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判官贔屓論考 ①

2020.11.08 12:48

http://www.st.rim.or.jp/~success/houganbiikikou_ye.html 【判官贔屓論考】佐藤 弘弥 より

1 はじめに 

判官贔屓の本来の意味について

源義経は、奥州平泉にて31才の短い生涯を閉じました。平家追討の最大の功労者でありながら、何故このような 悲劇的な人生を送らなければならなかったのか。考えてみたいと思います。

先日ある方にお会いして、「判官贔屓」(はんがんびいき)という言葉についてお話をしているうちに、その方が 「『判官贔屓』という言葉の本当の意味は、能 や浄瑠璃や歌舞伎で義経さんが登場する『判官物』を贔屓するという単純な言い回しから始まったのではないですか?」と言われました。

私も「なるほど」と思いました。確かに、私たちは今、「判官贔屓」というと、とかく難しく考えてしまいがちで す。

「薄幸の生涯を送った悲劇のヒーロー源義経を憐れむ日本人独特の心情。そこから転じて、立場の弱い者を思わず 応援してしまうこと」

とか何とか。堅苦しい定義づけをされています。そうではなく、「判官贔屓」とは、実は、もっと単純な意味だっ たという話です。能でいえば「舟弁慶」(義経 さんが大物浦から西海に行く際、平知盛の亡霊が出て行く手を阻む能)とか「安宅」(勧進帳のベースになった安宅の関で、弁慶が義経を打つので、人々の涙を 誘う)など。歌舞伎でいえば、「義経千本桜」のような義経さんを扱った「出し物」を、単純に好きな人たちのことを、「判官物を贔屓する人」という意味で、 「判官贔屓」という言葉が江戸中期頃に誕生したのかもしれません。この説は、案外当たっているかもしれません。

2 判官贔屓の歴史について

 世や花に判官贔屓春の風  作者不知  

という句が、「毛吹草」(けぶきぐさ:松江重頼著 岩波文庫 新村出校閲 竹内若校訂 黄200-1)という 書物の巻第五「春」の部の「花」の項に見えま す。この本は、その序文に寛永15年に書いたとありますから、1639年頃に書かれ、正保四年(1647年)に発刊された俳諧作法の書です。この松江さん という著者は、貞徳門下の異端者と解説にありますが、才能の割には、俳諧の道の成功者とは必ずしも呼べない俳人だったようです。

「世や花に」という初五の「や」の使い方は、少し無理があるように思えます。「や」とすると、この句の全体の 意味は、「まったく当世だね、花に判官贔屓と いう春の風が吹き付けて儚く散って行くことだ」というようなことになると思います。「や」を「の」に代えたいところですが、そうなると意味が変わってきま す。いずれにしても句としては平凡な句だと思います。

さて、以上のことから、冒頭の「判官贔屓」の句が詠まれたのは、1639年以前ということになります。

ちなみに松江重頼の判官を詠んだ句に、

 月遅き夜討はつるぎの光かな 重頼

があります。これは、頼朝の命を受けて義経が滞在する京都堀川屋敷を襲った土佐房昌俊の夜討を描いた古画に感 じいって作った作と言われています。きっと松江さん自身、九郎判官義経を贔屓にする「判官贔屓」の俳人だったのかもしれません。

現在、俳句(俳諧)と言えば、松尾芭蕉と言われるほどの名声を得ている芭蕉は、1644年(正保元年)に生ま れ1694年(元禄7年)に亡くなっていますから、「判官贔屓」という言葉が巷で流行していた頃に活躍した人物ということになります。

私は、芭蕉の最高傑作の「奥の細道」は、平泉行を頂点とした義経紀行であったと考えていますが、案外芭蕉は、 冒頭の句のように、「判官贔屓」という世の春風に乗って、奥州まで行き、あの名句、「夏草や兵どもが夢の跡」をを詠んだのかもしれません。

