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室の八嶋

2020.11.08 13:36

https://setuoh.web.fc2.com/yasima/kanuma.html 【 室の八嶋 】より

松尾芭蕉が奥の細道を辿った道筋を見ていたら、直ぐ近くの栃木市に立ち寄っていたことを初めて知った。芭蕉がわざわざ立ち寄ったという「室の八嶋」とはどういうところかと思って、出かけてみた。そして、ついでに近くの山野草園に立ち寄り、その先の鹿沼市の古峰神社まで足を伸ばした。

 室の八嶋 

「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。…… 行く春や鳥啼魚の目は涙

元禄2年(1689)3月27日、松尾芭蕉は、「奥の細道」の旅に出立した。千住、草加、粕壁(宿泊)、栗橋、古河、間々田(宿泊)、小山などと、日光街道を北上し、小山から街道を外れて「室の八嶋」に立ち寄ったのが、3月29日。ここまで2泊で辿り着いたとは、随分健脚だった45歳の芭蕉。

芭蕉は古河を通ったが、なにも触れていない。芭蕉の関心事は、旧蹟、名勝だった。

奥の細道で、芭蕉が最初に訪れたのが名勝「室の八嶋」といわれる大神(おおみわ)神社。

栃木市惣社町の下野国府址に程近い農村地域に、鬱蒼とした木立に囲まれていた。

「室の八嶋に詣す。同行曽良は曰『此神は木の花さくや姫の神と申して富士一躰也……』

ここは「けぶり立つ室の八嶋」と呼ばれて、平安時代以来、東国の歌枕として都まで聞こえた名所で、多くの歌人が歌に詠んでいる。

貝原益軒『日光名勝記』に次のように記されている。

「其社の前に室のやしま有。小嶋のごとくなrもの八あり。其まハりひきくして池のごとし。嶋の大さいづれも方二間程あり。其嶋に杉少々生たり。室の八嶋古哥に多くよめる名所也。」

益軒が訪れたのは、本を出した正徳4年より前であるが、この描写は、今日でもあまり変わることがないようだ。益軒が見た時は水がなかったそうだが、今は水を湛えている。

「室の八嶋」の八つの小島には、筑波神社、天満宮、鹿島神社、雷電神社、浅間神社、熊野神社、二荒神社、香取神社の小さな祠が祀られている。島から島へ渡りながら、それぞれに参拝できるというわけだ。

大神神社は崇神天皇の皇子豊城入彦命が東国平定の際に創建。

のちに下野国府が当地に置かれると、国司が有名な神々を奉齋して惣社とした、と説明されていた。

https://ameblo.jp/akipako/entry-12293046437.html 【芭蕉も詠んだ<室の八島>:大神神社(栃木市惣社町)】より

こんにちは~~

7/15の土曜日朝、壬生町の八坂祭に向かう途中で栃木市の総鎮守 大神神社(おおみわ神社と読みます)へ寄り道♪

一の鳥居に到着!鎮守の森の参道は涼しい~(〃∇〃)

日本最古の神社であり三輪山を御神体とする奈良の大神神社より「大三輪神(大物主命)」の分霊を勧請したのが始まりとされています。

大神神社(栃木市)は、創建約1800年前頃、下野国最古の神社と伝えられ、その昔「下野惣社大明神」と呼ばれていたのだそうです。

<室の八嶋>

池には八つの嶋があり、筑波神社・大宰府天満宮・鹿嶋神社・雷電神社・浅間神社・熊野神社・二荒山神社・香取神社の社が祀られています。

参道<室の八嶋>の手前には

<御神木>

先代のご神木は今も切株のみ残っているそうで コチラのご神木は平成16年に宮司により設定されたのだそうです。夫婦杉ですね~♪

参道を挟んで向かいには<日本最大の広葉杉(コウヨウザン)>実は根元から4本に分かれています。

ご神木の周りには『祖霊社』『大杉神社』『福神神社』『右門神社』『左門神社』が祀られております。

<神楽殿と拝殿>

<下野惣社>と呼ばれたことから?この地域は栃木市惣社って地名になったのかな?

境内拝殿の手前右手には『神宮(相殿)』があり、ご祭神は

・天照大御神(あまてらすおおみかみ)-太陽神、豊穣神・木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)-天照大御神の孫である瓊々杵命の妻。 富士山本宮浅間大社の祭神・天忍穂耳命-天照大御神の長男・瓊々杵命(ににぎのみこと) - 木花咲耶姫命の夫神・彦火々出見命(ひこほほでみのみこと) - 木花咲耶姫命の子・大山祇命(おおやまつみのみこと) - 木花咲耶姫命の父が祀られています。

『拝殿』 主祭神は倭大物主櫛𤭖玉命 (やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)

奈良の大神神社より「大三輪神(大物主命)」からの分霊

拝殿側面に掲げられた板絵、色が抜け落ち損傷が酷く下絵がうっすらとしか判別できませんが、元の状態を観てみたいな~~!

