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Okinawa 沖縄 #2 Day 54 (11/11/20) 旧具志頭 (5) Hanashiro Hamlet 玻名城集落

2020.11.12 14:06

玻名城集落 (はなしろ、ハナグスク、ファナグヒク)


玻名城集落 (はなしろ、ハナグスク、ファナグヒク)

玻名城集落の成り立ちは、前回訪れた 具志頭集落のそれと同じような経緯だ。 11世紀~12世紀ごろに、具志頭にあるユッタチジョウ (よりたち村) に住み着いたアマミキョ族が、現在の玻名城ビーチの 北方近くの小高い丘の上にあるアマングスクプリ (アマン = アマミキョ族、グスク = 集落、プリ = 岩) と称する大きな岩があり、この付近に移動してきたと推測されている。このアマミキョ族は、やがて、沖縄貝塚時代の前期より中期にかけての時代 (13世紀~14世紀) に、花城と称する地に移動定住する。その後、移動を繰り返して現在の集落となる。詳しくは後述。

ここ10年は人口は増加しているが、昭和初期と比較してみると、人口はそれほど変わってはいない。沖縄の本土復帰までは人口は微減していたので、それ以降人口が元に戻って、そして少しずつ増えていったというぐらいのものだ。

字具志頭之すぐ隣の字で、町は途切れることなく続いているので、 字具志頭之人口の増え方と対照的なのはなぜだろう?やはり公共施設や商店が字具志頭委集中しているので、住むには字玻名城より、字具志頭を選択するのだろう。

具志頭村史に掲載されている玻名城の拝所



アマングスクプリ (アマグスクプリ)

ユッタチジョウの地に定住したアマミキョ族は、時代が進むにつれて人口は増え、やがて、よりたちと称する村落を創建し、その集落のあるグループは、このアマングスクプリと呼ばれていた大岩付近に移動してきたと考えられている。アマングスクプリは海岸からそびえる丘陵のほぼ頂上付近にある。移動してきたのはこの丘陵の上の部分だろう。


花城集落 (ハナグスク マキョ)

アマングスクプリのアマミキョ族は、13世紀~14世紀に、アマングスクプリの北の方の丘陵が緩やかに下っている花城という地に移動して定住する。この地は、 具志頭集落を形成した仲間村や屋富祖村と非常に近い場所にある。この場所が玻名城村落の起源となる。花城の人々は、村落近くイトサケ之嶽と称する御嶽を造っていたのだが、この後に多々名城 (タタナグスク) 築城で住んでいた土地を花城按司に譲り、玻名城古島に集落を移動した際に、このイトサケ之嶽の古島に移したが、現在では所在地は不明。


玻名城之殿 (ハナグスクヌトゥン)

花城の人々は集落の近くに殿 (トゥン) も建立している。花城之殿と称していたが、玻名城古島に集落を移動した際に、この花城之殿も移している。後に読みは変わらないのだが、玻名城之殿となり、玻名城古島跡に建っている農村環境改善センターのすぐ下、ハナンダー (自然橋) の近くにある。


んぢや井 (ガ-)

花城の人々の唯一の水源がこのんぢや井 (ガ-) だ。花城集落からは400mから500mぐらい西の丘陵の下にあるので、毎日に水くみは大変だっただろう。この井戸は、地表の琉球石灰岩の溶解によって生成され、深さ約3m、5坪位あったそうだ。花城集落が玻名城古島の地に移動した後も、古島集落住民やこの近くにあった安里村落住民、そして多々名城の城内の人々にとっても唯一の水源だった。近世琉球時代に、玻名城村落が現在地へ移動しても、玻名城村落の村井として大いに利用されたそうだ。残念なことに、明治時代、この井戸の修繕に失敗してしまい水脈を逃がし、湧水が涸れ、廃井となり、現在はその形だけ残すのみになってしまった。この井戸には伝承がある。おもろそうしにはこの井戸は「いぢや井」と書かれていた。その経緯についての伝承がある。「多々名城城中の人々にとって、いぢや井は唯一の水源で飲料水の確保は城の運命を左右する大きな問題で、花城按司は敵の南山からこの井戸を奪われないように、いぢや井を「んぢや井」と名を変え、以後、いぢや井は、んぢや井と呼弥されるようになった。「んぢや」とは琉球方言で苦いという意味で、南山がこの井戸を奪っても仕方がないと思わせたのだ。」この小手先の方法は南山には通じなく、結局はこの井戸を南山に抑えられて、水を断たれて多々名城は落城する。


