深川芭蕉庵
http://urawa0328.babymilk.jp/sitamati/inari.html 【深川芭蕉庵】より
旧新大橋跡から芭蕉稲荷神社へ。
深川芭蕉庵旧地の由来
俳聖芭蕉は、杉山杉風(1647-1732)に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝8年(1680年)から元禄7年(1694年)大阪で病没するまでここを本拠とし「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な『奥の細道』等の紀行文を著した。
天和2年(1682年)12月28日、芭蕉庵焼失。翌年、芭蕉は都留郡谷村(現都留市)の高山麋塒(1649~1718)を頼って逗留。
「八百屋お七の火事」である。ちなみに呉服店「越後屋」も天和の大火で焼けている。
天和3年(1683年)9月、山口素堂は新庵の建築を願って「芭蕉庵再建勧化簿」作成。
第二次芭蕉庵完成。
ふたゝび芭蕉庵を造りいとなみて あられきくやこの身はもとのふる柏 『続深川集』
文鱗は「出山の尊像」を贈った。
文鱗生、出山の御かたち(像)を送りけるを安置して南もほとけ艸のうてなも涼しかれ
「出山の尊像」は芭蕉の遺言で支考に伝えられた。
芭蕉の句碑
古池や蛙飛びこむ水の音 貞亨3年(1686年)、芭蕉43歳の時の作。
山口誓子は芭蕉稲荷の句碑を訪ねている。
現在の防潮堤に登って見ると、隅田川は臭く、黒ペンキのように黒い。
句碑は昭和三十年建立。社会党の議員だった真鍋儀十が模写したのだ。模写だから「婦る池や蛙飛こ無」などと書いてある。
『句碑をたずねて』(奥の細道)
要津寺にある芭蕉の句碑の模写である。
真鍋儀十は俳人。高浜虚子に師事、「ホトトギス」同人。俳号は蟻十。芭蕉の研究家として知られ、そのコレクションは江東区芭蕉記念館に寄付されたそうだ。
同じ橋の北詰、松平遠州侯の庭中にありて、古池の形今猶存せりといふ。 延宝の末、桃青翁、伊賀国より始めて大江戸に来り、杉風が家に入り、後剃髪して素宣と改む。又杉風子より芭蕉庵の号を譲り請け、夫より後この地に庵を結び、泊船堂と号す。(杉風子、俗称を鯉屋藤左衛門といふ。江戸小田原町の魚牙(なや)子たりし頃の簀(いけす※竹冠+禦)やしきなり。後この業をもせざりしかば生洲に魚もなく、自から水面に水草覆ひしにより、古池の如くになりしゆゑに古池の口ずさみありしといへり。)
『江戸名所図会』(芭蕉庵の旧址)
元禄元年(1688年)8月下旬、『笈の小文』・『更科紀行』の旅を終え、芭蕉は久しぶりに深川の芭蕉庵に戻る。
元禄2年(1689年)2月末、「奥の細道」の旅に先立って芭蕉庵を人に譲る。
はるけき旅寝の空をおもふにも、心に障らんものいかがと、まづ衣更着(きさらぎ)末草庵を人にゆづる。
安川落梧宛書簡
元禄4年(1691年)11月1日、江戸に帰る。
三秋を經て草庵に歸れば舊友門人日々に來りていかにと問へば答へ侍る
兎も角もならでや雪の枯尾花
『芭蕉翁發句集』
元禄5年(1692年)、第三次芭蕉庵新築。
元禄6年(1693年)、榎本其角は天野桃隣らと深川芭蕉庵の留守を訪れた。
元禄六酉仲秋深川芭蕉庵留守の戸に入て
生綿とる雨雲たちぬ生駒山
『五元集拾遺』
『陸奥鵆』に連句が収録されている。
元禄7年(1694年)10月12日、芭蕉は大坂南御堂前花屋仁右衛門宅で死去。
元禄8年(1695年)、各務支考は深川芭蕉庵を訪れた。
むかし此叟の深川を出るとて、此草庵を俗なる人にゆづりて
草の戸も住みかはる世や雛の家
今はまことに、すまずなりてかなし。
『笈日記』(支考編)
『芭蕉文集』