拝殿正面頭上の彫刻これもカワイイ~♪

拝殿西(左手)の『護国神社』

境内あちこちに歌人の詠んだ<室の八嶋>関する短歌、俳句が一杯ですw

芭蕉も詠んだ室の八嶋

<奥の細道>

室の八嶋に詣す。 同行曾良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て、富士一躰也。 無戸室(うつむろ)に入て燒給ふちかひのみ中に、火ゝ出見(ほほでみ)のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申(まをす)。 又煙を讀習(よみならは)し侍(はべる)もこの謂(いはれ)也」。 將(はた)このしろといふ魚を禁ず。 縁起の旨世に傳ふ事も侍(はべり)し。

-室の八島に参詣した。 同行の曾良は、「ここの本尊は、木之花開耶媛 (コノハナサクヤヒメ)といって、富士浅間神社と同一神です。瓊瓊杵命(ニニギノミコト)との一夜の交わりで姫が懐妊したため、その貞操を疑われ、これに怒った姫は無戸室という出口を塞いだ産室に入って、もし不義があったのなら胎児もろとも焼け死ぬが、そうでなければ母子共に生きて還るであろうと言い残して、そこに火を放ち、猛火の中で火々出見尊 (ホホデミノミコト:八嶋の神)を出産し、生きてその疑いをはらしたといいます。だから、ここを室の八嶋というのです。また、このような謂れがあったからこそ、ここが煙を主題とする歌枕となったのです」と言う。さらにまた、焼くと死臭がするというので、このしろという魚を食べることが禁じられている。ただし、このにおいを利用して、娘が死んだと、娘の提供を強要する国の守敵をあざむき、子の命を救った「子の代(このしろ)」という縁起伝説もあるという。-

それでは、芭蕉と曾良の気持ちで室の八嶋にレッツゴー!(芭蕉が訪れた当時は水は干上がってたとの説もあるらしいのですが・・)

こんな感じで島を渡り歩きます。

早朝、人気のない神社で足元を鯉がバシャバシャするだけで結構ビビりますw

(略)


https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498744238.html 【「おくのほそ道」を考える~室の八島編④ 「このしろ」とはどんな魚か?】より

(栃木県栃木市)

「おくのほそ道」の室の八島の段では、最後に妙な文章が入っている。

【原 文】

はた、このしろといふ魚(うお)を禁ず。縁起の旨、世に伝ふこともはべりし。

【意 訳】

また、この地では「このしろ」という魚を食べることを禁じている。そういう由来の縁起談があって、世に伝わっているのであろう。

ここ、室の八島では、このしろという「魚」を食べることを禁じている、というのだ。

なぜ、こんなことをわざわざ書いているのか?この地のミステリアスさを演出するためだろうか。

まず、「このしろ」とは何か?簡単に言えば「コハダ」のことで、江戸前の寿司ネタで知られている。「このしろ」の若魚が「コハダ」である。

…ということは、昔はこのあたりは海辺に近かった、ということがわかる。

栃木はご存じの通り、「海なし県」であるが、古代の関東平野には深くまで「海」が浸食していた。きっとこの近くまで、海が寄せていたのである。

次になぜ、「このしろ」を食べることを禁じたのか?こういう「伝説」がある。

むかし下野の国の長者に美しい一人娘がいた。常陸の国の国司がこの娘を見初めて結婚を申し出た。しかし、娘には恋人がいた。

娘思いの親は、「娘は病死しました」と国司に偽り、代わりに魚を棺に入れ、使者の前で火葬でしてみせた。

その時、棺に入れたのが、焼くと人体が焦げるような匂いがするといわれた「ツナシ」という魚で、使者たちは娘が本当に死んだと納得し国へ帰り去った。

それから後、子どもの身代わりとなったツナシはコノシロ(子の代)と呼ばれるようになった。この「下野」というのは、ここ栃木、「常陸」はお隣の茨城である。

きっと室の八島か、その周辺のことだったのではないか。

室の八島は平安時代の国府跡であったから、この伝説も、室の八島周辺のことで可能性が高い。

例えばだが、こういう伝説から、人の災難の身代わりなってくれた魚ということで、この魚を神の魚として敬うようになった…、そういう仮説が成り立つ。

ついでながら、なぜ「こはだ」は寿司ネタのみで、焼き魚などにならないのかもわかった。

焼いたらきっといや~なにおいがするのだろう。

芭蕉がこの話を知っていたかどうかはしらない。

芭蕉は「現実の風景」から「いにしえの風景」へと心を飛躍させる名人である。

芭蕉の名句には、そういう句が多い。

きっと、芭蕉は、いにしへの世界を想起させる逸話として、この謂われに興味を持ったのではないか。


https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498744230.html  【「おくのほそ道」を考える~室の八島編③ 室の八島の煙はなんの煙だったのか?】より

「室の八島」について、これまでいくつか書いたが、もう一つだけ書いておきたい。

「室の八島」の「煙」についてである。

「けぶりたつ室の八島」

というように、ここからは平安時代、つねに「煙」が立ちのぼっていたという。

もちろん、今は違う。

芭蕉が訪れた頃も、煙は立ちのぼっておらず、池には水さえもなかった。

ところでその「煙」はなんの煙だったのだろうか?

池からは一年中、煙が立ち上っていた、という。

本当のことだろうか?

まず、私の推理を書きたい。

「温泉」である。

この池には温泉が湧いていたのである。

ここから「日光」へは約20キロ。

このあたりからも昔、温泉が湧いていた…と考えてもおかしくはない。

その「湯煙」が立ち上っていたのではないか。

しかし、先日、ある俳人から「異説」を聞いた。

「製鉄」の「煙」ではないか…というのである。

日本の製鉄の始まりははっきりわかってはいないが、一般的には5~6世紀と言われている。

古代、この周辺に出雲族が移住し、室の八島あたりに「製鉄集団」が住んでいた。

そして、製鉄のため、つねにこの近辺には「煙」が立ち上っていた…、というのである。

実際、この近辺には「製鉄跡」が見つかっているのだそうだ。

そう言われると、納得せざるを得ない。

しかし、「温泉説」も捨てがたい。

いずれにしても今は見れないが、ひろびろとした関東平野、はるかに筑波峰をのぞむ神々の森から、ほのかに煙が立ちのぼる姿は、なんとも美しい。

そういう風景を一度見てみたいものである。