大谷観音
http://www.ooyaji.jp/ 【大谷観音】より
日本のシルクロードと呼ばれる千手観音像
大谷寺本尊千手観音(高さ4m)は、平安時代(810年)弘法大師の作と伝えられています。古くから大谷観音と称され、鎌倉時代に坂東19番の霊場となり、多くの人々から尊崇されてきました。最初は、岩の面に直接彫刻した表面に赤い朱を塗り、粘土で細かな化粧を施し、更に漆を塗り、一番表には金箔が押され金色に輝いていました。最新の研究では、バ―ミヤン石仏との共通点が見られることから、実際はアフガニスタンの僧侶が彫刻した、日本のシルクロ―ドと考えられています。
千手観音には、千の手と、千の目が有ります。手のひらにも目があり、いつも私達を見守っています。そして、たくさんの手で宇宙にある全ての人々、生き物を救ってくださる有り難い観音様です。お参りの際は、その大きな心を想い、世界の平和と人々の幸せを願い、合わせて感謝の気持ちで合掌しお参りください。
https://www.yoritomo-japan.com/simotuke-simousa/ooyaji-kouboudaisi.html 【毒蛇を退治した弘法大師と千手観音~大谷寺~】 より
昔、大谷の地には毒蛇が住み、毒水を流し、この水に鳥獣虫魚が触れるとたちまちにして死に、五穀も枯れ、人間も病気になり、最悪の場合は死に至ったのだといいます。
そのため地獄谷と呼ばれていたそうです。
苦しんだ人々は村を捨てようと考えていましたが・・・
東国を巡行していた弘法大師がこの話を聞きつけます。
そして、毒蛇のいる谷へと入っていきます。
それから10日余り経って谷から出てきた弘法大師は、毒蛇を退治したことを人々に告げて去って行ったのだそうです。
人々が谷の奥に入ってみると・・・
岩壁に光り輝く千手観音が彫ってありました。
人々は弘法大師に感謝し、観音様を信仰したのだそうです。
これが大谷寺のはじまりなのだとか。
今、毒蛇は心を入れ替えて白蛇となって弁財天にお仕えしているそうです。
https://www.yoritomo-japan.com/simotuke-simousa/ooyaji.html 【大 谷 寺
~坂東観音十九番~】 より
大谷寺は、日本最古の石仏とされる千手観音を本尊とする天台宗の寺院。
千手観音は、凝灰岩の岩壁に刻まれたもので、810年(弘仁元年)弘法大師作と伝えられている。 坂東観音三十三箇所の十九番札所。
鎌倉時代には、二荒山神社の社務職を兼ねながら下野国宇都宮を治めた宇都宮氏の保護を受けて興隆。その後、豊臣秀吉によって宇都宮氏が改易されると衰退したが、江戸時代になると徳川家康の側近として活躍した天海の弟子・伝海が堂宇を再建。
宝永年間にも堂宇が建立されたが、その後の火災で多くの堂宇が焼失した。
大谷寺 日本指折りの洞窟寺院。
大谷観音 石造千手観音菩薩立像
古くから大谷観音と称されて信仰された大谷寺の千手観音は高さ4メートルの磨崖仏。
岩面に直接彫刻された像には、表面に赤い朱を塗り、粘土で細かな化粧を施し、更に漆を塗り、一番表には金箔が押されていたのだという。
釈迦三尊像、薬師三尊像、阿弥陀三尊像と伝えられる彫像とともに大谷磨崖仏として国の特別史跡・重要文化財に指定されている。
銅製灯籠は、河内郡新里村の住民の寄進により1716年(享保元年)に鋳造されたもの。
鋳物師は戸室元蕃。
~源頼朝と坂東三十三観音~
坂東三十三箇所は、源頼朝の観音信仰と、源平の戦いで西国に赴いた武者たちが、西国三十三箇所の霊場を観たことで、鎌倉時代初期に開設につながったのだという。
その後、観音巡礼は、西国三十三箇所、坂東三十三箇所に、秩父三十四箇所が加わり、百観音巡礼として発展した。