川船番所
https://blog.goo.ne.jp/edokanko/e/35dd6f3bb61780faad3d6e0a4af06919【川船番所】 より
外国と商品を輸出入することを貿易と言います。そして、港や空港で外国から入ってくる貨物や日本から出ていく貨物を取り締まり、関税等の税金の賦課徴収を行うのが税関です。
江戸時代には、この税関と良く似た、番所という見張り所が交通の要所に設けられていました。その一つが、小名木川と大横川が交差するところの猿江側に設けられた猿江船改番所です。小名木川は江戸へ物資を輸送する重要な交通路であったため、猿江船改番所は、ここを航行する川船を取り締まり、年貢を徴収したり、川船に打たれた極印の検査を行ったりしていました。
尾張屋版切絵図「本所深川絵図(文久二年/1862年)」で、猿江橋(猿エハシ)のそばに描かれている、「舟番所」が猿江船改番所で、近江屋版切絵図「南本所堅川辺之地図(嘉永四年/1851年)」には、「川船・・・」と記されています。「・・・」の部分は、御役所と書かれているようですが、かなり読みづらく、はっきりしません。
藤沢周平著「恐喝」(雪あかりに収録、講談社)には、この猿江船改番所が、「川船番所」として登場しています。作品に書かれた町並みからは、藤沢先生は、おそらく近江屋版切絵図を傍らに置いて、作品を執筆されたように想像されます。ならば、なぜ「川船御役所」ではなく、「川船番所」と書いたのかですが、もしかすると、藤沢先生も「・・・」の部分を読むことが出来なかったのかもしれません。巨匠に対して、はなはだ失礼ながらも、「やはり、読めないか」と妙な親近感が湧いてきます。
川船番所が登場するその他の作品
藤沢周平著「闇の歯車」(講談社)(作品中では、「川舟御番所」)
http://obio2.blog.fc2.com/blog-entry-445.html 【【200回行く】その39 川船番所跡(東京都江東区常盤)】 より
美術館・博物館・庭園・名店などなどに200回行く
私は東京に転勤で滞在中ですが、いつまで東京にいられるかわからないサラリーマン。東京を離れるまで(いつかは未定)に、美術館、博物館、庭園・銘品を扱うお店などに200回行く目標を、2020年8月1日に立てました。がんばります。
今回は平賀源内電気実験の地からの流れで「川船番所跡」に行ってきました。場所は、東京都江東区常盤1-2-5。隅田川とその支流である小名木川が合流する付近です。[地図|公式サイト]
おそらく写真の右下あたり。右下から左上に向かって流れる川が小名木川、遠くを横切る川が隅田川です。
【200回行く】その39 川船番所跡(東京都江東区常盤)
川船番所は江戸幕府により設けられた番所で、万年橋(下写真)の北岸に置かれ、川船を利用して小名木川を通る人と荷物を検査する場所でした。
現在の万年橋と、葛飾北斎による「富嶽三十六景 深川万年橋下」に描かれた万年橋(天保元年~3年:1830~1832年頃)。似てます。というか、似せて建設したのでしょうね。(参考)
万年橋
以下、江東区教育委員会
川船番所の設置の年代は明らかではありませんが、正保4年(1647年)に深川番の任命が行われていることから、この頃のことと考えられています。江戸から小名木川を通り、利根川水系を結ぶ流通網は、寛永年間(1624~1644年)にはすでに整いつつあり、関東各地から江戸へ運ばれる荷物は、この場所を通り、神田・日本橋など江戸の中心部へ運ばれました。
こうしたことから、江戸への入り口としてこの地に番所が置かれたものと思われます。建物の規模なども不明ですが、、弓・槍がそれぞれ5本ずつ装備されていました。明暦3年(1657年)の大火後、江戸市街地の拡大や本所の掘割の完成などに伴い、寛文元年(1661年)中川口に移転しました。以後、中川番所として機能することになり、当地はもと番所と通称されました。
