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狼の夢の中にも星流れ

2020.11.12 13:01

坊城俊樹・句集『壱』朔出版

読初の夜は彗星を栞とし  坊城俊樹

狼の夢の中にも星流れ  同

蕉翁の蛙も亀も鳴いてをり  同

喧嘩して違ふ夕焼見て帰る  同


生まれた日と書いて星という!!

Facebook・清水 友邦さん投稿記事「誰もが本来悟っている」

比叡山天台宗には誰もが本来悟っているという本覚思想がありました。本覚(ほんがく)というのは本(もと)から覚っているという意味です。人々は生まれながら永遠の存在である仏と同じ本覚を持っています。

しかし本当は悟っていても煩悩に覆われてしまい、それがわからなくなってしまっていることを不覚といいます。

そこで次第に煩悩を取り除いて悟りに到達する事を始覚と言いました。

本覚はありのままの現実がそのまま悟りの現れであり、それとは別にもとめる悟りはないという考えです。

ですから悟りを求めて修行する必要はなく、修行によって悟りを開くことは非常に低次元のことで始覚門とよばれました。

すでに悟っているので修行は不要と思ってしまうと、向上心は薄れ、安易な現状肯定になってしまいます。

いつのまにか、そのままで現実に悟りを開いているということになってしまいました。

中世の時代は僧兵が幅を利かせ武力による権力闘争を繰り返していました。

僧兵のいいぶんはこうでした。

「もともと罪などというものはない、罪があると思うのは妄想である。

自分の心はもともと清いので仏である。」と僧侶はうそぶいて欲望のままに乱暴狼藉の数々を働いたのです。

比叡山に天台宗を開いた最澄と論争(817年から821年頃)した徳一という僧侶がいました。

徳一は仏性をもたない人がたくさんいるので全ての人が仏になれるのはおかしいといいました。

仏性をもっているのは一部の人で、その仏性をもっている人でさえも難行、苦行した末にやっと仏になれると言ったのです。

徳一は南都六宗(奈良仏教)の立場の人でした。

華厳経には52もの修行の段階が示されていて、十信・十住・十行・十回向という四十もの段階を経て始めて最後の菩薩道に入る事ができるとされています。

その50段目の十段階を「十地」と呼んでいます。

その「十地」の最初の一番下の段階、歓喜地に達したのは中観のナーガジュルナ(龍樹)と唯識のアサンガ(無著) のたったの二人しかいないとされています。

菩薩の最高位になる51段目の「等覚」に達するまで「十地」があと九つの段階があるのです。

そして最後の52段目の「仏覚(ぶっかく)」に達したのは地球上ではお釈迦様しかいないとされています。

つまり一般大衆が最高の悟りを得ることはほとんど不可能な事なのです。

比叡山天台宗には千日回峰行という難行苦行があります。

百日回峰を終えて特別に選ばれた行者が最初の3年は一日30キロを200日歩いて260箇所の拝所を回峰します。

それをさらに5年間、通算700日続けた後に比叡山の明王堂で9日間の断食。

その間、不眠不臥で不断なく不動明王の真言を10万回となえるのです。

6年目は赤山明神にお参りする百日荒行、1日60キロ回峰してこれで800日。

7年目は一日84キロ京都市内を巡礼します。

最後は最初の1日30キロの行程を百日回峰して終わります。

本来悟っているので修行する必要がないといっている天台宗が実は全仏教の中で最も厳しい修行をしているのです。

千日回峰のような修行をしなければ悟れないとするなら、修行する時間も体力が無い一般大衆に悟りは到底無理な話です。

そして悟れなければ、衆生はいつまでも永遠に苦しまなくてはならないのです。

本覚思想が発展する前には悟りを得るのは難しく限られた特別の人だけだとする考えがありました。

悟りを開いていない衆生つまり、私たち一般社会人は世俗の仕事に忙しく、修行を続けても、いったい、いつになったら悟りが開けるのか判りません。

その点、もともと誰でも仏性が内在しているのであれば

それを表に出せばよいので希望があり、修行の励みになります。

それが中国から日本に伝わる間にいつのまにか仏性が全面に出て来て、

すでに悟っているのだから修行は不要の本覚になってしまったのです。

当然、極端に展開した本覚思想は批判されることになりました。

言葉だけによる教えの危険性がここにあります。

月を示す指は方便であって月ではありません。

究極の立場では真実でも、

探求者にとっては「あなたは悟っている」は方便でしかないからです。

それは薬と同じで適切に使用すれば病が癒されますが

使用を誤ると毒になってしまうのです。

探求の道では真実を求める欲望だけが唯一正しい欲望として奨励されます。

修行して、さまざまな瞑想体験を積み重ねて、

もうそれ以上何処にも行かない地点まで達した時、

何をやっても行きづまってしまった時、

努力そのものが障害になっていることに気がつきます。

そのときにはじめて努力を落とすことができます。

最初から努力を放棄したならば、

それはただの現状維持になってしまい病は癒えないでしょう。

「私は悟っている」「私は完璧だよ」「私は大丈夫」と唱えて、自分に言い聞かせても、

無意識の中に未完了の否定的なトラウマがあれば、

その人は巻き込まれて簡単に暗黒の世界に落ち込んで苦しみます。

マインドの自己納得の餌食になってエゴだけが太ってしまうわけです。

あらゆる精神的な道は薬のように、

あるときは正しく使うと病を癒し、

間違うと悪化してしまうので相対的です。

そして健康な人に薬は不要です。

最澄も徳一のどちらも正しくて間違っているのでした。

究極において全ての人は死ぬこともなく生まれることもありません。

そして物質世界では悟っている高僧も凡夫(煩悩と迷いの中で生きている衆生)も平等に必ず死亡します。

延暦寺で本覚思想を学んだ鎌倉仏教の祖師たちは比叡山から出て独自の道を歩みました。