芭蕉晩年の「軽み」とは
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【芭蕉晩年の「軽み」とは】 より
芭蕉晩年の「軽み」とは何か。
それを明らかにするには、「軽み」前夜の『おくのほそ道』で芭蕉が何に到達し、何を不足とし、そして、何をよしとしたのかを見る必要がある。
元禄2年、芭蕉は3月から8月の5ヶ月間、『おくのほそ道』の旅に出る。
『おくのほそ道』は、この旅のあとに書かれた。最初から刊行されたわけではなく、書いたものを何度も直していたと言われる。実際の刊行は、元禄15年である。芭蕉は元禄7年に没しているから、没した8年後に刊行されたことになる。刊行されたものは、芭蕉の遺言により去来に贈られた最終稿であった*1。
*1 長谷川櫂『「奥の細道」を読む』ちくま新書,2007.p.237
長谷川(2007)、尾形(1997)が言うように、「古池や~」の発句で蕉風開眼した芭蕉は、この『おくのほそ道』後に、「軽み」への志向を見せる。
蕉風開眼とは何だったか。長谷川の言葉で言えば、五七五の発句の中で、「現実」の中に「心の世界を開いた」ということになる。
この長谷川説は、「現実」と「心の世界」の定義が不明で、定義の補強が必要であるが、それは別の機会にするとして、次のような発句において一つのピークを迎える。
夏草や 兵どもが 夢の跡
閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声
「夏草や」の句で言えば、芭蕉の眼前にある平泉の「夏草」という現実を目の前にし、「兵どもが夢の跡」という心の世界を開いている、ということになる。
現在の私たちからすれば、現実と心の世界の組み合わせは、当たり前のことかと思う。
しかし、芭蕉以前の貞門、談林の俳諧が、「形式的拘束の中をすりぬけつつ知的な言語遊戯をもてあそぶ*1」ものであったり、その反逆としての「自由と即興にもとづく朗笑のみ*2」のものであったという江戸初期の状況を考えると、決して当たり前ではなかった。要は言葉の遊びであった。
言葉の遊びであれば、いつかは飽きられる。『おくのほそ道』の旅の元禄年間前の10年間では、壊滅的な発行部数「一部」のみという最低線に達する。「『おくのほそ道』への旅は、ちょうどその俳壇ナベ底時代のどん底から、元禄の神武景気時代へと移り変わろうとする交替期」に行われたのだった*3。
*1 尾形仂『座の文学』講談社学術文庫,1997.p.84
*2 同 p.86.
*3 同 pp.127-128.
別に述べるが、俳諧連歌の師である芭蕉が、なぜ紀行文というスタイルをとったかというと、それは「現実」と「心の世界」の区別を見えるようにフレームワークをしてみせたためであろうと私は考えている。
発句だけでは、「現実」と「心の世界」の区別は不可能である。地の文があるからこそ、発句で芭蕉が何を目の前にしたかの「現実」が確定する。そして、「現実」とは別の、文脈にはなかった突然出てきた言葉が「心の世界」の言葉だと分かる。
芭蕉は、俳諧連歌、蕉門一門の師である。発句の中に「現実」と「心の世界」の区別をつけるには、一つは長谷川が言うように「切れ字」が必要だったろう。しかし、それだけでなく、地の文を付けることで、師匠である芭蕉が何を現実とし、何を心の世界としたのかを分かるようにしたということであったのではないか、蕉門のテキストとしてもあったのではないかつまり、蕉門開眼、言ってみれば「芭蕉式五七五」とも言うべき発句創作のフレームワークをして見せたと私は考えている。
その典型的なモデルが、上記の2句であり、一つの到達点であった。
そこで、長谷川や尾形は、この「おくのほそ道」後、芭蕉は「軽み」への志向を見せる、としている。
芭蕉の言う「軽み」とは何か。
到達点は分かった。
次に何を不足とし、何をよしとしたのか。尾形(1997)の論に沿って示す。
『おくのほそ道』の旅後、元禄3、4年頃、同行者だった弟子の曾良が芭蕉に当てた書簡の中で「念入病」、「重く」という言葉を使って、師匠の発句を批評している。
『おくのほそ道』の同行者であった曾良の「念入病」、「重く」という言葉は、師弟の間での共通話題だったといえる*1。
芭蕉は、自分の句の何が不足だったのか。それは、発句が重いつまり、何らかの主題を伝えようとしていて、その結果、ごてごてした感じになることだった。
尾形は「何らかの主題」を「観相」と言う。
