歴史の大河
http://www.do-be.jp/hiraizumi/hiraizumi_rekishi.html 【歴史の大河】 より
プロローグ
中尊寺金色堂
中尊寺・金色堂が建立されるに至った歴史背景を知ると、金色堂を単なる黄金色に彩られた建造物としてではなく、奥州・藤原氏と平泉文化の象徴・粋・華・頂点であったと知ることになる。
が、同時に、無量光院跡、柳之御所跡、高館義経堂、中尊寺と金色堂、毛越寺、観自在王院跡、などの平泉の史跡を巡り、奥州藤原3代(あるいは4代)の栄華の名残に触れるとき、奥州・藤原氏と平泉文化が日本の歴史の中に唐突に登場し、そして滅んだ感が否めない。
京の都にわが国の政治・文化の中心があり、遠方との情報・人・物の交流に困難をともなったであろう時代に、奥州・平泉という京から遠い辺境の地で、京の都に比肩する絢爛豪華な文化の隆盛が歴史に刻まれたことを時代のあだ花のような一瞬の光明として捉えるのではなく、さらに遡った過去からその時代への変遷から生み出された必然の出来事として理解することが肝要と思える。
歴史に記された全ての出来事は、悠久の大河のように変遷する国家形成途上の必然の事象であったと捉えると、中尊寺と金色堂、毛越寺などの平泉の史跡は、泡沫のような夢の跡ではなく、現代人の想像をはるかに越えるにちがいない歴史・文化の強い躍動を与えてくれる。
先ずは、往時の歴史大河を知りたい。
蝦夷の黄金
平泉の文化興隆を支えたのが「黄金」であったことに最大の留意が求められる。
言うまでも無く、黄金こそは力(パワー)の源泉であり、黄金の獲得を巡って戦いが生まれ、国・文化が興亡したことは、日本のみならず、世界史の語るところである。
奈良時代の天平21年(749年)、「続日本紀」(しょくにほんぎ)に「陸奥の国初めて黄金を貢す」と記録されている。
他の古文書にも、岩手県一関市(平泉隣接)周辺、岩手県気仙郡(けせんぐん、陸前高田市周辺)、宮城県本吉郡周辺(もとよしぐん、本吉町、南三陸町)、山形県飽海郡周辺(あくみぐん、遊佐町)から金が産出されたとあり、岩手県から山形県にかけた広い地域で金が量産されていたことが窺える。
中央政権の影響力のおよばぬ未開地域を意味する蝦夷(えぞ)と呼ばれた衣川関以北圏、この奥州「陸奥国」で大量の金が産出されたという報は朝廷(中央政府)に大きな衝撃を与えただけでなく、日本に大陸文化をもたらした隣国・中国でも大きな話題となり、中国の正史「宋史」の「日本伝」にも記述されている。
坂上田村麻呂
中央政府が蝦夷を支配下に置くべく、奈良時代後期から平安時代初期にかけて征夷大将軍・坂上田村麻呂率いる軍を送り、平安時代中期には源義時・源義家を送ったのも、単なる政権拡大(蝦夷の平定)を目指したのではなく、産出する大量の金を我がものにしたかったことが目的と考えるほうが自然に思える。
安倍一族をはじめ、蝦夷の土豪たちが中央政府になかなか屈しなかったのも、黄金の力ゆえと思えるし、後年、源頼朝が、藤原氏を滅亡させてまで源氏悲願の奥羽侵攻・制覇を実行したのも、黄金がもたらす力を知り、それ必要としたからであったと思える。
時代は下って平安時代後期に至り、「奥州の黄金」を力の源泉とした藤原3代の平泉文化が花開いた。
藤原氏の政庁・柳之御所発掘調査で出土したものの中には中国から輸入された陶磁器などがあり、当時、平泉が大量の金を元手に中国との交易が頻繁であったことが窺える。
交易商人たちが「奥州・平泉の黄金」の話を中国にもたらし、さらに、それが世界に知れ渡ったことは容易に想像がつく。
清衡が延暦寺、園城寺、東大寺、興福寺などの諸大寺で千僧供(せんそうく)を催し、千人の僧侶には奥州の砂金千両が施されたと記録されている。
千僧供は、千人の僧侶を集めて盛大な供養を営む大会(たいえ)だが、莫大な費用のかかることであり、法皇、天皇、摂関でも容易に挙行することは難しい。
