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Okinawa 沖縄 #2 Day 57 (22/11/20) 旧具志頭 (8) Minatogawa & Nagamo Hamlets 港川/長毛集落

2020.11.22 15:25

港川集落 (みなとがわ、ミナトガ-)


長毛集落 (ながもう)

今日で旧具志頭村の集落巡りは最終日となった。残っていた港川と長毛を訪れる。


港川集落 (みなとがわ、ミナトガ-)

この港川集落の成り立ちは他の具志頭村の集落のそれとは異なっている。今まで見てきた集落はユッタチジョウからの移住や帰農士族が造った屋取集落であったが、この港川は糸満の漁師達が、漁場を求めて移住してきた集落だ。具志頭村の海岸には、東西に広大な棚状の珊瑚礁の裾礁が連なり、海岸に沿って干潮時でも干上がらない礎湖 (イノー) があり、その先には、干潮時には平らな珊瑚礁原となって海面上に干瀬 (ヒシ) が現われ、干瀬 (ヒシ) には、大小の潮溜り (クムイ) が点在する。この裾礁の地形は、以前は、なまこ、(シチラー)、貝類、海人草 (ナチョーラ) の宝庫で、具志頭村、玻名城村、安里村の人々にとって、重要な生活の源であった。近世球時代の1719年 (享保4年) には、首里王府により、各村の海の境界が引かれ(海方切 ウミホージリ)、各村の漁業権を保護し、他の村の漁師はその領域では漁が禁じられていた。ただ、糸満村の漁師たちは、漁業が生業ということで、海叶 (うみがなえ 入漁料) さえ支払えば、どこでも漁が許されており、移住も自由であった。糸満村の漁民は、具志頭の海岸に仮小屋を建て、冬期だけここに移り住み、この裾礁でなまこ、貝類、海人草を採取し、糸満に運び加工して中国に高値で輸出していた。その後。港川に市場ができ、大いに栄えるが、戦時下でその繁栄は失われ、現在も以前のような反映した時代には遠く及ばない状況が続いているように思える。

かつて栄えた港川の面影は失われ、現在の人口は最盛期の半分となっている。ここ10年間もほぼ横ばい状態。

1903年 (明治36年) に字具志頭から分離して、港川村になった時の人口は、749人で、新城1,410人、具志頭842人に次いで3番目に大きな字になっていた。下に示す様に昭和初期の1933年の人口は旧具志頭村では一番大きな字となっている。これは漁業がこの地で成功し多くの移住者が増えていたことによる。その後は、漁業が振るわないことや他の産業が浸透してきたことにより急速に人口が減っていった。

具志頭村史に掲載されている港川の拝所


上港 (ウィーンナトゥ)

具志頭間切は文政年間 (1818-1829) に、具志頭間切具志頭村小字上港原と小字下港原への、兼城間切糸満村漁民の移住民募集を行なった。糸満の漁師たちは糸満の漁場が荒廃し、生活は苦しかったことにより、既に具志頭浜で漁を行っていた漁師たちはこの募集に応じ、移住してきた。まずは上港原に移り住み、そこを上港 (ウィーンナトゥ) と呼ぶ。最初に移住してきた兼城間切糸満村の幸地腹門中長嶺大屋系の、屋号東長嶺 (アガリナガンニ) の加那上原を集落の創建者としている。彼等は、今まで通り、具志頭間切海岸の裾礁や、具志頭沖合を漁場として漁業を行ない、裾礁でとれた、なまこ、貝類や海人草は糸満まで運び売りさばき、沖合域でとれた魚類は、地元具志頭間切や、隣接する東風平間切の村々で売りさばき生計を樹てた。彼等は、裾礁での漁労に対する海叶(入漁料)を具志頭間切に納め、具志頭間切は、この入漁料を、首里王府に納める貢租の補いに充てていた。漁師は漁業だけではなく、生活の助けとなるように周辺の土地を開墾したり、仕明請地を購入して、自分たちの食料として農業も行うようになっていった。当時の租税制度では貢租は農民だけに課され、漁師はその対象になっていなかった。ここに移り住んだ漁師たちは、半永久的な移住とは考えておらず、この上港で漁ができなくなった場合は糸満に戻るか他の地に移住することを考えていた。そのために、この上港には門中墓は造らず、相変わらず糸満兼城の門中墓を使っていた。この習慣は永住を決めた後も残り、今でも門中墓が糸満にある。戦前は糸満まで龕屋で亡骸を3日かけて運び葬っていた。次第に移住者が多くなり、上港から下港まで集落が拡大し、江戸次第の終わりに、上港 (ウィーンナトゥ) と呼んでいた集落名を 港 (ンナトゥ) または港小 (ンナトゥグワァ) に変えた。1879年 (明治12年) の廃藩置県 (本土よりは遅れて実施) で沖縄の地名や姓名が日本風に改められ、この地は港小 (ンナトゥグワァ) をミナトガワであるからとして港川の漢字が充てられ、それ以降、港川となった。移住者で拡大した港川はほとんどが漁民で、他の集落の農民と結婚も含めた交流はなく、純粋な漁村で、この状態は戦前まで続く。