■ 一方で自然の景趣を取り上げ、一方でそれに何らかの観相をからませるとなると、どうしてもその自然把握は純粋性を欠き、表現は混濁したものとなりやすい。(pp.151-152)
例えば、「夏草や兵どもが夢の跡」もまた、「人間の法則、運命」などを伝えようとしている、「自然をもって人生を象徴する技法」は一つの達成であるとともに、重さがあるのである*2。こういう自分の句の重さを芭蕉は自戒を込めて「古び」*3と言う。
「世間ともに古び候により、少々愚案工夫これあり候ひて、心を尽くし申し候。」(元禄3年)
「三年前の風雅、ただ今出し候はんは、跡矢射るごとくなる無念のみに候。」(元禄3年)
芭蕉自身も、弟子の句を次のように直す。
(×) がつくりと身の秋や歯の抜けし跡
(○) がつくりと抜け初むる歯や秋の風
(×)の句は自分の衰えという人生に対する「観相」を示そうとしている*4。それが重いのである。
そういう重さは、そう思う読者には切実でも、一方で、切実には思わない読者への押しつけになる。もっと広く、様々な読者に受け取ってもらえる表現は(○)だということになろう。
芭蕉は、『おくのほそ道』を通して、単なる言葉遊びではなく、歌枕巡礼による風雅の先達との邂逅を試みた。伝統を踏まえ、新しい句を創造するスタイルを示した。
そして伝統を踏まえるが故に、「心の世界」に、伝統が持つ「観相」が入り込まずにはいられなかったのであろう。
■ 芭蕉が当時、「古び」と感じたのは、一句の中に観相(花鳥風月に託して人生・世相に対する観念を述べること)を持ち込み、それを趣向の中心に据えようとすることによって、感情の素直な流露を妨げ、表現の上に「重み」(晦渋・渋滞の感)を生じている点をさした (p.143)
「観相」のもつ重さこそが、芭蕉が自分の句にもった不足だった。
*1 尾形仂『座の文学』講談社学術文庫,1997.pp145-146.
*2 同 p.151.
*3 同 p.138.
*4 同 pp.142-143.
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6372826/ 【「軽み」 高く心を悟りて俗に帰るべし】
https://tsukinami.exblog.jp/13060366/ 【不易流行から軽みへ】
後世「俳聖」と称えられる松尾宗房は、伊賀上野に生まれ育ちました。生家は武士と農民との中間的な階層だったと推定されています。少年時代から武家奉公し、そこで俳諧の道に踏み入りました。当時の俳諧は、上品なおかしみを尊ぶ貞門が主流でした。
三十歳を目前にした宗房青年は、身を立てるため単身江戸へ出ます。まもなく俳号を桃青とあらため、人の意表をつく新しい滑稽である談林の俳諧宗匠として立机しました。三十七歳の冬には、日本橋小田原町を離れて隅田川の川向こうである深川に隠棲し、芭蕉庵を名乗ります。
この頃、人生の転機を迎えたと感じたものか、蕉門俳諧の確立を志して禅宗を学び、中国古典文学の教養を深めようともしました。その後、風狂の道を極めたいとの思いを強くした芭蕉は、歌枕名所旧跡を訪ね歩き、漂泊の旅を重ねます。
四十六歳で奥羽北陸の旅(『奥のほそ道』紀行)から帰ると、「不易流行」の説を唱え始めます。晩年に近づき枯れゆく俳聖の俳諧論は、どのようなものだったか。井本農一著『芭蕉入門』から引用します。
俳諧はもとより、すべて芸術の根本には、時代を越え、流派を越え、また芸術の種類を越えて、ある変わらない、一貫したものがある。それは芸術や文学や俳諧の本質的なものだと申してもよろしいでしょう。それが不易です。
しかし、個々の作品が優れた作品であるためには、常に独創的でなければならないのは当然です。時代とともに動き、新しみを求めなければなりません。それが「流行」の意味でしょう。
ただ新しみを求めよ、新しみを責めよといっても、どんな新しみを責めるのかを門人たちは芭蕉に尋ねたことでしょう。芭蕉の答は「軽み」でした。
「軽(かる)み」の反対は「重み」です。芭蕉は重くない句を作ることを具体的には主張しています。重い句というのは、第一には観念的な句です。理屈の句です。第二には、風流ぶった句です。わざとらしい風流の句です。第三には故事や古典によりかかった句です。
具体的で、即物的で、日常的でありながら、底のほうから作者の心情が僅かに滲み出ています。これが軽みです。
芭蕉もかつては、日常性の持つ卑俗さに抵抗するために、わざと非日常的な素材や表現をとったことがありますが、そういう仕方ではなく、日常性に即しながら、日常をのり越えようと考えるようになったのが、軽みの主張だろうと思います。