深川萬年橋
https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/gu004043/ 【『深川萬年橋』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第43回】
浮世写真家 喜千也 【Profile】
歌川広重「名所江戸百景」では第51景となる『深川萬年橋(ふかがわまんねんばし)』。富士山と隅田川とともに、宗教儀式の象徴を描いた広重らしい大胆な一枚である。
橋とカメのなぞかけが潜むしゃれた名作
カメをぶら下げた手おけと、橋の欄干を枠に配した大胆な構図なので、この絵を記憶している人も多いだろう。隅田川越しに富士山を望むこの場所は、北斎の『富嶽(ふがく)三十六景』でも描かれた小名木川(おなぎがわ)に架かる萬年橋の上である。広重は夏の景として、放生会(ほうじょうえ)に備えるために売られていたカメとともに、その絶景を描いている。
放生会とは、捕らえられた魚や鳥獣を自然に放つことで、仏教の教えである「不殺生」を守り、功徳を積むという儀式。元々はインドから伝わり、神仏習合の時代には全国の八幡宮で行われていたという。深川の富岡八幡宮では、旧暦8月15日(中秋)に盛大に開催され、毎年多くの人が集まったそうだ。夏になると「放生」のために、わざわざ動物を捕まえて売る露店が現れたらしい。ウグイスなどの野鳥を扱う場合が多かったようだが、「鶴は千年、亀は万年」にちなみ、萬年橋でカメを売っていたというのが粋である。
絵に描かれているような小ぶりで、甲羅の美しいニホンイシガメを借りることができたので、富岡八幡宮の北方向にある萬年橋へ出掛けた。手おけにカメをぶら下げるので、撮影は短時間の勝負となる。しかし、元気一杯に手足や尾を突っ張り、なかなか元絵のような姿になってくれない。一旦引っ込めた手足を、甲羅から伸ばした瞬間にシャッターを切ると元絵に似ていたので、背景をぼかしたカットだが作品に仕上げた。
●関連情報
深川・深川八幡祭り
徳川家康が江戸に入った16世紀末、深川一帯はぬかるみのような三角州で、住む人も少なかったという。江戸の町づくりが始まると、摂津国(現大阪府)出身の深川八郎右衛門の一族によって開拓されたので、その名字が村名になったという。
小名木川北岸から始まった開発は南の方へと進み、1627年には深川八幡(富岡八幡宮)と永代寺が建立された。その当時は小さな漁村しかなかったが、57年の明暦の大火を機に防火対策として隅田川を隔てた深川に木場が置かれ、59年に両国橋が架かると多くの人が流入。八幡の周りにも料理屋、茶屋が立ち並ぶようになったそうだ。
明治に入ると一帯は深川区となり、90を超える町があった。1947年に城東区と合併して江東区となり、現在地名として残る深川は1丁目と2丁目だけの小さな町となっている。しかし、都内で「深川」と言えば、今でも旧深川区の江東区北西部一帯を指す。
富岡八幡の例祭は「深川八幡祭り」「深川祭」と呼ばれ、放生会はもう行っていないが、今でも8月15日を中心に開催している。江戸三大祭りの一つで、「御輿(みこし)深川、山車(だし)神田(神田明神・神田祭)、だだっ広いが山王様(日枝神社・山王祭)」と言われたように、江戸時代から御輿の渡御(とぎょ)が人気であった。1807年の祭りにはあまりにも多くの見物客が押し寄せたため、隅田川に架かる永代橋が崩落。死者・行方不明者1400人を超える大惨事となった。