玻名城古島 (ハナグスクフルジマ)

多々名城跡の立地する花城と称する地に発祥した花城村落は、時代が進むにつれて発達する。やがて、花城村落と安里村落を統治する按司が登場する。按司は花城村のリーダーだったのだろう。この按司は、花城村落が立地する花城の地にグスクを築くため、花城村落を、14世紀前半のころに玻名城古島の地へ移動させる。現在は具志頭村農村環境改善センターと具志頭村社会体育館が建っている場所だ。「おもろそうし」には、この集落には多くの穀物を蓄える高倉が建ち並んでいたという歌が載っている。この集落が発展して栄えたことがわかる。


多々名城 (タタナグスク) 

多々名グスクは、13世紀の後期~14世紀初期 に花城按司により築城された。この時には花グスクと呼ばれていた。4つの郭からなる連郭式の城。

南山の軍勢が花グスクを攻めたが、防備は固く攻めあぐねていた。グスクの用水井「んじゃ井」を南山軍が抑え、水路を断ち、遂に花グスクは落城。この後、南山がここを支配するようになって多々良グスクと呼ばれ、その後に多々名グスクと転訛した。ここで書かれている南山軍との戦いとはいつのことなのだろうか?南山軍は少しあいまいな表現で、正しくは南山国内での内戦といったほうが良いだろう。この多々名グスクがある丘陵の北東部分は 具志頭グスクがある。この二つのグスクはあまりにも近い場所にある。具志頭按司と多々名按司は兄弟であった。英祖王統の二代王の大成の三男である具志頭王子の孫にあたる。お互いに同盟関係を持っていた。そうすると 具志頭グスクと運命共同体であっただろう。南山は島尻大里城を中心とした南山王の承察度の勢力と承察度の叔父の汪英紫の勢力の緊張関係があった。1379年に具志頭按司と多々名按司の連合軍が南山の西大城按司を攻め滅ぼしている。同じ時期に、汪英紫が東大城按司を攻め滅ぼしている。このことから、具志頭按司と多々名按司は八重瀬按司であった汪英紫と同盟を結んでいた。具志頭グスクは何度か攻められている。察度王統の時代1349年に具志頭按司が察度に討たれたとある。その後は南山の支配下で汪応祖の時代に対立していた汪応祖の兄の達勃期に1409年に攻められ落城し、達勃期の支配下となり、達勃期の弟の屋富祖の息子を具志頭按司とした。汪英紫の嫡男の他魯毎の豊見城グスクを攻めの際にはその具志頭按司が戦死した。他魯毎が勝利を収めた後、当時他魯毎と同盟関係にあった中山の尚巴志の三男が具志頭按司になっている。

城は雑草や灌木に覆われ、中に入ることが出来ないが、近くの遊歩道が城跡を通っている。その遊歩道を歩き、雰囲気を見る事にした。

遊歩道はごろごろある岩の間を通っている。所々、人工的に積み上げたような石垣らしきものも見える。遊歩道を行けるところまで歩いたのだが、多々名グスクの御内原の端にあったという多々名之御嶽はとうとう見つけることができなかった。上の写真の右中がそうなのかもしれないのだが、本でもインターネットでも写真が掲載されているものはなく謎のまま...

更に遊歩道を行くと海岸に出る。海が面していることから、花城按司は盛んに海外買易を行ない、素鉄を輸入し武器をつくり武力を高め、農具もつくってそれを領地の農民に配り農業を盛んにならしめた。その買易港はワタヤーと呼ばれ、具志頭村と糸満市の境界に位置していた。当時もグスクから海岸に出る道があったのだろうか?