以下、「判官贔屓」という言葉は、こんな流れを辿ります。

 ○「判官殿も亦縁者にあらねど、むかしより贔屓せる事今に止まず」(「義経風流鑑」序)正徳五年刊 (1716)

 ○「末世の今に至る迄、判官贔屓と犬うつ童迄言い伝えけるは、誠に古今類いなき名大将とは知られける」 (「花実義経記」巻之六)享保五年(1721)

 ○弓も引きがた判官様贔屓(「御所櫻堀川夜討」三段目)元文二年(1737)

そしていよいよ、江戸庶民の判官贔屓の風を背景に、判官物の集大成とも言うような、作品が誕生します。「義経 千本桜」(延享4=1747年)です。この作 品ははじめ浄瑠璃の脚本として作られ、歌舞伎の舞台でも上演され江戸庶民に大好評を博しました。今日、私たちは、判官贔屓の歌舞伎として、まず頭に浮かぶ のは、歌舞伎十八番の「勧進帳」ですが、この勧進帳は、能の安宅(1460-1500年頃成立?)を翻案して三世の並木五瓶によって書かれたもので、天保 11年(1840年)に七代目の市川団十郎によって初演された比較的新しい(江戸の末期という意味で?)作品なのです。(佐藤弘弥)

次回は江戸時代に、何故このように判官物がブームとなり、「判官贔屓」の言葉が日本中に広まったのか、その江 戸時代の精神風土について考えてみたいと思います。

3  江戸の庶民と「贔屓」というもの

何年か前、小笹寿司のオヤジさんに、「佐藤さんはオサムライだからな」と言われたことがありました。「オサム ライ?」その時は、何の意味かと思いました。 しみじみその言葉を噛みしめてみると、「江戸前寿司という文化を背負っている」という強いアイデンティティを持っているオヤジさんの言いたいことが段々と 分かってきました。

江戸文化には、サムライ文化と町人文化のふたつの流れがあります。サムライと町人では、言葉から始まって、年 末年始の過ごし方から、人生観までまるで違うものです。今下町言葉として語られる気っぷのいい江戸言葉は、庶民(町人)たちの言葉でした。

サムライの社会というものは、建前の社会で無骨、それに対して町人は、義理人情に厚く「粋」と呼ばれるような ところがあると言われます。つまり江戸っ子と いうのは、おおむね江戸の町人(庶民)のことで、サムライとは、江戸幕府の役人でも、他藩の旗本や下級武士でも、サムライ言葉を操って、江戸庶民からすれ ば、鼻持ちならない連中だったかもしれません。

だからサムライと町人では、価値観がまったく違う。しかも今日、「江戸の文化」として残っているものは、たい がい浄瑠璃でも歌舞伎でも浮世絵でも俳諧(俳 句)でも、町人たちの感性に合わせて発展してきたものです。その時、サムライたちは、何をやっていたか。能であり茶でり和歌でした。考えてみれば、これは 「楽しみ」というよりは、武士の「たしなみ」であったわけです。その辺りに建前で生きるサムライの堅苦しさというものがあります。おそらく俳句ではなく歌 を詠み、小理屈をこねる私をオヤジさんは、「オサムライ」と呼んで、「自分の価値観」とは違うお客として見ていたのでしょう。

時々、小笹のオヤジさんに、寿司に因んだ自作の歌を即興で披露をすると、「歌なんか詠んで、俳句になさいな。 江戸っ子というものは、俳句ですぁ。短くばっと詠む。歌なんて、どうも長くて性にあわいねえ」と言われたものです。

俳句は、正岡子規が「俳句」と呼ぶまでは「俳諧」と呼ばれました。俳諧の、「俳」は「おどけ」とか「たわむ れ」の意味であり、「諧」もまた同じような意味です。ですから滑稽でたあいなくおかしな歌という意味にもなりましょうか。