それを清衡が次々と挙行したことで、清衡の名声は中央(京・奈良)でも大いに高まった。 中国・浙江省の天台山(天台宗総本山)にまで、清衡の千僧供、即ち「奥州・平泉の黄金」の話が伝えられている。
1270年、イタリア人旅行家マルコ・ポーロが東方旅行に出て元(中国の王朝)に仕えて「平泉の黄金」の話を耳にし、「東方見聞録」に以下のように記述している。
「カタイ(中国)の東方海上に黄金に満ちたる島あり。宮殿は黄金の瓦にて葺かれ、壁は黄金に覆はる。床および道は厚き金の延べ板により舗装す。その名は、ジパングと云えり」。
1189年の藤原氏滅亡の約100年後ではあったが、金色堂に代表される平泉の黄金文化伝説は、マルコ・ポーロの「ジパング=黄金の国」の想像力を激しく掻き立てた。
マルコ・ポーロの「黄金の国」への憧れは、それから200年後、1492年のクリストファー・コロンブスの探検、世界大航海時代へと繋がる。
まさに、藤原3代100年の礎は「黄金」であり、金の大量産出地・奥州を押さえていたからこそ、中尊寺の金色堂や二階大堂、毛越寺、観自在王院、柳之御所、無量光院といった平泉の栄華が歴史に記された。奥州100年の安寧と平泉の栄華は、金産出がもたらした必然の出来事であった。
藤原氏滅亡と同じくして金の産出は止まり、以後、奥州・平泉が日本の歴史に華々しく再登場することは無かった。
武門の誕生
未統治であった我が国に権力闘争が繰り返されて大和朝廷が生まれ、平城京(奈良)に都が定められた後、平安京(京都)に遷都になったのが794年のこと。
平安時代になると、行政府および貴族たちが権力や荘園などの自己利権の維持と拡大のために強力な武力を必要とするようになり、その意を全うするに武力行使を専らとする従者・武者の集団が登場した。
武門の誕生である。
武門は天皇・貴族たちの飼い犬・番犬であり、地方豪族の武者との戦いを繰り返して、天皇・貴族たちの威を向上させ、荘園を拡大させていった。
戦いの勝者は敗者を自らの武門に併合して拡大していき、やがて、飼い主である天皇・貴族の命に従って戦うことから、自らが政治の実権を握るという意思を強固にする戦いへと変化させていった。
武門源氏は、辺境の地として蝦夷と呼ばれていた奥州に、朝廷の命を受けその威を拡大させる遠征を繰り返しながらも、奥州を自らの勢力基盤とすることを意図していた。
平安時代末期(1180年頃)、後白河法皇を軸とする政治の転変、源平の戦いを経て、我が国の西方を平家、京から関東を源氏、東北(奥州・蝦夷)を奥州藤原氏の治国とする政治の構図が出来上がったが、奥州藤原氏が育成した源義経が平家を滅亡させると、源氏の棟梁・源頼朝は源義経を擁護する奥州藤原氏を攻めた。
その源頼朝は、京都ではなく関東・鎌倉に幕府を開き、武門の政治を開始した。
この後、天皇政治の復権を図る戦いはあったものの、我が国の政治は明治維新まで武門が行うものとなった。
武門が天皇・貴族から政治の実権を奪うという時代の大きな変化の過程で、京から追われて西方に居を構えようとした平家を滅ぼした源氏は、次に、先祖が意図していた奥州奪取を図った。
源頼朝は平家を滅亡させた源義経が藤原氏の将とならぬよう様々な策略を用いて殺させ、蝦夷・奥州という広大な地域の統治者であり強大な力を有していた藤原氏を自滅に追い込んだ。
武門による統治のためには、拮抗する勢力が割拠することを終焉させなくてはならず、源氏が平家に続いて奥州藤原氏を滅亡させたのも、また、必然のことであった。
源頼朝にとって、平泉は想像をはるかに越える文化隆盛の地であり、藤原氏という一大勢力は絶対に排除しなくてはならない存在であったろう。
が、同時に、手本でもあったと思える。
京の藤原氏の血脈に繋がる亘理(藤原)経清が在庁官吏として奥州に下り、土豪・武門の安倍氏の女婿として迎えられたことで公家と武門の融合・合体が成り、その後の藤原氏(平泉)の繁栄に繋がっていったことに、清和天皇の血脈に繋がる源頼朝が伊豆に流され、坂東の武門・北条氏の女婿に迎えられて、その後の北条氏(鎌倉幕府)の繁栄に繋がっていったことが重なって見える。