安里之殿 (アサトゥヌトゥン)、安里集落

前述のんぢや井 (ガ-) は安里集落の人々も利用していたとあったが、その安里集落にあった安里之殿が残っている。花城集落があった丘陵の北の麓にある。この場所には安里之御嶽 (アサトゥヌウタキ) があったのだが、同じ場所に殿を造りそちらが集落住民の御願之中心になって、御嶽は忘れられてしまったということで、御嶽は自然消滅し見当たらない。

安里集落は安里古島で13世紀~14世紀に、中城間切安里村落の大城大主を主とする血縁集団がここに移住し、次いで、同じく中城間切熱田村落の血縁集団喜納一族が移住合流し村落を形成した場所で、後に大城大主の血縁集団は現在の字安里に移っていった。後述で花城按司が花城村と安里村を治めていたとあるので、この二つの村は同じ時期にあったと思われる。体育館が見えるあたりが古島で、安里集落はその西側にあった。

安里之殿の近くに龕屋ではないかと思われる建物があった。同じ様な造りの龕屋が他の集落であったのでそうだと思う。建物の前には玻名城の役場の立入禁止の看板がある。個人ではなく役場が建てているので文化財だろう。


真嘉之殿 (マーガヌトゥン)

多々名城の三の丸は、前述の安里村に移住していた中城間切熱田村出身者血縁が、真嘉大屋子に率いられ、城の前衛守備のために、安里村からここに移り、小集落の真嘉村小 (マーガムラグワァー) を形成していた。この真嘉村小の人々が建立したのが真嘉之殿 (マーガヌトゥン) だ。真嘉村小は後に真嘉大屋子の姓の喜納にちなみ喜納村と呼ばれた。かつては急な坂であったマーガジョーの坂を登ったところのサザンリンクスゴルフ場内にある。


サザンリンクスゴルフ場

沖縄で人気の高いゴルフ場で、海岸から切り立った崖の上にある標高70mの丘陵にある。海を目の前にしてのゴルフは気持ちがよいのだろう。このゴルフ場は2005年に経営不振で約170億円の負債を抱え民事再生を申請。何回かの入札を経て、2005年にゴールドマン・サックス・グループが破格の約53億円で落札し、2008年にアコーディア・ゴルフがサザンリンクスの買収し孫会社にして現在に至っている。ホテルも併設されている。


つづみ岩 (チヂンプリ)

サザンリンクスのクラブハウスの西方近くにチヂンプリと称する一対になった二つの大きな岩があるそうだ。ただ場所とどれなのかはどこにも出ておらず、それらしきものはこの場所とおもえる。資料ではこの一対の岩は前方の切り立った岩に石をぶつけると、その音はもうーつの岩に反響して長々と余韻を引いて鳴り響き、遠く東風平間切や摩文仁間切までも聞こえたという。「ちぢん」とはつづみのことであり、「ぶり」とは岩のことで、つまりちぢんぶりとは「つづみ岩」のことである。この地には花城 (多々名城) の前衛守備のため、真嘉大屋子が、その一門の人々と真嘉村小と称する小集落を形成して住んでいた花城は、山城で城中に常備軍はいなかった。有事の際には真嘉村小の人々が、このつづみ岩を打ち鳴らして兵を集めるとともに、本城の花城に知らせたと伝わっている。


桃源ソーヌ井

多々名城 (タタナグスク) 築城で移動した玻名城古島の人々は、17世紀前半に桃源ソーヌ井の地へ移動することになる。 豊臣秀吉の朝鮮侵攻が行われた文禄の役 (1592-1593年) と慶長の役 (1597-169年) では豊臣秀吉と薩摩藩が尚寧王 (1589 - 1620年) に多大な軍役負担を命じ、応じなければまず琉球から攻めると脅かしていた。交渉の結果、軍役負担は島津薩摩藩が肩代わりし、代替として要求された兵糧米供出は、王府の苦しい経済事情で要求の半分となった。尚寧王は明に助けを求めるが功を奏ぜず、さらに苦しい立場に追い込まれる。これは後に薩摩藩に琉球侵攻の口実となった。当時は薩摩藩に納める貢租負担過重もあり、農村は疲弊し、生産意欲を失ない、貢租の滞納が多く、首里王府の財政は困窮していた。これを打開する農村政策が、慶長の役 (1597-1609年) の後、1609年 (慶長14年) に実施される。農業生産性の低い琉球石灰岩丘陵台地や丘陵緩斜面の村落を、土地が肥沃で水利の便は良く生産性の高い広い農耕地が確保できる平地への移動を強制したのだ。そこで、丘陵緩斜面に位置する玻名城古島を平地の玻名城桃原ソーヌ井の地に移動させた。この場所にも行ってみたが、史跡などはなくただの畑がひろがっている。時代はかなり後なのだが、畑の中に土地改良の碑なるものがあった。現在の玻名城集落の北に位置する桃源ソーヌ井は現在でも富盛に至るまで一面畑となっている。写真左上の丘陵が多々名城があった場所。


