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神崎琴音

聖地を巡礼する―表現と心理的安全

2020.11.16 00:19

2020/09/23 18:50

婚約の報告をしに、恋人を連れて行きつけのジャズ喫茶のマスターに会いに行った。


久々に来てみると、背筋が伸びて、何をするにも必要な「気力」みたいなものが補われ、湧いてくる感じがした。小説を読む気力、文章を書く気力。家で横になってスマホと向かい合っているだけでは生まれないものがある、と再確認した。


最近、歌いたい気力が自分にはもう無くなってしまったのではないかと思うことが多くある。ミュージカルを見て血湧き肉踊るのでないならば、わたしは何がしたくて生きている?


でも生きることは変わることであるし、衝動の形が変わっていくことも受け入れなければならないだろう。

面白いと思うものが何かわからないなら、自ら出会う機会は作らなければと思う。芸を志す者としていつまで生きていられるか。


綺麗とは言えないかもしれないが、自分の字が好きだ、と久々に文章を手書きして思う。忘れてたな、この思考と出力が競い合うような心地よさ。また来ようと思った。


何かが欠けている、渇望している、というような感覚は薄れたかもしれない?今までは表現の衝動の原動力をそこに依っていたので、それがなくなるのは不安もあるけど、本来なら心理的に安全なままで生きていて、表現してもいいはずだ、と思う。

その形がどんなものかはわからないけど、また歌ってみたら違う歌い方になっているかもしれない。


好きな場所があるのはとても幸せなことだ。好きな時間の過ごし方というのは、その時間を過ごしている時の自分が好きだということだろう。

なぜわたしは今日ここに来たのだろう、となぜか不思議にも思ったりする。

わたしは結婚する、それで何が変わるのだろう。

同じように日記のようなものをノートに書きつけている人が隣にいて、うれしく思った。


絶対音感がずれてきていることも、どうでもよくなる。良い音楽に包まれていると、そんな雑多な考え事はどこかに行ってしまって、必要十分なものだけと向き合える気がする。