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大谷石は歌枕にはない?

2020.11.13 04:41

https://ameblo.jp/seijihys/entry-12588660556.html 【「おくのほそ道」をいろいろ考える~芭蕉はなぜ青森へ行かなかったのか?】 より

「おくのほそ道」で松尾芭蕉が訪れた土地の中で、太平洋側のもっとも北方が岩手県平泉で、日本海側のもっとも北方が秋田県象潟である。

青森県は訪れていない。芭蕉はなぜ青森へ行かなかったのだろうか。

僕は、

1)青森は「歌枕」の地が少なかったから

2)山形尾花沢の清風を訪ねたり、出羽三山に登る予定があり、青森まで足を伸ばすとかなり遅くなってしまうから。

と考えていた。

まず1)。「歌枕」がないわけではないが、かなり少ない。

東北の有名な「歌枕」をあげてみる。

【青森】 外ヶ浜 、津軽  

【岩手】 岩手山、岩手の関 、北上川 、栗駒山 、衣川、束稲山、中尊寺

【宮城』 姉歯の松、雄島、緒絶の橋、笠島、狭布、金華山、塩竃、末の松山、武隈 、壺の碑、十符、名取川、野田の玉川、松島、宮城野  

【秋田】 象潟

【山形】 阿古屋の松、浮島、有耶無耶の関、月山、袖の浦、羽黒山、最上川、立石寺、湯殿山

【福島】 会津嶺(磐梯山) 、会津若松、安積、安達太良、安達が原、阿武隈川、葛の松原、信夫、白河の関、伊達の大木戸、十綱の橋、勿来の関、真野の萱原

河合曽良「随行日記」を読めばわかるが、芭蕉は青森以外の、これらの歌枕のほとんどを見て回っている。

「おくのほそ道」はやはりみちのくの歌枕を巡る旅であった、ということがわかる。

で、青森を見てみると、確かに少ない。(まあ、秋田も少ないが…。)

おそらく、平安時代、朝廷の勢力が及んだのが岩手くらいまでなので、青森の情報は都にそんなに入ってこなかったからだろう。坂上田村麻呂も岩手で引き返している。

次に2)。

「津軽」「外ヶ浜」は青森県西部だから、岩手県最南部と言っていい平泉から歩いたら相当な距離がある。

また「津軽」「外ヶ浜」を巡り、そのあと南下し、秋田の「象潟」、山形の「酒田」へ出て、そこから「尾花沢」の清風のところへ向かうとしたら、内陸部へ入っていかなければならない。

そして、また酒田に戻ってくるわけで、相当歩行距離が伸びることになる。

そういうこともあるのではないか…と考えていた。

が、今日はもう一つの説があることがわかった。

『「おくのほそ道」を科学する」(著・蟹澤聰史)に書かれていたものだが、

3)曽良が嫌がったというのである。

「おくのほそ道」の旅を終えた芭蕉は、滋賀県大津市の幻住庵で暮らし、「幻住庵記」を書いている。

そこに、こういう記述がある。

猶(なお)うとふ啼(なく)そとの浜辺(はまべ)より、ゑぞが千(ち)しまをみやらむまでと、しきりにおもひ立(たち)侍(はべ)るを、同行(どうぎょう)曽良(そら)何(なに)がしといふもの、多病(たびょう)いぶかしなど袖(そで)をひかゆるに心(こころ)たゆみて、きさがたといふ処(ところ)より越路(こしじ)におもむく

【意訳】

さらに善知鳥(うとう)という鳥が鳴くという津軽の外ヶ浜に行き、そこから蝦夷の千島なども見たいとしきりに思ったが、同行した曽良というものが病気がちで、袖を引いてしきりに止める為、あきらめて象潟から越後へと向かった。

これを読むと、岩手の「平泉」からではなく、秋田の「象潟」から北上し、青森へ向かおうとしたが、曽良がしきりに止めたのであきらめた…と書いている。

これまでのハードスケジュールが祟ったのか、曽良も芭蕉も象潟の後くらいから体調を崩し始めている。

私も実際、「おくのほそ道」を歩いているが、松島を出てからの芭蕉の「歩み」はかなり過酷だ。

宮城石巻、岩手平泉、尿前の関に行き、風雨で足止めされるまで、一日も休まず、長い時は50キロ近く、短い時でも30キロを歩き続けている。

その後には出羽三山にも登っている。

これは絶対、体調を壊す。しかし、若干の疑問もある。

ここに出て来る「千島」とは今の千島列島のことだろうか?

そうだとしたら、芭蕉は青森から舟で北海道へと渡り、北海道の東端まで行こうとしていた、ということになる。ホントかな~、という気もする。もうそうなると旅というより探検に近い。これはちょっと芭蕉が思いついた程度のものではないか。

また、弟子である曽良が、師である芭蕉の意志をそんなに邪険に扱うだろうか…というのもある。よほど体調が悪かったということも考えられるが…。

また、そのような記述は曽良の随行日記には一切書かれていない。

書いていなければ、そういうことはなかった、とは言えないが、貴重面な曽良ならきっとそういうやり取りは書き残してあるように思う。


http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/utamaku/simotu_u.html 【下野国の主な歌枕(五十音順)】 より

黒髪山 日光の男体(なんたい)山。山岳宗教の霊地。

ふりにける身をこそよそにいとふとも黒髪山も雪を待つらん(道興)

標茅(しめぢ)が原 栃木市の北、伊吹山の裾野。戦場が原の異称とする説もある。

猶たのめしめぢが原のさしも草我が世の中にあらむかぎりは(清水観音「新古今」)

那須 那須郡那須町。古くは下野国北東部の原野一帯を言った。

もののふの矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原(源実朝)

室(むろ)の八島 栃木市惣社。大神神社境内に八つの島のある池がある。

いかでかは思ひありとも知らすべき室の八島の煙けぶりならでは(藤原実方「詞花集」)

いかにせん室の八島に宿もがな恋の煙を空にまがへん(藤原俊成「千載集」)

遊行柳(ゆぎやうやなぎ) 那須郡那須町芦野。下記西行の歌の故地とされる。

道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ(西行「新古今集」)

田一枚植えて立ち去る柳かな(芭蕉「奥の細道」)