【200回行く】その39 川船番所跡(東京都江東区常盤)
ちなみに、この付近から隅田川を見た風景は「ケルンの眺め」と呼ばれています。遠くに見える清洲橋が、ドイツ・ケルン市にかけられたライン川の吊り橋をモデルにしているからだそうです。まぁ、なんとなくドイツっぽい無骨さはあると思いますが、元ネタがどんな吊り橋なのかわからないのでなんとも・・・
http://obio2.blog.fc2.com/blog-entry-446.html 【【200回行く】その40 江東区芭蕉記念館(東京都江東区常盤)】より
今回は、江東区芭蕉記念館に行ってきました。場所は、東京都江東区常盤1-6-3。最寄り駅は地下鉄都営新宿線・大江戸線「森下駅」で、歩いて10分くらいかかる住宅地の中にあります。[地図|公式サイト]
ここは日本の文学史上偉大な業績を残した松尾芭蕉ゆかりの地です。芭蕉は延宝8年(1680年)、江戸日本橋から深川の草庵に移り住みました(ここに引っ越してきた理由は不明)。そして、ここを拠点に新しい俳諧活動を展開し、多くの名句や『おくの細道』などの紀行文を残しています。この草庵は、門人から贈られたバショウが生い茂ったことから芭蕉庵と呼ばれました。
芭蕉没後は松平遠江守武家屋敷の一部として残りましたが、幕末から明治にかけてのどさくさで失われました。深川の地域の中でも芭蕉は何度か引っ越しをしているのですが、最後の芭蕉庵は安政5年(1858年)に作成された「本所深川絵図」という地図の中に「芭蕉庵ノ古跡庭中ニ有」と記されています。具体的な場所はよくわからないのですが、当時の万年橋のたもとに松平遠江守の屋敷はありましたので・・・お屋敷の門を出ると目の前が万年橋・・・現在の記念館よりもずっと清澄白河駅よりだったのではないかと思います。
もっとも、川の流れや川幅も当時とは変わっているでしょうから、特定は難しいのでしょう。昭和21年に福井良之助という人が万年橋と思われる橋を背景にして「深川芭蕉庵址の図」という絵画を残していますので、その頃までは場所が特定できたということかもしれません。
芭蕉庵
大正6年(1917年)9月の台風の後、この近所(後述の芭蕉稲荷神社付近)から「芭蕉遺愛の石の蛙(かわづ)」(下写真)が出土したため、大正10年に東京府はこの地を芭蕉翁古池の跡と指定しました。
【200回行く】その40 江東区芭蕉記念館(東京都江東区常盤)
記念館の入り口風景と、3階から見下ろした2階展示室。館内は基本的に写真撮影できますが、一部の掛け軸等撮影禁止のものがありますので、ルールを守って見学しましょう。
【200回行く】その40 江東区芭蕉記念館(東京都江東区常盤)
【200回行く】その40 江東区芭蕉記念館(東京都江東区常盤)
江東区芭蕉記念館
松尾芭蕉
まつおばしょう
[生] 寛永21(1644).伊賀上野
[没] 元禄7(1694).10.12. 大坂
江戸時代前期~中期の俳人。本名,宗房。幼名,金作。通称,甚七郎または忠右衛門。別号,桃青,釣月軒,泊船堂,夭々軒,芭蕉洞,風羅坊。一説に伊賀国柘植 (つげ) の出生という。士分待遇の農家の出身で,伊賀上野の藤堂良忠 (蝉吟) に仕え,良忠とともに北村季吟に俳諧を学んだ。寛文6 (1666) 年の良忠没後致仕し,一時京都に遊学したともいう。同 12年郷里の天満宮に句合『貝おほひ』を奉納,江戸に下った。延宝期は談林俳諧に傾倒したが,杉風,其角,嵐雪などの門人もでき宗匠として独立。延宝8 (80) 年深川の芭蕉庵に隠棲し,そこで従来の談林の俳風をこえて,蕉風俳諧を創始。また各地を旅行して『野ざらし紀行』をはじめ『更科紀行』 (88) ,『奥の細道』など多くの名句と紀行文を残した。句集は『俳諧七部集』に収められる。そのほか俳文『幻住庵記』 (90) ,日記『嵯峨日記』 (91) などがある。
(ブリタニカ国際百科事典より)
