、察度王統の時代1349年に具志頭按司が察度に討たれた。この時に察度の家臣が具志頭按司として入城したかは定かではない。

15世紀初頭には具志頭城には当時中山と友好関係にあった南山からの按司が治めていた。汪英紫の時代 (1388年 - 1402年) には具志頭城は南山が仕切っていた。汪英紫の死後、南山は長兄の達勃期 (八重瀬按司) ではなく次男の汪応祖が王となるのだが、これが原因で達勃期と汪応祖の間では緊張が高まっていた。この時には具志頭按司は達勃期の支配下にあった。尚巴志が1406年に中山王の武寧を倒し、父親の思紹を中山王にした後、具志頭按司は汪応祖に寝返る。これにより 具志頭按司を巡って、達勃期と汪応祖の間でひと悶着がおこる。達勃期が1409年に具志頭城を攻め、 具志頭按司とその息子の若按司を殺し、 具志頭按司の姉が嫁いでいた弟の屋富祖の息子を具志頭按司とした。これで 具志頭按司は達勃期側につく。汪応祖が死んだ後は達勃期が南山王として汪応祖側についていた諸侯を鎮圧するのだが、その際、豊見城グスクを攻める際に屋富祖の息子の具志頭按司が戦死し、屋富祖の娘婿であった尚巴志の三男が具志頭按司となった。(別の説では、尚巴志の三男が具志頭按司となったのは尚巴志が南山最後の王である他魯毎を討った際とのこと) 汪応祖の三男が具志頭按司という伝承もあるのだが、それが史実であれば、汪応祖が南山王であった時代と思われる。ただ、ここに書いた 具志頭按司の移り変わりの中ではしっくりこない。汪応祖の娘が 具志頭按司の妻であったことから伝承になったのかもしれない。1409年に攻められ落城した際には具志頭按司、若按司の松金、次男 虎千代、三男 小太郎金は糸数の内間大主を頼り逃れ、1429年に尚巴志が南山城の他魯毎を攻めたときには、この三人の息子も参戦をしたと伝わっている。

第二尚氏琉球王朝時代は尚貞王の三男の小禄王子が、分家の具志頭御殿 (ウドゥン) を起こし 具志頭間切を治めることになる。

グスクの大部分が沖縄戦で日本陸軍の陣地と使用されたため、米軍の攻撃にさらされ、グスクの大部分が破壊されたこと、そして公園整備で大きく変わっているようだ。グスクは南、東、西側は断崖絶壁で防備という点では申し分ないのだが、北側は緩やかな傾斜地で、グスクがあった当時は石垣で防備していたと推測されている。グスクの規模は約25,700㎡の連郭式の城と考えられており、沖縄の古城跡の中でも大きい古城の部類に入る。

グスクから見た海岸線


沖縄戦では、この地も激戦地となった。米軍がこの地を空襲した際に撮った写真がこれだ。白水川のほとりにある具志頭集落からは空襲による火災の煙が立ち上っている。

公園には、犠牲となった日本兵と 具志頭村住民の慰霊塔が設けられている。


魄粋 (はくすい) 之塔 - この付近に散在していた10,150余名の遺骨を拾い集めこの地に納めた慰霊塔で、後に国立沖縄戦歿者墓苑に移された。

慰霊顕彰碑/忠魂碑/戦没者名簿刻銘板 -  第二次世界大戦で戦没した旧具志頭村民1,504名の慰霊碑。 具志頭では村民の4割以上が亡くなった。村民が県外や北部などに逃げることができなかったからだ。集団疎開の出発日、激しい空襲で、中止となでり、以後、集団疎開はかなわなかった。指定された場所はすでに米軍に占領され、その他の壕はいっぱいで、村民はは右往左往し、多くがぎせいとなった。

沖縄タイムズが沖縄戦の記憶を各地域ごとにまとめた資料がある。以下はその記事から抜粋したもの。

これまでに沖縄戦について、幾たびか地元の人から聞いたことや、沖縄で後世に語り継ぐために残している証言ビデオなどで、語られていることの一つに、米軍よりも日本兵の方が恐怖であったという。この写真は「うつろな目の少女」としてしられているのだが、この写真にはメッセージがある。


