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芭蕉の心を捉えた人・西行と共に歌枕の地探訪

2020.11.13 06:44

http://senbonzakura.skr.jp/05hosomichi/00japan/001hosomichi/03saigyo/saigyo1.html 【芭蕉の心を捉えた人・西行と共に歌枕の地探訪 その1】 より

西行は1190年旧暦2月16日、満月の夜の今は盛りと咲く桜の下で73歳の生涯を終えた。  

西行こと佐藤義清(1118年生)は23歳の時、鳥羽上皇の院を守る北面の武士を捨て出家している。その理由は幾つか有るようだが失恋が原因だと言う説が有ります。

 西行の歌は、恋と月とそして桜が多いといわれています。

そのうち恋の歌は若い時に歌われたものとすると、恋に憧れる青年・西行が失恋で出家したというのも頷ける。

旅の歌人、花の歌人とも言われる西行。彼ほど桜の花を生涯うたい続けた歌人はいないようです。

現在知られている2000首余りの作品中、最も多いのが桜の花と言われ、桜へかけた情熱は凄いものがある。

西行の歌は、自分の心の赴くまま技巧を使わないために分りやすいのが特徴で、解説がなくてもその歌の情景が素直に伝わって来るのが魅力と言える。

西行が初めて陸奥へ旅したのは、1143年の26歳の時ではないかと言われている。

その目的は、100年以上も前に陸奥の歌枕の旅をした能因(のういん)法師の足跡を慕い訪問することだった。

都を旅立ったのは春頃と思われ、白河の関に到着したのは秋であった。能因が  

 都をば霞とともに立ちしかど   秋風ぞ吹く白河の関 と歌ったのに、

 白川の関屋を月の漏る影は   人の心を留むるなりけり と添えている。

 みちのくの入口、歌枕の地・白河の関。

宮城県岩沼市の竹駒神社の近くに『武隈の松・二木の松』が有り、芭蕉は5代目の松を鑑賞したようです。なお、現在の松は7代目だそうです。 

能因と、西行の訪問した時は現存しておらず、能因が  武隈の松はこのたび跡もなし と歌い、西行も 枯れにける松なき宿の武隈はみきと云いてもかひなからまし と歌った。 (能因が残念がっていた二木の松を見たいといっても、とうに松の幹は枯れていた)

宮城県名取市の、仙台に向かう旧道(県道39号線)沿いに『実方の墓』が有ります。

かの『光源氏』のモデルとも言われる左近衛中将藤原実方は、宮中で自分の歌を馬鹿にした藤原行成の冠をいきなり叩き落した。運悪くこれを一条天皇に見られてしまい『歌枕、見てまいれ!』と陸奥守に左遷されてしまった。

この近くの笠島道祖神の前を乗馬したまま通り、神罰で落馬して死んだと伝えられている。

農家の脇道を少し入った所に『実方の墓』とされている所があります。 

西行は偶然この塚に来て、あの実方の墓と知り

 朽ちもせぬその名ばかりを留めおきて 枯れ野のすすきかたみにぞ見る

(世に名高い実方の墓には、この地特有の「片身のススキ=形見の」がススキだけが供えられている)と歌う。『壷の碑(つぼのいしぶみ)』

芭蕉が来たときは苔むして読めなかったと言っている。西行が訪ねたときには、地中の中に眠っていて実物には出会っていない。掘り起こされたのは江戸時代初期でそれまで所在が不明となっていたが歌枕だけは生きていた。

ここで、西行は 陸奥の奥ゆかしくぞ おもほゆる 壷の碑そとの浜風

(みちのくにはその奥をもっと知りたいものが一杯有る。壷の碑やら外の浜風やら)

多賀城(宮城県多賀城市)は、西の大宰府と並び「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれ陸奥の国府として724年に築かれた。

おもわくの橋

「前九年の役」で、東北一帯を支配していた安倍氏は滅亡するが、その主人公安倍貞任はこの地の豪族の娘・おもわくと恋に落ちた。

多賀城から塩釜に向かう古道が「野田の玉川」に架かっていた橋の袂で逢瀬を楽しんだという。昔は木橋で、頼りなかったようです。

 踏まま憂きもみじの錦散り敷きて    人もかよわぬおもわくの橋

( 踏むのがはばかれるように紅葉が散り敷かれた おもわくの橋は、誰も渡らない)

末の松山

昔、多賀城のこの一帯は大変栄えていたが「猩々」の血が高く売れることを知った飲み屋の女将が通って来る猩々を殺そうと企む。これを知った店の下女が可哀想に思い猩々にそのことを教える。猩々は「もし、自分が殺され空が黒くなったら末の松山逃げなさい」と教える。その3日後、東の空が真っ黒になったので一目散に逃げた。町は大津波に襲われ壊滅してしまったがその下女は無事に助かり尼さんになって人々の菩提を弔ったという。

