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【飯坂~国見】<旅人と我が名呼ばれん初時雨> 旅立ちの覚悟...深く強く

2020.11.15 13:48

https://www.minyu-net.com/serial/hosomichi/FM20191125-436828.php  【【飯坂~国見】<旅人と我が名呼ばれん初時雨> 旅立ちの覚悟...深く強く】 より

 福島市飯坂町の公衆浴場「鯖湖湯(さばこゆ)」の周辺には、「芭蕉と曽良 入浴の地」の石柱などが立つ。この人気スポットの向かいで喫茶店オンカフェを開く藤原律子さん(49)は「テレビ番組のリポーターや外国人、歴史好きの人が来られますね」と、芭蕉人気の根強さを語る。

 ただ、この温泉地では「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)に書かれた同地のエピソードの評判は良くない。

 弱気な自分鼓舞

 「ほそ道」の「飯塚」(飯坂のこと)の場面後半。松尾芭蕉と河合曽良は、温泉に入り宿をとるが、泊まったのは土間にむしろを敷いた貧しい家だった。そこで二人は横になるが、強い雨と風、さらに雷。天井からは雨漏りし、ノミやシラミにも刺される。芭蕉は眠れぬ上に、持病(胃病、痔(じ)といわれる)の痛みで、失神しそうになった―と一夜の苦難が語られる。

 この場面には、前回の「道標」で飯坂町史跡保存会の小柴俊男会長が「滝の湯」という宿に泊まったという地元の伝承を根拠に「フィクションだ」と書き、多くの虚構に「首をかしげる」と記している。曽良の「日記」でも、貧家の記述はない。では、なぜ芭蕉は、地元に恨まれるような創作を加えたのか。しかし、そう思ったのも一瞬。続きを読むと、芭蕉の意図が見えてきた。

 夜が明け1689(元禄2)年5月3日(陽暦6月19日)。芭蕉らは再び旅立った。芭蕉は前夜の苦痛が後を引き、気分ものらない。馬を雇って桑折の宿場へ出た。現在の道に当てはめると飯坂の温泉街から湯野へ出て、県道飯坂桑折線を東進。桑折宿(現桑折町)は、奥州、羽州両街道の分岐点で、二人はここで奥州街道に入り北上した。

 「ほそ道」では、ここから芭蕉の独白が続く。

 「はるかな旅の前途を控え、こんな病気が出るとは心もとないが、へんぴな片田舎の行脚だ。もとより俗身は捨て去り、人の世の無常変転を観念しきった身。たとえ路上で死んだとしても、それも天命だと、気力を少し取り直し、道を縦横無尽に突破して、伊達の大木戸を越す」(穎原退蔵・尾形仂訳注「新版おくのほそ道」を参考)

 これは旅立ちの決意である。道で死んでも天命―は「人生は旅」という芭蕉の人生観を直接的に語っている。この思いを弱気な自分に言い聞かせ、力強く歩みを進める。感動的である。

 振り返ると、前日の場面はすべて、このシーンを導く伏線だったことに気付く。佐藤一族ゆかりの旧跡では、人生のはかなさと、死を覚悟し突き進んだ武士たちの高ぶりを文と句で描いた。そして、苦難の一夜は、ついつい弱気になる自分を描くためのお膳立てだったのだ。

 峠の先...風景一変

 しかし、なぜ、この劇的な旅立ちの決意を飯坂の先で語ったのだろう。同じ思いは、草加宿の手前で記しているが、これは旅の初日。今さらな感じがする...。

 そんな疑問を抱え、芭蕉たちが越えた「伊達の大木戸」を訪ね県境の町、国見へ向かった。すると解答が待っていた。

 国見町文化財センターあつかし歴史館の調査員、笠松金次さん(68)は「伊達の大木戸は、奥州藤原氏が築いた阿津賀志山(あつかしやま)防塁、転じて阿津賀志山中腹から宮城県へ続く現在の県境地域を指す言葉」とした上で「南からの旅人は、この険しい峠道を白河に次ぐ第二の陸奥(みちのく)への入り口と考えたのだろう」と話す(「道標」参照)。

 阿津賀志山の山頂はもちろん、芭蕉が越えたといわれる長坂付近や貝田でも、そこに立つと広々とした福島盆地のパノラマが目に飛び込んで来る。しかし宮城県側は一変して山中の道が続き、奥州藤原氏が支配した「深い陸奥」を思わせる。伊達の大木戸は「おくのほそ道」への第二の出発点だったのだ。

 芭蕉は、この峠で句は詠んでいない。しかし、印象が重なる句がある。

〈旅人と我が名呼ばれん初(はつ)時雨(しぐれ)〉潔い初時雨にぬれながら、道々で「もうし旅のおひとよ」と呼ばれる身に早くなりたいものだ、の意。芭蕉の紀行文「笈(おい)の小文」の出立吟である(今栄蔵「芭蕉句集」)。

【飯坂~国見】<旅人と我が名呼ばれん初時雨>

 【 道標 】陸奥...もう一つの入り口

 「伊達の大木戸は、どこにあるのか」とよく聞かれます。大木戸と言うと、多くの人が、大きな木戸口のようなものを思い浮かべるようです。確かに国見町には大木戸という地名がありますが、実際に木戸口などはありません。これは国史跡「阿津賀志山(あつかしやま)防塁」に由来するようです。

 阿津賀志山防塁は12世紀末、平泉を拠点とした藤原泰衡の奥州軍が、源頼朝率いる鎌倉軍を迎え討つために、現在の国見町内などに築いた防御陣地です。巨大な畝状の防塁は、阿津賀志山の中腹(標高約180メートル)から、南東の平野部、阿武隈川の手前(同約60メートル)まで延び、延長3.2キロに及びます。

 鎌倉時代には阿津賀志山に陣取った奥州軍の武将藤原国衡の本陣を「大木戸」と呼ぶ表現が、歴史書「吾妻鏡」に出てきます。時とともに、防塁が奥州藤原氏の領地に入る大きな入り口「大木戸」とイメージされ、地名としても大木戸が定着したと考えられます。江戸時代には「伊達の大木戸」と呼ばれました。

 阿津賀志山、別名「国見山」の麓の長坂付近からは福島盆地が一望でき、ここから北へ道は少し下っていきます。この地形から長坂が「国見峠」と呼ばれたようです。芭蕉もこの峠を越えたとみられ、今も芭蕉の碑があります。ただ、長坂の北には県境の山もありますから、先人は、防塁から県境までを大きな「関」と考えたのではないでしょうか。

 福島・宮城県境の北と南は、歴史も気候風土も少し違います。陸奥(みちのく)の入り口は白河の関といわれますが、旅人にとって「大木戸」はもう一つの陸奥の入り口だったと思います。芭蕉も、改めて旅の覚悟を固めたのではないでしょうか。(国見町文化財センターあつかし歴史館調査員・笠松金次さん)