今では、一般に俳句の革新者と呼ばれる正岡子規(1867-1902)あたりから小難しい理屈がついて、「写 生」が強調されて人生を詠むようなものになっ て、子規の弟子の高浜虚子(1874-1959)の子孫たちが流れを継いで家元のような立場(結社)になって、大変な拡がりをみせていますが、私はどうも 趣味にあいません。それに第一季語からはじまって様々な規制が多いこと。また句会で寄ってたかって批評して、新しい風体の句を、貶してしまう傾向にもどう も抵抗があります。

江戸時代はもっと句会はおおらかだった。つまり俳諧の創成期は、町の旦那集が集まって、次々とたあいもない句 を詠んで、楽しむものでした。芭蕉は、そんな 中で深川に芭蕉庵という庵を構えて俳諧の宗匠(師匠)をしていた人物でした。芭蕉は、本名を松尾宗房と云い、その出自はというと伊賀国の藤堂家に仕えるサ ムライだったのです。

ドナルド・キーンさんは、芭蕉について、こんなことを云っています。

「江戸の作品でいちばん普遍性のあるのは芭蕉でしょう。(中略)しかし近松になると特殊な道徳観倫理観が入っ てきて、読書のじゃまになる。」(日本人と日本文化 中公新書 P172)

慧眼ですね。普遍性とは、世界精神のことだと思います。近松門左衛門(1653-1724)は、江戸の大作家 ですが、義理と人情など、江戸時代の町人の小 難しい常識が壁となって、外国の人には伝わりにくい。それに対して、シャークスピアの戯曲などは、世界中の人が読んでも、納得するものがあります。

また普遍性とは、時代を越えて生きて行くものという定義とも云えるでしょうか。つまりキーンさんの本意は、芭 蕉の「奥の細道」も近松の「心中天網島」、 「曾根崎心中」も、日本文化の中の古典ではあるが、時代と日本という場を越えて残って行くのは、やっぱり芭蕉だ、ということになるのでしょう。そこで私は 密かに、芭蕉が世界精神に到達した秘密は、建前(理屈)を思考するサムライの気風を持っていたからだと思っています。このことについては後に触れたいと思 います。

それにしてもキーンさんの江戸期の作に普遍性がないというのは、大胆な仮説です。キーンさんは、浮世絵に描か れた構図や人物は美しいけれども、その風景や人物に「立体感」が乏しいというようなことを云っています。

江戸時代において、支配者であった徳川幕府は、自分たちの権力を維持するために、それ以前の日本人の風習を破 壊しました。それは戦国時代まであった下克上 の思想を徹底的に排斥して、儒教の孝行の思想を巧みに持ち込んで、人間の序列関係を「士農工商」という形で定着化し、海外からの情報を遮断しました。これ によって、世界の情報は、幕府と一部の有力な藩に偏在するとになったわけです。今流行の言葉で云えば、「情報の非対称性」ということにもなりましょうか。 現在の日本人の意識にも、この徳川時代に培われた儒教思想の悪しき残がいの多くが日本人の心に無意識という姿形で残っていると思われます。それは意識され た時、「日本古来の伝統」あるいは「文化」と、さももっともらしい言葉で飾られて表現されるものです。もちろん「古来の伝統」と呼べるものも確かにあるで しょうが、実は徳川260年の治世の権力維持イデオロギーの方が圧倒的に多いと思うのです。

別に私は、孔子の教えを否定するものではありません。むしろ私はソクラテスやキリスト同様人類の教師としての 孔子の考えが大好きです。彼の考え方は明らか に「世界精神」の最高峰だと思います。その世界精神を、引っ張ってきて、権力の絶対的な維持装置として利用する江戸期の儒教思想というものが問題だと私は 思うのです。本来武士道の根本は、忠義あるのではなく、武をもって己の人生を切り開いて行くという逞しい人生論のはずです。それがいつの間にか、忠義、忠 孝が、規範となって、権力者の権力を守るための「教え」や「道」になって普く日本の民衆に喧伝されていったのです。