 末の松山は、決して波がこの山は越えられない事から、あってはいけない、心変わりをしないと言う誓いを詠む歌枕になった。 

多賀城市八幡の宝国寺裏の丘に立つ松の巨木は、樹齢450年といわれています。


http://senbonzakura.skr.jp/05hosomichi/00japan/001hosomichi/03saigyo/saigyo2.html

【芭蕉の心を捉えた人・西行と共に歌枕の地探訪 その2】より

 東北最大の『塩竈神社』。  ここに咲く八重の塩釜桜は天然記念物となっています。

塩竈を歌いこんだ歌は多数あるようです。

 平安時代の貴族・源融(みなみとのとおる:嵯峨天皇の皇子)は、按察使(あぜち:地方官の監督し民情を視察する)となって東北地方を巡回した。その時、塩竈の地が多いに気に入り、都に帰って別荘(に京都六条河原町)に塩竈を模した庭園を造った。それは壮大で、池を塩竈に見立てて毎日大阪から海水を運び、藻塩(もしお)まで焼いたと言う。

 彼の功績により、辺境の地「みちのく」が都人に憧れを抱かせることになる。

 写真右上は、塩竈神社から見た松島湾内・塩釜港。ここから日本三景松島の遊覧船が出ています。今では電車も国道45号線も整備されていますが、西行の当時は山道を越えて塩釜から松島に入った。やっとの思いで松島の地に入り、眼下に見た時の光景は極楽浄土の蓬莱島が浮かぶ絶景であったに違いない。

「松島」の名の意味は、「極楽浄土を待つ」意味合いがあるそうです。

写真上は、東松島市大高森展望台からの松島の景観。

古道の途中に「西行戻しの松」と言う松島のビュースポットが有ります。普通の松島観光では観光船乗り場を基点に瑞巌寺とかを見て終わってしまいますが個人旅行の場合は是非足を伸ばして欲しい場所です。

西行がここで詠んだ歌に悦に酔っていたら童子が現れ、返歌した。何者か?と訊ねたら西行には意味のわからない返事が返ってきて、恥じた西行はスゴスゴとこの地を立ち去ったという逸話が残っています。

http://senbonzakura.skr.jp/05hosomichi/00japan/001hosomichi/03saigyo/saigyo3.html

【芭蕉の心を捉えた人・西行と共に歌枕の地探訪 その3】より

束稲山(たばしねやま) 西行が吉野と並び称した桜の山

聞きもせずたばしね山のさくら花 吉野のほかにかかるべしとは

(束稲山の桜が吉野の桜にも劣ることのないものだとは聞いたこともなかった)

現在は、西行が見たという桜は殆ど残っておらず、駒形山麓の「西行桜の森」で楽しめるそうです。写真は、義経が住んだ岩手県平泉の高館からの展望。

後三年の役(1083年)以降、奥州藤原氏が陸奥の国を統一する。

北上川へと注ぐ衣川が流れる。その上流は、広い田園で、ここが、衣川古戦場です。前九年の役では源頼義、後三年の役では源義家。義経の父祖にあたる武人たちが、ここで戦い、中央へ凱旋して行きました。

とりわきて心も凍みて冴えぞ渡る 衣河見に来たる今日しも

(いつか訪問したかった衣川を渡れた今日は寒さがとりわけ心にしみる)

奥州藤原三代(清衡・基衡・秀衡)が100年の栄華を極めた平泉の地は、この地域全体を仏教思想の極楽浄土にしようと開発・整備された。その象徴は中尊寺・金色堂(写真:右上)です。金色に輝く堂は全体を鞘堂で覆われていますが内部に入ると豪華絢爛な姿を見ることが出来ます。

↑写真左上:中尊寺参道・月見坂の途中、東物見台にある西行歌碑。

『聞きもせず…』の歌が刻まれています。

 中尊寺入口の弁慶の墓と桜。

 義経が6年間住まいし、散った高館。後に、仙台・伊達藩主4代目伊達綱村によって義経堂が建立され、中に凛々しい姿の義経木像が安置されています。

 毛越寺(もうつうじ)の庭園と池。毎年5月3日には春の藤原祭り・「源義経公東下り」行列が開催される。

写真は、義経と北の方、弁慶が藤原氏が用意した池内の接待場所に向かう様子を再現したもの。 西行が、二度目の陸奥に旅出たのは、1186年で平泉の藤原秀衡(ひでひら)から東大寺再興の為に砂金を提供してもらうために、それまでいた伊勢を旅立った。西行69歳の時であった。

この時期は、義経が一の谷、屋島、壇ノ浦で次々に平家の軍を破って1185年に兄・頼朝の居る鎌倉に帰ってくるが頼朝から鎌倉入りを許されず、ついには義経の逃避行が始まる時期でも有りました。