日向の橘の小門
https://kojiki.ys-ray.com/1_4_4_misogi_1.html 【イザナギ、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で禊ぎをする】より
伊邪那岐大神
伊邪那岐大神は、高天原の神々から修理固成の事依さし(ことよさし、委任)を受けて以後、今まで一貫して伊邪那岐命と書かれていたのが、ここで唐突に初めて「大神」と称されるようになります。宣長は「爰(ここ)に始めて此の神を大神と申せるは、故あることにや」(ここで初めて大神と言ったのは、何か理由があるのだろうか)と言っています。
次にイザナギの名が出るのは、アマテラス・ツクヨミ・スサノオの三貴子を生んだ直後で、そのときは「命」ですが、この三貴子に高天原・夜食国・海原の統治を事依さした後、スサノオがそれに従わず、成人しても激しく泣くばかりである理由を尋ねるところ以降は「大御神」「大神」となります。
このように神の呼称が変わるのは、スサノオやオオナムヂについても当てはまっていて、スサノオはヤマタノオロチ退治を終え、妻のクシナダヒメとの新居を出雲の須賀の地に定めた後からは「大神」と称されるようになります。
オオナムヂは数々の試練を乗り越え、スサノオの娘スセリビメを背負い、生大刀・生弓矢・天詔琴という神器をスサノオから奪って逃げだす時、最後にスサノオに「兄たちを追い払ってお前が大国主となれ」と葦原中国の統治者となるよう命じられます。
共通するのは、英雄神として課題や試練を完遂したあかつきに、新たな称号が与えられているという点です。
イザナギ「大神」と「命」の表記の揺れ
イザナギの場合も、国を作り、神を生み、黄泉の国の入口を千引石で塞ぎ、最後に三貴子を生んで彼らに世界の分治の事依さしをする、という一連の大事業をすべて成し遂げたあかつきに、大御神・大神と称されるようになりました。
そう考えるとつじつまが合うのですが、そうであればなおのこと、ここで唐突に大神と称されて、その直後でふたたび命に戻り、その次以降は大御神・大神と称される、というのは不思議な感じがします。
イザナギには、まだ禊ぎによる神生み・三貴子の世界分治の事依さしという大事業が残っているので、まだタイミングが早すぎる気がします。宣長の疑問はそんなところから出たのではないでしょうか。
前段にイザナミの別名として黄泉津大神・道敷大神、千引石の神名として道反大神・塞坐黄泉戸大神と、立て続けに「大神」が出てきたので、それに引きずられたということがあったかもしれません。
ここでは「古事記伝」に従って原文・訓読文を区切っていますが、最古の写本と言われる真福寺本を見ると、ほとんど改行がなく、この辺もべたっと続けて書かれています。すぐ右隣の行で妻のイザナミや千引石が「大神」扱いされているのに、イザナギだけが「命」のままというのは座りが悪い、とでも思われたのでしょうか。これは単なる憶測にすぎませんが、直後にふたたび「命」に戻っていることも考え合わせると、そう憶測させるくらいの気まぐれさを感じさせるのも事実です。
伊那志許米志許米岐穢国
伊那志許米志許米岐穢国は、いなしこめしこめき穢(きたな)き国、と読みます。日本書紀の一書には「不須也凶目汚穢之處」とあります。「いな」は「否」で、嫌悪や否定を表す感動詞です。紀一書では「不須也」(いな)です。万葉集ではこの「いな」に「不欲」「不聴」「不許」を当てています。
「しこめ」は「醜目」で、憂き目、辛い目などの「目」です。これは紀一書に「凶目」(しこめ)とあることからも分かります。ここでは形容詞「しこめし」(醜い)を、この「しこめ」を二度繰り返して強調する表現になっています。「おどろし」(驚し、驚くほどだ、恐ろしい)が「おどろおどろし」となるのと同様です。
ちなみに、黄泉の国の段で出てきた「しこめ」(志許売、醜女)の「め」(女・売)は甲類、ここの「しこめ」の「め」(目・米)は乙類の仮名なので、区別されます。甲類乙類の仮名についてはこちら。
在祁理
在祁理は、在りけり、と読みます。この「祁理」(けり)は、それまで気付かなかったことに今初めて気が付いたときに発する詠嘆の意を表す助動詞で、和歌などでよく使われます。この「祁理」の二字を置くことで、イザナギのこのときの思いが的確に表現されています。
御身之禊
