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平将門公の恨みを晴らしたのは源義経!?

2020.11.11 05:40

https://blog.goo.ne.jp/nobolook47/e/9d557f43318e4dd105484e955114359f  【平将門公の恨みを晴らしたのは源義経!? その1】より

私、子供の頃からも呪いや祟りについて考えています。何故か悲劇のシナリオを演じてしまう人生を歩んでいますし、親族も不運や障害に悩まされていますしね。

特に二人の自殺者が出た場所で事故死した従兄弟、列車事故で片足切断しながらも助かったのに、違う血液を輸血され亡くなった父方の祖父、そして左手の掌に先天的な障害を持つ妹と弟。事故と怪我で同じく左手の掌が多少不自由な父と私。この理由が判らない。こんな負の偶然が続くものなのだろうか。祟りではないのか。呪いではないのか。何時も何時も長年考えてきました。未だに未だに判らずです。K宮司の仰る通り、祖先の因果が原因とは考えていますが。

ただ、呪いや祟りが実際は心霊的理由ではなく、物理的と言うか、故意によるもの。伝承されたものではないか。その考えもゼロとは思わない。

恨みが子々孫々にわたって伝承され、人為的に晴らされ実行される可能性も十分ある。それを考えたい。

今回の話は一つの可能性。「もしかしたら、こう言う事もあるかもよ」的に書きます。別に主張する訳ではないです。因果な巡り会いが私の人生の一つのテーマになっている感じがして、以前から考えていた事です。ご了承頂きお読みいただければ幸いです。

さて、日本史上朝廷や天皇に反乱を起こした逆賊と言ったら、貴方は誰を思い浮かべますか。

私は古い順から長髄彦、アテルイ、そして平将門公です。中でも私、将門公が大変怖い。

以前、東京は兜町で働いていたのですが、大手町の「将門の首塚」にはとうとう行きませんでした。それだけ恐怖を覚えていたのです。

実は私の本姓は将門公の血筋から出ています。伝説ですが将門公と側室・桔梗姫との子に永井平九郎がいる。

しかし将門公の敵となった叔父の平良兼の流れにも同姓がいます。どちらが私に流れているのか判らない。叔父の方の流れだったら祟られるのではないかと恐れていたのです。大変怖いのです。

でも何時までも怖がっていられない。そして意を決して福島県天栄村に鎮座する御鍋神社に参拝に行きました。御鍋神社の主祭神は永井平九郎。配神は平将門公とその側室である桔梗姫。

桔梗姫は将門公を裏切ったとされているのですが、一緒に祭られています。これは多分、日本で唯一だと思います。そして永井平九郎が祀られているのもこの神社だけの筈。以前からどうしても参拝したいと思っていたのです。

結果、穏やかな時が過ごせました。怖さがありますが私に対して怒ってはいない。許されている。そう感じられました。ほっとしました。これこそが本当の参拝だと思います。これからもこんな感じで参拝を続けたい。仙台から車中泊で来た甲斐がありました。

さて、話は最初から曲がっちゃいました。すみません。ここからが本題です。

日本最大の怨霊といったら平将門公を上げる人が多いと思いますが、将門公が特に恨んでいる人物が大まかですが二人います。将門公が戦で命を落とす結果となった従兄弟の平貞盛と、俵藤太こと藤原秀郷。この二人に対して並々ならぬ恨みがあったと考えます。

そして平貞盛の子孫は平家の棟梁・平清盛。藤原秀郷の子孫は奥州藤原三代の藤原秀衡。共に滅んでいます。これが平将門公の呪いによるものだとしたらどうでしょう。

呪いに関しては私は間違いなく存在すると確信しているのですが、詳しく説明せよと言われてもぐうの音も出ません。説明のしようかありません。

ただ、平将門公の恨みを晴らした人物がいるとしたら考えられなくも無いです。平清盛と藤原秀郷と接点がある者がその人物と考えられます。

っと考えると二人に面識がある源義経が一番怪しいのではないでしょうか。

当然、平将門公と源義経は会った事などありません。平将門公は生誕は不明。940年に亡くなっています。源義経は1159年に生まれ、1189年に亡くなっている。つまり時代が約200年も違うのですから会える筈が無いです。

