深川を歩く
https://blog.goo.ne.jp/tetthan/e/0aaa39dfe0e42b84e238a2194f5e1202 【深川を歩く 門前仲町~萬年橋】 より
「深川を歩く」は、門前仲町の駅を降りて江東区を北上するルートで散策する。
●門前仲町
江戸時代は永代寺門前仲町と呼ばれ、17世紀半ばから町屋が形成されはじめた。大正末期まで、深川富岡門前町と呼ばれるようになって、永代通りの北側には、深川不動尊、富岡八幡宮の参道があって、かつてはここが羽織芸者、辰巳芸者でならした花街であった。昭和初年には、芸妓置場54軒、芸者149人、料亭14軒、待合36軒があったという。
花街といえば旦那衆が出てくるが、ここの旦那衆は、木場の材木問屋の大旦那衆。ただここの旦那衆は花街には力を注いだようだが、政財界などへの食い込みは少なかったようで、木場の移転や衰退とともに、深川の花街の灯は、あっという間に消えていったそうだ。
富岡八幡宮前にあった二軒茶屋
●深川ゑんま堂(法乗院) 住所:深川2-16-3
賢台山賢法寺と号し、ゑんま堂として有名。法乗院は、覚誉僧正が開山となり、1629(寛永6)年深川富吉町に創建、1641(寛永18)年当地に移転した。
近年、闇魔堂が改築され、お賽銭を入れると、コンピューター制御で、堂内に照明が灯り、スポットライトが回り、願いごとに応じてありがたいお言葉が流れてくるのというので、ハイテク闇魔とも呼ばれている。ぼけ防止の願いごとにお賽銭を入れた。
堂の前面には『御心は遠くにあるのではなく 自分自身の心の中にあるのです 幸せを願い 救いを求めるなら 信じることです』と書かれていた。
●小津安二郎の地 江東区深川1-8-8
映画監督・小津安二郎生誕の地。生家は「湯浅屋」という肥料問屋であった。安二郎が10歳のとき、三重県松坂町に転居する。
1927(昭和2)年、監督デビュー、1962(昭和37)年の「秋刀魚の味」が遺作となっている。全部で54作品発表している。
東京物語の撮影場所は、彼が生まれた深川から江戸川にかけての下町一帯という。
●伊能忠敬住居跡 住所:江東区門前仲町1-18
忠敬は千葉県に生れ、江戸に出て高橋東岡(高橋至時)に測量術を学び、1795(寛政7)年幕府の命をうけて全国を測量し沿海路程図を完成した。
その測量の原点は忠敬の居宅であった。忠敬ははじめこの付近に住み、のち中央区八丁堀に移り正確な地図を完成した。忠敬は1818(文政元)年74歳で死去し台東区源空寺に葬られている。
●紀文稲荷神社 住所:永代1-14
江戸中期(元禄時代)の豪商紀国屋文左衛門の下屋敷が直線で200m南、川の反対側の現在のみずほ銀行深川支店(永代2-36-16)あたりにあった当時、この付近一帯は運河が縦横に走り、ここに紀国屋文左衛門の船蔵があっった。神社は航海の安全と商売の繁盛を祈って京都伏見稲荷神社より御霊をこの地に祀ったもの。
紀国屋文左衛門は風浪を犯して紀州よりミカンを江戸に運び、また材木商として明暦の大火に木曽の木材を買い占め、数年で巨万の財を築き、豪遊して紀文大尽と称された。
●松代藩真田家下屋敷跡(佐久間象山砲塾跡) 住所:江東区永代1-14
松代藩士佐久間象山はこの地で砲術塾を開いた。
象山は藩主真田幸教の命により軍議役として神奈川・横浜方面の警備に就くことになった。その折に、大砲5門と新式の銃を装備した百人を含め400人余りの武士を伴って横浜へ向かった。
その大砲は今も中華街近くに展示されている。
関連 展示の大砲 : 絹の道・浜街道を歩く 4日目 ●シルク通り
●赤穂浪士休息の碑 住所:江東区佐賀1-6-2
