Okinawa 沖縄 #2 Day 56 (19/11/20) 旧具志頭 (7) Yoza & Nakaza Hamlets 与座/仲座集落
与座集落 (よざ、ユザ)
- 与古田 (ユクタ) 集落跡
- ユザジョウサガイ (与座のタイ)
- 与座之殿 (ユザヌトゥン)、アザナ之殿 (アザナヌトゥン)、与座之殿クサイ井
- 世持井 (ユムチガ-)
- カーンザ道
- 上グスク (ウィグスク、上江城グスク、宇江城グスク)
- 上城之嶽 (ウィーグシクヌウタキ、仲座之嶽)
- 与座集落 (ユザ マキョ)
- 与座農村公園 / 与座集落センター
- 与座のお宮
仲座 (なかざ)
- 仲座のタイ
- ウィーノタイ (上之タイ)
- 仲座集落
- 仲座村屋跡 (村屋)
- 仲座公民館
ここ二日は体調がよくないのか、よく寝ぬれず、体がだるく、外出は控えて休養としていた。それで、前回の安里集落から時間が経ってしまった。今日は体調が戻ったので、再開する。具志頭集落はあと4つの字が残っているのだがいずれも小さい字なので、今日は与座集落と仲座集落の二つの字をみることにする。
与座集落 (よざ、ユザ)
サザンリンクゴルフ場の北西近くに、与古田原 (ユクターヤー) 遺物散布地 (貝塚) があり、そこは、先史時代から存在した与古田 (ユクタ) と称する集落跡と考えられる。 (古田 クタ = 村落) 古琉球時代になると、与古田 (ユクタ) の人々は、14世紀ごろに、上城グスクの東方のユザジョウサガイ (与座のタイ = 与座村落の跡) と称する地に移住し村落を形成した。同じ時期によりたち村落から移住してきた人々が、ユザジョウサガイ (与座のタイ) の南側に仲座のタイを造る。ユザジョウサガイ (与座のタイ) は仲座のタイから見て北側にあるので上 (ウィー) と呼ばれ、これが、与座村落の起源の上 (ウィー) の発祥。当時の集落の規模は仲座八煙上五煙といわれていたことから推測できる。煙 (キブイ) は戸に相当し、仲座は八煙 (ヤキブイ) で八戸、上 (与座) は五煙 (イチキブイ) で五戸の小集落だった。このように与座はかつては上 (ウィー) 村と呼ばれていたが、仲座集落住民の要求で17世紀後半に与座 (ユザ) と改められた。これは、上村之「上」が仲座村より上位にあるという印象があり、それが仲座集落住民には不快だったそうだ。これ以降も与座と仲座の確執は長く続いていく。
字与座は旧具志頭村では一番小さな字なのだが、近年は更に人口が減少している。そして世帯当たりの人数が極端に低い。これは近年に限ったことではなく、2000年以降、既に一世帯平均2人となっている。1970年代までは5人で他の字と同じだったのだが、この与座に住む家族構成は他の字と少し異なっているのだろう。単身者、若い家族が多いのか、それとも過疎化の老人だけの地域になっているのか?与座だけでは解決できない問題があるのだろう。
昭和初期よりも人口が減っているのはこの与座だけだ。隣の仲座も苦しんでいるようだ。この与座と仲座は一時期は合併して、小さな行政区からの脱却を試みたが、長年続いていた両字の確執は解決できず分離してしまった。このような環境も、住みやすさという観点からは劣っているのかもしれない。
具志頭村史に掲載されている与座・仲座の拝所
- 御嶽: 上之嶽 (ウィーヌウタキ、消滅)、上城之嶽 (ウィーグシクヌウタキ、仲座之嶽)
- 殿: アザナ之殿 (アザナヌトゥン)、与座之殿 (ユザヌトゥン)
- 泉井: 殿之クサイ井 (トゥンヌクサイカー)
与古田 (ユクタ) 集落跡