土佐の塔 - 沖縄戦と南方諸地域で戦死した高知県出身の1万8,545柱を祀る


甲斐の塔 - 山梨県の沖縄戦戦没者 550柱、南方諸地域戦没者 21,501柱の慰霊塔


仲間之嶽 (ナカマヌタキ、城内之嶽 シルウチヌタキ) 

アマミキヨ族が13世紀から14世紀にゆったち村から仲間に移動したときに、集落の御嶽を後に築城される 具志頭城がある場所に造った。これが仲間之嶽でアカズ森之威部 (アカズムイヌイビ) を祀っている。祠の右に岩があるが、これが霊石だ。沖縄では最大の霊石といわれる。今まで見たものは祠の中に小さな霊石があるものばかりだったのだが、ここは霊石の下がくり抜かれて、線香をもやすようになっている。珍しい。ここを中心にして、仲間集落の社会が動いていく。後にこの場所に具志頭城 (グシチャングスク) が築城され、仲間之嶽はグスクの守護神となった。仲間之嶽は城内之嶽 (シルウチヌタキ) と呼ばれたという説もある。現在の城内之嶽は1958年 (昭和33年) にコンクリート製でこの霊石の横に建てられたもの。つまり、新旧二つの祠がある。昨年訪れた際は祠は閉まっていたが、今日は開いていた。


仲間之殿 (ナカマヌトゥン、 具志頭城之殿 グシチャンヌトゥン)

仲間之嶽 (ナカマヌタキ) を造ったのちに、その前にあるトンマーという広場 (現在はグスクの駐車場) に殿 (トゥン) を造り、仲間之殿 (ナカマヌトゥン) と呼んでいた。志頭城 (グシチャングスク) が築城された後は志頭城之殿 (グシチャングスクヌトゥン) 呼ばれるようになった。現在していない。


グスク内で咲いていたハイビスカス。それとヒガンバナに見えるのだが、色が赤でなく黄色。この花は初めて見た。調べてみるとやはりヒガンバナだ。白色のヒガンバナもあるそうだ。


暗御門 (クラシンウジョウ) の壕

具志頭城の地下には、暗御門 (クラシンウジョウ) と呼ばれる自然の洞穴があり、そのなかに、琉球王国の尚巴志の三男の具志頭按司の墓がある。この暗御門の壕は沖縄戦当時、日本軍が洞窟を利用し、更に奥まで掘って陣地を造っていた。グスクから直接この暗御門 (クラシンウジョウ) に行く道はないので、グスクから道路に出て坂道を下り、海岸までの道の半ばに登り口があった。

急な階段を上るが洞窟入り口までに幾つか墓があった。

洞窟は垂直に切り立った岩の断崖にある。

断崖には幾つか小さい洞窟がある。

そのうちには、沖縄戦で日本軍が海岸から上陸する米軍に向けての銃口が開いている。ここに陣地を造ったのは、崖の下の港川付近から米軍が上陸する想定があったからだ。実際に米軍が上陸作戦を行なった場所は北谷町字港なのだが、米軍が陽動作戦として艦砲射撃を集中させたのは、この具志頭村だった。

幾つかある洞窟の入り口の一つが暗御門 (クラシンウジョウ) へのもの。入り口を入った正面に尚巴志三男の 具志頭按司の墓がある。

洞窟は自然洞窟に日本兵が手彫りで新たに壕を掘っている。

自然洞窟の部分

日本軍が手を加えた部分。自然洞窟には石済みの仕切りがある。何に使ったのだろう。追加で掘った坑道には手掘りの跡と岩盤を支えるため柱の跡が残っている。柱は沖縄戦終了後に集落に戻った住民が、家屋債権のためにもちだしたそうだ。


具志頭浜

暗御門 (クラシンウジョウ) から更に坂道を下ると具志頭浜に出る。浜に行く道はこれ一本で標高差50mで帰りはこの坂道を登らなければならない。帰りは大変なのだが、グスクから見た海岸線は沖縄でイノーと呼ばれる礁池がひろがる絶景なので、浜に降りてみる価値は十分ある。


具志頭歴史民俗資料館 (具志頭間切番所跡)