永代橋たもとにあった味噌屋乳熊屋の主人竹口作兵衛は、1702(元禄15)年吉良邸に討ち入りし、仇討ちを果たし後、高輪泉岳寺に向かう赤穂浪士一行をこの地で、甘酒を振舞ったという。
赤穂浪士大高源吾と作兵衛は俳諧の友であった。
赤穂浪士はここから永代橋を渡って、泉岳寺に向かった。
永代橋は、徳川五代将軍綱吉の50歳を祝して1698(元禄11)年に架けられている。当時は現在よりも100m上流にあって、名称は、当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたからという説と、徳川幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説がある。
橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所であったと記録(『武江図説』)に残る。 下図は永代橋
関連 : 時は元禄15年 赤穂浪士吉良邸に討ち入る
●佐賀稲荷神社 住所:佐賀2-4-8
江戸時代初期の深川は小島の点在する遠浅の海であったが1629(寛永6)年永代島付近の埋立て、佐賀町の前身が出来る。町名は地形が肥前之国(佐賀長崎)佐賀湊に似ていたことに因むと云われる。
干潟を埋め町造りの基礎を固め漁村から海上運送の起点として繁栄する。
1630(寛永7)年佐賀町に住む人々の除厄招福を願い佐賀稲荷神社を建立する。
●平賀源内電気実験の地 住所:清澄1−2−1
案内によると「わが国最初の電気学者にして1777(安永5)年エレキテルを完成し、この付近深川清住町現在の清澄1丁目私宅において電気実験を行なった」とある。
丁度というか、偶然というか、NHKのEテレ「知恵泉」で先週と今週で平賀源内を取り上げている。
俄か勉強の私にとっては、タイミングの良い番組内容である。
この番組によると、中学の社会科にも登場する「エレキテル」、静電気の発生装置で、源内は「ゐれきせゑりていと」と表記して、医療器具に用いた。
源内は長崎の古道具屋で、破損したエレキテルを求め、それを模索完成した機械であるが、パクリのような作品にも思える。
番組によると源内は、多芸多才の持ち主で、あらゆる分野でイノベーション(技術革新)を行っている。郷里・讃岐で、唐三彩をまね源内焼きを考案。南北アメリカ大陸をデザインした焼き物を輸出したというから、奇抜な才能があったようだ。
また、浮世絵の多色刷りも考案しており、その後の西洋画にも影響を与えている。
肩書きは、本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家と多才、竹トンボの発明家ともいわれる。享年52歳で獄死している。源内が描いた油絵 エレキテル
●セメント工業発祥の地
官営深川工場は、東京府下深川清住町仙台屋敷跡に建造された。現在の江東区清澄 1 丁目付近である。この地には現在、アサノコンクリート㈱深川工場、読売・日本テレビ文化センター本部などがあり、その一角に「本邦セメント工業発祥之地」の記念碑がある。
●滝沢馬琴生誕の地 住所:江東区平野1-7
江東区平野の深川老人福祉センター(平野1-2-3)の一角に滝沢馬琴(曲亭馬琴)生誕の地を示すモニュメントがある。
江戸時代後期の戯作者・滝沢馬琴(曲亭馬琴/1767~1848)は、1767(明和4)年、この地で誕生した。
当時この地には、旗本・松平鍋五郎の屋敷があり、馬琴の父は松平家の用人だった。1775(安永4)年幼くして父を亡くし家督を継ぐが、1780(安永9)年15歳の時に松平家を 去り放浪生活に入ると、門前仲町に住む。1790(寛政2)年に山東京伝(1761~1816)に弟子入りし、戯作者として出発した。