ただ、この200年の間に平将門公の恨みを晴らしてくれと源義経に伝えたものがいるとしたらどうでしょう。十分有り得るのではないでしょうか。

今回はそれを私特有のこじ付け論で考えてみたいと思います。


https://blog.goo.ne.jp/nobolook47/e/b5c130d9795a38d76b951839c7bab83a 【平将門公の恨みを晴らしたのは源義経!? その2】より

こじつけ論を書く前に何故平将門公と源義経を関連付けたのか書いときます。

以前、「永井平九郎と御鍋神社」と題して記事を書きましたが、御鍋神社のある天栄村の羽鳥湖には「桔梗清水」なる山の名水百選に選ばれた小さな瀧が存在していて、そこで源義経の側室である桔梗姫が出産した時に使用した清水とされています。「桔梗の姫の隠し清水授水場」とも呼ばれているのです。

源義経の側室と言ったら静御前です。桔梗姫では有りません。桔梗姫は平将門公の側室なのですから。

でも不思議だと思いませんか。源義経の仮名は九郎。源九郎義経です。永井平九郎も九郎。九郎繋がりです。

勿論、間違っていると思います。桔梗清水は山形の出羽にもあります。誰かが村興しではないでしょうが、源義経伝説をでっち上げて永井平九郎とごっちゃになってしまった。そう考えていますが、この間違いが多少なりとも関連があるのではないかと考えていました。

そこで思いついたのです。平将門公の仇を討ったのは源義経ではないかと。

そんな藁をも掴むこじつけです。殆ど冗談に近いのです。でも何かある。もしかしたらと思っていました。その程度です。気楽にお読みください。

さて、以前「永井平九郎の兄は安倍清明!?【平将国伝説】」を書きましたが、ピンと来ましたでしょうか。今回のお題を書く為に先駆けて書いた事を。

平将門公の唯一生き残った息子の平将国が安倍晴明であると言う伝説がある。そして茨城にも安倍晴明を祀る神社があり、大阪だけでなく茨城にも新太と言う地名がある。私は少なからず坂東平氏と安倍氏は接点があるのではないかと考えています。

平将門公の一人だけ生き延びた息子・平将国。どの様に逃げ延びたのかは不明。そして平将国が巡り巡って安倍清明になったとまでは言わないまでも、一族同士で接点があった。それが正しいとは流石に断言なんて出来ないが、仮にそうだとしたら源義経に繋がる可能性がある。

そう言うことで平将国を安倍晴明と仮定してその過程を述べます(ややこしそう)。

安倍晴明が平将国であるのなら安倍晴明も平貞盛と藤原秀郷を恨んでいる訳です。父の仇。一族の仇なのですから。

茨城から何らかの伝で大阪に流れて来た。平将国は安倍晴明となった。そして子々孫々と恨みを伝承し続けてきた。そして時代が流れ源義経に繋がる人物が出た。その人物は鞍馬天狗こと鬼一法眼。鬼一法眼は義経の兵法の師と言えますからね。

鬼一法眼の存在は疑問視されているが、鬼一法眼を祀る神社である鬼一法眼社がある。いなかったとは言い切れない。因みにその裏の崖の上には魔王尊が祀られ、魔王の瀧が流れているているそうです。これは何れまたの機会に話したいと思います。

話を戻します。鬼一の「鬼」ですが、怨霊の意味合いも有ります。そうなると平将門公も恐れ多いですが朝廷に反逆した鬼であります。関連があるように思えます。

そして鬼一法眼の家は安倍晴明の直ぐ近所にあった。鬼一法眼も僧侶であり安倍晴明同様陰陽師であります。そうなると安倍晴明の子孫、もしくは弟子の可能性は十分にある。

更にですが、義経は鬼一法眼の兵法の書である「六とう三略」を盗んだとされていますが、この書は坂上田村麻呂も読んでいたし、平将門公もこの書により分身の術を身に付けたとされています。