与座集落の起源と考えられているのがこの与古田 (ユクタ) に住んでいた先住民とされている。場所はサザンクロスリンクスゴルフ場の北西の丘陵地になる。その与古田 (ユクタ) の付近に行くと、そこには多くの古墓がある。与古田 (ユクタ) 集落の人々がここから別の場所に移動した後にできた墓だろう。墓の周辺は墓へのアクセスの為整備されているのだが、集落があったような感じもする。資料ではいつ頃にこの集落があったのかは記載されてはいないのだが、この集落は14世紀に与座のタイに移動するとあるのでそれ以前からあったことは確かだ。
ユザジョウサガイ (与座のタイ)
世持井 (ユムチガ-) のすぐ南側の丘陵の林の中への入り口が見える、表示柱も立っているので、文化遺産が中にあるのだろう。表示柱には何も書かれていない。文字が消えてしまっている。とにかく中に入る。道が続いている。崖に出る。その崖壁には幾つかの洞窟や古墓がある。
与座之殿 (ユザヌトゥン)、アザナ之殿 (アザナヌトゥン)、与座之殿クサイ井
更に奥への道がある。進んでいくと広場が現れて拝所がある。草で覆われてしまっているが、ここがユザジョウサガイ (与座のタイ) 住民の聖域だった場所で、二つの拝所が残っている。ユッタチジョウ (よりたち村) から移動してきたアマミキヨ族の一部集団が、元々この地 (前述の与古田 (ユクタ) の先住民がこの地に移動してきていた) に住んでいた人々と合流して、この場所に上之嶽 (ウィーヌウタキ) を建造し、次いで与座之殿 (ユザヌトゥン)、アザナ之殿 (アザナヌトゥン) も設けたと伝わる。写真左下が与座之殿で右下がアザナ之殿 (アザナヌトゥン) だ。近くには井戸跡がある。この与座之殿と一体の与座之殿クサイ井 ( トゥンヌクサイカー 写真右上)。上之嶽 (ウィーヌウタキ) は消滅して残っておらず、この与座之殿 (ユザヌトゥン) が集落の主たる拝所となる。同じユッタチジョウ (よりたち村) から移動してきた具志頭村の人々もここを訪れ御願をしていたそうだ。アザナ之殿はグンジンとも呼ばれている。グンジンは、権現の事で、仏が神道の神となって現れる所とされていた。このユザジョウサガイ (与座のタイ) ができたのは14世紀頃とされているので、この時代には既に仏教や神道が何らかの形で琉球に伝わっていたことになる。この北側には先ほど通ってきた墓群があったので、南側一帯に、与座集落の起源となったユザジョウサガイ (与座のタイ) があった場所と思う。
更に南の方角奥への道があり、規模は小さいのだが広場につづく。ここにも井戸跡が残っている。この先はサザンリンクスゴルフ場のコースになっており、ゴルファーの話し声が聞こえる。ここは集落と聖域の境目ぐらいだろう。集落の一部はゴルフ場建設で消滅してしまったのだろう。一部分でも残ったのは幸いだ。
世持井 (ユムチガ-)
この井戸については安里集落を前回に訪問した際に書いたのだが、与座集落の村井でもあるので、忘れないためにここにも載せておく。この井戸はユザジョウサガイ (与座のタイ) からカーンザ道という坂道を下った所にある。ユザジョウサガイ (与座のタイ) 集落内には井戸がなかった。井戸が造れる地形ではなく、住民は雨水をトゥージと呼ばれる石で作った大きな水槽に溜めて生活用水にしていた。トゥージは各家に2~3個はあったのだが、それでは足らないので、この世持井 (ユムチガ-) を村井 (ムラガ-) として利用していた。水の運搬のためにカーンザ道の上り下りは大変だったことが想像できる。