3年に1度の本祭りでは、「わっしょい」の掛け声とともに50基以上の大神輿が練り歩く「連合渡御」が最大の見せ場となる。沿道の観衆が清めの水を担ぎ手に浴びせるので、「水掛け祭り」の別名も持つ。本祭りの前年にあたる2019年の例祭は8月11〜15日にかけて開催し、約30基の子供神輿による連合渡御(11日)をはじめ、音楽、舞踊、能、武道などの奉納行事を執り行う。
2017年の深川八幡祭り「連合渡御」。見物客がバケツの水を掛けられる担ぎ手たち 時事
2017年の深川八幡祭り「連合渡御」。見物客が担ぎ手たちにバケツの水を浴びせる 時事
浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。
https://artsandculture.google.com/asset/one-hundred-famous-views-of-edo-%E2%80%9Cmannenbashi-bridge-at-fukagawa%E2%80%9D-utagawa-hiroshige/eQEwzY1bCpjAHQ?hl=ja 【名所江戸百景 深川萬年橋 (深川万年橋)】より
万年生きるといわれる亀と、萬年橋の名前が掛けられています。江戸時代には捕えられた鳥や魚を放流し、死者の冥福と自身の後世を祈る放生会が寺社仏閣で行われ、手前に描かれる亀が、放し亀として売られていました。大胆な亀の前景の足元に、富士山が望まれます。
http://daihimajin.blog95.fc2.com/blog-entry-35.html 【東京・深川 萬年橋 今昔 ①】より
下の絵は葛飾北斎描く富嶽三十六景の中の「深川万年橋下」です。
旧中川と隅田川を東西に一直線に結んで掘られた運河・小名木川の隅田川河口付近から、万年橋と隅田川、対岸の中州とその向こうに見える富士を西洋画の遠近法を取り入れて見事に描いています。
この絵を見るにつけ以前から絵と同じ視線で現在の姿を眺めるのが夢だったのですが、最近になって手軽に水上クルーズができるようになり、このほどやっとその夢が実現しました。
昔は川の水面からでも富士山が見えたのでしょうが、現在ではビルにさえぎられ全く見ることはできません。
また、今の万年橋は1930年(昭和5年)それまでの位置より50mほど上流側に架け替えられたため、橋の上流側の写真を撮った位置からは富士山は左岸の陰になり、仮に隅田川の向こうにビルがなくても見ることができないと思われます。
http://daihimajin.blog95.fc2.com/blog-entry-36.html【東京・深川 萬年橋 今昔 ②】より
この絵は歌川広重の描いた名所江戸百景の中の「深川萬年橋」、橋の欄干と手桶の取っ手で囲まれたフレームの中に大川(隅田川)と対岸の中州、その向こうに富士、そして手前に縄で吊るされた亀が描かれています。
江戸時代、捕まえた魚や鳥などの生き物を買って放し殺生を戒める放生会(ほうじょうえ)という儀式が全国の八幡神社で行われていました。
広重は橋の上で近くの富岡八幡宮の放生会で放すために売られている亀と欄干越しの景色を描き、亀は万年橋と洒落ているようです。
江戸時代の川柳集「誹風柳多留(はいふうやなぎだる)」にこんな句があります。
『はなし亀一日ちうをおよいでる』
万年橋は昔富士山がよく見える場所として有名だったそうです.