港川の市場跡

具志頭間切の農民は生産した、さつまいも、豆類、野菜類、薪等を、港川村落に運び、港川村落住民に阪売し現金を得た。港川村落住民は、自分達の漁した魚員類やその加工品を具志頭間切の農民に販売して現金を得た。港川村落は、近郊の農業生産地域との経済交流の拠点となっていた。明治の20年代に、この場所にンナトウマチグワー (港川の市場) と呼ばれた公設の露天市場を開設。近郊の農業生産地域の農産物を売買するアギジママチと称する区域と、港川漁民の魚類と加工品を売買するンナトウマチとする区域に分けられていた。明治36年に旧慣租税制度が廃止されてからは、ますますこの市場は栄えることとなった。


村屋跡

1903年 (明治36年) に拡大した港川を字具志頭から分離して独立した村となった。1908年 (明治41年) には村が字に変更され、港川村から字港川となった。この時に村屋を南下茂小 (ヘーシムグワァ) に建設した。同時にこの村屋敷地内に燈台の役割を果たす当火 (あてび) が設置され漁に出ている船に港川の位置を示していた。村屋は沖縄戦で焼失するまでこの地に置かれていた。

この交差点の場所にに井戸跡があった。

集落は車が一台通れる広さの道路が数本走り、その道路からは、人が通れるだけの細い路地が何本も走っている。この形態は港町に多い造りだ。


港川公民館

沖縄戦の後に焼失した村屋跡には公民館が建てられたが、その後、別の場所に移動、そこも老朽化で、港川の漁港がある公園がある現在のこの地に公民館が建てられている。公民館は少ししゃれた造りで、古めかしい公民館のイメージとは違って、ちょっとしたリゾート地のイベント会場のような感じだ。公民館には広い広場があり、子供たちが走り回っていた。写真に納まっているのは広場の半分だけで、かなり広い広場だった。この辺りは幹線道路からも離れ、漁港に用のある人しか来ないので、静かだ。車があれば、住むには気持ちの良い場所だ。


港川港

1914年 (大正3年) に、港川港の港口の拡大工事により、国頭地方で生産された建築川材・薪・木炭等を積んだ山原船の出入が容易となり、この山原船で運ばれた薪・木炭の売買は、大部分が、このンナトウマチグワーで行なわれ、ますますこの港川には活気がみなぎっていた。この時期の人口は旧具志頭村では最も多い字となっていた。しかし、1938年 (昭和13年) に国家総動員法が制定され、1940年 (昭和15年) に、大政翼賛会が成立し、戦時体制が確立し、食料品の配給制が実施されるようになると、港川の市場 (ンナトウマチグワー) を利用する者は少なくなり、その機能は半減し、それに従い、人口も減少し、沖縄戦当時は全盛期の半分の人口にまで減少した。

今日は日曜なので漁は休みだろう。もっと多くの漁船がひしめき合っているかと思っていたのだが、それほど多くの漁船は停泊していない。


井戸

港川村の生活用水は3つの井戸によって賄われていた。北之井 (ニシンガ-)、中之井 (ナカンガ-)、南之井 (ヘーンガ-、港川之井) だ。港川は大きく二つの地区に分かれていた。北の高台の上港原 (ウィーンナト) の北之 (ニシン) バラには、この集落の祖と言われる東長嶺 (アガリナガンニ) が住み始めた場所で、イトマンからの比較的裕福な人たちが住んでいた地域と、高台からの緩やかな傾斜地を経て低地になる下港原 (シチャンナト) の南之 (ヘーン) バラと呼ばれる地区には経済的に余裕のない人たちが住んでいた。