安里集落から外れ南の丘陵の麓の松尾原に世持井 (ユムチガ-) と称する水量豊富な村井 (ムラガ-) がある。この世持井は字安里地域にあるのだが、村井 (ムラガ-) といっても安里集落の村井 (ムラガ-) ではない。安里集落では各家が井戸を持っていたので、共同井戸の村井 (ムラガ-) は不要だった。この村井 (ムラガ-) とは与座村落と仲座村落の共同井戸だった。1914年 (大正3年)、字仲座 (当時字与座は仲座に合併していた) による世持井の大改造の際し、字安里と字仲座との間に、世持井の水利権争いが起こる。字安里は世持井は字安里の地籍内なので水利権は字安里にあるとし、字仲座が独自で世持井の大改造を行うのは妥当ではないと主張。字仲座は世持井は昔から字仲座字与座の村井故、字安里が水利権を主張するのは妥当ではないと反論。結局、この水利権争いは字安里が譲歩し、字仲座は独自で大改造を行なうことになった。今でも水は澄んで魚などが泳いでいた。帰りには子供たちがこの井戸で遊んでいた。
この世持井 (ユムチガ-) は、以前には、アハガーとも呼ばれていた。意味は「おいしくない水」だ。この名についての伝承がある。「古琉球時代、この井の南西近くの丘陵上に、上原按司によって築かれた上城は、やがて、花城按司に滅ぼされ、花城按司の支配する城となり、花城の前衛拠点となる。そこで、城中の人々の飲料水、生活用水は、すべてこの井に頼っていた。水の確保は城の運命を左右する大問題である。そこで、他人がこの井を使用しないために、そして、敵の目をくらますためアハ井と呼ぶようにした。花城按司の策略的な命名であった。」この話は具志頭の「んじゃ井」の話と同様だ。話の真偽は別としても、水に困っていたこの地域の人々の水に対する想いはよく表しているだろう。
カーンザ道
世持井 (ユムチガ-) からユザジョウサガイ (与座のタイ) 集落への道で、かなり急な坂になっている。
カーンザ道の途中に丘陵の林への階段があった。このようなものを見つけると、どうしても中に入りたくなる。洞窟がいくつもあった。後で遺跡分布地図で調べるとここもユザジョウサガイ (与座のタイ) 集落の遺跡の一部の様だ。
上グスク (ウィグスク、上江城グスク、宇江城グスク)
仲座集落/与座集落の南側標高80mの丘陵に築かれた上グスクは二つ郭からなる連郭式のグスクで、仲座集落で頭角をあらわしリーダーとなった上原按司によって、14世紀初期頃に築かれ、上村 (与座村) と仲座村を治めていたたと伝わる。当時、与座集落は上村と呼ばれていたので、これがグスクの名の由来だ。花グスク按司に攻められて落城。その後、対南山勢に対しての前衛拠点となった。(案内板では、花グスク按司ではなく、多々名グスク按司に滅ぼされたとあるが、多々名グスクは花グスクが南山に占領されてからの名称で多々名グスク按司は南山側の人物。よって多々名グスク按司が対南山の防衛としてこの上グスクを位置付けることはおかしい。多々名グスク按司ではなく、花グスク按司の間違いと思われる。)
道路わきに城之案内板があり、そこから林の中に細い道が続いている。この道を行けば城跡に出るだろう。
道を進むと側道がありその奥には拝所がある。何の拝所なのかは情報は見つからなかった。
石垣で作られていたのだろう城門らしきところを入ると、二ノ曲輪がある。周りを囲んでいたと思われる石垣跡がある。二ノ曲輪が多分上原按司の住まいが設けられていたのではないだろうか。
二の曲輪跡の中央には拝所がある。一般の部落住民が、本丸奥にある上城之嶽を御願していた殿と伝わっている。仲座のタイや与座のタイの人々はこの場所に集まり祭祀を行っていたのだろう。沖縄の三山時代の城 (グスク) は日本の城やその城下町のような大きな規模のイメージではなく、この上城グスクのような小さなグスクでは、数十人から百人程度の集落を治めるリーダーの政治的な拠点といったもので、兵士の数も数十名程度だった。