玻名城集落

玻名城桃原ソーヌ井の地へ移動した玻名城村落は、移動定着する間もなく、現在地へ移動することになる。琉球首里王府の独善的な政策転換があった。水田に適した土地を、村落立地の土地にするよりは、水田に特化した地域とし米の生産増加を図るため、集落は別に土地に集約させた。そこで住民は再度、移住を強制されたのだ。村に残る伝承では、この時に首里王府の説明は「玻名城桃原ソーヌ井の地は風水によれば地相が悪く村落の立地する地としては好ましくなく、早急に、他の土地に移動した方がよい」だったという。

現在の村落の平面的形態は、道路が東西南北に大体ゴバンの目のように配置されているので、土地利用の統制が行った地割土地制度が施行された寛文年間 (1661 - 1671) から村落の移動が首里王府の許可制となる1731年 (享保16年) の間と推定される。(許可制の後は村落の移動はすべて球陽に記録に残されるのだが、この玻名城村落の現在地への移動に関する記事は球陽には記載がない。)これは 具志頭村史に書かれていたのだが、実際に現在の玻名城村落の路地を巡ったのだが、ゴバンの目の統制形成か自然形成かは微妙な形と思えた。隣の字安里集落は綺麗な碁盤目の土地割になっている。これから想定すると、玻名城村落は地割土地制度が実施された直後でまだ土地割の規則が定まっていない時期ではないかと思う (あくまで私見だが....)

いつも感心するのだが、沖縄の昔ある多くの集落は、戦前にあった集落の区画をそのまま残している。沖縄戦でほとんどの家が焼失したのだが、その時と同じ区画が戻ってきている。本土であれば、焼け野原の後は将来のために新しい合理的な区画に整備し復興させるのだが、沖縄は少し事情が違うようだ。なぜだろうと考えたのだが、一つは沖縄の人たちは先祖から受け継いできた土地に対しての思い入れが本土の人たちよりかなり強く、簡単には自分たちの土地を他人に託すことはしないだろうということ。もう一つは沖縄は戦後米軍の統治下になり、沖縄人で行政は自由には行えなかった。那覇は米軍が接収し見事に以前の町並みは失われてしまった。米軍も那覇以外で軍事利用できる地域以外は整備復興などの関心はなく、集落の再建は地元の人々によってなされたことがその理由と思える。



玻名城公民館 (村屋 ムラヤー)

玻名城集落に公民館に誰かがいれば話を聞こうと訪れるも誰もいない。最も公民館に人が常駐しているのは2割程度と思う。ほとんどのケース人はいない。まれに雇われて働いている場合もあるが、従業員としてではなく、村の人が当番制で詰めているのがほとんど。公民館は村民のためなので、通常は電話でのやり取りで、何かあったら公民館に出向くという感じだ。ここで、久しぶりに酸素ボンベの鐘がつるしてあった。


馬場跡 (ファナグヒクンマイー、玻名城農村公園)

南西部の端に農村公園がある。かつての馬場だった場所だ。玻名城馬場は、通称ファナグヒクンマイー、または、マチョーグワーと呼ばれた。言った。玻名城村落近くの小字松尾原に在った具志頭間切所有の馬場、長門 (ナガジョウ) を、俗に、マチョーと称した。そのマチョーに比較して、玻名城馬場は小さかったのでマチョー小 (グワー) と称した。玻名城馬場は、玻名城村落が桃原ソーヌ井から現在地に移動した16世紀終わりから17世紀初めに造られた。というと本土では江戸時代のころ建設された。明治末期、競馬が廃止され、玻名城馬場は、砂糖小屋 (サーターヤー) の用地となり、1938年 (昭和13年) には砂糖小屋をつぶして玻名城共同製糖工場が建てられていた。その跡地がこの農村公園となった。