江戸時代、サムライたちは、建前かどうか能を好みました。能楽師は、幕府や藩に高い身分を約束されて雇われ、 能楽師の言葉が、サムライの世界での標準語 だったことは、あまり良く知られてはいません。これはよくあることですが、町人街と武家屋敷を川一本隔てると、こっちは江戸弁で、向こうはサムライ言葉と まったく違う世界が、近くに対峙していたというのは面白い話です。

歌舞伎というものは、江戸中期から後期にかけて、町人たちの大いなる楽しみでした。町人の立場からすれば、能 は、ただ眠くなるだけの「哲学講義」のよう だったでしょう。それに対して、歌舞伎は、派手で大胆で、何でもありで、娯楽の少なかった江戸時代にあって、町衆は、歌舞伎の新作が出る度に、粋な格好を して、胸躍らせながら見に行ったことでしょう。ところが、そんな歌舞伎が、幕府に弾圧を受けました。奢侈(ぜいたく)で派手だというわけです。その結果、 歌舞伎は、様々な規制を受けて、役者は男性だけになって、一種独特の様式美をもった芝居として発展し今日の歌舞伎となりました。

「能」と「歌舞伎」を比べて見る時、「サムライ」というものと「町人」の文化の違いがあからさまになります。 能の文化は、褒めれば哲学的ですが、ある意味 貴族趣味的です。和歌でもそうです。歌会は、簡単には開催できない雰囲気があるが、俳諧の座だったら、どこでも開けそうな雰囲気がある。ちっとも気取って いない。良いものはいい。悪ものは悪いというメリハリが、はっきりします。

小笹のオヤジさんは、歌舞伎では「成田屋」を贔屓していました。成田屋は、もちろん市川団十郎の一門の屋号で す。江戸の町人たちは、必ず自分の贔屓筋とい うものを持っていたものだったようです。私は少しでも「団十郎」の芝居について、悪い批評でもするものなら、プイとい不機嫌になって、「あんたなんかにあ の芸の深さは分からないだろうな」と云わんばかりになるのでした。

江戸の町人たちにとって、「贔屓」とは、それこそ無償の応援行為です。そこに理屈も利害も何もない。ただ応援 するのです。団十郎が、「勧進帳」で弁慶をやるとなれば、熱狂して、その派手な舞台を見て彼らは泣いていたはずです。

おそらく、小笹のオヤジさんも、子供の頃から、歌舞伎座に行っていたのでしょう。またきっと、銀座小笹の店 で、先代の団十郎のお相手をしているのでしょ う。そんな「客」と「亭主」の「馴染み」が「贔屓」という感情を形つくっているのかもしれません。相撲も同じで、オヤジさんの贔屓は、春日野部屋で、部屋 の力士は、わが子のようにして応援していました。ちなみに部屋の栃乃洋への小言を云うものなら、たちまち機嫌が悪くなったりしたものです。江戸庶民は、お そらくこのようにして、自分の贔屓をつくって、夢中になってその贔屓筋を応援したのでしょう。

4  「益荒男」から「手弱女」への義 経像の変化について

歌舞伎の判官物を見てみると、判官物といわれる出し物でも、義経さんが中心になって、ガンガンと活躍するもの はまずありません。いつも義経さんは脇役で す。まあこれは「能」の流れを汲んでいると思うのですが、「舟弁慶」でも「勧進帳」でも、「義経千本桜」でもみな不遇を託(かこ)つ義経さんは、主役では なく、あくまで物語を展開するための脇役に過ぎません。主役と言えば、前のふたつでは義経を守ろうと才知のすべてを駆使する武蔵坊弁慶であり、「千本桜」 の場合は、佐藤忠信と静御前です。しかもその忠信はニセ者であり、実は母の皮の張った鼓を追う狐の化けた姿という奇想天外なものです。