安永2年(1773年)に小林風徳が編集出版した『芭蕉文集』に掲載する図である。窓辺の机の上には筆硯と料紙が置かれ、頭巾を冠った芭蕉が片肘ついて句想を練っている。庭には芭蕉・竹・飛石・古池を描く。以後これが芭蕉庵図の1つのパターンとなる。絵の筆者は二世祇徳(ぎとく)で、この人は芭蕉を敬愛すること篤く、『句餞別』の編者でもある。
安永9年(1780年)4月13日、蝶夢は遠江守の屋敷に芭蕉庵の跡を訪ねている。
十三日、空の景色心もとなけれど、江戸橋より舟に乗て深河にいたり、しれる人々に別をいふ。同じ所に、遠江守と申御館の中に芭蕉庵の跡ありときゝ、門もりの翁に物とらせて言入るゝに、御館をあづかる武士も、さすがに情しらぬにはあらで立出てかたる。「此所中、むかしは杉風と言しものゝ別業なりし。其比芭蕉翁の住給ひて、人もかく呼びならはせしとぞ。あが国の御館となれゝど、仕ふる殿の昔忘れさせ給はで、<かの蛙飛込むとかありし池水も其世のまゝに、汀の草をもかなぐらでおくべし>と仰事ありて、其御いましめをまもりて、あらぬさまなれど、さる事しとふ輩ならんには」と案内せられけるに、かたりしにたがわず、水草しげりて、そこともしれぬうもれ水なりけり。貞享・元禄のありし世のさま思ひいでゝ、古池の水のこゝろいかんとぞ、
水くらし刈らぬ菖蒲の五六尺
村雨やうき草の花のこぼす音
古静
『東遊紀行』
安政5年(1858年)、『本所深川絵図』。
「松平遠江守 芭蕉庵ノ古跡 庭中ニ有」とある。
深川芭蕉庵
俳誌『ホトトギス』明治42年1月号に所載の図である。中村不折は幕末慶応2年(1866年)生まれの書家・洋画家。本図は不折の祖父庚建(こうけん)の原画を模写したものであるという。従って本図の原画は19世紀初頭前後に描かれたものであろう。手前の土橋は、『芭蕉庵再興集』所載図の土橋と似たところがある。
ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。
たまたま大正6年津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同10年東京府は常盤1丁目を旧跡に指定した。
史跡芭蕉庵跡
昭和20年戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和30年復旧に尽した。
しかし、当所が狭隘(きょうあい)であるので常盤北方の地に旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した。
昭和56年3月吉日
芭蕉遺蹟保存会
俳聖芭蕉翁生誕参百五十年祭記念
平成6年(1994年)10月吉日建立
寛永21年(1644年)、芭蕉は伊賀上野赤坂町に誕生。平成6年(1994年)が芭蕉生誕350年に当たる。
ちなみに平成16年(2004年)は芭蕉生誕360年。
史跡展望庭園へ。
https://plaza.rakuten.co.jp/miharasi/diary/202006170006/ 【山口素堂による芭蕉庵再建】より
甲斐に佗しい日々を迭っていた芭蕉は、天和三年の夏五月に江戸に帰った。江戸にいた門人等の懇請に依ったものであろう。大火後の江戸の跡始末も一片付した頃である。芭蕉は江戸に帰りはしたが、芭蕉庵は焼失していたし、門人の家などで厄介になっていたかも知れぬ。芭蕉の境遇に門人達はけ大いに同情したであろう。そこで有志の物が協力して芭蕉庵を再興することになった。その勧進帳の趣旨書は山口素堂(信章)が筆を執った。
成美の『随斎諧話』に
上野館林松倉九皐が家に、芭蕉庵再建勧化簿の序、素堂老人の真蹟を蔵す。所々虫ばめるまゝをこゝにうつす。
九皐は松倉嵐蘭が姪係なりとぞとして次の文を載せている。