玻名城のお宮

玻名城のお宮は元々ペークーの娘を祀った媽祖の拝所があったのだが、明治時代からの国家神道政策で村に点在している御嶽や殿やその他拝所をまとめ神道の神と一緒に神社化していった。ここにあった拝所も1909年 (明治43年) に鳥居を立て祠を造り、村の祖霊神の媽祖神と神道の神を祀っている。この合祀された社は沖縄にも多いのだが、今まで見たすべてで神道の神が誰なのが不明となっている。多分住民は神道の神が誰なのかには全く関心はなかったのだろう。このお宮には伝承が残っている。「明和年間 (1764-1771年) に、玻名城村に、潮平ヌペークーという人がいた。ある年、所用で中国へ渡り帰路遭難した。晴天にわかにかき曇って、強風が吹きまくり、波は荒れ狂い船は木の葉のようにゆられ、まさに、沈没寸前であった。ところが、不思議なことに、急に風は静まり波はおさまり、ペークーは無事坡名城村に帰ることが出来た。しかし、残して行った一人娘の姿が見えない。その行方はまったくわからなかった。ペークーは途方にくれ狂人のように探し廻った。心静まって近所の人に尋ねた。人々が言うには、この山に入って行くのは見たが、出てくるのは見えないと言う。ペークーは、村人と山中をくまなく探したが、ついに、娘の姿を発見することは出来なかった。ペークーは、嘆き悲しみのあまり食物を口にすることも出来なかった。時が経ち、気が静まると、失くなった娘がふびんに思われてならない。毎日ふらふらと娘の失くなった山中をうろついては、娘を偲びひそかに心の憂さをなぐさめていた。しかし、いつまでもそうすることは出来なかった。ペクは、去りし日のことをふり返った。中国からの帰路海上で遭難した時、急に風はおさまり、船は沈没をまぬかれ、一命をとり止めた日時と、娘が山中に入って行ったのが同日同時刻であることに気がついた。そして、娘が、航海の守護神たる媽姐となり、風や波を静め、自分の命を助けてくれたのだということがわかった。そこで、ペークーは、この山中に祠を建て娘の霊を祀った。このことは、やがて玻名城の村中に伝わり、玻名城村では、この娘の霊を村の守護神として、村を挙げてこの祠を深く崇信した。」


守護獅子之霊

玻名城のお宮の近くの国道331号線沿いにこのような石碑が建っていた。玻名城には獅子舞之伝統芸能が伝わっており、獅子は村の守り神とされる。それゆえにこのような石碑があるのだろう。

獅子舞は旧暦8月15・16日の十五夜の祭りに行われる。公民館をスタートして、集落を道行列 (ミチジュネー) し、この石碑をお詣りして、玻名城のお宮の広場で獅子舞が披露される。

玻名城集落がが、現在の地に移動してきた後、京太郎 (チョンダラー) という傀儡師がこの地にもやってきた。彼等は念仏専称浄土宗を奉じて、人形や木製の魔除けの動物像等を舞わしながら各地を歩き廻っていた。各地でこの京太郎の話が残っている。一番有名なのは京太郎の念仏踊りが沖縄のエイサー之起源といわれている。豪家や旧家に頼まれて、舞を披露し、魔除けや家庭の安泰を祈願し、その謝礼として金銭・米・豆等を受けていた。他に葬式の鐘たたきや、念仏唱えもしていたそうだ。玻名城村の長田家が京太郎から魔除けの日本カモシカを形どった像をゆずり受け、家の守神として神棚を設けて崇信していた。ある年、悪疫大いに流行し、玻名城村でも死者が続出した。村では魔除けのカモシカ像をゆずり受け、悪疫追放のために、部落内や村屋の庭においてこれを舞わせた。早速その効があって悪疫はなくなった。この魔除けのカモシカ像の威力の賜と信じ、その後はそれを部落の守神として、村屋に神棚を設けてそこに安置し、毎年所定の日にあるは事ある毎に村を挙げて獅子舞いを行なうようになったのが玻名城の獅子舞の始まりだ。






具志頭村史に掲載されていた井戸で見つけられなかったのが、アプ井とクナダ井だ。玻名城集落は北村渠と南村渠に区分されており、それぞれが村井 (産井 ウブガー) を持っていた。この二つの井戸がそれにあたる。人々は、村井の水には、霊カが宿り、その水を飲むことでめば、その水の霊力が身に宿り、身を守護すると信じていたので、正月には、朝早く村井の水を汲んで来て、若水として家族でそれを飲んだ。また、お産の時には、その水の霊力が、赤子を守護し健康に育っという信仰により、村井の水で赤子を浴びせていた。

次回機会があれば所在地を地元の人に聞いてみよう。



前回、 具志頭を訪れたときは真夏日だったのだが、その日を境にして急に気温は下がり、今週は半袖では少し肌寒い気候に変わっている。自転車で走るには最適な気候になった。本土でいえば、秋が始まったぐらいの感じだ。


参考文献