上城之嶽 (ウィーグシクヌウタキ、仲座之嶽)
二の丸奥の石の階段を上ると本丸で、本丸は二つの区画に分かれているようだ。石階段を上がったところにまず広場があり、そこには拝所が二つある。
更にその奥に別の広場があり、そこには石垣に囲まれた上城之嶽 (神名アカズ森之御イべ) がある。本丸は聖域としての場所で、ノロ以外の人は立ち入れない場所だ。仲座のタイに移動してきた仲座の人々は、村落北方の丘陸上 (後の上城グスクの本丸跡) に、仲座之嶽を建立する。仲座之嶽に対する信仰を中心として、仲座の人々の社会的活動は展開していく。後代になって、仲座村落より上原按司が出現し、仲座之嶽がある丘陸に、上城 (ウエグスク) を築き、上原按司は上城中に既に存在した仲座之嶽を、上城を守護する御嶽とした。仲座之嶽は、上城之嶽と呼ばれるようになる。
このグスクを居城とした多々名按司にまつわる組踊の「多田名組」が多良間島に伝わっている。何故、宮古島と石垣島の中間に位置する宮古列島の島の多良間島に沖縄本島の遠く離れたこの地を舞台にしたものが伝わっているのだろう?
「多田名按司はライバルである上原按司を討ち滅ぼし上原按司の夫人と若按司兄弟が逃げ出し仇討来るのではと気にかけていた。そこで家臣の外間の子と謝名の子を呼び出し、諸国をめぐり逃げた夫人と若按司等を根こそぎしろと命令する。これに対し外間の子は上原按司夫人や若按司を殺し捨て去ることは悪名が立ち大主の評判が下がるので若按司を迎え厚く養育すれば若按司も親の仇討をしようと思わないだろうし万人も按司を称えること間違いなしと諫言する。多田名按司は外間の子の諫言に激怒し謝名の子に引っ立て牢にでも押し込むよう命令する。それでも外間の子は命を懸け諫言を申し立てる。更に激怒した多田名按司は刀を抜き外間の子を斬捨てしまう。それを聞いた重臣の田名は「あれほどの忠臣な外間の子を殺したのか」と詰め寄るが多田名按司は「お前もか」と激怒し謝名の子に田名を牢屋にぶち込むよう命令し謝名の子も実行した。多田名按司は自分に背く者がいなくなったことに満悦していた、謝名の子も「早く上原按司夫人と若按司を探し出し斬捨ててて憂いを断つよう」と進言した。上原按司の長子千代松は母と弟金松と別になってしまい、このまま多田名按司の手にかかった死ぬよりは母と弟に永遠の別れの挨拶をし自害しようと考えて上原按司の家臣であった屋比久とヤカアにその事を告げた。二人は若按司に考え直すよう説得するも刀に手をかけ自害しようとする。二人は急ぎ止め、仇討の計画を相談する。千代松を城内の行かせ時間を稼ぎ屋比久が国頭の地で仲間を集め仇討の機を待つことにした。千代松とヤカアは多田名グスクに赴き按司に許しを請う。多田名按司はなぜ自ら (殺されに) 来たのかと尋ねた。千代松は「父は罪深きもので多田名按司に討たれて当然であり、その事を恨んではいません」と告げる。その言葉を聞いた多田名按司は大変喜んで宴会を催した。城内で暮らしていた千代松であったが母と弟が苦しんでいる姿を夢で見、秘かに城を抜け出し二人を捜しにでる。村はずれで二人に再開した千代松は仇討の計画を話しもう暫く我慢するように伝える。城へ戻った千代松の耳に多田名按司が津堅島へ遊びに出る話が入った。千代松はその事を間者を使い国頭の屋比久へ伝える。多田名按司が津堅島からの遊びの帰り千代松と屋比久の仲間が道中で待ち伏せし多田名按司と謝名の子を捕らえ仇討を果たす。」
与座集落 (ユザ マキョ)
与座村が、ユザジョウサガイ (与座のタイ) の地から、現在の地に移動したのは、集落が碁盤上に区画されていることから、他の字集落と同じく首里王府の農業政策である地割制度が寛文年間 (1661 - 1672) に施行されたことによる。この施行後、いつ移動したのかは明確な時期はわかっていないが、村の移動の許可制が施行される1731年までの間と考えられている。