「芭蕉庵庵烈れて蕉俺を求ム。(力)を二三子にたのまんや、めぐみを数十生に侍らんや。廣くもとむるはかへつて其おもひやすからんと也。甲をこのます、乙を恥ル事なかれ。各志の有所に任スとしかいふ。これを清貧とせんや、はた狂貧とせんや。翁みづからいふ、たゞ貧也と、貧のまたひん、許子之貧、それすら一瓢一軒のもとめ有。雨をさゝへ風をふせぐ備えなくば、鳥にだも及ばす。誰かしのびざるの心なからむ。是草堂建立のより出る所也。
天和三年秋九月竊汲願主之旨
濺筆於敗荷之下 山 素 堂
「素堂文集」の文とは多少の異同がある。
かやうにして芭蕉庵再建の奉加帳が廻されたので、知己門葉々分に応じて志を寄せた。その仔細が『随斎諧話』に載っている。やゝ煩わしいことではあるが、転載して当時を偲ぶよすがとする。
五匁 柳興 三匁 四郎次 捨五匁 楓興
四匁 長叮 四匁 伊勢 勝延 四匁 茂右衛門
三匁 傳四郎 四匁 以貞 赤土 壹匁 小兵衛
五分 七之助 二匁 永原 愚心 五分 弥三郎
五匁 ゆき 五匁 五兵衛 二匁 九兵衛
四匁 六兵衛 三匁 八兵衛 五分 伊兵衛
二匁 不嵐 一匁 秋少
二匁 不外 一匁 泉興 一匁 不卜
一匁 升直 五匁 洗口 五分 中楽
五分 川村半右衛門 一銀一両 鳥居文隣 五匁 挙白
五分 川村田市郎兵衛 三匁 羽生 調鶴 五分 暮雨
次叙不等
二朱 嵐雪 一銀一両 嵐調 一銭め 雪叢
三匁 源之進 一銭め 重延 よし簀一把 嵐虎
一銭め 正安 五分 疑門 一銭め 幽竹
五分 武良 二匁 嵐柯 一匁 親信
(不明) 嵐竹 五匁 (不明)
破扇一柄 嵐蘭 大瓠一壺 北鯤之
かやうな喜捨によって、芭蕉庵は元の位置に再建された。再建の落 成は冬に入ってからのことであたろう。『枯尾華』に、
「それより、三月下人ル無我 といひけん昔の跡に立帰りおはしばし、人々うれしくて、焼原の舊艸にに庵をむすび、しばしも心とゞまる詠にもとて、一かぶの芭蕉を植たり。
雨中吟
芭蕉野分してに盥を雨を聞夜哉 (盥=たらい)
と佗られしに堪閑の友しげくかよひて、をのづから芭蕉翁とよぶことになむ成ぬ。
と云っている。再建の芭蕉庵にも芭蕉を植えたことは当然と思はれるが、「芭蕉野分して」の句は焼失前の作であること既に述べた通りであり、芭蕉翁と呼んだのも焼失前であった。
『続深川』によれば、
……ふたゝび芭蕉庵を造りいとなみて
あられきくやこの身はもとのふる柏
といふ芭蕉の句がある。再建入庵後程なき頃の吟であろう句意は解すみまでも無かろう。
芭蕉は約半歳ほど甲斐の山家に起臥していたのだが、その間の句が余り聞えていない。芭蕉庵焼失といふ非常事件に遭遇し「猶火宅の変を悟り、無所住の心を発して」とまで云はれているのだから、悟発の句といふやうな優れた作があるべきだと思はれるのだが、それらしいものが傳っていない。前に奉げた麋塒、一唱と三吟歌仙の立向
夏馬の遅行我を絵に見る心かな 芭蕉
は甲斐に行く途中吟と云はれている。夏の馬に乗って徐行してみる自分を畫中の趣と感じたので、旅路を楽しむゆとりの見える作ではあるが「夏馬の遅行」はふつゝかな言葉である。この句は風国の『泊船集』に「枯野哉」と誤っている。叉松慧の『水の友』に「画賛」として、
……かさ着て馬に乗たる坊主は、いづれの境より出て、何をむさぼりありくにや。このぬしのいへる、是は予が旅のすがたを写せりとかや。さればこそ、三界流浪のもゝ尻、おちてあやまちすることなかれ。……
馬ほくほく我をゑに見る夏野哉
となっている。これは後年に至りて芭蕉が自ら改作したものであるろう。
土方の『赤双紙』に
……はじめは
夏馬ほくほく我を絵に見る心かな
といっている。兎に角改作したもので、
馬ほくほく我は絵に見る夏野哉
は蕉風の句である。
勢ひあり氷えては瀧津魚 芭蕉
この句は麦水の『新虚栗』に出ている。何丸の『句解参考』には
「甲斐郡内といふ瀧にて」と前書があり
勢ひありや氷杜化しては瀧の魚
勢ひある山部も春の瀧つ魚
