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橘諸兄

2020.11.09 03:21

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/ku/tatimoro.html  【橘諸兄 たちばなのもろえ 684‐757 (天武 13‐天平宝字 1)】 より

奈良時代前~中期の貴族,政治家。 敏達天皇の孫または曾孫という栗隈王の孫, 美努王の子。 母は橘三千代。 光明皇后の同母兄で奈良麻呂の父。 損城王と称したが,736 年 (天平 8) 11 月臣籍に下りて母の氏姓をつぐことを請い, 許されて橘宿衝諸兄と称するようになった。 のち 750 年 (天平勝宝 2) 1 月朝臣姓を賜った。

これよりさき 731 年 8 月藤原宇合,麻呂らとともに諸司の挙によって参議となった( 諸兄47歳の頃)。 737 年天然痘の流行により妓堂が壊滅状態になったあと, 同年 9 月生き残った参議鈴鹿王は知太政官事 (ちだいじようかんじ) に, 諸兄は大納言になった。

翌 738 年 1 月阿倍内親王の立太子と同時に右大臣に昇って政権を掌握し, 唐から帰国した玄隈や吉備真備がブレーンとして活躍した。( 諸兄54歳の頃、聖武天皇37歳の頃)

740 年の藤原広嗣の乱のとき聖武天皇は東国に行幸し, 諸兄のすすめによって都を恭仁京(くにきよう) にうつした。

743 年 5 月左大臣に昇進するが,このころから藤原氏, とくに仲麻呂との確執が強くなる。 755 年 11 月祗承人 (近侍者) の佐味宮守に, 大臣は飲酒の席で言辞に礼がなく,やや謀反の状があると密告された( 諸兄70歳の頃)。 聖武太上天皇はこれをとがめなかったが, 諸兄は翌年 2 月に辞任せざるをえなかった。 757 年 1 月失意のうちに没した。 《公縁補任》には 737 年に 54 歳とあるから, これによると没年齢は 74 歳となる。 

彼の邸宅ではしばしば歌宴が催され, 大伴家持・書持の兄弟,大伴池主その他が参加したらしく, その折の作品が《万葉集》にしばしばみえる。 《尊卑分脈》《公縁補任》などに〈井手左大臣〉〈西院大臣〉などと号したとある。      栄原 永遠男

註:

以上のように、聖武天皇とは切っても切れない関係の大政治家である。また、万葉集とも関係が深い。これらの点につき若干補足しておくと、橘諸兄は井手を拠点とし活躍した聖武天皇の右腕であって、740年に45代聖武天皇を井手の玉井頓官に招き、749年に正一位左大臣になったと伝えられる。

また、万葉集の撰者として知られた文人でもある。聖武天皇(在位724-749)の御代に万葉集の撰が行われることとなり、選者は橘諸兄、大伴家持(718-785)に決ったが、その判者がいないので・・・・柿本人麿を呼び戻すことになったらしい???。 しかし、前科者では如何ともしがたいということで、「山辺赤人」と名を変えさせて召しかかえたとされている・・・・という噂もある???


https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/moroe.html 【橘宿禰諸兄 たちばなのすくねもろえ】 より

生没年 684(天武13)~757(天平勝宝9)

系譜など 美努王(みののおおきみ)の子。敏達天皇から五世(または六世)の裔。初め葛城王と称した。母は県犬養橘宿禰三千代で、光明皇后は異父妹にあたる。同母弟に橘佐為、同母妹に牟漏女王がいる。藤原不比等の子多比能を妻とし、奈良麻呂をもうけたとある(公卿補任・尊卑分脉)が、多比能の母は県犬養三千代ともあるから、同母兄妹の近親婚となってしまい、疑問。