このように考えますと、義経の華々しい立ち回りなど、一切ないという不思議なことに気付かされます。何故で しょうか。例えば、一ノ谷合戦の義経の雄姿を歌 舞伎座の舞台で是非観たいという要望もあったかもしれませんが、結局作られなかった。「一谷嫩軍記」(1751年初演:いちのたにふたばぐんき)というも のがありますが、結局、これも熊谷次郎直実が平敦盛の首を取るシーンで、哀れを感じた直実がわが子の首を取って義経に渡す場面がメインとなっています。

江戸庶民における判官物の贔屓という点を考えると、もはや義経はただ可哀想な存在とか、哀れということを越え て、ひとつの理念か記号のようなものになって いることを感じます。理念(記号)と言えば、それはひとつの○とか△とかのデザインのようなもので、それだけでは意味をなさないような何かです。もっと極 端に云えば、義経の英雄性は消されていて庶民の心の中では、ある種の記号のような存在になってしまっているという感じがするのです。

江戸庶民が「判官物」を好み、九郎判官義経を可哀想に思ういう憐憫(れんびん)の情を持っていたということ は、実は一種の建前であり、本当のところは、趣 向の対象(記号)のようなものでしかなかったということかもしれません。そこで重要なことは、庶民の心に中で、義経という人物の荒々しくてどうにも手に負 えないような軍事的天才の部分が、いつの間にか取り払われて、弱々しくてどうしようもない哀れな存在に変貌させられているという現実です。

考えてみれば、「判官贔屓」で語られる義経には英雄の面影は一切ありません。英雄性はすっかり影を失せて、取 り払われいる感じがします。判官贔屓の源流 は、「義経記」だと言われていますがが、そこで英雄性を感じさせる部分は、どこにも見あたりません。江戸期には、さらに強く義経の英雄性が完全に払拭さ れ、記号のようになって行ったのだと思います。

言葉で云えば、「益荒男」(ますらお)が一転して「手弱女」(たおやめ)に変化(へんげ)させられたようなも のです。この変化こそが、判官贔屓と我々日本人が呼んでいることの真の姿かもしれません。この変化はどんなメカニズムで起きたのでしょうか。

5 中尊寺の「伝源義経公肖像」考

平泉の中尊寺に源義経の肖像であるとして伝わる画があります。この画について、詳しいことは分かっていませ ん。いずれにしても室町期から江戸中期に描かれ たものと推測されます。室町期と言えば「義経記」がまとめられた時期ですし、江戸中期と言えば、江戸庶民が、判官物の芝居に熱狂していた時期です。芭蕉 は、そんな悲劇の英雄を思いを馳せて、心の中で「ヨシツネ、ヨシツネ」とかけ声を掛けながら、「奥の細道」への旅を続けてきたのかもしれません。

中尊寺の源義経像は、どこからどう見ても英雄の面影はありません。失意の中にいるように見える。右斜め方向か ら描かれた義経は、上に朱色に着物に透けるよ うな薄ものを羽織って、紺地の袴を履いて胡座座りをしているのです。袴の裾からは白足袋を履いた左足が覗いています。腰には小刀を差し、左手には扇子を下 に向けてもっていいます。この扇子を腰にさして立ち上がろうとしているように見えます。特に義経の目線に注目したいと思います。義経は誰かの発言を聞い て、立ち上がろうとしているのです。

誰かといえば、それはおそらく弁慶です。実は中尊寺には、もう一枚、弁慶の肖像と伝えられる画が遺されていま す。画の人物は、僧兵の格好をし左から片膝をついて、誰か身分の高い人に何かを告げようとしているように見えます。顔色は藍色で異相な風貌をしています。

つまりこのふたつの画は、一対を為すと思われます。左に義経、右に弁慶。これで全体の構図が掴めます。

構図から、この一対の肖像はおそらく文治五年閏四月三十日、義経が泰衡の郎党500人に襲われた時の一瞬を描 いたものと推測されます。義経の顔を見れば、無精ヒゲが生え、髪も整ってはいません。ここに天才武将の面影は一切ありません。