事実、将門公には七人の影武者がいたと言うのは有名ですし、鉄人だったと言う伝説も残ってます。これって「六とう三略」の軍略から来ているかも。

もしかしたら鬼一法眼が持っていた「六とう三略」は平将門公が所有していた書かも知れない。将門公も義経も裏切られて敗れはしましたが、優れた軍師でも有ります。

「六とう三略」と言う同じ兵法を使うと言うのは、将門公の恨みを晴らしたと言う理由の一つになるかも知れません。


https://blog.goo.ne.jp/nobolook47/d/20160918 【平将門公の恨みを晴らしたのは源義経!? その3】より

さて、もう一人平将門公の恨みを晴らせと源義経に命令したと思われる人物がいます。義経の母親の常盤御前です。何故そう思うかと言うと殆ど何となくなのですが、「常盤」と言う名前に引っかかるのです。

「常盤」の意味の一つは常緑樹です。英語で言うとエバーグリーンですかね。これは関係ないです。

次に「常に磐」、つまり「永久に変わらず磐」。「永久に変わらない」を意味します。これは「永久に将門公の恨みを忘れない」と言う感じですね。何時までも美しい女性だったから常盤なのかも知れないですけど。

そして最後ですが、常盤は「茨城県全体」と私の故郷である「いわき市」を含む福島県の太平洋側を言うのです。つまり平将門公のホームグランドと言うが、関わりがあった地の名が常盤なのです。これは偶然でしょうかねぇー。

福島県の田村郡には常盤城があります。熊谷氏が1200年代に築城されたようですが、その後赤松氏が城主となり常盤氏を称したそうです。何時の時代から常盤と言う地名だったのでしょう。ちょっとネット検索した程度では判りません。どうなのでしょ。常盤御前の故郷なのか。

常盤氏で検索すると鎌倉から出た氏族だそうです。っと言う事は関東から出た訳です。その血筋が茨城、岩城に流れて行ったのか。

そしてその源流は桓武平氏に遡れます。平将門と同じ血筋です。これは偶然とは思えないです。

常盤御前は義経の父である源義朝の側室です。義朝が敗れ一族が捕らえられます。常盤御前は母親が平家に捕まり拷問を受けていると聞いて三人の息子と共に平清盛の前に投降。

清盛は常盤御前の美しさからか以前より好意を持っていたことから常盤御前に対し自分の妾になり、義経ら三人の息子を僧籍に入れる事を条件に命を保障したのです。常盤御前としては息子らを助けるとは言え、敵の妾になった訳ですから清盛に対し恨みを持って当然だと思いますね。

平清盛としては常盤氏も同族となります。そして敗者の正室・側室を娶るのは敗者側の反乱を防ぐ上でも有効だから妾にしたと思いますが、屈辱ではある筈です。それプラス将門公の恨みを晴らしたいと思っていたとしたら・・・・・・。

源義経は源氏統領の息子。僧籍に入るのを良しとせず、平家の目を潜り奥州藤原氏の下に庇護を求めて逃亡しています。僧籍に入るのを拒否し武士として生きたいと思ったので。

それが将門公の恨みを晴らす為に敵である平家を逃れ、もう1人の敵である藤原秀衡への元へスパイする為に行ったのであるなら・・・・・・・。

平家滅亡は結果的に源頼朝・義経兄弟によって達成してます。そして奥州藤原氏は義経を言い訳にされ滅ぼされています。その計画がばれたから義経は藤原秦衡に裏切られ殺されたのではないか。これは想像でしかありませんけど・・・・・・・・・。

そして平将門公の仇である平清盛の血筋と奥州藤原氏が滅んだ後、源氏も滅んでしまった。これはどう言う事なのか。

呪いで考えるのであれば源氏も平家も弁才天を通して呪い合戦をしていた訳です。弁才天の呪いで滅亡したとなります。しかしそれが人為的なものであるとしたら・・・・・・・・・・

https://blog.goo.ne.jp/nobolook47/e/6f889c954cfcbc88c5c9d36c2fb4473a 【平将門公の恨みを晴らしたのは源義経!? その4】 より

源頼朝を恨んでいるのは当然滅ぼされた平家です。平家の落ち武者伝説はそこらへんに転がっています。刺客となっている者もいたと思えます。中でも恨んでいたのは頼朝・義経兄弟の父親である源義朝を討った、長田忠致・景致親子ではないでしょうか。