略伝 710(和銅3)年、従五位下。翌年、馬寮監。

 729(神亀6)年、正四位下に進み、同年左大弁。

 731(天平3)年、参議。翌年、従三位。

 天平8年、弟の佐為王と共に母の橘宿禰姓を継ぐことを請い、許される。これに伴い、葛城王から橘宿禰諸兄と改名する。

 天平9年7.25、藤原武智麻呂邸に派遣され、病床の武智麻呂に正一位左大臣を授ける役を負う。藤原四卿没後、大納言に昇進。

 翌年、阿倍内親王の立太子と同時に右大臣に就任し、以後政界を主導、唐から帰国した玄昉(げんぼう)・下道真備らをブレーンとして、疫病流行後の国政の立て直しを図る。

 739(天平11)年1.13、従二位。

 翌天平12年5月、聖武天皇を相楽別業(京都府綴喜郡井手町)に迎える。同年9月、藤原広嗣の乱が勃発し、関東行幸がなされたのを機に、恭仁京遷都を推進。11月、正二位。12月6日、不破仮宮より先発して恭仁郷へ新京整備に向かう。同月13日、恭仁遷都を実現。

 743(天平15)年5月、従一位左大臣。同年7.26、紫香楽宮行幸の際、留守官として恭仁京に留まる。

 天平16年閏1.11、難波宮行幸に従駕。2.24、聖武天皇は難波から再び紫香楽宮行幸に出発し、諸兄は元正上皇と共に難波に留まる。2.26、難波宮を皇都とする勅を伝える。同年秋か冬、元正上皇と難波宮で宴、上皇は諸兄に讃歌を贈り信頼を表明する(18/4057・4058)。

 翌天平17年正月には紫香楽遷都がなされるが、災異が続発し、5月、聖武天皇は平城に還都、結局諸兄の遷都(脱平城京)計画は失敗に帰した。以後、次第に実権を藤原仲麻呂に奪われる。

 天平18年1月、元正上皇の御在所で雪掃の肆宴、応詔歌を奉る(17/3922)。同年4.5、大宰帥を兼ねる。

 748(天平20)年3月、越中守大伴家持のもとへ田辺福麻呂を派遣する。

 749(天平感宝1)年4.14、東大寺行幸に際し正一位。同年12.27、宇佐八幡禰宜尼大神杜女の東大寺参拝に際し、詔を八幡神に伝読、辰年(天平12年か)河内大知識寺の盧舎那仏礼拝をきっかけとする大仏造立発願の経緯を説明する。

 翌勝宝2年1.16、朝臣を賜姓される。宿禰から朝臣への改姓の初見。

 勝宝4年4.9、東大寺大仏開眼供養会において女漢躍歌(おんなあやおどりうた)の鼓の座に加わる。同年11.8、自邸(井手の別業か)に聖武上皇を招き豊楽。右大弁藤原八束・少納言大伴家持らも参席(19/4269~4272)。同年11.27、林王宅に但馬按察使橘奈良麻呂を餞する宴に出席。この時の治部卿船王・少納言家持らの歌が残る(19/4279~4281)。

 翌天平勝宝5年2月、「左大臣橘卿(諸兄)之東家」で諸卿大夫が宴を催し古歌について論ず(『袖中抄』『人麿勘文』などが伝える「万葉五巻抄」序の記事)。同年2.19、自邸で宴、家持「柳条を見る歌」を詠む(19/4289)。

 754(天平勝宝6)年7.19、太皇太后宮子崩御に際し御装束司。

 天平勝宝7年11.28、兵部卿橘奈良麻呂宅で宴を主催、自ら歌を詠む(20/4454)。同年11月、飲酒の席での上皇誹謗の言辞を側近の佐味宮守に密告される。上皇はこれを不問に付すが、翌年2.2、この責を負って官界を引退。

 757(天平勝宝9)年1月、薨去(74歳)。万葉には7首、06/1025、17/3922、18/4056、19/4270、20/4447・4448・4454。『栄華物語』を始め、古くから万葉集の撰者に擬せられた。


https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/moroe2.html 【橘諸兄の歌(やまとうた)】 より