御身之禊は、宣長は「貞観儀式」などに徴して「御身」をおほみまと訓みましたが、通常はみみと訓みます。「禊」は通常はみそぎと訓みますが、宣長ははらひと訓んでいます。
「みそぎ」は「みそそぎ」が約まったものと考えられていて、「身そそぎ」と「水そそぎ」の二通りの解釈があります。
宣長は「身そそぎ」であると考え、「禊の字は、波良比(はらひ)と訓つ、そは御身之とあれば、美曾岐(みそぎ)と云むは言重ればなり」と、理由を述べています。つまり、「御身の身そそぎ」では重言(馬から落馬する、のような表現のこと)になるからという理由で、「みそぎ」ではなく「はらひ」と訓むことにしたようです。その一方で、直後に「御手之手纒と云が如く、苦くはあらねど」「その波良比やがて美曾岐なれば、事は同じ」と述べており、結局どちらでもいいような書きぶりです。
「すすぐ」と「そそぐ」の違い
なお、古語においては「濯・漱・滌」は「すすく」と訓み、「水で洗い清める」という意味です。一方、「注・灌・灑」は「そそく」と訓み、「水などを振りかける、流しかける」という意味で、この二つは明確に区別されていました。
現代のように、「濯」が「そそぐ」とも訓まれるようになったのは、後になってからのようです。したがって、「みそぎ=みそそぎ」説をとるならば、この「そそぎ」は「濯・滌」でなければなりませんが、その場合は「すすぎ」が変化して「そそぎ」になったと考えることになります。これは「注・灌・灑」の「そそぎ」とは区別されます。
「身そそぎ」と取れば、確かに重言になりますが、それを理由として記注釈のように「水そそぎ」と取ったところで、「そそぐ」の中にすでに「水で」洗い清めることが含まれているので、重言であることに変わりはなく、さらに言うと、「水そそぎ」が語源だとすると、なぜそれが特に「人間の身体」をすすぐ意味にもっぱら使われるのかが問題になります。
ですので、「みそぎ」は「身そそぎ」で、宣長が言うように「御手之手纒と云が如く、苦くはあらねど」というのが正しいところではないか思います。なお、「みそぎ」は「身削ぎ」だとする説もあります。
竺紫日向
竺紫日向は、天孫降臨の条にも出てくる表現です。「竺紫」は「筑紫」で、筑紫島(九州)のことだと考えられます。「日向」については、日向国(宮崎県)のことだとする説と、特定の場所を指すのではなく、「日に向かう地」を称えた神話的表現であるとする説があります。古代詞章には、
吾宮は朝日の日向かふ処(延喜式・龍田風神祭祝詞)
また天孫降臨の条でのホノニニギ命の言葉、
朝日の直(ただ)刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地(ここ)は甚吉(いとよ)き地。
また万葉集の、
美濃の国の 高北の 八十一隣(くくり)の宮に 日向に 云々(十三・三二四二)
など、日の向く場所、日の指す場所を称える表現がよく出てきます。ここでは、黄泉の国の穢れを濯ぐための禊ぎをする地が「日の向かう場所」として称えられています。「日の向かう場所」こそが、その禊ぎの地としてふさわしい、ということです。
橘小門之阿波岐原
橘小門之阿波岐原は、筑紫のどこかの地名を指すと考えられますが、不詳です。「小門」(をど)は「小さな水門(みなと)」であるとも、「瀬戸」(川幅の狭い場所、または狭い海峡)であるとも言われます。
橘はミカン科の植物です。記紀の垂仁天皇の条に、田道間守(多遅摩毛理、たぢまもり)が常世の国から非時香菓(登岐士玖能迦玖能木實、ときじくのかくのこのみ)を持ち帰ったという伝承がありますが、これが橘です。「非時香菓」は「時ならぬときにかぐわしい木の実」つまり「いつまでもよい香りのする木の実」という意味です。
「阿波岐」(あはき)は紀一書(第六)に「檍」と書かれてます。倭名抄に「檍 説文云 檍梓之属也 音億 日本紀私記云阿波木(あはき) 今案又橿木一名也 見爾雅注 梓之属也」とあります。アオキ・カシ・モチノキ、または一般に常緑樹のことを指すようです。
橘にせよ檍にせよ、これら常緑樹は常に青い葉をつけていることから、「常磐(葉)木」(ときわぎ)と呼ばれ、永遠性や不老不死を象徴するものとして古くから尊ばれました。「日向」と同じで、特定の場所を指すのではなく、イザナギが禊ぎをする場所をこのように呼んで称えた神話的呼称であると考えることができます。
禊祓