源頼朝を恐怖させたであろう藤原氏の隆盛は、今となっては、「吾妻鏡」の記述によって想像するしかないが、中尊寺・金色堂、毛越寺をはじめとする平泉の史跡・遺構を目にするとき、往時の躍動がリアルに伝わってきて興奮を覚える。
「吾妻鏡」
治承4年(1180)4月9日から文永3年(1266年)7月20日までの鎌倉幕府編纂の公式記録書。
平泉関連記録も治承4年から宝治2年(1248年)までの長期にわたるが、源頼朝が泰衡(藤原4代)を滅ぼした文治5年(1189年)の記録が詳しい。
戦勝側の記録であり、鎌倉幕府の好都合に記されているには違いないだろうが、平泉文化の隆盛を伝える貴重な文献。
戦乱あらすじ
源氏は武門として清和天皇の祖孫・源満仲(みなもとのみつなか)から力をつけ、その子の頼信(よりのぶ)が平忠常(たいらのただつね)の乱を平定して坂東(関東地方)に勢力を伸ばした。蝦夷に設けられた柵
隣接する陸奥(むつ)奥州は古来、蝦夷と呼ばれ、未だ中央政府(朝廷)の威の及ばない地で、豪族たちが背くことがあった。
蝦夷を征伐する軍の長として「征夷大将軍」の官職が定められた。
余談だが、未開の地を蝦夷(えぞ)と呼称することは、明治時代以前の北海道を呼称するまでに至っている。
永承6年(1051年)、後冷泉(ごれいぜい)天皇の御世、奥州豪族の安倍頼良(あべよりよし)が反乱を起こした。朝廷は源頼信の子・頼義(よりよし)を陸奥守に任じて、反乱征圧を図った。
前九年の役(ぜんくねんのえき)の始まりである。
源頼義は嫡男・義家(よしいえ)とともに安倍鎮圧に努め、安倍頼良を誅殺したものの、安倍頼良の子の安倍貞任(さだとう)・宗任(むねとう)兄弟が勢いを強めていった。
康平5年(1062年)、衣川(ころもがわ、岩手県平泉町)、鳥海(とりみ、金ヶ崎町)、厨川(くりやがわ、盛岡市)の戦いで、安倍貞任は誅殺され、宗任は俘虜なって伊予(愛媛県)に流刑となり(没年不詳)、長期におよんだ戦いは終了した。
この戦いの功によって、源頼義は伊予守(いよのかみ)となり、源義家は出羽守(でわのかみ)に任ぜられた。
前九年の役で源氏に味方した出羽(山形県)の清原武則は、論功行賞により、安倍氏のものであった奥六郡(おくろくぐん)を領有することになった。
安倍氏に味方した清原(亘理)経清は捕らえられ誅殺されたが、その妻は経清の子・清衡を連れて清原武則の嫡子・武貞の後妻として嫁した。
奥州藤原氏の祖となる清衡は、清原一族として成長した。
その後、清原一族内に内紛が起こった。後三年の役(ごさんねんのえき)である。
清衡は、奥州平定を図った源義家に味方して清原一族を滅亡させ、昔日の安倍氏の所領であった奥六郡を入手、平泉に居を構えた。
前九年の役(1051~1062年)
奈良時代、大和朝廷はわが国の中央政府たらんとして、周辺地域を勢力傘下に治めていった。当時の奥州・陸奥国(東北地方)は蝦夷(えぞ)と呼ばれ、大和朝廷に服しない勢力が存在していた。
奈良時代から平安時代へと変わるころ(794年、京都へ遷都)の延暦8年(789年)、紀古佐美(きのこさみ)の率いる大和朝廷東征軍は阿弖流為(あてるい)率いる蝦夷軍に大敗した。
延暦11年(791年)、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を補佐する征東副使に任じられ、延暦12年(793年)に軍を進発させた。
このときの勝利に貢献したとして、田村麻呂は延暦16年(796年)、征夷大将軍に任じられ、延暦20年(801年)に再度の東征に出て成功を収め、夷賊(蝦夷)の討伏を報じた。
中央政府は坂上田村麿を派遣して奥州・蝦夷を政権下に治めたが、現地勢力を一掃することはせず、その勢力を統治に組みこんだ。
蝦夷といわれた奥州現地人の中で中央政府に帰順した者は俘囚(ふしゅう)と呼ばれた。