を挙げて、初案であろうといっている。瀧が涸れて氷柱になり瀧壺も氷に閉ざされていたが、春暖の候になりて氷も消え、瀧登りする魚も勢ひづいたといふのであろう。語勢の緊張した、豪宕な句ではあるが、どことなく談林の調子の脱けきらない、寂撓りの整はない句である。
『虚栗集』
芭蕉が甲斐の山家から江戸に帰ったのは、天和三年五月であったが、程もなく其角撰著の『虚栗』が板行された。
芭蕪の政の終りに「天和三癸亥仲夏日」とあるから、五月の筆である。六七月頃に板行したのであろう。其角二十三歳の時である。その早熟驚くべきである。云々
http://urawa0328.babymilk.jp/basyou/ookawabata.html 【大川端芭蕉句選】 より
万年橋から隅田川に出る。清洲橋に夕陽が沈む。史跡展望庭園は閉まってしまった。
大川端は犬の散歩道。大川端芭蕉句選を巡る。
九年(ここのとせ)の春秋、市中に住み侘て、居を深川のほとりに移す。長安は古来名利の地、空手(くうしゅ)にして金なきものは行路難しと云けむ人のかしこく覚え侍るは、この身のとぼしき故にや。
しばの戸にちゃをこの葉かくあらし哉出典は『続深川集』。
延宝8年(1680年)冬、芭蕉37歳の句。
『俳諧一葉集』に「考證」として収録。
寛文12年(1672年)、29歳の時芭蕉は故郷伊賀上野から江戸に出て、8年間小田原町(現室町1丁目)に住んだ。延宝8年(1680年)、小田原町から深川の草庵に転居。出典は『武蔵曲』。
老杜、茅舎破風の歌あり。坡翁ふたゝびこの句を侘て、屋漏の句作る。其世の雨を芭蕉葉にきゝて、独寝の草の戸。芭蕉野分して盥(たらい)に雨を聞夜哉老杜は杜甫、坡翁は蘇東坡のこと。芭蕉は門人李下が植えたもの。延宝9年(1681年)秋、芭蕉38歳の句。
同年9月29日、天和に改元。
天和2年(1682年)、『武蔵曲』刊。
天和2年(1682年)12月28日、芭蕉庵焼失。「八百屋お七の火事」である。
ある年、菴の邊り近く火起りて、前後の家ともめらめらと燒くるに、炎熾かんに遁るゝ方あらねば、前なる渚の潮の中にひたり、藻をかつぎ煙りを凌ぎ、辛うじて免れ給ひて、いよいよ猶如家宅の理りを悟り、只管無所住の思ひを定め給ひけると也。
『芭蕉翁繪詞傳』
ふたたび芭蕉庵を造り営みて あられきくやこの身はもとのふる柏 出典は『続深川集』。
天和3年(1683年)冬、芭蕉40歳の句。
『俳諧一葉集』に「考證」として収録。
天和3年、芭蕉は都留郡谷村(現都留市)の高山麋塒(1649~1718)を頼って逗留している。同年冬、第二次芭蕉庵完成。
名月や池をめぐりて夜もすがら貞亨3年(1686年)8月15日、芭蕉43歳の句。
花の雲鐘は上野か浅草歟(か)貞亨4年(1687年)春、芭蕉44歳の句。
芭蕉葉を柱にかけん庵(いほ)の月出典は『蕉翁文集』。
元禄5年(1692年)8月、芭蕉49歳の句。
元禄2年(1689年)3月27日、「住る方は人に譲り」、芭蕉は「奥の細道」に旅立った。8月21日、大垣で「奥の細道」の旅を終え、芭蕉は伊賀上野や膳所、京都などを漂泊。その間第二次芭蕉庵の再入手を試みたが、実現出来なかった。
元禄4年(1691年)9月28日、芭蕉は江戸へ旅立ち、同年11月1日に到着した。
元禄5年(1692年)5月、第三次芭蕉庵新築、芭蕉を移植した。
名月や門に指くる潮頭 出典は『三日月日記』。
元禄5年(1692年)8月15日、新芭蕉庵の名月。
『泊船集』には「名月や門にさし込潮かしら」、『芭蕉句選』に「名月や門へさし來る汐かしら」とある。
郭公声横たふや水の上 元禄6年(1693年)4月29日、芭蕉50歳の句。
新両国の橋かかりければ みな出でて橋をいただく霜路哉
元禄6年(1693年)12月7日、千住大橋、両国橋に続く3番目の隅田川架橋として新大橋が架けられた。
新大橋
万年橋通りに旧新大橋跡の碑がある。
大川端芭蕉句選を巡ると、芭蕉と深川の関わりが分かる