この絵が中尊寺に存在するのは、鎌倉幕府の手前、源義経を鎮魂する「義経堂」を建てる訳にはいかない中尊寺の 寺僧たちが、その家来である弁慶堂を建てて、義経の御霊に合掌したことに始まるのではないかと推測されます。

現在月見坂登り切って、少し行くと右に東物見があり、左に弁慶堂があります。その御堂の中に、座っている小さ な義経像の前に、薙刀を持って厳つい顔で仁王 立ちしている弁慶が見えます。まさに弁慶の立ち往生伝説を思わせる木造です。またここには弁慶が三日で自分を掘ったと言われる木造も安置されています。

おそらく熱心な義経信奉者が、中尊寺の弁慶堂にこの義経と弁慶の肖像を奉納したのではないでしょうか。画には 銘が刻まれていないなど、疑問な点も多く、そのうち寺の中から関係する文書や、画自身の科学的な研究によって、描かれた時代なども判明するかもしれませ ん。

ともかく、私たちは、荒々しさは、弁慶に譲って、義経はひたすら弱々しく寄せ来る運命に翻弄される子羊の如き 民衆のイメージの中にある義経像を目の当たりにするのです。

6 聖徳太子のイメージの変容と判官贔屓について

源義経という人物は、非常に強い意志を持った人間です。人によっては、そんな義経を父義朝の復讐しか頭にない 単純な男と切り捨てる傾向があります。彼の意 志の強さと軍事の才能がなければ、源氏軍は、あのように華々しい勝利によって、鎌倉に独自の政権を打ち立てることは叶わなかったはずです。

この義経さんの意志の強さに比肩しうる歴史的人物は、聖徳太子という人物ではないでしょうか。当時の仏教は、 国家と呼ぶには、いささか心もとない大和政権 にとって、刺激に充ち満ちた宗教だったと思います。日本人は、この教えとの出会いによって、はじめて世界精神というものに触れたのではないかと思われま す。

若き聖徳太子は、まさにこの時期の国家建設のプロデューサーでした。彼は百済や高句麗の高僧を招き、仏教の奥 義を学び、朝鮮半島の諸国や中国を統一した随 にも負けない国家を建設しようとしました。そんな動きに驚いたのは、大和政権古来の神々を祀り事の中心に据えるべきと主張する物部一族であったと思われま す。

それでも太子は、強い意志で、たじろがずに進みました。彼はわずか22か23歳の若さで、推古天皇の摂政とな ると、矢継ぎ早に急進的な改革を進めました。 603年には冠位の十二階。604年には十七条の憲法を発布。607年には隋の国主煬帝に親書を送り国交を開きました。その親書の冒頭は、「日出ところの 天子、日没する国の天子へ云々」と書き送り、それを見た隋の煬帝は火のように激怒をしたといわれますが、そこは流石に政治家です。彼はこれをグイと腹に納 めて、日中国交がなったのでした。こうして日本は中国の進んだ文明を吸収することが可能になったのです。

太子の改革は、急激過ぎたのかもしれません。島国の日本が、太子ひとりの意志の力によって、世界最先端の国家 の文明を取り入れることば、古い日本の姿を愛 する人にとっては、青天の霹靂のような出来事だったに違いありません。そして結局、太子は、歴史の闇の中に葬り去られたということになってしまいました。

太子の48年のけっして長くない生涯を思う時、その意志という点で、義経さんに重なるものを感じるのです。太 子の生涯は、誰がみてもその才能と業績に比して、余りにも悲しくあっけないものでした。その一族もまた皆滅ぼされてしまっています。

1980年代の後半頃、法隆寺の救世観音でしたか、その体内の中から、聖徳太子と思われる人物の木造が突如と して現れたことがあります。それを見た時、私 の中で戦慄が走りました。何故ならば、その表情が、余りにも厳しく、何者かを恨みその人物を凝視しているように見えたからです。法隆寺は、梅原猛氏によれ ば、太子を鎮魂するために作られたものであるということです。その事の意味が、あの千四百年振りに、現れた聖徳太子の木造を見て、しみじみと分かったので す。

