映画『スパイキッズ』感想 〜子供も映画もナメてはいけない
『スパイキッズ』は、2001年に日本で公開された洋画です。大ヒットとなり、現在4作まで続編が制作されていますが、今回の記事ではその1作目を取り上げます。
1作目とあって、予算も少なく、全体的なチープさは否めません。CG合成の粗さも目立ち、子役の演技や作品の演出に難アリな部分も多いです。また、基本的にコメディ映画なので、ミッション・インポッシブルや、007のような本格スパイ映画を期待すると、面食らうかもしれません。
しかしながら、この作品には侮れない部分があります。それは、全体的なチープさや、俗っぽさ、トンデモ設定など、ともすれば忌避されるような要素を、逆に作品のテーマに利用してしまうということをしている点です。以下では、このことについて詳しく考えていきます。
まず、本作をご覧になったことのない方のために、ネタバレ無しでこの映画のおすすめポイントをさらっと書きます。その後、ネタバレを含んだ感想を記し、前述のような「この映画の侮れない部分」について考えていきます。
〈あらすじ〉
冷戦時代、互いに敵対する国家のスパイとして戦ってきたグレゴリオとイングリッドは、やがて禁断の恋に落ち結婚、スパイを引退し、いまは二人の子どもたちとともに静かな日々を過ごしていた。そんなある日、グレゴリオとイングリッドは悪の組織の陰謀にはまり捕まってしまう。両親がスパイだったことを初めて知った二人の子どもカルメンとジュニは、悪の組織の真の狙いに気づく。当然のように、そんな二人にも悪の魔の手が迫っていた。二人は果たして悪の陰謀を阻止することができるのか。そして、無事両親を助け出すことに成功するのか?(引用元)
〈ネタバレ無し感想〉
①楽しい!
何と言っても、この映画の面白さはここです。前述のとおり、この映画に本格スパイ映画のようなクオリティや、リアリティを求めてはいけません。逆に言えば、コメディ映画として観れば、かなり楽しい作品なのです。
例えば、この映画はスパイ映画なので、やはりスパイグッズがたくさん登場します。どれもこれもドラえもんのひみつ道具のようなトンデモグッズなのですが、そのアイデアがとても面白いです。
また、この物語は、イマジネーション全開のデザイン・ギミックで彩られた「フループの城」というお城が舞台なので、その造形を観ているだけでも終始ワクワクします。ディズニーランドにでも建ってそうなファンタジー色の強い場所なので、やはりそういうのを忌避しない人向けですが、存分に楽しませてくれます。
②圧倒的テンポの良さ
とにかくテンポが良いです。無駄なイベントがないので88分がサーッと過ぎていきます。
ストーリーも単純明快でわかりやすく、しかしワクワクする展開もあって、その塩梅が絶妙です。ギャグテイストではありますが、くどいということもなく、むしろちょうどよく展開の合間合間によく考えられて挿入されている感じです。
③魅力的な登場人物
登場人物はどれもこれも魅力にあふれるものばかりです。主役の二人が姉妹として、スパイキッズコンビとして魅力的なキャラであるのはもちろん、彼らの家族や、敵もユニークで、好きになれるキャラが多いと思います。
④メッセージ性
コメディ映画だと思ってナメてはいけません。大人vs子ども、家族愛など、しっかりとしたメッセージが込められています。ただのチープなオモシロ映画で終わらせない魅力があるのです。この点については、この後のネタバレ感想の部分で詳しく考えていきます。
〈ネタバレ感想〉
では、この項でいよいよこの作品の「侮れない部分」について考えていきます。(※一応ネタバレ注意。ただし、未視聴でも伝わるように書いたつもりです)
■子どもの強さ①:純粋さ
『スパイキッズ』という題の示す通り、この映画の主役は「子ども」です。スパイという、明らかに大人のものであったものを、子どもにやらせてしまったところに、この映画のユニークさと斬新さがあります。
ではスパイを子どもにやらせるとどうなるか。明らかに立ち現れてくるのは、大人vs子どもの構図です。大人の代表者としてコルテス夫妻を、子どもの代表者としてその子どもたちを描いているのです。
コルテス夫妻はフループの城に囚われてしまいます。それをカルメンとジュニが助けに行くのですが、この様子がなんとも健気です。いきなり両親が行方不明になり、そして彼らがスパイであったことが判明し、自分たちでなんとかしなければならなくなります。そんな中、姉弟喧嘩をしながらもただ「両親を助けたい」という一心で、スパイ道具を駆使しながら果敢に冒険をしていく様はとても面白く、そして愛らしいのです。ここに、子どもの強さがあります。彼らの両親がスパイに復帰したのは、もちろん元同僚を救うためでもあるのですが、やはり「もう一度昔のような冒険がしたい」という不純な動機がありました。しかし、スパイキッズにはそれがない。彼らはただ「両親を助けたい」という純粋な家族愛から動いているのです。この純粋さこそが子どもの強さだというわけです。