時を経て、その夷俘長(弘仁初期に設けられた公職名)であった安倍氏は、忠頼、忠良、頼良と続いて、安倍頼時(あべのよりとき)は胆沢・和賀・稗貫・江刺・志和・岩手(いさわ、わが、ひえぬき、えさし、しわ、いわて)の奥六郡(おくろくぐん)の郡司として勢力が盛んであった。
俘囚の長として、他の俘囚とは異なり、朝廷に税を納めず、徭役(労務)を勤めず、蝦夷南端の衣川を越えて威風を示そうとした。
永承6年(1051年)、この南下勢力を削ごうとして、国司の藤原登任(ふじわらのなりとう)は出羽秋田城介・平重成(繁成)を先鋒とした討伐軍を鬼切辺(おにきりべ、宮城県北部の鬼頭・おにこうべ)に送って大敗し、国司を解任され、帰京させられた。
源頼義
天喜4年(1056年)、中央政府は、文官国司に替わって武門源氏の棟梁の源頼義(みなもとのよりよし)を陸奥守鎮守府(むつのかみちんじゅふ)将軍として派遣した。
この時、大赦が行われたこともあって、安倍氏は鎮守府に出向いて降伏を示し、鎮守府もこれを受け入れた。
源頼義が陸奥守鎮守府将軍としての任期を終え、奥州を離れようとした時、安倍頼時の嫡子・安倍貞任(あべのさだとう)が頼義の武将・藤原説貞(ふじわらのときさだ)を夜襲した。
藤原説貞の息子・光貞と元貞の隊の馬が殺された。
藤原説貞は源頼義に、安倍貞任が襲ったと申し立てた。夜襲の理由は、貞任が説貞の娘へ求婚したのを、説貞に断わられたからという説が伝わっている。
が、安倍氏と対立する藤原説貞が、源頼義の帰京を阻止しようとした謀略説もあり、真偽は定かではない。
頼義は説貞の言を一方的に取り上げて、安倍貞任を罰することにした。
戦さとなったが、その詳細は省く。
鎮守府軍は、安倍氏側の亘理(藤原)経清(わたりつねきよ)に打ち破られ、出羽(でわ)の清原武則(きよはらたけのり)の応援を得て、やっとのことで安倍氏を倒すことが出来た。
康平5年(1062年)9月5日、安倍貞任は8千の兵をもって衣川関(ころもがわのせき)を出撃したものの、清原氏の1万の軍に大敗し、9月11日に鳥海柵が陥落し、厨川柵で安倍軍は殲滅されて貞任は戦死し、12日半の戦いを終えたと「陸奥話記」(中央政府の記録)にある。
「陸奥精細記」によれば安倍貞任は人望高く、兵は敗れて城を失っても四散せず、次の城で激しく抵抗を続けたとある。
貞任の弟の宗任は捕らえられ、京都に引かれて死罪は免れたものの、亘理清経は切られている。
論功行賞で奥州鎮守府将軍は清原氏となった。
切られた亘理清経の妻は、清経の子・清衡(きよひら、7~8歳)を連れて、仇敵・清原武則の嫡子・武貞の後妻となった。
この後の清衡に始まる藤原氏栄華の芽が摘み残されたことに、歴史が、次代を織り成す必然を潜ませたと思わざるを得ない。
「奥六郡」
平安時代後期の陸奥の豪族(俘囚)・安倍氏の支配した衣川(北上川支流)流域から岩手県北部までの胆沢・和賀・稗貫・江刺・志和・岩手(いさわ、わが、ひえぬき、えさし、しわ、いわて)6地域。
奥六郡(おくろくぐん)の名称は、鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」の文治5年(1189年)9月23日に初めて登場、「伊澤、和賀・稗抜・江刺・志波・岩井」と記されている。
伊澤は胆沢、稗抜は稗貫、志波は紫波・志和。岩井と記されているのは岩手の誤り。
後三年の役(1083~1087年)
前九年の役の論功行賞により、出羽(山形県)の清原武則は安倍一族のものであった奥六郡(岩手県)を領有することになり、領地支配態勢をそれまでの一族連合制から惣領制へと変えて、今後は直系子孫が支配することとした。
新興勢力として奥六郡を得て、惣領制は奥羽全体を睨んでの支配の継続の為には必要なことではあった。
しかし、一族連合制のときは清原一族の各々が対等の立場にあったのが、惣領制となって従者扱いされることに不満を募らせる内紛が生じた。
源義家
