「宗教国家アメリカの誕生」16 独立への道(5)「フレンチ・インディアン戦争」
「リバイバル」(信仰復興運動)によって「各植民地の地域的な垣根を超える一体感が醸成」されたと言っても、それはどれほどの強さだったのだろうか?確かに、新聞を資料として用いた計量的研究によれば、イギリス領北米植民地を一体として言い表す表現の出現頻度が18世紀半ば過ぎから伸びており、13植民地を結びつける共通のアイデンティティが独立革命に向けて強まっていったことが確認できるとされる。
しかし少なくとも1760年代半ばまで、その共通のアイデンティティのなかで「イギリス人意識」の占める比重は依然大きく、それぞれの植民地は本国と直接に結びついていた。「ヴァージニア人にしてイギリス人」、「ペンシヴェニア人にしてイギリス人」なのであって、いまだその輪郭すら判然としない「アメリカ人」ではなかったのである。では、社会のイギリス化が進行し、イギリス人意識が高まっていたこれら13植民地は、このような状況下で、なぜ独立へと向かうことになったのか?それには「フレンチ・インディアン戦争」(1754年~63年 「七年戦争」【1756~63】と同時に展開された北米大陸でのイギリスとフランスの戦争)の勝利が大きく関わっている。
この戦争の結果、新世界におけるフランスの植民地支配(ヌーヴェル・フランス)は終焉を迎えることとなった。1763年のパリ条約で、フランスはカナダやミシシッピ川以東のルイジアナをイギリスに、さらにミシシッピ川以西のルイジアナをスペインに譲り、一方スペインもイギリスにフロリダを割譲したのである。このようにして拡大した領土を効率よく統治するためには、従来の植民地政策「有益なる怠慢」("salutary neglect")を改める必要があることは、本国の政策担当者の認めるところだった。この「有益なる怠慢」とは17世紀から18世紀半ばのイギリスが北米植民地に対してとっていた姿勢を示した言葉。18世紀前半までに現在のアメリカ合衆国の東岸にあたる地に形成された13植民地は,イギリス本国の政治的・経済的な管理下に置かれることになり、イギリス政府は,植民地の行政や立法を監督するとともに,重商主義政策のもとで植民地の産業や貿易についての統制を行った。ただし、イギリスは,北米植民地の離反を避けるためもあって、厳格には統制を実施しなかった。イギリス政府は北米植民地に対し、比較的広い範囲の自治を認め、また貿易や産業についても厳しい取り締まりは行わなかった。このようなイギリスの北米植民地に対する政策が、「有益なる怠慢」と呼ばれる。このイギリスの姿勢は18世紀半ばまで継続され,その間に,北米植民地では植民地議会などによる自治的な体制が発達し,また南部における農業や北部における商工業などの産業や貿易も成長していった。
1760年、王位についたジョージ3世は、政府とともに従来の「有益なる怠慢」の見直しへと舵を切る。1763年にさっそく国王宣言を発して、植民地人がアパラチア山脈を越えて西方へ移住することを規制しようとした。この措置には、帝国辺境において先住民との関係を良好に保つ目的もあったが、植民地人の反発をまねいた。また、翌1764年には、密貿易への対策として通商規制を強化し関税収入の増加をはかるべく、外国産の砂糖や糖蜜などに新たな税率を導入する「砂糖法」(アメリカ歳入法)を制定し、さらに通貨法を定めて、植民地の紙幣発行に制約を課そうとした。本国政府はそれまでの戦費を回収するためにも、植民地統治の経済的負担を植民地に求めたのである。事実、1760年代前半にはボストン港を出航する船の積荷検査はそれほど厳格ではなかったが、60年代後半になると、監視体制の強化などによって関税収入の増加が見られる。
だが、このような本国の政策は植民地人の反発を惹起し、一部の地域ではイギリス製品の不買運動も発生した。さらに1765年、「印紙法」の制定が大規模な抵抗運動の引き金を引くことになる。つまり、七年戦争の勝利がもたらしたイギリス第一帝国の完成は、皮肉にもその崩壊の序曲であり、アメリカ独立革命の始まりとなったのである。
「モノンガヘラの戦い」(フレンチ・インディアン戦争)のワシントン
アラン・ラムジー「ジョージ3世」1765年頃 南オーストラリア美術館
ヨハン・ツォファニー「ジョージ3世」1771年 ロイヤル・コレクション