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大谷石見聞録、小野口家の長屋門と石蔵

2020.11.13 08:56

http://ito-denki.biz/old/report/ooyaishi/onoguchi.html  【大谷石見聞録、小野口家の長屋門と石蔵】より

 下野は古来東国の武力集団としての名声が高い。徳川家康も此国からの北方の勢力を恐れて日光東照宮を築き北の守りとした。また上古以来何かと紛争があれば東国に助勢を求めるか、そこに逃げこむような事例が多々あった。独立性の強い上毛野国は近畿の大王と緊密な関係にあった武蔵の国と紛争を起こして近畿の大王に反逆したことに始まる。同時期に朝鮮との海上交通を通じて強大な権力を持った吉備地方と首長連合は近畿の大王に反逆したが、紛争は播磨、伊勢、出雲から九州磐井の乱へと続く。昨年末に亡くなられた考古学者江上波夫先生は近畿の大王は朝鮮半島から九州を経由した扶余系の騎馬民族であるという壮大な仮説を戦後まもなく提唱されたが、朝鮮の金錫享先生は1963年に「日本分国論」を発表した。その大意は「日本が百済、新羅、任那などを支配したのではなく、この三国が日本列島内に朝鮮の分国を置いて支配し、経営していた」というものである。

 上毛野国そして下野、現在の栃木県下には「古墳時代になると数千基ないし数万基の古墳が設けられたがその90%以上は横穴石室を内部主体にする古墳ではなかろうか」さらに「宇都宮市の長岡古墳、下戸都賀郡壬生町の車塚古墳、河内郡上三川町常光坊の兜塚古墳、下都賀郡国分寺町国分の丸塚古墳などが凝灰岩切石積みの石室としてよく知られ、宇都宮市戸祭の大塚古墳は凝灰岩割り石の大型横穴石室をもち、巨大な天井石も凝灰岩であった」と大和久震平先生は記し、これらの古墳からは馬具類が多く出土している。石造の古墳と馬具であれば渡来系の影響であることは無視できない。その後の東山道、国分寺などの建設には多くの朝鮮系渡来人が関係したことが日本書紀にも記されている。奈良時代の推定人口500万人のうちの200万人以上は大陸か朝鮮系の渡来人であったといわれる。

 柳宗悦は「民芸」の中で野州の石屋根について述べている。石屋根とは大谷石の石によって葺かれた屋根のことで今でも栃木県内にはかなりの数が残っている。「それに石屋根全体の形を見ると、普通の日本式と違い、どこか支那または朝鮮の匂いがする。もし寺造に用いられたのが最初だとすると、この類似も必然となる。ただどれだけ歴史を溯らせ得るか、今のところ確証がない。(中略)それで石屋根は最初が寺造で、それが土蔵に用いられつづいて長屋門に適用され、ついには母屋の屋根、納屋、仕事場、時としては厠まで下がって来たと見ていい」としている。

 私は昭和45年に渋谷に住み、初めて日本民藝館の長屋門に出会った。いかにも大層な石屋根でただ驚いたが、それが大谷石であることには気がつかなかった。その後、縁あって宇都宮で住宅開発のコンサルタントを始めた平成10年ころから大谷石の石蔵や長屋門に出会った。

たまたまその十数年前から高句麗壁画古墳の保存とユネスコへ世界遺産の申請促進運動を江上波夫、平山郁夫先生と続いて作業をしていた最中で石造の伝統が現在まで続いている南北朝鮮と墓石以外は石造建築が少ない日本との違いを実感していた頃である。

ところが宇都宮を中心に栃木県内にはいまだに6000棟を越える大谷石系の石造建築物があるという。さらにまた驚いたことにはただ保存のためだけではなく、改造されてレストランやブティック、その他店舗として使用されている。もちろん農家では実用の蔵、倉庫、作業場、貯蔵庫として活用されている。