永保3年(1083年)、源義家(頼義の子、八幡太郎、みなもとのよしいえ)が陸奥守兼鎮守府将軍として赴任した年、清原武則の嫡孫・真衡(さねひら)の子・成衡(しげひら)の婚礼があった。
出羽の秀武(武則の女婿で、武則の母方の甥、当時70才を越えていた)が臣下の礼をもってした祝辞にもかかわらず、真衡は他事(碁を打っていた)に気を取られて無視した形となった。
真衡の傲慢さに激怒した秀武は、祝いに持参した盆に盛った砂金を投げ捨て、帰路についた。真衡もその態度に怒り、秀武を追った。
清原氏の当時の栄華は一族を上げての成果であったものが、惣領制となって、秀武は従者扱いされたことに不満を持ち、真衡は秀武の態度を不遜としたことから戦さが始まった。
秀武は、やはり、真衡に不満を持つ清衡・家衡を煽動した。
真衡・清衡・家衡は兄弟ではあったが、真衡にしてみれば、清衡は父・武貞の後妻(亘理経清の妻であった)の連れ子、家衡はその後妻が産んだ子で血のつながりは無く、彼等を臣下同様に遇していた。
秀武はこうした事情を利して、自分の身の危険を兄弟争いに巻き込んだ。
清衡・家衡は真衡の本拠に近い胆沢郡白鳥村を襲い、真衡が帰国してみると清衡・家衡は既に逃亡しており、ならばと再び秀武を追討しているうちに、その途上で死亡してしまった。
真衡が秀武追討に出た留守に、清衡・家衡が再び真衡の本拠を攻めたが、この時は真衡の妻の要請で警護にあたっていた源義家の軍に蹴散らされた。
その後、清衡は義家に降順し、一旦、戦乱は沈静した。
真衡の領有していた奥六郡は清衡と家衡とで二分し、各々3郡を領有することになったが、家衡はこのことを良しとせず、6郡の領有を画して清衡を江刺の餅田城に攻めた。
清衡は逃れて後、源義家の援軍を得て家衡を倒した。
前九年の役・後三年の役も俘囚の長の勢力争いではあったが、その背景には、源氏の奥羽支配欲が微妙に関係している。
奥羽の支配をめぐっては朝廷と武士との間に軋轢があり、後々、これが建武の中興を経て、その後の足利尊氏を軸とする武士団対天皇(朝廷)が争う戦乱の遠因になっている。
前九年の役は、奥羽支配を目論む源氏がこのまま帰京してしまえば意図の成就がみられないとして、源氏側からの挑発があった可能性も考えられる。
朝廷が前九年の役・後三年の役も源氏の私事として扱った旨の記録が「後三年記」にある。
「保元物語」では、義家の子の為義が陸奥守就任を希望したことに対し、祖父頼義の時は十二年の役(前九年の役は、実際は12年間に渡った戦いであった)、父義家の時は後三年の役が生じたとして、法皇が為義の陸奥守就任を不吉として認めず他国を与えようとしたが、為義は陸奥以外に受け取っても仕方ないとして、源氏の奥州支配の意思を露骨に示している。
前九年の役・後三年の役で安倍氏と清原氏が滅亡し、源氏が中央政府(朝廷)から両役を私戦・私事とされて余儀なく引き上げた後の奥六郡は、結果として、清衡1人のものとなった。
母の連れ子として清原氏のもとで成長した清衡は、奥六郡を入手後、父親・亘理経清の姓を受け継ぎ、藤原清衡と名乗って、以後100年におよぶ奥州藤原氏の栄華(清衡、基衡、秀衡、泰衡で滅ぶ)と平泉文化隆盛の礎を築き上げた。
高橋克彦著「炎立つ」には、前九年の役・後三年の役が物語として描かれている。
安倍貞任安倍頼時:
生年月日不詳~1057年。俘囚(中央政権に帰属した蝦夷豪族)の長。
永承年間(1046~1052)の頃に奥六郡を支配し、前九年の役を起こして、鳥海柵で戦死した。
安倍貞任:
1019~1062年。安倍頼時の子。
頼時から奥六郡を引継ぎ、北上川流域を治める。前九年の役では、厨川柵で源頼義を破ったが、後の康平5年(1062年)に源氏と清原氏の連合軍に破れた。
亘理(藤原)経清:
生年月日不詳~1062年。下総国(千葉県北部)の出身といわれる。