与座は明治12年 (1879年) の記録では33世帯169人の村で、江戸時代でも100人から150人の小さな村だった。そこで与座j部落住民は仲座との合併をユザジョウサガイ (与座のタイ) 時代から希望していたのだが、それぞれの脇地頭が利権を失うことに抵抗を示し、合併は実現しなかった。当時は脇地頭はその管轄する地域の半分ほどの領地を有し、そこからの税収入は大きなものであった。しかしそれはその職にある期間だけなので、合併により脇地頭が2名から1名になることは、片方の脇地頭にとっては大きな利益損失で容認できないことだった。
明治になってからも、明治政府は琉球士族の反乱を恐れ、その不満を解消するために、旧慣租税制度を継続していたのだが、ようやく明治36年 (1903年) に廃止となった。この機会に明治41年 (1908年) に与座と仲座が合併するのだが、与座と仲座住民の長く続いてきた確執は解消できず大正15年 (1926年) に分離することになる。合併から30年を経ても解決できないとは、相当根深い問題があるのだろう。この合併は沖縄戦が終わった昭和21年に再度、対等合併という形で実現し、富座という村が誕生したのだが、対等というのは名目に終わり、村の運営や祭祀も従来通り、別々に行っていた。結局翌年の昭和22年に合併は解消され、字与座、字仲座に逆戻りとなった。現在はどうなのだろう?他地域から流入してきた人たちは気にしていないのだろうが、元々の集落の血縁門中の人達には、わだかまりは残っているのではないだろうか.... 何百年も続いた確執だ。おそらく、現在でも合併の話はこの両村にはタブーになっているのではなかろうか.... この問題はどこにでもある。村が小さければ小さいほどこの問題は大きい。特に沖縄は血縁集団である門中意識が非常に強い。これは沖縄文化の牽引でもあるが、排他的な側面も持っているのだ。
与座農村公園 / 与座集落センター
ユザジョウサガイ (与座のタイ) から移ってきた与座の人々によって、現在の与座農村公園に与座集落の村屋 (ムラヤー) が造られた。仲座との二度にわたる合併などで、村屋を廃止して、遊興場になったり、再度村の運営事務所、後に公民館になったのだが、老朽化と手狭になったので、1985年 (昭和60年) に、隣の敷地に与座集落センターを建設して、公民館の機能を移管した。
与座のお宮
他の集落と同様に明治之終わりから日本政府は国家神道を沖縄に押し付ける政策をとった。この与座集落でも、村の拝所をまとめて神社を造り合祀した。それがこの与座のお宮と呼ばれるものだ。資料では載っていたが場所は載っておらず、集落内の路地を走っている時にこれを見つけた。近くにいたおばあにここは与座のお宮かと確認して、やはりそうだった。このおばあから、どこから来たのかと聞かれ答えると、おばあは「大和 (やまと)」からかといわれた。沖縄では本土の人をと呼ぶのは知っていたが、実際に面と向かって大和と言われたのははじめてだ。このヤマトゥンチューは差別用語ではなく単に出身を意味しているので、沖縄では自然なのだが、若い人はあまり使わない表現だ。おばあがすんなりとヤマトゥンチューというのには、何か沖縄らしさが感じられ、快いひびきだった。
仲座集落 (なかざ)
仲座集落は与座集落のすぐ隣にある。二つの集落は隣接しているというよりは、一つの集落が二つの字に分かれているといった感じだ。二つの字が同じ集落地にあるという不自然さを感じる。二つの集落の確執が今m続いているように感じた。