写真右が高台の上港原 (ウィーンナト) の北之 (ニシン) バラで、写真左が港方面に広がっている下港原 (シチャンナト) の南之 (ヘーン) バラ。



南之井 (ヘーンガ-、港川之井) 

ヘーンバラにある井戸。このヘーンバラは屋号東長嶺 (アガリナガンニ) の加那上原の長男が、親の加那上原の屋号上港長嶺との対立で、ニシンバラの家から移り、故郷の糸満で名乗っていた屋号東長嶺 (アガリナガンニ) に戻し住んでいた地域だ。この地はしだいに、人口が増え、大正初期には上港のニシンバラよりも人口が多くなり、港川の中心地になっていた。この南之井 (ヘーンガ-) は港川之井 (ンナトヌカー) とも呼ばれている。井戸は雄樋川が東シナ海に流れ込む場所にある。井戸の上に祠が造られて拝所になっている。


北之井 (ニシンガ-)

港川の市場があった近くにある井戸で、主にニシンバラの人たちが村井 (ムラガー) として使用していた。ここには港川の祖と言われる屋号上港長嶺が住んでいた地域で、港川の中心地でもあった。長男がヘーンバラに移り屋号を東長嶺 (アガリナガンニ) に戻した後、この地で分家の屋号西長嶺 (ニシナガン二) を起こす。これ以降、長男と次男が根屋を主張し、この両家の確執が続く、近年においてもまだそのわだかまりは残っているそうだ。


中之井 (ナカンガ-)

ヘーンバラにあるもう一つの井戸。南之井 (ヘーンガ-) から数十メートルの同じ通りにある。ヘーンバラの人口が増えたので、もう一つ井戸ができたのだろうか?


南之御嶽 (ヘーヌタキ)・北之御嶽 (ニシヌタキ)

ヘーンバラとニシンバラにはそれぞれ御嶽がある。この南之御嶽はヘーンバラにあり、北の御嶽は上港の高台のニシンバラにある。御嶽も分かれていたのか.....


北之御嶽 (ニシヌタキ) は雄樋川沿いにある。


南之御嶽 (ヘーヌタキ) は港の公民館がある公園の一角にある。


港川之祠

中之井 (ナカンガ-) と南之井 (ヘーンガ-) の中間の海岸に祠がある。港川之祠という。これについては一切の情報が見つからなかった。船着き場にあるので、漁師の安全祈願のために造られたのだろうか?それとも、明治後期からの国家神道政策で作られた祠なのだろうか?


長毛集落 (ながもう)

今日の訪問はまずはこの長毛から始めた。那覇の國場を出発して、南城市のガンガラーの谷まで行き、そこからは雄樋川に沿って長毛まで来たのだ。雄樋川はガンガラーの谷あたりは深い谷底を流れ、次第に川幅が広くなり、谷はいつしか消え平地を流れるようになる。もう少しで河口付近という所に長毛がある。この雄樋川が八重瀬町と南城市の境となっている。


長毛の中心の集落は小さく、すぐに港川の街にはいってしまうほど。下の写真は公民館から移したもので、移っている民家の大部分は港川のものだ。

長毛屋取集落は文政年間 (1818-1829) に行われた移住民募集に対して俸禄では生活できなくなった首里、那覇の土族が応募し、1851年 (嘉永5年) から、帰農士族としてこの地に移住が始まったことにより形成された。この地での粟石之採掘により、長毛屋取集落は繁栄し、集落は拡大していった。この繁栄は戦前まで続いたが、戦後は粟石の需要が激減し、集落は縮小することになる。

全盛期には人口が1,500人まで膨れ上がったが、沖縄戦当時は700人程に半減した。これは先に述べたように粟石産業の衰退が大きな要因だ。その後減少が続い、沖縄の本土復帰の1972年には450人まで減少。本土復帰後は人口の増加に転じ、現在は1000人程の人口にまで増えている。ここ10年間は増減は、ほぼ横ばい状態。

他の字と比較すると、かつては港川の一部分だったのだが、現在は港川よりも人口は多くなっている。


唐の船御嶽 (トーヌフニウタキ)