本題に入ることにする。さて大谷石の博物館のようなものがあるかといえば、それは今のところないが「大谷石研究会」を中心に企画中である。場所は大谷石の採掘場跡で大谷観音や大谷寺に近い場所が検討されている。しかし大谷石建造物博物館に近い規模を持つ個人所有の大谷石建造物6棟がある。

小野口家は江戸時代から代々名主を務めた旧家である。現在は鉄筋コンクリート造二建て替えられた母屋を中心に長屋門と石蔵が連なっている。ここは田野町であるが北東に多気山を背負い南面して田畑が広がり東の大谷町に隣接し、西には鹿沼町を望む。小野口家の並びには鈴木家と福岡町になるが横田家がある。いずれも長屋門と大谷石の石蔵に囲まれた旧家である。宇都宮藩の家臣帳(秋田市の宇都宮公則氏所有)によれば福岡村には横田弥藤次、田野ではないが西木の村には鈴木、小野口の名称が記載されている。この家臣名簿には「宇都宮弥三郎譜代堀江善三郎」が慶長二年、宇都宮氏が没落した年に記した千四百六人のものである。この三家は当時の家臣団から帰農した子孫ではないかと思われる。

ここで使用されている通称大谷石といわれている石材は本田正純が宇都宮城主として着任した元和元年(1619年)に城の石垣などの工事に田下石を使用したという記録が残っている。正純は自領田野村に命じて採掘をした石材が大量の土木工事として使用された最初ではないかと思われる。田下石とは多気山城の山麓から切り出された石である。「宇都宮市史-第四巻近世資料編」による。

大野登士の「大谷石むかし話」によれば「田野村は現在の田野村ではなく、大谷町東北の立岩地区と思われる。その地域を御用山と呼んで、かつてお城の御用にたった事実を古来より言い伝えて今日に及んでいるからである。」としている。

現在商業ベースで採掘されているのは芦野石、大谷石、深岩石、岩舟石だけで、露天掘りが行われているのは数箇所のみである。大谷地区より宇都宮市中心部にかけてなだらかな傾斜で大谷石が埋蔵されている。8億トンはくだらないとされる。

小野口家の長屋門と5棟の石蔵は江戸期から大正期にかけて建築されているが、注目されるのはこのすべての建造物が保存されているだけでなく継続的に修復されていることである。また長屋門には空調設備が内蔵され、小さなコンサートや展示会ができるようになっている。母屋の復元はできなかったが、今後の文化財の保存修復のもっとも適切なモデルということができる。

長屋門

明治9年創建、終戦後には石屋根を瓦葺きに改装する。入り口のアーチはロマンの香りがする。

奥の蔵

29㎡、文政8年(1825)、石造2階建て、貼り石、母屋の北西部に建ち、棟木の墨書により文政8年と判明した。小野口家石造建築で最も古い。当初は石屋根、木造軸組み、外壁は大谷石の薄板貼りであった。

前面にはかっての母屋の大玄関、唐破風の庇を移築した。

前の蔵

26㎡、江戸時代後期に築造、明治後期に移築、外壁は田下石の薄板貼りで屋根は当初は石貼りであった。用途は1階が表具、長持ち、座布団、2階が衣装、たんすなどを収納した。

旧乾燥室

39㎡、大正時代建造、石造平屋建て、積石、屋敷内南西部にあり、長屋門を移築した後に建てた。大谷石積の平屋建て、旧葉煙草乾燥室

旧堆肥舎

50㎡、明治後期、大谷石積の平屋建て、寄棟造りの屋根はトラスト小屋組であることから明治後期であると推定される。用途は堆肥、肥料貯蔵、便所2箇所、灰小屋など

旧酒蔵

119㎡、明治5年築造、土蔵造り平屋建て、腰部貼り石、母屋の後方屋敷内の最北に建ち、3棟あった酒倉の1つが現存している。棟木の墨書により明治5年築造の木造軸組みである。酒造と酒の貯蔵庫