山東京伝(さんとうきょうでん)は、江戸時代後期の浮世絵師、戯作者。寛政の改革における出版統制により手鎖50日の処罰を受けた。
●小名木川や仙台堀川・大島川などの運河
1590(天正18)年、秀吉から関東の地を与えられた家康は、道灌の築いた江戸城を根拠にして、領地の経営に乗り出した。
家康の事業は、根拠地としての江戸の町づくりで、その政策のひとつとして、陸上よりはるかに効率の高い舟運による経済基盤の整備を行った。
千葉の行徳から塩を運ぶために小名木川の運河を整備。東の低地に運河を掘り、その土で湿地をかさ上げして市街地を造成した。
江東区を流れる河川で旧中川と隅田川を結ぶ運河のひとつ、仙台堀川も寛永年間に開削された。この堀の北岸(現在の清澄公園の西隣)には仙台藩の深川蔵屋敷があり、この堀を利用して仙台から米等を輸送した。このことから「仙台堀」と呼ばれる。
その後も幕府は六間堀や五間堀などの開削事業を行っている。
大島川 仙台堀川 小名木川
●霊願寺 住所:江東区白河1-3-32
1624(寛永元)年、霊巌雄誉(れいがんおうよ)上人が隅田川河口を埋め立てて霊巌島(現在の中央区新川)に霊願寺を創建された。明暦の大火(1657)後に、徳川幕府の防火対策を重視した都市改造計画の一環として、1658(万治元)年現在地へ移転した。
徳川十一代将軍家斉のもとで老中首座として寛政の改革を行った、陸奥国白河藩松平定信の墓所があり、白河の地名も名付けられた。
その他、今治藩主松平家や膳所藩主本多家など大名の墓が多く存在する。
また、境内には江戸六地蔵の第五番が安置されている。
陸奥国白河藩松平定信の墓所 江戸六地蔵
●深川江戸資料館 住所:江東区白河1-3-28
江東区立の江戸時代に関する資料等を収集、保存及び展示している資料館。
江戸時代(天保年間頃)の深川佐賀町の街並みを再現した展示。街並みは小ぶりではあるが必見である。
●清澄庭園 住所:江東区清澄3-3-9
江戸時代、ここは下総国関宿藩主久世家の下屋敷であったが、後に三菱財閥の岩崎家へ渡り、都へ寄贈、整備が続けられ、近世庭園史上貴重な回遊式築山泉水庭園として完成された。
全国各地から収集した豊富な奇岩名石、広大な池水を囲んだ大小の島々の配置や涼亭と池のみぎわの美しさはまさに白眉といえ、都内屈指の名園として知られている。
1979(昭和54)年には、との名勝第1号に指定され、新東京百景のひとつにも選ばれている。
●深川稲荷神社 住所:江東区清澄2-12-12
布袋尊のまつられている深川稲荷神社は、1630(寛永7)年の創立。深川地区では、創立の古い神社で、西大稲荷ともいう。この付近の旧町名は、深川西大工町といい、その旧名から西大稲荷と称した。
神社の裏の小名木川は、江戸時代初期から、船の往来がはげしく、この付近一帯に船大工が住み、船の修繕、造船をしていたので、町名が生まれたといわれている。1932(昭和7)年深川清澄町と改称した。
●相撲部屋
深川富岡八幡宮は、江戸勧進相撲発祥の地でもあってか、深川は相撲部屋が連なって建っている。
生憎、場所中しかも大阪とあって、部屋は人がいないのかと思うほど静まり返っていた。
萬年橋への道筋なので歩いた。この近くの相撲部屋はこれ以外に尾車部屋(清澄2-15-10)がある。
https://blog.goo.ne.jp/tetthan/e/07d31d49300425be6700884a80b5430f 【深川を歩く 萬年橋~菊川】より
芭蕉庵
相撲部屋が建ち並ぶ界隈を出て、清澄通りを右折する。
すぐに萬年橋が見える。橋の手前の左手には『古池や 蛙飛び込む 水の音』の句が書かれた、陶板が小名木川のフェンスの基礎コンに掛けられている。
いよいよ芭蕉の町に入るのだという気がした。
