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義仲寺

2020.11.11 07:04

https://japanmystery.com/siga/gichuji.html 【義仲寺【ぎちゅうじ】】より

この寺はその名の通り、木曽義仲の慰霊のために庵が設けられたことから始まるとされる。

一旦は京都を占領して実権を握った木曽義仲であるが、源頼朝が派遣した源義経らの軍勢によって京都を追われ、本拠である木曽へ戻ろうとした矢先に、この寺の近くの粟津で討死する。それから年月を経て、ある尼僧が義仲の墓所のそばに庵を設けて、供養を続けた。人々はその見目麗しい容貌からその素姓を怪しんだが、尼は「我は名も無き女性」とのみ答えたという。しかしこの尼僧こそ、木曽義仲の愛妾であり、部将として粟津まで生死を共にした巴御前であった。そして尼僧の死後、この庵は無名庵、あるいは巴寺、木曽塚、木曽寺、義仲寺と呼ばれるようになった。

戦国時代には境内は荒廃したが、近江守護である佐々木氏(六角氏)によって再興。さらに時代が下って、貞享2年(1685年)にこの地を訪れたのが松尾芭蕉である。芭蕉はこの地をいたく気に入り、何度も足を運ぶことになる。そしてその死に際しての遺言「骸は木曽塚に送るべし」に従って、この義仲寺に葬られたのである。その後も幾度となく荒廃と再興を繰り返し、昭和42年(1967年)に国の史跡に指定され、現在に至る。

義仲寺の境内には、木曽義仲の墓と松尾芭蕉の墓が並んであり、また巴御前の墓とされる巴塚、同じく義仲の愛妾であった山吹御前の供養塚もある。こぢんまりとした境内であるが、木曽義仲と松尾芭蕉ゆかりのものが多数が置かれている。

<用語解説>

◆木曽義仲

1154-1184。河内源氏の一族。源頼朝とは従兄弟となる。木曽で育ち、反平家として挙兵すると、またたくうちに勝ち上がり京都を占領する。しかし京都での振る舞いが後白河法皇らの不興を買い、同族の源義経らによって追い落とされ、近江国粟津で討死する。

◆巴御前

生没年不詳。幼い頃から義仲に仕え、愛妾となる。部将としての活躍は『平家物語』や『源平盛衰記』のみであり、脚色された内容である確率が高い。義仲の死の直前に姿を消しているが、義仲が落ち延びさせたとされる。そのため合戦が終わった後も長らく生きており、生涯義仲の菩提を弔ったという伝説が残る。

◆松尾芭蕉

1644-1694。俳諧師。俳諧を芸術的な高みまで引き揚げ、確立させる。また全国各地を旅して、『奥の細道』などの紀行文を著す。なお義仲寺は訪れるだけでなく、句会も催している。


https://intojapanwaraku.com/culture/55224/  【芥川龍之介・松尾芭蕉も惚れた!平安時代の武将・木曾義仲の生涯と美学に迫る】 より

「彼は彼が熱望せる功名よりも、更に深く彼の臣下を愛せし也。」「三たび云ふ、彼は真に熱情の人也。」「彼は自由の寵児也。彼は情熱の愛児也。而して彼は革命の健児也。」

臣下を大事にし、情熱を持って革命を先導した男。歴史に詳しい人ならば、様々な偉人の名前が浮かぶはず。だが、なかなかこれだけでは誰だか絞れない。

「彼の三十一年の生涯は是の如くにして始めて光栄あり、意義あり、雄大あり、生命ありと云ふべし。」31年の生涯。これでかなり選択肢が限られるだろう。

そして、決定打となるのが、この有名な一節。

「彼の一生は失敗の一生也。彼の歴史は蹉跌(さてつ)の歴史也。彼の一代は薄幸の一代也。然れども彼の生涯は男らしき生涯也。」

「男らしき生涯」。これこそが今回のテーマである。

平安時代の末期、平家軍を撃破し、一時は無血入京まで果たした男、「木曽義仲(きそよしなか)」。旗揚げから3年半で天下人になるも、後白河法皇と対立し、最終的には源頼朝(みなもとのよりとも)の命を受けた鎌倉勢に討たれ、31歳の生涯を閉じる。

じつは、冒頭の文章は全て一人の作家・芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)が書いたもの。東京府立第三中学校の在学中に書いた論文から抜粋した。その名も『木曽義仲論』。この論文の特筆すべき点は、芥川の木曽義仲への愛が過剰すぎることだ。溢れんばかりの木曽義仲LOVEがひしひしと伝わる。そこまで芥川を熱狂させた「木曽義仲」とはどのような人物なのだろうか。今回は、木曽義仲の生涯、男を惚れさせる美学に迫る。