具志頭集落は 具志頭間切の行政の中心地であった。この場所は公民館のある東村渠 (アガリンダカリ) より西にあるので、西村渠 (イリンダカリ) が形成された所なのだろうか? 第二尚氏琉球王朝になって以降は、この地に 具志頭間切番所が置かれていた。明治以降は役場と変わり、その周辺には様々な施設や店舗が建ち、小都市化していった。戦前には郵使局、医療施設、金融機関、警察署、小学校、諦鉄所 (ンマンチミャー)、銭湯 (ユーフルヤー)、鍛冶屋 (カンジャーヤー)、雑貨店 (マチャグヮー)、理髪店 (歹ンバチャー)、食堂 (スパヤー) が立ち並んでいたそうだ。具志頭間切番所 (役場) 跡は具志頭歴史民俗資料館になっている。ここに着いた時には既に入館締め切りの4時半を過ぎていたので、中に入ることはできなかった。日を改めて隣の集落を巡る際に時間をとって見学をする予定。


フクギ並木

具志頭歴史民俗資料館之前の道路にはフクギ並木が続いている。沖縄ではフクギ並木がよく見られる。フクギは防風林として、沖縄では台風から家屋を守るために多く植えられていたそうだ。那覇市内でも道路脇には必ずフクギが植わっている。


具志頭の石獅子

インターネットでは 具志頭の石獅子の情報はほとんどなく、具志頭歴史民俗資料館の前のフクギ並木がある石垣の一角に埋め込まれている石獅子が紹介されていた。これが石獅子なのかどうか?八重瀬町の観光資料では一切出てこない。多分、これが石獅子なのかどうかは明確ではないのだろう。しかしながら、道路沿いの石垣は行政が設置し、あえてこのように埋め込んでいるところを見ると可能性はあるのだろう?個人の想像では、何らかの理由で、例えば沖縄戦で破壊され、残った一部を埋め込んだのではないだろうか?

八重瀬町が出している石獅子の案内は全く別のもので別の場所にあるとなっている。この石獅子の情報はこの案内以外はインターネットでは一切見つからなかった。場所の特定も難しそうだが、南風原按司守忠と花城親方の墓 (伊舎堂墓) がある八重瀬メモリアルパーク内にあるようだ。後日、探してみよう...


ハナンダー (自然橋)

具志頭歴史民俗資料館の近くを流れる白水川に変わった橋がある。自然橋で、琉球石灰岩が自然の侵食により形成されたもので、人工的に作った橋ではない。長さは約29m、幅約10m、高さ約10m。古くからか各間切や村々への移動の際に利用されてきたもので、橋の上はちゃんとした道になっている



具志頭公民館 (具志頭農業構造改善センター)

この場所は仲間にあった「くしかみ村」が大きくなり、東村渠 (アガリンダカリ) ガ形成された場所。公民館の前は広く長い広場になっている。馬場跡だろうか?


たきんちゃ井

たきんちゃ井は、具志頭農業構造改善センターの裏に形式保存されて拝所になっている。かつては166㎡もあった大きな村井 (ムラガー) で、東村渠の形成以降、昭和年代にかけて、具志頭村落住民の飲料水・生活用水の水源として利用された井戸だった。たきんちゃの「たき」は丘陵の意味で、「んちや」は、「の下の (ヌシチャ)」で、つまり、東村渠と西村渠の後方ににある丘陵の下にある井戸という意味だ。1959年 (昭和34年) に水道が整備されると、井戸は埋め立てられ、拝所に変わった。

東村渠 (アガリンダカリ) があった集落を周ると、石済みの塀のある細い路地が何本も残っている。具志頭歴史民俗資料館のある西村渠 (イリンダカリ) の方は 具志頭の中心地だったので現在は町並みも近代化してしまっているが、こちらの東村渠 (アガリンダカリ) は昔の名残が感じられる。