平安中期、相模国田原に藤原秀郷(ひでさと)という武将がいて、領地名に由来して俵(田原)藤太(たわらのとうた)と呼ばれていた。後に下野(しもつけ)に勢力を伸ばし、平将門(たいらのまさかど)の乱に味方するよう請われたが、平貞盛(たいらのさだもり)に味方して将門を討ち、その功によって従四位下を与えられた。経清はこの秀郷の子孫と言われている。
中央政府の官僚として陸奥に派遣された経清は、仙台の南方の亘理(わたり)郡に所領を与えられて亘理権太夫(ごんのたいふ、行政長官)となり、中央政府派遣官吏を味方に引き入れ権力を磐石にしようとする安倍氏の誘いに応じて、安倍頼時の娘を娶って土着した。
前九年の役のはじめは源頼義軍(中央政府軍)として参戦したが、後に、官位を捨てて義父の安倍頼時軍の将として戦い、源頼義と清原武則の連合軍に破れて斬首された。
中央政府の官吏として参戦後に、寝返って源頼義に抗ったことを憎しとされ、斬首は、長時間の苦しみが伴うよう、鈍刀で行われたという。
藤原清衡:
1056~1128年。亘理(藤原)経清の子、奥州藤原氏初代。
父の亘理経清が前九年の役で敗れた後、母がその対戦相手であった清原武貞と再婚し、清原氏のもとで成長する。
後三年の役で、源義家に味方して勝利。
清原氏一族の滅亡後、奥六郡と出羽の支配権を掌握し、中尊寺を建立するなど平泉を拠点にした藤原氏隆盛に礎を築いた。
藤原氏3代藤原基衡:
生没年月日不詳。清衡の子、奥州藤原氏2代目。
毛越寺を建立し、丈六薬師如来像を京の仏師・運慶に造らせるなど、父の遺志を継いで仏教都市平泉の発展に努めた。
如来像が完成するまでの3年間に、膨大な奥州物産を送り続け、そのことが都の人々を驚嘆させたという。
藤原秀衡:
生年月日不詳~1187年。基衡の子、奥州藤原氏3代目。
無量光院を建立。
嘉応2年(1172年)に中央政府(朝廷)から奥州鎮守府将軍に任命され、奥州藤原氏の最盛期を迎えた。
当時の源氏と平家の戦いでは中立であったものの、源頼朝に追われた源義経を平泉に受け入れて源頼朝と対立したことが、藤原氏滅亡の端緒となった。
死に臨んで、泰衡、国衡、義経を枕頭に呼び、兄弟結束して源頼朝の来襲に備えるよう遺言した。
藤原泰衡:
1155~1189年。秀衡の子、奥州藤原氏4代目。
平家を滅亡させた後の奥州支配を目論む源氏の野心によって窮地に追い込まれ、父・秀衡の遺言に背いて源義経を急襲して自刃させた。
弟の忠衡をも滅ぼしたが、自らも源頼朝軍に攻められ、家臣によって殺された。泰衡をもって藤原氏は滅亡した。
「長秋期」と「古事談」
「長秋期」は平安貴族・源師時(みなもとのもろとき、1077~1136年)の日記。
師時は詩歌に優れて名声が高く、皇太后太夫を兼ねた権中納言となり、宮中や京の出来事や噂などを日記に残している。
この「長秋期」に、藤原初代・清衡の没後に跡目相続の争いがあったことが記されている。
清衡が没した大治3年(1128年)の翌大治4年8月に、「陸奥国の清平の二子が合戦を始めたので公事欠怠(くじけったい)多しという噂が京に伝わった」とある。清衡の子ども二人が争いをはじめたので、納税が滞ったというのだ。
二子とは「兄弟基平と惟常(これつね)」だとある。
翌大治5年6月にはさらに詳しい記述があり、「さきごろ、清衡長男の字名(あざな、通称)小館というものが、その弟で字名が御曹司というものに攻められて、小館は子どもと従者20余人とともに越後まで小船に乗って逃げたが、弟の御曹司は軍兵を送って陸路追撃し、捕らえて小館父子の首を切った」とある。
清衡には正妻との間に6男3女をもうけ、他にも男子を設けていた。
清衡が大治3年(1128年)に没すると子どもたち兄弟間に深刻な藤原2代目相続争いが生じた。
長秋期に記された御曹司とは文字通りであれば基衡(基平)と察しがつくが、小館が惟常と同一人物かは不明。正妻の子ではないと思われる。
内紛が収まって基衡が2代目として藤原氏相続権を固めるには10年を要している。
当時の説話を集めた「古事談」と「十訓抄」には、基衡が奥州藤原氏2代にふさわしい剛直な人物であるとの記述がある。