木曽義仲が天下人である理由

あまり知られていないが、平安時代末期から鎌倉時代への幕開けに繋がる「源平の戦い」は、三つ巴の戦いだ。源氏、平氏、そして源氏でありながら第三勢力となる木曽義仲である。じつは、木曽義仲は源義仲ともいう。源氏の一族なのだ。鎌倉幕府を開いたのは源頼朝(みなもとのよりとも)、その従兄弟(いとこ)にあたるのが木曽義仲だ。頼朝よりも、それ以前に平氏を撃破し、一時期は入京して、征夷大将軍にまでのぼりつめ天下人となった。まずは簡単にその生涯を追う。

埴生(はにゅう)護国八幡宮(富山県小矢部市)の源義仲像

木曽義仲の生い立ち

知られざる天下人、木曽義仲は埼玉県生まれ。源義賢(みなもとのよしかた)の二男として生を受けるも、義仲が2歳のときに父が殺される。父の義賢は、源頼朝(よりとも)、義経(よしつね)の父親である源義朝(よしとも)と兄弟である。源義朝の長男である義平(よしひら)に父を討たれ、自身も危うく捕えられるところを逃がしてもらい、木曽の豪族である中原兼遠(なかはらかねとお)に育てられる。そこで出会ったのが、家臣となる樋口次郎兼光(ひぐちじろうかねみつ)、今井四郎兼平(いまいしろうかねひら)、巴御前(ともえごぜん)らである。彼らは兼遠の子どもであり(巴御前は諸説あり)、今でいう幼馴染(おさななじみ)の間柄と考えられる。

『義仲公戦勝祈願図』埴生護国八幡宮保管 左手前が覚明(かくみょう)、右奥が義仲

火牛を使った倶利伽羅峠の戦い

京の都では平家が独裁政治を続け、「平家にあらずんば人であらず」と言わしめたほど。そんな中、平家追討との以仁王(もちひとのおう)の令旨(りょうじ)が発令され、木曽の山奥に住んでいた義仲も呼応。信濃の国(現在の長野県)にて27歳のときに挙兵する。順調に信濃国、上野国(現在の群馬県)に兵を進め、横田河原(現在の長野県長野市)にて平家の大軍を撃破し、越後(現在の新潟県)の国府に入る。

さて、義仲の名前が大きく世に出たのが、1183年の源平倶利伽羅合戦(げんぺいくりからかっせん)であろう。平清盛が死去し、後継者の平宗盛(むねもり)は、甥の維盛(これもり)を義仲討伐のため北陸へと進ませる。維盛率いる平家軍7万に対して、義仲は4万の兵での戦である。

源平倶利伽羅合戦の図

平家軍到着の前に、義仲は先に倶利伽羅峠の埴生庄(はにゅうのしょう、現在の富山県小矢部市)に到着。そこで源氏の氏神をまつる埴生八幡宮(はにゅうはちまんぐう)を見つけ、戦勝の祈願文を奉納する。なんでも、祈願文を読み終えたあと、三羽の白鳩が源氏の白旗の上に飛び降りたとか。

『源義仲 願文(木曽願書)』埴生護国八幡宮保管

兵力差はどうにもならない。特に、平野での戦いは兵の数が少ない義仲軍が不利だ。そこで、義仲は頭脳戦に出る。平家軍を倶利伽羅峠にとどめるため、源氏の白旗を山麓に立て、あたかも大軍と見せかける。これを見た平維盛は、倶利伽羅峠の猿ケ馬場(さるがばば)で停止。相対陣するも、その日は戦にならず夜を迎える。

じつは、義仲はこれを待っていた。進撃するのをあえて止め、夜の奇襲作戦を考えていたのだ。夜半まで待ち、警戒が解かれた状況で奇襲をかけ、さらに角に火のついた松明をつけた牛を放つ。これが「火牛の計(かぎゅうのけい)」である。

倶利伽羅峠にある火牛の像

混乱した平家軍は逃げ惑い、追い詰められて谷底へ落ちていく。30メートルもある谷が、平家の死体で積み重なり、流れる川は血や膿で染まったという。この谷を「地獄谷」、川を「膿川(うみがわ)」という。こうして木曽義仲は大勝利をおさめるのである。