大正9年に刊行された広重の江戸百景と当時の風景を対比させた今昔対照江戸百景という本にも
『いまの(万年)橋は、大正二年十二月に成った木橋で、對岸には近江銀行倉庫などが見える、河水洋々、大船小艇織るが如く、晴れたる日の夕には、富士を眞ともに望むべく、情景ともに古に變る所がない』
と書かれていて、大正時代にはまだ富士がよく見えていたようです。
今、橋の上から富士山の方向、中央左に見える清澄橋の支柱あたりを見ても富士は高層マンションに遮られていて、かなりの高さまで上がらないと富士は見えそうもありません。
http://daihimajin.blog95.fc2.com/blog-entry-37.html【東京・深川 萬年橋 今昔 ③】より
この絵は葛飾北斎の「たかばしのふじ」です。
深川萬年橋 今昔①に載せた「深川万年橋下」と同じような構図で万年橋の上流400mほどの川の上から高橋(たかばし)とその向こうに萬年橋、そして大川(隅田川)越しにかなりデフォルメして富士山が描かれていますが、こちらの絵は「深川万年橋下」より20年ほど前、文化4(1807)年頃の作品だそうです。
橋の下を流れる小名木川は徳川家康が江戸に入ってすぐ小名木四郎兵衛に命じて掘削させた運河で、江戸時代から明治の初めまで関東・東北の各地から利根川・江戸川・中川を利用して船で運ばれてくる物資を江戸に持ち込む重要な水路でした。この絵にも俵を満載した舟が描かれています。
いま「たかばしのふじ」と同じ視線で川の景色を見ると、高橋の向こうに見えるのは昭和36年に出来た新小名木川水門、万年橋は水門のゲートに隠れて見ることができません。
http://daihimajin.blog95.fc2.com/blog-entry-38.html 【隅田川 永代橋 今昔】 より
この絵は広重の名所江戸百景の一枚、永代橋佃し満(ま)です。
左に永代橋の橋げた、右に隅田川を下る舟の船尾、その先に諸国からきて停泊している大型の廻船、遠くに石川島と佃島、そして橋げたの向こうに白魚の四手網漁の漁火、空には半月と星が描かれています。
江戸時代、白魚は隅田川の名物で高級魚でした。中でも佃島周辺のものが最高とされ、夜ともなると暗い海に点々と光る漁火がこのあたりの風物詩となっていたといいます。
次の絵は天保5年から7年(1834-36)にかけて出版された江戸名所図会に描かれている永代橋、川下から川上方向を見下ろして描いてあります。
永代橋の左手前に日本橋川と豊海橋、橋の上流、図の左上遠方には小名木川の河口と万年橋が小さく見えています。
永代橋006s
永代橋は元禄11年5代将軍綱吉の50歳を祝して隅田川の河口近くに架けられた長さ百十間、当時としては最大級の橋でした。明治の中ごろまではこの橋の南側には広大な海が広がっており、「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」が望める風光明媚な景勝地であったといいます。
下の地図は幕末に作られた江戸大絵図の一部で、中央に隅田川と永代橋、下に石川島とその下(南)に隣接する田の字形の佃島、地図の上端右に万年橋が見えます。
永代橋001s
この永代橋も明治になると老朽化し、明治30年(1897)それまでの位置から約140mほど川下に日本初の鉄橋として架けかえられ、明治37年には橋の上に路面電車が敷かれ、永代橋の環境もどんどん変わって行きます。
大正8年の古今対照江戸百景には
『橋外は即ち蒼海白帆(はくはん)暮烟朝霞(ぼいんちょうか)風光の美を極め、都下屈指の景勝地であった、殊に橋間より下流佃島の方を望めば、諸国の船舶密集して帆檣(はんしょう)林の如く、若しそれ暗夜なりせば、漁火明滅遠き如く近き如く、詩人雅客をして懐襟(かいきん)を吟詠せしめずには已まなかった。』と昔の素晴らしい景観をしのんだあと、
『併し、今日は橋上に電車走り、この下流に相生橋架り、石川島には石川島造船所の建設を見るなど、状況は大いに變ったので、唯車響轣轆(れきろく)、煤烟靉靆(ばいいんあいたい)、天然の好景は絶て観られなくなった。』
と、電車の騒音と工場からの煤煙で昔の橋からの眺めはすっかり損なわれてしまったことを嘆いています。
この日本初の鉄橋も大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災で木製の橋底部分が炎上、大正15年関東大震災の復興事業第1号として現在のアーチ橋に架け替えられました。
今、広重が「永代橋佃しま」を描いた江戸時代の橋の下の位置から佃島方向を見ると、眼前には美しい姿の永代橋、橋の向こうには石川島播磨重工業の跡地に再開発された大川端リバーシティ21の高層マンション群がそびえ、近代的な都市景観を見せています。