実際、清衡死後20年を経た久安4年(1148年)、関白忠実は子の頼長に奥州5ヶ所の荘園(山形県・宮城県内)を譲り、頼長は年貢の増徴を強硬に要求したが、基衡にとってみれば奥州藤原氏の威勢を誇示するに必要な財力を増やし続けなくてはならず、基衡は頼長の要求を再三に渡って拒否したあげく、基衡に有利に決着している。
毛越寺の造営に想像を絶する莫大な財力を注ぎ込み、さらに御室仁和寺に巨額の運動資金を渡して二階惣門に掲げる「額」を九条関白忠道に書かせ、また、毛越寺が「奥の夷、基衡というが寺」と知って、奥州を蔑視する忠道がその「額」を取り戻そうとしたことに対し、やはり、財力を駆使してこれを妨げようとした記述が「古事談」にある。
基衡のこの中央に抗する強硬・不遜ともいえる態度は、奥州で産出する金や物産をもってすれば京文化を超える平泉文化を創出できるだけでなく、時の最高権力者さえ動かすことができるという自負の表れと思える。
平泉文化
旧覆堂(鞘堂)松尾芭蕉の「奥の細道」によれば、元禄2年(1689年)、平泉一帯は「夏草や、つわものどもが夢の跡」と詠んだように、既に荒廃した有様であった。
「五月雨の、降り残してや光堂」の句からも窺えるように、中尊寺山上に金色堂(金色堂を保護する為に、金色堂全体を覆うように造られた建物=鞘堂、現在は覆堂という)が木立の中にぽつんと建っているだけで、伝えられている藤原氏が隆盛を極めた頃の平泉から既に500年以上が経過し、当時の壮大さ華麗さは窺うべくもなかった。
今となっては、「吾妻鏡」の記述によって当時の平泉を想像するしかない。
「吾妻鏡」は、平泉を占領した源頼朝が平泉を検分した時の問に対する答えとして記述されている。その記述には以下のように有る。
読むほどに、想像を絶する規模である。
関山中尊寺の事
寺塔四十餘宇、禅坊三百餘宇なり。
清衡、六郡を管領するの最初に、これを草創す。
先ず白河関より、外浜に至るまで、廿餘ヶ日の行程なり。
其路一町別に笠卒塔婆を立て、其面に金色の阿弥陀像を図絵し、当国の中心を計りて山の頂上に一基の塔を立つ。
又寺院の中央に多宝寺有り。釈迦多宝の像を左右に安置す。其中間に関路を開き、旅人往還の道と為す。
次に釈迦堂に、一百餘体の金容を安ず。即ち釈迦像なり。
次に両界堂両部の諸尊は、皆木造たり。皆金色なり。
次に二階大堂(大長寿院と号す。高さ五丈、本尊は三丈の金色の弥陀の像、脇士九体、同じく丈六なり)。
次に金色堂(上下の四壁、内殿皆金色なり。堂内に三檀を構ふ。悉く螺鈿なり。阿弥陀三尊、二天、六地蔵、定朝之を造る)鎮守は即ち南方に日吉社を崇敬し、北方に白山宮を勧請す。此外宗本の一切経蔵、内外陣の荘厳、数宇の楼閣、注進に遑(いとまあら)ず。……・
毛越寺の事
堂塔四十餘宇、禅坊五百餘宇なり。基衡之を建立す。
先ず金堂を円隆寺と号す。金銀を鏤(ちりば)め、紫檀赤木等を継ぎ、万宝を尽し、衆色を交ふ。
本仏は、薬師丈六、同十二神将(雲慶之を作る。仏并の像に、玉を以て眼を入るる事、此時始めて例となす)、講堂、常行堂、二階の惣門鐘楼、経蔵等之在り。……
中尊寺は清衡が後三年の役に勝ち残って、奥六郡を領有する始めに建立したとあり、寺域の中央に道を通したとあるから、中尊寺は駅路(うまやじ=宿駅)寺であったとみられる。
吾妻鏡の記述を裏付ける規模を示唆する遺構は未だ発見されてはいないが、想像を絶する栄華としか言いようがない。
毛越寺は現在、わずかに往時の痕跡を残しているが、これまた規模の大きいものであり、藤原氏3代、100年の平泉全体が、京の町そのものと平安文化の移築に努めた時代であったとさえ思われる。
鎌倉武士による支配
大和に朝廷が生まれて以来、その支配域の拡大をめざして東征は繰り返されてきた。
古の東北地方は中央政権の力の及ばぬ地域であって、蝦夷地と呼ばれていた。