禊祓は、「禊(みそ)ぎ」と「祓(はら)へ」は似ていますが、「禊ぎ」と言った場合には必ず「水で身体を濯ぐ」行為が伴うのに対し、「祓へ」は必ずしもこれを伴わず、一般に罪・穢れ・災厄を心身から取り除く儀式のことを指します。
「祓へ」のもともとの意味は「罪過をつぐなうために物品を科すこと」です。スサノオが悪事を働いて高天原から追放されるときに、
八百萬神共議而、於速須佐之男命、負千位置戸。
(八百万の神々は話し合って、スサノオ命におびただしい量の品物を出させた。)
とあります。日本書紀の一書(第二)の同じ場面は、
科罪於素戔嗚尊、而責其祓具。
(スサノオ尊に罪を科し、祓具を負わせた。)
とあります。祓具は「はらへつもの」と訓み、罪を償うために提出させる物品を意味します。
禊ぎと祓いの違い
つまり、「禊ぎ」(自動詞)は、
「自分で自分の身体を水で洗い清め、穢れを落とすこと」
だったのに対し、「祓へ」(他動詞)は、
「罪を犯した他人に、その罪を償わせるために祓具を科して提出させること」
という意味でした。ところが、記紀や万葉の時代にはすでに「祓へ」の意味は変わり、「祓ひ」(自動詞)、つまり今で言う「お祓い」すなわち、罪・穢れ・災厄を自分の心身から取り除く儀式の意味として使われるようになり、「禊ぎ」と「祓ひ」が混同されるようになっていったようです。ここに出る「祓」が、もともとの意味ではなく、この意味で使われていることは、「禊」と並べて書かれていることからも分かります。
ところで、「払う」という言葉は、この「祓う」と同語源であると考えられます。「お金を払う」「埃を払う」という、かなり異なるように見える二つの意味・用法があるのも、このような事情に基づくものと考えれば納得いくのではないでしょうか。
https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12635236409.html 【筑紫の日向の小戸の橘の檍原】より
○「古事記」では、伊邪那岐命が禊祓をした地を、『竺紫日向之橘小門之阿波岐原』としている。同じところを「日本書紀」では、『筑紫日向小戸橘之檍原』と記録している。この両者には微妙な差異が見られるところから、いろんなものが見えて来る。
○竺紫・筑紫の問題も面白いのだが、ここでは触れない。ここで扱うのは阿波岐原・檍原の問題となる。つまり、「古事記」が『橘小門之阿波岐原』と表記しているのに対し、「日本書紀」は『小戸橘之檍原』と案内していることである。
○橘が小門に掛かるのか、それとも檍に掛かるのか。前回にも話したように、橘が植物であることを考えた場合、『橘小門』では意味をなさない。『橘之檍原』とする方が自然ではないか。「古事記」の『竺紫日向之橘小門之阿波岐原』、「日本書紀」の『筑紫日向小戸橘之檍原』が教えてくれることは大きい。
○ある意味、橘は枕詞と考える方が自然だろう。と言うのは、橘にはそういう言霊が宿っている。それは日本和歌の伝統の中に見ることができる。
五月待つ花橘の香をかけばむかしの人の袖の香ぞする(古今和歌集・伊勢物語)
○もう一点、「阿波岐」は「あはき」、「檍」は「あおき」だから、読みも微妙に異なる。もっとも、歴史的仮名遣いでは「檍」は「あをき」となる。そうなると、「あはき」と「あをき」は随分近くなる。
●谷川健一に、「日本の神々」(岩波新書)と言う名著がある。「第一章:地名の旅」の中に、 四)沖縄の青の島と言う項目があって、死者の墓地としての青として、沖縄本島とその属島には奥武(おう)という名のつく所が七つある。として、詳しく説明している。奥武島は、沖縄では墓所だと言うのである。この指摘は大きい。
●つまり、「古事記」の『阿波岐原』や、「日本書紀」の『檍原』が、この『あを』であって、墓所を意味すると考えられる。そう考えると、全てが上手く説明できる。
●私が2020年7月29日に、訪れた江田神社、住吉神社、明神山などは、全て海沿いの墓所だったところではないかと想像される。もちろん、宮崎の代表的な観光名所である青島も同じである。それが、「古事記」の『阿波岐原』や「日本書紀」の『檍原』だと考えると、説明出来る。
◎なかなか奥の深い話となる。まだまだ検証が必要であることは言うまでもない。しかし、こういうふうに考えると、日向神話が俄然、身近な存在となってくることも確かである。更にあれこれ考えてみることが要求される。何とか、ここまで、考えた。