The Closet of my Life 「ファッキング、イスラエル!!」
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私の心のクローゼットにしまっていたような、小さなお話。
第3話 I don't know...(エジプト、ダハブにて)
「どこの国にも、良い人もいれば、悪い人もいるよ」
エジプトには良い人が多いね、と言う私にムスタファはそう答えた。
ムスタファはジュースショップの店員さんで、ダハブに着いて最初の日に知り合った。
ダハブに着いた日の夜、私は街の中心地で軽く食事をしたあと、
ホテルに戻ろうとしたのだけれど、タクシー乗り場がどこか分からず困っていた。
その時いたお店の人に聞いてみたのだけれど、その人もよく分からないらしく、
こいつなら知ってるかもと、そのお店の人がどこかから連れてきたのがムスタファだった。
ムスタファは、きょとんとした顔で、ああ、その場所なら案内できるよ、と言い、
別のお店で仕事中だったにも関わらず、まるでそんなこと当たり前みたいに、
わざわざ私を少し距離のある乗り場まで連れて行ってくれた。
そんなことから仲良くなって、彼のお店の前を通るときは、
いつも必ず挨拶をするか、少しだけ立ち話をしていた。
すらっと背が高くて、きれいな目をした20代の青年で、
日本の多くの若者と比べると、とても素朴な性格をしていた。
「小さいころから働いてるけど、僕は働くことが好きなんだ」とか、
「つらいこともあったけど、僕は神さまに感謝しているんだよ、本当に」
とかそういうことを、ぽつりぽつりと話す青年だった。
私は、よく知らない人と世間話をするのが、あまり好きではないけれど、
彼がまとう空気感は、どこか子供みたいに純粋で、彼と話す時間が私は好きだった。
「あなたは、どこか他の国に旅行したことある?例えば、隣の国のイスラエルとか」
ある日、私は何気なく聞いた。
するとムスタファは、「イスラエル?僕がイスラエルに行ったら、逮捕されるよ」
と少し意外なことを聞かれたみたいに目を丸くした。
(後で調べたら、そのような「法的な」事実はなかった。
けれど彼は、エジプト人がイスラエルに行ったら逮捕されると、本気で信じているようだった。)
ムスタファによると、エジプトとイスラエルはあまり「仲が良くない」らしい。
私は、きっと中東戦争をしていたことや、その時の政治的なしこりが、
まだ残っているんだろうな、と思いながら彼の話を聞いていた。
「ダハブにもイスラエル人が来ることがあるよ。
その時に僕は、肌の色が白いし、顔もあまりエジプト人っぽくないから、イスラエル人と間違われることがあるんだ。
君はイスラエル人みたいだね、なんて言われてさ。
その時は何も言わないよ、だけどね…」
ムスタファは一呼吸置いてから、強い口調でこう言った。
「ファッキング、イスラエル!!僕はイスラエル人が大っ嫌いだ!!」
私は彼の発言にとても驚いた。
ムスタファは、いつもとても優しく温厚な青年で、普段ならそんな言葉遣いを絶対にしないからだ。
それに、エジプトにそういうことを言う人がいるとは聞いていたけれど、
まさかそんな言葉を、よりにもよってこの青年から聞くとは思わなかったのだ。
けれど、彼の発する「ファッキング、イスラエル!!」という言葉の音からは、
不思議と、怒りや憎しみのようなものが、あまり感じられず、
だから私は、彼自身、口ではそう言っているけれど、本当に心の底から、
イスラエルのことが嫌いなのだろうか、と疑問に思った。
周りの影響で、嫌いだと思い込んでいるだけなのでは?
その疑問を口にする代わりに、私はとても素朴な疑問を投げかけることにした。
「ねえ、だけどあなたはさっき、世界には、良い人もいれば悪い人もいるって言ったでしょ。
それと同じように、イスラエルにだって悪い人だけじゃなく、良い人もいると思わない?」
彼はしばらく考えたあとに、少し困った顔でこう答えた。
I don’t know......
I really don’t know…..
嘘のない、まっすぐな言葉の音がした。
そしてそれと同時に、私は世界が仲良くならない原因は、これなのではないかと思った。
意見の違いでも、宗教の違いでも、肌の色の違いでもなんでもなく、
ただ相手のことや、真実をよく知らないだけなのではないかと思った。
I don’t know…..
ムスタファと別れたあと、私はイスラエルの人たちに思いを馳せていた。
ムスタファに「ファッキング、イスラエル!!」と言われた、名前も知らない人たちに。
隣の国のイスラエルにもきっと、ムスタファのように、
美しい目をした、心の優しい青年はいるだろう。
その青年もまた「ファッキング、エジプシャン!!」と言っているのだろうか。
そう言って、エジプトに向かって、中指を立てているのだろうか。
そう考えると、何だか少し悲しくなった。
私の大好きなムスタファに、中指が立てられているような感じがして。
そしてまた、ムスタファのような、
私がきっと好きになるはずの、美しい目をしたイスラエルの青年や少女たちにも、
この美しい目をしたエジプトの青年から、中指が立てられていることに対して。
I don't know...
ムスタファの言葉が、いつまでもこだましていた。