萬年橋を渡る。
●萬年橋
あさみちゆきさんの歌に「萬年橋から清洲橋」がある。
萬年橋から 清洲橋
路地の奥から 川風が
風鈴鳴らして 吹きぬける
今も 昔と 同じです
浴衣の柄の 赤とんぼ
どこへ どこへ 飛んでいった
幼い日に愛に走った母親への思いを歌った曲。歌詞に下町の風景を感じさせる。
萬年橋から清洲橋
橋の由来は、永代橋になぞらえて、末永く残るようにと思いを込めて、「萬年橋」という呼称となった。
歌の中に出てくるもうひとつの清洲橋は、すぐ南側にある隅田川に架かる橋で、萬年橋たもとからの眺めがもっとも美しく見える角度とされ、清洲橋のモデルとなったドイツ・ケルンのライン川に架かる吊橋を彷彿させることから「ケルンの眺め」と呼ばれている。また、その延長線上に、むかしは富士山が眺められたという。
清洲橋は関東大震災の復興計画に基づき、1928(昭和3)年の架けられたつり橋である。当時の深川区清住町と日本橋区中洲町を結んだところから名付けられた。
ケルンの眺め
●川船番所跡
萬年橋が架橋された年代は定かではないが、1680(延宝8)年の江戸地図には「元番所のはし」として当所に橋の記載がある。江戸時代初期、この橋のすぐ北側に小名木川を航行する船荷を取り締まるために「川船番所」が置かれていたものの、この番所は明暦の大火後の江戸市街地の整備拡大に伴い、1661(寛文元)年に中川口へと移されたため、付近が「元番所」と呼ばれていたことに由来する。
萬年橋の常盤側に「川船番所跡」の案内板がたっている。
●芭蕉稲荷神社 住所:常盤1-3
俳聖芭蕉は、杉山杉風(さんぷう・1647~1732)に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して1680(延宝8)年から1694(元禄7)年大阪で病没するまでここを本拠とし、「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て「奥の細道」等の紀行文を著した。
芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。
たまたま1917(大正6)年津波襲来のあと芭蕉が愛好したといわれる石像の蛙が発見され、地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、1921(大正10)年東京府は常盤1丁目を旧跡に指定した。
1945(昭和20)年戦災のためにここが荒廃してしまったため、地元の芭蕉遺蹟保存会が1955(昭和30)年復旧に尽くした。
しかし、狭いため常盤北方の地に旧跡を移し、江東区によって芭蕉記念館を建設した。
●新大橋旧橋標柱
標柱は、萬年橋北交差点の北西角にたっている。
新大橋が架けられた頃、新大橋の東詰近くの芭蕉庵に松尾芭蕉が住んでいた。
松尾芭蕉は、架橋中から架橋完了後の新大橋について、句を詠んでいる。
「初雪やかけかかりたる橋の上」と架設工事中の様子を詠み、完成後には「ありがたやいただいて踏むはしの霜」と詠んでいる。
新大橋は、江戸時代には、何度も破損、流出、焼失している。明治になってからは、1885(明治18)年に西洋式の木橋が架け替えられ、1912(明治45)年には鉄橋として現在の位置に架け替えられる。
関東大震災の際には、新大橋以外の隅田川に架かる橋がすべて焼け落ちてしまい、新大橋だけが炎上を免れ、沢山の避難住民の命を救うこととなった。そのため、「人助け橋(お助け橋)」とも呼ばれた。
この明治の鉄橋一部分が、愛知県犬山市の明治村に移築、保存されている。
大橋は浮世絵でも、歌川広重の名所江戸百景の「大はしあたけの夕立」として描かれ、この絵に基づきゴッホが「大橋の雨」という絵を描いている。