さすがはブリタニカ、素っ気なくわかりにくい・・・。
松尾芭蕉は、現在「俳句」として親しまれている「俳諧」を芸術的な文芸として完成させた江戸時代の俳人です。ちなみに、私の恩師は飴山實(あめやま みのる)先生という、科学者でもあり、俳人でもあった人物です。私が高校生の時に、山口大学には科学者なのに俳人の先生がいるということを伝え聞き、飴山實先生がどんな人なのか俄然興味がわき、高校3年で文系から理系に理転したという経験があります。
なお「俳諧」とは、何人かの人が集まって句を次々に詠んでつなげていく文芸のことです。現在の「俳句」は俳諧をもとに、明治以降、正岡子規らが俳諧の中で一番最初に詠まれる句(=発句:ほっく)を独立した文芸として成立させたものです。今で言うところの「日本タイトルだけ大賞」のようなものです。
芭蕉がどんな容姿の人だったかについては、芭蕉は俳聖(はいせい)と呼ばれ、神様のような存在でしたので、いろいろな人が記録に残しています。
三十代後半はこんな感じ。
【200回行く】その40 江東区芭蕉記念館(東京都江東区常盤)
芭蕉が行灯の横で文台を前に文筆する様子
古池や蛙飛び込む水の音
「古池や 蛙飛び込む 水の音」の誕生
貞享3年(1686年)春、芭蕉庵で芭蕉と門人たち約40人が集まって、蛙を題材にした句あわせが行われました。そこで芭蕉が詠んだのがこの有名な俳句です。蛙は春の季語です。解釈には諸説ありますが、門人の一人・各務支考(かがみしこう)は句の成立事情を俳論書「葛の松原」に記しています。
「蛙の水に落る音しばしばならねば、言外の風情この筋にうかびて、蛙飛びこむ水の音といへる七五は得給へけり。晋子が傍らに侍りて、山吹といふ五文字をかふむらしめむかとをよづけ侍るに唯古池とはさだまりぬ」
これを読んでも、実際なぜ「山吹や」ではなく「古池や」としたのかはよくわかりませんが、展示室の解説によれば、蛙の鳴き声と言えば山吹という古くからの和歌の伝統に対し、伝統にとらわれない芭蕉の革新性を示しているとされています。
私は、これまた後述の「川上と この川下や 月の友」とも考え合わせると、目の前の風景を叙情的に詠んだのではないかと思うのですがどうでしょうか。つまり、芭蕉の目の前には山吹ではなく、古池があったからこう詠んだ、という解釈です。
【200回行く】その40 江東区芭蕉記念館(東京都江東区常盤)
晩年の芭蕉
【200回行く】その40 江東区芭蕉記念館(東京都江東区常盤)
『おくの細道』は後の時代の人によって多くのバージョンが発刊されましたが、これは「野坡(やば)本」と呼ばれ、芭蕉自筆本とみられています。ヤバイですね☆
下に筆致を拡大します。
おくの細道 野坡本
やば本が発見されたのは平成8年(1996年)になってからのことでした。現在は個人蔵です。これまたヤバイですね☆ この発見までは、おくの細道を芭蕉と共に旅した5歳年下の隣人・河合曽良が清書したもの(1938年に発見)が最古(オリジナルに最も近い)の『おくの細道』でした。曽良自身も『曽良旅日記』をこの旅で残しています。
下の写真は『おくの細道』の言ってみれば進化系統樹です。やば本をもとに、いろいろな人が清書をしたり、注釈を書き加えたり、芭蕉が歩いた道を実際に歩いて自分が詠んだ句を追加したり、同様に旅して風景画を挿絵としていれたりしてさまざまな『おくの細道』が誕生しました。今で言うところの同人誌、芭蕉オンリーということろでしょうか。
ちなみに、芭蕉自身は西行法師を非常に尊敬していました。西行法師は日本各地を旅して和歌を残した僧侶ですが、芭蕉自身も、西行がたどった道を自らもたどり、西行が和歌に詠んだ題材(=歌枕)を尋ねあるきました。それが『おくの細道』の旅の目的でした。今で言う、アニメや小説などのファンによる「聖地巡礼」と芭蕉の『おくの細道』は同じ意味合いだったのです。