しかしどうでしょうか。今私たちの聖徳太子のイメージといえば、穏和な顔で、二人の皇子を従えるお姿です。そ れは以前の一万円札のあの聖徳太子像です。さ てあの一万円の聖徳太子が、江戸時代に描かれたものであることを知っている方はどのくらいいるでしょうか。あれは幽竹法眼という絵師が筆をとったもので、 宝暦13年(1763)に法隆寺に納められたものなのです。

いったいこの柔和な顔と先の体内から現れた太子の厳しい表情の違いは何を意味するのでしょうか。

実は他にも聖徳太子像というものをいくつか見たが、このような優しいイメージとは違っていて、多くは寸分の隙 も見せないような厳しさに満ちている太子像が多く遺されています。そして奇妙なことに制作年代が古くなればなるほど、厳しい表情になる傾向にあります。

おそらくこの理由は、梅原猛氏のいうように、ある時期まで、聖徳太子は怨霊となって、自分を悲惨な運命に追い やった人物や一族に災いをもたらしたことの証 拠ではないでしょうか。そして何度か太子の御霊を鎮める儀式が催され、法隆寺なども建てられて、太子の怒りが鎮まったと人々が実感するごとに、太子の表情 に優しさが表れていったということになるのではないでしょうか。

怨霊退散ということは、古代から近世に至るまで、重要なことでありました。そのために陰陽道も利用されたこと でしょう。このようにして、太子の雷(いかず ち)のような鋭い才能は、ある時畏れられ、やがて日本人の心の中でも、今の我々が容易にイメージする太子の柔和なお顔になったということではないでしょう か。結果として、日本人は、太子を日本国家建設の大恩人として太子信仰というものが起こりました。

以上のような聖徳太子のイメージの変遷にみるようなことが、義経さんのイメージの変貌(判官贔屓の生成)でも 適用できないでしょうか。

7 日本人のタテマエとしての判官贔屓】

源義経という人物にしろ、聖徳太子(574-622)にしろ、菅原道真(845-903)にしろ、日本では常 人を遙かに凌ぐ才能をもって生まれてきた人間を、どうも叩いて叩いて、潰してしまう傾向があるのは否定できません。

聖徳太子の十七条の憲法の一条は、以下のようなものです。

「一日、以和爲貴、無忤爲宗、人皆有黨、亦少達者、是以、或不順君父、乍違于隣里、然上和下睦、諧於論事、則 事理自通、何事不成」

これを少しやわらかい現代語に直せば、このようになるでしょうか。

「第一条は、柔らかい気持を大切にして、何かにつけて逆らうような態度や気持をなくしましょう。誰でも人には 考えがあり、志を同じくする仲間(党)がおり ますが、世の中をよく心得た人物というものは少ないものです。このことから大君や父親に従わず、人の道を外してしまうのです。そうではなく、上にある者 は、柔らかい和の気持を持ち、下の者は睦み合う気持を持って、議論を調和させることができれば、和の道は自然に開けて、どんな難しい問題でも解決しないと いうことはないでしょう。」(佐藤訳)

素晴らしい言葉です。現代の国際政治にも通じると思います。この後、太子は二条において、仏教の精神を国家に 導入しようとします。さて、何故、聖徳太子が 17条のトップに、「和の思想」を持ってきたのかと云えば、それは当時の「大和」と云った日本の国に「和の思想」が一番欠けていたと太子自身が痛感してい たからだと思います。

事実、国家内部では、様々な権謀術数と人の道に反するような他人の足を引っ張るような事件が頻発していまし た。その中で、儒教を学び、最新の仏教を自分の 人格の中に取り込んだ太子は、17条の憲法の作る目的として日本人としてのアイデンティティを世の中に広めるためにはどうしたら良いか、ということを真剣 に考えたのだと思います。