入京から一転、討死まで

平家一門は都落ちをし、1183年7月に義仲は無血で京の都へと入る。後白河法皇より「朝日将軍」の称号を得るも、皇位継承問題で後白河法皇と対立することとなる。

源義仲像

朝廷より征夷大将軍に任命され、ついに武士の頂点までのぼりつめたのも一時のみ。天下人であったのはわずか数ヶ月であった。後白河法皇が源頼朝に義仲討伐の院宣を出し、義仲は逆賊として京から逃れる。近江(現在の滋賀県)まできた義仲は、巴御前を帰して、腹心の家臣でもあり友人でもあった兼平の元へ向かう。

義仲の死に様は壮絶だ。兵を減らしながら最後は兼平と二人。1184年1月、共に最後まで戦うと言い募るも、兼平に武将は最期が大事だと説得され、自害するため松原へ。しかし馬の脚が取られて身動きできない状態のところを狙われ、顔面に矢を受けて討死にする。主君を失った兼平は、何のために戦うのかと問い、太刀を口に入れて貫き自害する。

なお、巴御前は91歳まで生きたとされるも、諸説あり。日本各地に巴御前の墓がある。

あの松尾芭蕉が隣の墓に?

さて、木曽義仲の生きざまに惚れたのは、芥川龍之介だけではない。さらに惚れこみ過ぎて、木曽義仲の隣で眠りたい旨の遺言を残した御仁がいる。それが、かの有名な俳人、松尾芭蕉(まつおばしょう)だ。

福井県南越前町今庄には燧ヶ城(ひうちがじょう)跡がある。燧ヶ城は、かつて木曽義仲が築城させたもの。奥の細道の旅の終わりに、松尾芭蕉はこの越前にて木曽義仲を回想して句を詠んだ。

「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」 松尾芭蕉の句碑

倶利伽羅峠(くりからとうげ)にある芭蕉塚

また、木曽義仲の心を雪の中の春草に喩えて詠んだ句もある。

「木曽の情 雪や生えぬく 春の草」

実際に、松尾芭蕉の亡骸は、門人たちに大阪から滋賀まで舟で運ばれ、木曽義仲が眠る「義仲寺(ぎちゅうじ)」(滋賀県大津市)の墓の隣で眠っている。

木曽義仲は、本当はいい男?

こんなにも文豪たちの熱烈な惚れっぷりであるにもかかわらず、大抵は、木曽義仲についてあまりいい印象を持っていない人が多いのではないだろうか。かくいう私もその一人。京都人だからというわけではないが、義仲に関しては「乱暴狼藉者」「礼儀作法を知らない田舎者」「平家よりもひどい」などの記述を教科書などで見た記憶がある。

源義仲像

事実、義仲が入京した際に、今日の都にて武士の略奪行為はあったという。しかし、略奪を行った者の首を刎ね、かような行為は禁止したとも記録に残っている。

じつは、戦いを避け、義に厚い人柄も読み取れる。

頼朝とも同じ源氏同士ということもあり、戦いを避けたとされる。頼朝からかくまっている叔父を引き出せと迫られた際も、自分の子どもを手元に置いて叔父を引き渡すことなどできないと、自分の長子である義高を人質に出す。前述した埴生八幡宮への願文では、「一身、一家のためではない」として、国のために戦うことを宣言している。こうみると、木曽義仲像が段々と形を変えてくる。信義に厚い情の深い人間像が浮かび上がる。

北陸地方では今も昔も、木曽義仲は英雄だ。あの平家の時代を終わらせた人物。倶利伽羅合戦にて大勝利をおさめた人物。地元の埴生護国八幡宮では、「勝つ」という部分をフォーカスした御守があるほどだ。

木曽義仲にちなんだ埴生護国八幡宮の「勝守」

これまでの木曽義仲の不当な評価を覆そうという動きもある。作家の松本利昭氏など、義仲の名誉を復権する活動を続けている団体もある。

木曽義仲の名誉の復権を願う人たち

新しい木曽義仲像を模索する劇作家、江嵜大兄氏

これまでの木曽義仲像に、また新たな一面を見出した人物もいる。

「平家物語の義仲の最期を読んで、ぐっと心にきた。ずっと追いかけてきたんです。木曽義仲を」

劇作家、演出家で、現在はテレビアニメのシナリオなども手掛け、多方面で活躍する江嵜大兄(えざきおひね)氏だ。戦のド素人だった男が、たった4年で天下を取りに行く。この間に何があったのかが知りたかったという。

(略)