栃木県産の軟石・準硬石系の産地と用途

広い意味で大谷石といわれる石の種類の産地と使用例を列記する。

①芦野石(那須郡那須野町芦野)福島県白河市に産出する白川石と同じ安山岩系準硬石で大谷石の様に構造物、建築資材、公園や広場など幅広く使用されている。

芦野石の使用例 平和記念子供の森、芦野市の護岸、階段、水路、駐車場縁石

オオシマフオーラム、フイオラノ、石蔵、門塀

白川石の使用例 白河ゴルフ場、港北ニュウタウン、パルテノン多摩、那須野ゆたか苑

石蔵、門塀、現在は白井石材が芦野石と白河石を熱加工して強度を高め那須野石として販売している。那須芦野仲町2717-5には戦前の米蔵を石造建築として改築した石の美術館「ストーンプラザ」がある。イタリア国際石材建築大賞2001を受賞。

②中野石(黒磯市中野)建築材

③小砂石・湯沢石(馬頭町小砂・小口・和見)小砂、右田部落内に絵書岩という地名があるが、ここが小砂石の起源の由で、明治元年野上の高田清三郎という石工が竈石や土台石として地域内で販売をしたという。昭和15年ころ大谷より小島、須藤の両氏がきて量産をするようになった。後に馬頭石と呼ばれ年産6000トンを採掘し、茨城方面に出荷したが現在は衰退してしまった。国史跡唐御所横穴墓、北向田横穴墓群、馬頭の栄冠酒造倉庫、小砂農協倉庫などがある。湯沢石は小砂広瀬地区で採掘された。主として墓石、石臼として販売された。酒造倉庫、農協倉庫。

④磯山石(真岡市磯山)建築材として使用されていたらしい。

⑤名称不明の軟質系の石 喜連川と荒川と江戸川合流点付近より産出された軟質に石で泥岩系と見られる、幕末から明治初期に竈材に使用された。喜連川藩のお留め品であった。

⑥大谷津石(市貝町大谷津)高根沢町上の台古墳の切石積みの横穴石室。

⑦茂木石(高岡石・坂井石・大門石)(茂木町坂井管又)八山溝系の後に形成された中川層群の茂木層をつくる緑色凝灰岩である。その中に流紋岩系の小礫を含んでいる。かまど、土台石に多く使用された。茂木石の使用例としては益子焼伝習館模範工場、大塚窯工場がある。茂木町千本の旧須藤郵便局舎も大門石が使用されている。

⑧大金石(南那須町大金)付近の古墳石室材

⑨葦沼石(益子市葦沼)益子町小宅にある日向、西坪、小宅の横穴式古墳石室に使用されている(切石材)、益子焼の陶器釉薬にも利用され葦沼と呼ばれ福島方面にも送られていた。

⑩船生石(塩谷町)かつて建築用石材として船生地区沼倉先の山地から採掘されていた。今はコンクリートブロックなどにおされてほとんど採掘されていない。佐貫磨崖仏

⑪板橋石(今市市板橋)地元周辺で建築材として使用されている。田野町の小野口家の長屋門の貼石として使われている。大谷石より硬質である。

⑫大谷石(大谷町)大谷寺洞窟遺跡、大谷磨崖仏、平和観音が有名、はるか2000万年前、新生代第3紀中新世の全半ころ日本列島のほとんどが海中にあったころ流紋岩質火山の大爆発により噴出した軽石系の火山灰が海中に堆積し凝固したものが大谷石であるとされる。主成分はやく67%の珪酸、13%の酸化アルミニュウムとその他カリ、ソーダーなどである。

 大谷石の分布層は宇都宮市の中心部から約7kmの大谷町付近の東西約2km、南北約4kmにわたり露出部分がある。採掘地域は東西に約3km、南北に約6kmに及んでいる。

大谷町周辺で採掘される大谷石とは第3期緑色凝灰岩の一種で、流紋岩、角礫凝灰岩の総称である。大谷地区に分布する大谷上層部下部から中層部中部までのものが適材として採掘されている。旧城山村荒針・旧国本村新里・同岩原・旧富屋村徳次郎は古くからの採石場で、同時に石工の多く居住するところである。

(略)