結局、太子は、一族であるはずの蘇我氏によって、皇位にも就けず、不遇のうちに亡くなりました。それはおそら く、仏教そのものをも、権力安定装置としか考 えられない蘇我馬子(?-626)の暗殺に近いような陰謀があったとも考えられます。余りに先見の明があり、世界に目を開いてしまった太子に、馬子は危険 なものを感じたのでしょう。

きっとそれは、頼朝が義経に感じたものと近いと思われます。すなわち馬子も頼朝も、優れた政治手腕は持ってい るが、自分の描いたシナリオが、目の前に居る余りにも優れた者によって、壊されてしまうことを畏れたに相違ないと思うのです。

菅原道真も同じ理由で、ある公家の讒言によって、右大臣を解任され、領地を没収された上に、九州に流され、不 遇のうちに亡くなったのです。

日本では、太子が17条の憲法に記した時代から、特別に目覚ましい才能を顕した人物を寄ってたかって潰してし まう傾向があったということではないでしょうか。

さて今日の話しは、ここからが本番です。私はずっと、「判官贔屓」という言葉を考え続けながら、ひとつの結論 めいた感覚にぶつかりました。それは一般に 「判官贔屓」解釈とはまったく逆の結論です。一般に、判官贔屓は、「弱いものに味方してしまう日本人の心的傾向」ということが定着しているようですが、実 はこれは見かけ上のことであって、日本人の潜在意識には、太子や道真や義経というような特異な才能を発揮した人物を「やっかみ」、「うらやみ」、「このよ うな人物が何故生まれて来たのだろう。それに引き替え、この才能も富も私はなんだ」と卑屈に考えてしまう傾向があるのではないかということです。

ある時、こんな話しを聞きました。ある局のアナウンサーが、100才の長寿を越えたお年寄りのインタビュー で、「おばあちゃんが一番田楽しいと思った瞬間 は、どんな時でしたか?」と聞いたのですアナウンサーはてっきり、夫と出会った時とか、子供が生まれた時、あるいは戦争が終わって出征地から夫が帰って来 た時の話しが聞けるものと思っていたというのです。

しかしこの100才のおばあちゃんの口からは意外な言葉が出ました。

「一番楽しいこと・・・それは隣の羽振りの良かった家が破産した時かな・・・」

当のアナウンサーは、ニヤニヤしながら、嬉しそうに語るおばあちゃんが怖かったと云っています。分かります。 このおばあちゃんは正直なのです。面と向かっ て、隣の家が破産した事が楽しいとは云える訳がありません。きっと、自分の家の貧しく、それに比べて隣の家の繁栄振りが悔しくて悔しくて仕方なかったので しょう。

「他人の不幸は蜜の味」とも云いますが、日本人は、特にそのような傾向が強いのかもしれません。最近の芸能ネ タで云っても、売れっ子の島田紳助が、同じ事 務所の女性を殴ったとかで、謹慎中ですが、私が見ていても、最近の彼は、少し増長している感じに見えました。そのような中で、コケてしまった彼を、「ほれ みろ」と内心で思っている人間も多いのかもしれまえん。これは小さな「判官贔屓」的心情ということが言えるかもしれません。

ですから、「判官贔屓」というものを、余りに美化するのは、少し考えた方が良いと思います。誰しも自分の心の 奥になるが眠っているかなんてものは、分から ないものです。そこに美しい花園ではなく、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)する妖怪の栖(すみか)かも知れないのです。

おそらく、先の100才おばあちゃんだって、隣の家が破産したニュースを聞いた時には、周囲に「ざまーみなさ い」とは云わなかったはずです。「まあ、かわいそうに、子供たちはどうなるのかしら・・・」だったと思います。人の心は、表に出る言葉とは裏腹なことが多 いのです。

その意味で、「判官贔屓」として美化されているものは、実は日本人の潜在意識であって、その怖ろしい意識の正 体とは、「特異な才能を示した人物の没落願望」であるかもしれません。

言い換えれば、「判官贔屓」とは、日本人のおぞましい「ホンネ」を隠す、「タテマエ」であるということになり ますか。