人口も隣の与座と同じように昭和初期に比べてそれほど増加していない。与座と同じ場所にあるので、同じ課題があるのだろう。
現在では与座と仲座で 具志頭村で一番少ない人口の字となっている。
仲座のタイ
仲座集落の起源は、14世紀にユッタチジョウ (よりたち村) から一部の血縁集団が、この地に移動してきて、上城グスクの南方に集落を形成した。ここは仲座のタイと呼ばれた。1984年 (昭和59年) から1985年 (昭和60年) にかけて、与座前原遺跡として発掘調査がされている。この仲座のタイは、近くにある与座のタイと同じで、井戸で水が確保できる地形ではなかった。トゥージに雨水を溜めて飲料水、生活用水とし、不足分は世持井 (ユムチガ-) から調達していた。世持井 (ユムチガ-) については与座集落に記載している。
ウィーノタイ (上之タイ)
仲座のタイの住民は琉球王朝の首里王府の農業政策により、丘陵地から耕作に適した平地へと強制移住をさせられ、登口原に移動しウィーノタイ (上之タイ) を形成する。
このウィーノタイ (上之タイ) 二実際に来てみたが、ここに強制移住させられた仲座集落の人たちがここからの移動を訴えたことはよくわかる。ここは標高100mから120mのところにある。現在でも民家はなく一面畑になっている。広大な農地で、ここに移住させて農業をやらせようとした首里王府の目論見も分かるが、この場所では生活用水が確保できなかったのは酷な話だ。ここからかつて使っていた世持井 (ユムチガ-) に伊豆を汲みに行くのはまず無理だ。下の写真は上のほうが、仲座のタイがある場所の近くから、このウィーノタイ (上之タイ) がある丘陵をみたもの。丘陵の下に広がっている民家が現在の仲座・与座集落。かなりの距離がある。下はウィーノタイ (上之タイ) から仲座のタイをみたもの。
仲座集落
しかし、登口原は掘り抜き井戸が可能な地形ではなく飲料水や生活用水の確保が困難であった。しかも、それまで利用していた世持井 (ユムチガ-) には遠く、移動してきた仲座の人々は、世持井 (ユムチガ-) に近く、掘り抜き井戸が可能な現在集落がある場所への再移動を強く希望し、17世紀後半から18世紀前半に移住したと考えられている。現在の仲座集落に移住してきた人々は世持井 (ユムチガ-) を村井 (ムラガー) として利用していたが、以前より近くなったとは言え、 世持井 (ユムチガ-) からの水の運搬は大変な作業であった。個人宅で掘り抜き井戸を造るのは経済的に負担になることから、昭和10年から22年にかけて、集落の各班で掘り抜き井戸を造り、班で共同利用し、管理することにした。この井戸を班井 (ハンガ-) 呼び、仲座集落には五班あり、それぞれで班井を持っていた。
仲座村屋跡 (村屋)
仲座のムラヤーがあった場所に行ってみると空き地だった。よく見ると敷地の隅に、酸素ボンベの鐘が残っている。村屋はなくなったのだが、酸素ボンベの鐘は残している。多くの集落で酸素ボンベの鐘は残しているところが多い。沖縄の人たちの戦後はこの酸素ボンベが集落の共同生活の一部だった。この鐘に対しての想いが強いことがよくわかる。
仲座公民館
ムラヤーが手狭となり公民館が村の南のはずれに移動してきている。隣の与座公民館と50m程しか離れていない。
与座・仲座集落内には幾つか神屋や沖縄伝統民家があった。
今日は夏日で一日中快晴で、町の花が青空に生える。
参考文献
- 具志頭村の文化財 具志頭村文化財要覧 第1集 (1997 具志頭村文化財保護委員会)
- 具志頭村史 第2巻 歴史編・教育編・沖縄戦編 (1991 具志頭村史編集委員会)
- 具志頭村史 第4巻 村落編 (1995 具志頭村史編集委員会)