平安時代に入って俘囚(ふしゅう)と呼ばれた東国人の中央政府への従属化が進んだものの、俘囚の長たちは地方の豪族として成長し、中には奥州平泉の藤原氏のように、京の都にも負けぬほどの絢爛たる文化の花を開かせるなどの強大な力を持つほどになっていた。
中央政府の実権と機能が京の朝廷から鎌倉幕府に移り、武士として初めて政治を行うことになった源頼朝が初めに目論んだことは、関東以北も完全に自己の支配下に置くことであった。
頼朝は、自身及び鎌倉幕府にとって、弟・源義経の戦闘力と人気が将来の障害となる危険性を危惧した。
頼朝が義経追討を命じたことは、覇権を確たるものにしたいと願うからには当然のことであったが、義経追討の本当狙いは、単に義経を排除することではなく、東北地方を完全に自分の支配下に置くことであった。
頼朝からの義経追討の命に、東北に覇を唱えるという頼朝の意図が見えたからこそ、藤原4代・泰衡は初めは抵抗を見せた。
泰衡の父・秀衡が没するにあたり泰衡に義経擁護を命じたのも、秀衡の義経贔屓というよりは、藤原氏が京の都に対抗して北の政治・文化の中心地とした衣川・平泉一帯以北を藤原氏支配のものとして守り抜くよう、子の泰衡に言い残したものである。
覇権北進とそれを迎え撃つ北の勢力の衝突が、源氏と藤原氏の戦いであったといえる。
頼朝が単に義経排除を意図していただけなら、泰衡が後に頼朝の圧迫に屈して義経を討った時に解決したはずである。義経の死と同時に、藤原氏の鎌倉への服従ということを意味したはずである。
が、頼朝は藤原氏の存続を許さなかった。
前九年の役、後三年の役で、中央政府は東北地方にその威信を示したはずであったが、その後の藤原氏は、前九年の役、後三年の役の成果を我がものとして源氏に付け入る隙を与えず、表向きは中央に従属を示しつつも、実際は、中央に対抗できるほどの力を保持し、事実上、東北の覇者となっていたからであった。
源氏にしてみれば、東北は頼義、義家以来、覇をなそうと意図した地であった。
頼朝にとって藤原氏は、従属させるだけでなく、父祖伝来の源氏の遺恨を晴らし、滅ぼしてしまわなければならない存在だった。
だからこそ、頼朝は義経の死後、自ら東北に兵を進め、自らの目で東北を見、多くの鎌倉御家人を地頭に配して新領土の統治にあたらせた。
平泉関連歴史年表
平安時代
1051年 前九年の役起こる。奥六郡支配は安倍氏から清原氏へ。
1083年 後三年の役起こる。
1089年 清衡、陸奥横領使(むつおうりょうし、地方豪族最高位)となる。
1095年 清衡、江刺から平泉に移る。
1105年 清衡、中尊寺造営に着手。
1124年 金色堂落成
1128年 清衡、73歳で没。1128年 基衡、陸奥横領使となる。
1155年 毛越寺金堂・円隆寺完成。基衡の妻、観自在王院建立。
1157年 基衡没す。西行、平泉を訪れる。
1170年 秀衡、鎮守府将軍となる。
1174年 源義経、鞍馬から平泉に入る。
1180年 源義経、平泉を出て鎌倉へ向かう。
1181年 秀衡、陸奥守となる。
1186年 西行、平泉を再訪。
1187年 源義経、再び平泉に入る。秀衡、66歳で没。
1189年 源義経、自害。藤原氏滅亡。
鎌倉時代
1126年 毛越寺金堂・円隆寺、消失。
1288年 中尊寺金色堂の保護のために鞘堂(覆堂)が設けられる。
1304年 中尊寺経蔵の修理。
南北朝時代
1337年 中尊寺、金色堂と経蔵の一部を残して、諸堂消失。
室町時代
1573年 毛越寺南大門と観自在王院、消失。
安土桃山時代>
1598年 豊臣秀吉、中尊寺から紺紙金銀字交書一切経を持ち出す。現、高野山金剛峯寺蔵。
江戸時代
1689年 松尾芭蕉、平泉を訪れる。
1732年 毛越寺に、現在の常行堂が建立される。
1849年 中尊寺の白山神社能舞台焼失。4年後、再建される。
昭和
1950年 中尊寺金色堂、藤原4代の遺体の学術調査。
1951年 中尊寺金色堂、国宝建造物第一号に指定される。
1962年 中尊寺金色堂、解体修理。
1972年 旧観自在王院、庭園の復元整備。