私のブログを長く読んで頂いている奇特なお方はご存知かも知れませんが、この長田親子は私の家系に繋がります。正式には長田忠致の兄の家系の様です。

この長田親子は日本史上最低レベルの不忠義者と知られています。主君の源義朝を卑怯にも風呂場で討ち取ったのですから。

でも誤解があります。長田親子は源氏ではなく平家の血筋です。平将門公と同じ桓武平家です。源氏は主君ではないのです。そこが誤解されて伝わっています。

長田親子は義朝を討ったのに卑怯者として平家側に罵られた。源氏の頭領を討ったのに与えられた地位は壱岐守だった。「源氏の棟梁を討ったのだから美濃と尾張をくれてしかるべきだ」と言ったら平家に命を狙われるようになった。

そこに源頼朝が声をかけて来て、「家来になるのなら父の恨みは忘れよう。平家を討ち滅ぼした暁には希望通り美濃と尾張を与える」と確約した。そして平家は滅亡。頼朝は「今こそ美濃と尾張を与える」と長田親子を呼び出した。そこを捕らえて棒に手足を縛りつけ転がし棍棒で長田親子を殴り殺した。「これが本当の身の終わり」と言いながら。

何れまた長田忠敬の気持ちになって書きたいと思っていますが、この話は平家物語に拠るもので、多少はフィクションだと思います。諸説も御座います。真実とは断言出来ない。

しかし頼朝は長田親子に父・義朝を風呂場で殺されたのは事実の可能性が高い。恨んでいた。そして利用して殺した。そうなると長田親子の頼朝への恨みは半端じゃないですね。

その頼朝が橋の上で落馬して川に落ちて溺死した(諸説あり)。糖尿病で低血糖に成ったとか言われていますが、おかしいですよね。大勢で渡っていたでしょうから助けられた筈ですので。

私は暗殺説が濃厚だと思っています。そして殺したのは頼朝に代わって鎌倉幕府の執権となった舅の北条時政が一番怪しい。

ここまでするのかと思いますけど、頼朝と北条政子との二人の息子・頼家、実朝は北条氏によって暗殺されています。なんとしても北条氏が鎌倉幕府の実権を握ると言う意思が感じられます。

何故、北条氏はそこまで頑なだったのか。北条氏は伊豆に追いやられましたが、長田親子同様、桓武平氏の家系です。平清盛は平家の主流も主流でしたが、桓武平氏としては平将門公同様、関東で覇を唱えたい。だから一旦は源氏の味方に付いて平清盛の血筋を途絶えさせ、今度は血の繋がっている源頼家・実朝まで暗殺し、北条氏が実権を握ったのではないでしょうか。

母方の血だけではダメ。完全に北条氏の血で関東を平定する。これは呪いにも似た考えだと思います。どうしても平将門公の意思を感じます。

その後歴史は流れて源氏の足利幕府、平家の織田信長、源氏の明智光秀、足利家の養子に成ろうとした豊臣秀吉、そして源氏の血筋を主張する徳川家康へと繋がっていきます。源平合戦はずっーと続いていたのです。

平家・織田信長の命により、源氏・徳川家康の長男・信康が自害していますが、信康の側近に長田忠敬の血筋である長田伝八郎直勝がいました。

後に家康の側近になりますが源氏の統領を討った長田姓は縁起が悪いとして鎌倉の大江広元の家系に入り永井姓を名乗るようになりますが、大江広元も桓武平氏の流れ。そして毛利氏を生んでいます。

家康が関ヶ原の戦いで中立を守った毛利輝元との密約を反故して、石高を120万石から37万石に減らされたのも家康の平家憎しの表れが見えますが、幕末に毛利の長州藩によって徳川幕府が終わらされたのも源平の戦いだったような気がします。

徳川家の平家である永井氏は毛利と親戚になりますので頻繁に婚姻関係を結び、毛利家と徳川家との関係の修復をしたようですが、270年続いたのは頑張った方だと思います。無駄には終わりましたが。

以上、少々脱線しましたが、平将門公からの呪いを心霊的ではなく人為的によるものとして語ってみました。

でも人の恨みがここまで長期に渡って続くものなのでしょうか。祖先の恨みを晴らさで置くべきかと思うものなのでしょうか。親の仇、子の仇なら判るのですが、何故何代にも渡って続くのか。

これ、やっぱり心霊的な意思が何時までも消えず子孫を突き動かしているとどうしても思っちゃいます。

因果ってものはそう簡単に消えるものではない。どうしてもそう思っちゃいますね。