ちなみに、『おくの細道』は、それまで住んでいた旧芭蕉庵を引き払って1689年5月16日に江戸を出発し、1691年に江戸に戻りました。150日間の旅でした。歩いた距離は 2,400km、詠んだ句は思いのほか少なく、50句でした。このことからも『おくの細道』が自らの歌を詠むための旅ではなく、西行法師の歌枕「聖地巡礼」の意味合いが濃かったことを示しています。
おくの細道 諸本系統図
芭蕉は何度も転居をしていますが、下の写真はこの地、深川芭蕉庵です。「芭蕉翁絵詞伝 上巻」に収められています。ここの他に、滋賀県大津市や、京都府右京区に草庵を持ちました。ちなみに、下の絵で数本描かれている、庵の屋根よりも巨大な葉を茂らせているのがバショウです。よく池のある公園で見かけるミズバショウを想像する人が多いですが、ほぼバナナの木です。植物学的にもバナナです。
芭蕉庵
芭蕉直筆のさらしな紀行
芭蕉の『さらしな紀行』、展示されているのは、1797年に別の人の筆で発刊されたもの。バショウ自筆による『さらしな紀行』は、三重県伊賀市に現存しています。
【200回行く】その40 江東区芭蕉記念館(東京都江東区常盤)
多くの地を旅した芭蕉
元禄7年(1694年)芭蕉51歳の時、里帰りをするつもりで上方(大阪)へ出立しました。芭蕉はこのたびを終えて江戸へ戻るつもりだったようです。しかし芭蕉は、旅の途中で体調を崩し(9月)10月12日に亡くなりました。10月14日、遺言に従い、義仲寺に埋葬されました。
「旅に病んで 夢は枯れ野を かけ廻る」
この句は「病中吟」という前書きがついているそうで、辞世の句ではないそうです。飴山實先生につきながらも私は俳句に疎いので詳しくはこちら。
さて、江東区芭蕉記念館を出て右手、200メートルほど森下駅方向に戻った場所に「芭蕉庵史跡跡展望庭園」があります。この建物は会議室で中に展示はありませんが、外階段で直接屋上に上がれるようになっており、屋上からは隅田川・小名木川が一望でき、芭蕉に関する解説が刻まれたプレートが何点か展示されています。
【200回行く】その40 江東区芭蕉記念館(東京都江東区常盤)
前述の通り、松尾芭蕉は、延宝8年(1680年)冬から隅田川と小名木川が合流するこのあたりに、深川芭蕉庵と呼ばれる庵を建てて住んでいました。『おくの細道』の旅を終えた芭蕉は元禄6年(1693年)、50歳の秋に小名木川五本松のほとりに船を浮かべ、「深川の末、五本松といふ所に船をさして」の前書きで「川上と この川下や 月の友」の一句を吟じました。
この句は「私は今、名月の夜、小名木川の下流、五本末のあたりに船を浮かべて月を眺めているが、この川上にも風雅の心を同じくする私の友がいて、今頃は私と同じようにこの月を眺めていることだろう」という意味です。時代的には超高齢者ともいえる老境の域に達した芭蕉が美しい月に照らされて心まで透き通るような境地で詠んだのではないかと想像します。
五本松
その五本松というのは残っていないのではないかと思うのですが、別の所(住所:猿江2-16[地図が出ます])に「五本松旧跡」というのがあるようで(私は帰宅してから知ったので訪れていません)、江戸時代の丹波綾部藩久鬼家の下屋敷の庭にあった5本の松の大木だそうで、いずれも小名木川に張り出すほどの立派な松だったそうです。徳川家三代将軍家光がこれを見て「なんとバエる松であろうか」と感激し、それをきっかけに江戸町人の人気スポットになったとのことです。
遠景は隅田川にかかる清洲橋です。
【200回行く】その40 江東区芭蕉記念館(東京都江東区常盤)
また、この分館の細い路地を挟んで斜め前には芭蕉稲荷神社があります。前述の石の蛙が出土した場所なのだそうです。大正6年のことですので、芭蕉存命中とこの神社は関係が無いようです。
芭蕉稲荷神社
松尾芭蕉が聖地巡礼をして楽しんでいたこと、『おくの細道』の同人誌が多数発刊されていたことを今回の見学で知り、松尾芭蕉さんにとても興味がわいてしまったのでした。