具志頭のお宮

この拝所はかつての前村渠 (メーンダカリ) の 前村渠のお嶽とよばれていたもの。仲間地区にあったくしかみ村を起源とし、東村渠 (アガリンダカリ)、西村渠 (イリンダカリ)、前村渠 (メーンダカリ) が形成されて、よりたち村や屋富祖村の移動合併も終わり、具志頭村落の形は、寛文年間 (1661-1672) までにはほぼ完了していた。住民は、村の祖霊神を祀るお嶽をこの前村渠 (メーンダカリ) のほぼ中央に建てた。当時、ここにはカンヂエーグムイと称する村グムイ (溜池) があり、首里の円覚寺山門前の、円鑑池の中に建つ弁財天堂を模して、その中央にあったナカヌシマグワー (中の島小) と呼ばれた小島に石橋をかけて、島にお嶽とカミメカーグワー (神の井戸) を設けた。具志頭村落ではこのお嶽を前村渠のお嶽と称し、このお嶽一帯の地をカミヌヤマグワー(神の山小)と称していた。明治の後期、国家神道の普及のため、各村落は、点在するお嶽、殿、、種々の拝所を一ヶ所にまとめ、神道の神を合祀する神社の建立が推奨われていた。この具志頭でも、1919年 (大正8年) に、屋富祖ギシノ嶽、下の嶽 (前村渠)、城内の嶽、蔵下美人お嶽 (東村渠)、前村渠のお嶽の神々、屋号新垣の屋敷内にあった地頭火神 (村火神ともいう) と香炉一基と、神道の神を、この前村渠のお嶽に合祀し、することになった。そこで、従来の前村渠のお嶽の立地する場所に、神社風の社殿を建立し、「具志頭のお宮」と命名。(その後、地頭火神と香炉は元の位置にもどった。)


ミドリグスク

東村渠 (アガリンダカリ) の集落から外れた北には、 具志頭グスクの出城であったと推定されているミドリグスクがある。このグスクは、玉城方面を見張る物見台の役割であったと伝えられている。城跡は深い藪で整備もされておらず城跡の輪郭すらわからない。すこし中に入ったのだが、広場らしき所まで来たが、それ以上進むのは断念。グスクの遺構は見当たら無かった。


南風原按司守忠と花城親方の墓 (伊舎堂墓)

ミドリグスクと道路を挟んで反対側の丘に伊舎堂と呼ばれる墓がある。具志堅用高が宣伝に起用されている八重瀬メモリアルパークという墓地内にあり、墓地には古い墓や新しい墓地がある。

南風原按司守忠 (阿衡基) は、南山王国第3代国王 汪応祖の次男、つまり、南山王最後の王の他魯毎の弟で、尚巴志が1429年に南山を滅ぼした時、南風原按司守忠はこの 具志頭間切に逃げて来て、安里大親にかくまわれていた。やがて、それは尚巴志の知るところとなり、守忠は久志間切に移り、数年後に再ひ安里大親の下に帰り、その娘を妻にして大親の子嗣となり一男 (阿擢莘) を産んだ。守忠の死後、白水川の洞窟にに葬り、後にここに移葬され、伊舎堂墓と呼ばれた。花城親方守知 (阿擢莘) は具志頭間切の屋富祖大親子の娘を妻にし、赤頭職として首里城に仕官し、その後、第二尚氏第三代 尚真王の養育係を務めた。守知 (阿擢莘) の長女 思戸金は謝氏知名親雲上成良に嫁ぎ、その娘 思戸金按司加那志 (華后) はのち尚真王の側室になり、尚清王を産んだ。尚真王の養父であった阿擢莘は主籍に列せられ、首里に住み、 具志頭間切花城村の脇地頭となり、花城村を領地として授けられ、花城親方となる。花城親方(阿擢莘) の死後、父の南風原按司守忠 (阿衡基) の眠る伊舎堂に葬られた。その後、歴代当主は、総地頭職、脇地頭職を歴任し、11世 守卿の時、玉城間切前川村の脇地頭職に転任し、以後前川を家名とした。


川平良井小 (カテーラガ-グワァ)

ミドリグスクから更に北に行ったサトウキビ畑に井戸跡がある。この川平良井小の発祥について次のような伝承がある。「昔、この附近に白川挑原樽金という人が住んでいた。樽金は機智に富み容姿端れいな美男子で、人を引きつけるに十分な風格を備えていた。当時附近の住民は水に不自由していた。ある日、樽金は近傍を精密に調査しここには必ず水があるといって杖をその地に突きさし立ち去っていった。人々がその地を堀ったところ、樽金の予言どおり水がこんこんと湧き出てきた。以後、付近の住民は水に不自由しなかったという。」

これで、 具志頭集落訪問は終了。今日は真夏に戻った様な気候で、湿度も高く暑い。少し動くだけでも汗が噴き出してくる。もう11月なのだが、沖縄はまだ夏が続いている。


参考文献