敏達天皇の裔。美努王(みののおおきみ)の子。初め葛城王と称した。母は県犬養橘宿禰三千代。光明皇后は異父妹にあたる。子に奈良麻呂がいる。

和銅三年(710)、従五位下に叙され、馬寮監・左大弁などを経て、天平三年(731)、参議に就任。翌年、従三位。同八年、母の橘宿禰姓を継ぐことを請い、許される。これに伴い、葛城王から橘宿禰諸兄と改名する。同九年、藤原四卿没後、大納言に昇進。翌年、阿倍内親王の立太子と同時に右大臣に就任し、以後政界を主導する。天平十二年、藤原広嗣の乱が勃発し、聖武天皇の関東行幸がなされたのを機に、恭仁京遷都を推進。同年十二月、遷都を実現した。同十五年には従一位左大臣となる。その後聖武天皇は紫香楽に遷都するが、災異が続発し、結局天平十七年(745)、平城に還都し、諸兄の遷都計画は失敗に帰した。以後、次第に実権を藤原仲麻呂に奪われる。天平感宝元年(749)、東大寺行幸に際し正一位に昇る。天平勝宝七年(755)十一月、飲酒の席での聖武太上天皇誹謗の言辞を密告され、翌年二月、この責を負って官界を引退した。同九年正月、薨去(74歳)。

万葉集に七首の歌を残す。『栄華物語』を始め、古くから万葉集の撰者に擬せられた。万葉集からは大伴家持と親交があったことが窺える。

左大臣橘宿禰の詔に応ふる歌一首

降る雪の白髪しろかみまでに大君に仕へまつれば貴くもあるか(万17-3922)

【通釈】降り積もった雪のように髪が白くなるまで、陛下にご奉公申し上げることが出来たことを思いますと、神意は畏れ多くも有り難いものにございます。

【補記】天平十八年(746)正月、諸兄はじめ諸臣が元正太上天皇の御在所に参り、雪掃いの奉仕をした。その後、肆宴が行なわれ、雪を題に歌を詠めとの仰せがあった。それに応えた歌。「貴(たふと)し」は、神・人・自然物などの壮んな様を讃美し、畏敬の意を表わす語。長寿を授けてくれた神々への感謝・讃美だけでなく、奉公を許して下さった元正太上天皇に対する感謝・讃美をも籠めた表現であろう。当時諸兄は六十三歳。

【主な派生歌】

霜雪のしろ髪までにつかへきぬ君の八千代を祝ひおくとて(藤原定家[続古今])

色かはる白髪までにながらへてそむくかひなき後のみじかさ(長綱)

左大臣橘卿、右大弁丹比国人真人の宅に宴する歌

あぢさゐの八重咲くごとく弥やつ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ(万20-4448)

【通釈】紫陽花の花が八重に咲くように、御代八代も何代も、健勝でいらしてください、そして花を眺めては貴方を思い出しましょう。

【補記】天平勝宝七歳(755)五月、丹比国人(左大臣多治比嶋の孫)邸での宴に招かれ、紫陽花に寄せて詠んだ歌。宴の主人である国人の長寿を言祝(ことほ)ぐ。当時の紫陽花は今言うガクアジサイだったらしいが、国人宅の庭には八重咲きの変種が咲いていたのだろう。因みに紫陽花を詠んだ歌はこの作を含め万葉集に二首のみ。

十一月二十八日、左大臣の、兵部卿橘奈良麻呂朝臣の宅に集ひて宴する歌

高山の巌いはほに生ふる菅すがの根のねもころごろに降り置く白雪(万20-4454)

【通釈】高山の大岩に生えている菅の根ではないが、細かに絡み合うがごとく次々に降り積もってゆく白雪よ。

【補記】これも天平勝宝七歳の作。息子の奈良麻呂宅での宴歌。「ねもころごろに」は、「ねもころ、ねもころに」を縮約した形か。モコロは「~と同じ状態にある」意。ネモコロで、根のようにしっかりと絡みつき、千切れることなく長く続く様を表わす。降り積もる雪に、年々白髪が増え続けてゆく老いた諸兄自身を寓意しつつ、強靭な菅の根に長久の祝意を籠めているのであろう。