■子どもの強さ②:想像力
冒頭で、まず大人の傲慢が描かれます。友達がおらず、好きな子供番組を観て空想にふけるジュニについて、グレゴリオは「だからといって夢の世界に逃げ込んでちゃダメだ。不気味な絵を描いてみたり、ワケのわからん番組に入れ込むなんて......」と非難し、彼の描いた絵も「ヒドいな!」と一蹴してしまいます。まぁグレゴリオの言うこともよくわかります。大人になると、子どもの頃みていたテレビ番組もつまらなく感じますし、「こんなののどこが面白かったんだろう」と不思議になることがあります。子どもと一緒にこの映画を観ている大人は、この辺りの描写にハッとしてしまうのではないでしょうか。
しかしながら、彼らは逆に「想像力」に打ちのめされます。バカにしたような仕掛け満載のフループ城は、まさに「想像力」の塊にようなものです。彼らはそんな城に囚われ、子どもの助けを待つだけになってしまいます。しまいに、グレゴリオはジュニが描いた絵のキャラクターに変えられてしまいますが、これがまたなんとも皮肉です。あれこそまさに、かつて自分がバカにした「想像力」に逆襲された瞬間、大人が子どもの「想像力」に打ちのめされた瞬間なわけです。
一方で、子どもたちはスパイキッズとして頼もしく活動していきます。ここで良い役目を果たしているのが、あのドラえもんのひみつ道具のようなスパイ道具たちです。噛むと電気ショックを与える武器になるガムや、鉄格子を溶かしてしまうクレヨンなど、確かに全体的に子どもっぽく、アリエナイものが多いかもしれません。しかしながら、これらを子どもが使うと、強力な武器として見えてきます。あのスパイ道具たちこそ、子どもの「想像力」の具現であり、子どもに大人以上の強さを与えるものなのです。
■やっぱり侮れない!
これらの「子どもの強さ」は、今作品のメインメッセージです。それは、最後のフループのセリフに集約されています。
終盤で、「スパイキッズ」と命名されたロボット軍団が、フループによるプログラム書き換えにより、みんな「良い子」になったというシーンがあります。そこで、ジュニに「ロボットたちになにを教えたの?」と尋ねられたフループは、こう答えます。
「僕が教えたことは全部、君に教えてもらったことだ。勝ったのは君だ、ジュニ。それは、体の大きさや強さのせいじゃない。心が純粋だからだ。ここ(頭)もね。」
見事に、心の純粋さと頭の純粋さ(すなわち想像力)について言及しています。
これを教わったロボットたちは、「良い子」としてテレビで報道され、救護活動などで活躍していました。スパイキッズと命名されたロボットたちは、このとき初めて本当の意味での「スパイキッズ」になることができたのです。この意味で、この映画の題でもある「スパイキッズ」には、単に「子どものスパイ」という意味のみならず、「純粋さを秘めた強い子ども」という意味も含まれているかもしれません。そのような子どもの強さは、ときに大人にもできないことを可能にする。そんなことを、この映画は教えてくれます。
このように考えると、この作品の全体的なチープさや、俗っぽさ、トンデモ設定すら、一つの演出のように見えてきます。ファンタジー一色の世界、ワクワクする冒険譚に、ユニークなストーリー、そして変わらぬ家族の絆。これぞまさしく、子どもの純粋さと想像力に彩られた作品です。言い換えれば、作品のテイスト自体が、そのメッセージに直結しているのです。
私が思うに、この映画を「楽しい!」と思えるかが、一つの分かれ道なのではないでしょうか。
もちろん、細かい部分で納得出来ないところは大いにあります(例えば、スパイ道具を作ったのが大人である点、フループやコルテス夫妻が子どもから学ぶ描写が薄い、など)。あるいは、ギャグテイストが受け入れがたい人もいるかもしれません。ただ、子どもの純粋さと想像力を思わせる、この映画の圧倒的なユニークさについては、それにどのような反応を示すかで「大人」に染まりきっているかがわかってしまうという意味で、侮れないと思います。
製作側は予期していなかったかもしれません。ただ、低予算を考慮して話を作ったらこうなった、というだけかもしれません。しかし、結果的にそれは「作品のテイストとメッセージの一貫性」をもたらし、この作品を強力なものにしていると思うのです。
いくつになっても、この『スパイキッズ』のような作品を、「楽しい!」と思えるような人間でありたいと思ったのでした。