この交差点から東に走る道を「芭蕉通り」と呼んでいる。南に100m余りのところに芭蕉稲荷、北に100mほどに江東区芭蕉記念館がある。
●猿子橋跡(猿子橋仇討旧跡) 住所:常盤1-12
本所の竪川と、深川の小名木川をつなぐ六間堀に架かっていた橋が猿子橋。現在、六間堀は埋めたてられてしまったので、常盤一丁目交差点あたりに橋はあったのではと思い、常盤一丁目12番地の1区画を一周したが猿子橋跡の碑はないようだ。
また、1798(寛政10)年、崎山平内が、だまし討ちにした渡辺彦作の妻子にここで討たれ、入獄死した。
と、いうことからか、これをモデルにして、池波正太郎著『鬼平犯科帳』の第7巻「寒月六間堀」で、息子の敵討ちをする老武士を、鬼平が助太刀する場所として、猿小橋が登場する。
また、『居眠り磐音 江戸双紙』(陽炎の辻)の主人公である天才剣士・坂崎磐音が住む六間堀町の裏長屋・金兵衛長屋も猿小橋の近くである。
小説とは言え、橋跡から金兵衛長屋をイメージしたかったのだが、残念。
●江東区芭蕉記念館 住所:常磐1-6-3
江戸時代の俳人松尾芭蕉ゆかりの地に建つ記念館。
記念館では、芭蕉をはじめとする俳句文学関係の資料を随時展示。
屋根付きの門をくぐると小庭があって、芭蕉庵を模した茅葺の祠や句碑があり、句が書かれた札がところどころに掲げられている。
記念館の裏木戸を出るとそこはもう隅田川のほとり、「奥の細道」のレリーフが飾られている。
「この俳画の素材は、堂板を用いた。時の経過に伴う酸化作用を狙い、侘(ワビ)・寂(サビ)の世界を意図しています。」と注釈が
●芭蕉庵史跡展望庭園
この庭園は、芭蕉稲荷神社から奥にはいった、隅田川を望む場所にあり、芭蕉像や芭蕉庵のレリーフがある。「門人が贈ったひと株の芭蕉がよく繁茂し、やがて草庵の名にもなった。草庵からは、遠く富士山が望まれ、浅草観音の大屋根が花の雲の中に浮かんで見えた。」と、案内には書かれている。
富獄三十六景 深川万年橋下
(略)
●六間堀跡と五間堀跡
六間堀は、小名木川と北に位置する竪川との二本の川を結ぶ900mの堀割で幅が六間(10.8m)あった。この跡地は今は道路と住宅になっているが、そのままの形状で残っている。
竪川は明暦の大火後の1659(万治2)に開削された堀割である。
五間堀は、現在の都営新宿線森下駅のやや北側で、六間堀から東に分かれる堀割。
現在、五間堀が六間堀から分れる付近には、六間堀児童公園(新大橋3-18-2)が、分れた先には五間堀公園(森下2-30-4)がそれぞれつくられている。
五間堀公園は、堀そのものの姿のまま細長い公園になっている。
●長谷川平蔵屋敷跡(遠山金四郎屋敷跡)
予定にはしていなかったが、ひと駅足を伸ばして菊川駅近くの屋敷跡に行った。
平蔵の屋敷は数カ所あったといわれるが、はっきり判明している屋敷跡はここだけだという。
長谷川家は家禄400石の旗本で、平蔵宣以(のぶため)が19歳の1764(明治元)年、父平蔵宣雄(のぶお)の屋敷替えにより、築地から本所三の箸通り菊川の1,200坪余りの屋敷へ移った。平蔵は火付盗賊改役として、50歳で没するまでの8年間在職し、盗賊逮捕に実績を上げた。 また、職業訓練をもって社会復帰を目的とする石川島の人足寄場を提案、実現させた。
その後、孫の代の1846(弘化3)年に屋敷替えによって、江戸町奉行遠山左衛門尉景元(さえもんのじょうかげもと)、または遠山金四郎景元の下屋敷になった。金四郎は江戸北町奉行に1840(天保11)年任命された。一度奉行職を罷免されるが、2年後に再び南町奉行として任命されている。後の世に名を馳せる人物が2人住んでいた屋敷だいうのも奇遇だろう。