昔、中国の人々が乗った貿易船が難破し、船が使えなくなってしまった。それで彼らはこの場所へ上陸して仮小屋を建てて生活するようになった。彼等は食に窮し、附近の甘藷、野菜、にわとりや豚までも盗食するようになり、住民は、これを具志頭間切番所に訴え出た。具志頭間切番所は船員に同情し、公費で食料を与え、盗難にあった住民には損料の支払いまでもした。彼らの滞在中には、故郷に帰る航海の安全を祈願するために祠を建て媽祖を祀っていた。彼らの帰国後は地元の人たちが祠を受け継ぎ、唐の船御嶽と呼んで崇敬するようになったそうだ。この御嶽はかつての長毛の村の中心地に置かれている。


長毛井

長毛井が造られたのは、集落が拡大してきた1929年 (昭和4年) で集落の生活用水確保の為で、住民からは大いに利用されていた。沖縄戦後、米軍駐留軍によって栗石採石の為に壊されていたのだが、昭和23年に復元されている。この井戸は村井として産井として大切にされていた。

井戸の側には神屋と拝所があった。

ここで、年配の人から声をかけられた。地元の人で、昔の長毛の話をしてくれた。年は60歳前後と思うので、戦後生まれで、長毛の全盛期はもう過ぎていたのだが、お母さんから昔の藩士はよく聞かされていたそうだ。この井戸がある付近が街の中心部だったのだが、今はその面影はない。多くの人が住んでいた時代には、多くの食堂や商店があり、銭湯や映画館まであったそうだ。粟石採石で栄えたのだ。この男性も石材会社に勤めていたそうだ。沖縄の石垣や装飾柱などに使われた粟石の原石を見せてくれた。石灰岩と比べて柔らかいので最近は建設資材以外にも観光客用の土産物としても使われているそうだ。沖縄の人から、声をかけられることが多い。非常にフレンドリーだ。


村屋跡

長毛集落が港川から分離独立した1927年 (昭和2年) に、字の行政の施行の為、字事務所を造る。沖縄戦で焼失するが、収容所から帰還した住民により、区事務所を再建した。現在は空き地になっている。

公民館の役割が行政だけでなく、集落民の娯楽など生活の分野にも関わり多岐に及んでくるにつれ、区事務所は手狭となり、昭和44年に現在の場所に公民館を移している。


フィッシャー遺跡 (港川古代人発掘地)

1967年に地元のアマチュア考古学研究家が港川の石材店で入手した庭石 (粟石=石灰岩) に、動物の化石を見つけ、この石の産地に人類が住んでいたのではと考え、採石場での発掘を続け。翌年の1968年に港川フィッシャー遺跡から人骨を発見。それ以降本格的な発掘が行われ、1974年に、完全に近い全身骨を5〜9体発見した。これを港川人と名付ける。1万8000年前の古代人とされている。ここには昨年訪れ、発掘現場近くまで行ってみた。その時に撮った写真がこれだ。

今日、一年ぶりにここに来てみると、公園はまだ工事中で、中には入れなかった。ずいぶんと綺麗になっている。一年前に来た時にも工事をしていたが、公園を造っていたのだ。その時は勝手に中に入っていった。思い起こせば、その時に工事の人たちが、怪訝な顔で見ていた。入ってはいけなかったのだろうか? 井戸で出会った男性は、この遺跡には、歴史博物館で許可を取らないといけないと言っていた。やはり去年は、それを知らずに勝手に入ったのかもしれない。まだ公園の完成はまだ後一年ぐらいかかるそうだ。

沖縄県ではここ以外にも旧石器時代の人骨化石が発見されている。3万6000年前の日本最古の人骨化石である山下町第一洞穴人や、3万年前のピンザアブ人 (宮古島)、2万年前の白保竿根田穴人 (石垣市)、1万8000年前の下地原同穴人 (久米島)などがある。

この港川人は、当初、インドネシアで発見されたワジャク人と似ていることから、東南アジアに住んでいたグループが琉球列島を経由して本土にわたり、縄文人になったという説があったのだが、最近の研究によると、港川人のあごの骨が華奢で、縄文人とは異なり、オーストラリアの先住民族アボリジニと特徴が似ていることが分かってきており、アボリジニがオーストラリアに住み、北上し、沖縄に住み着いて港川人になったという説もある。研究により、港川人の復元図も変わってきている。現在の沖縄人の祖先は、縄文人、あるいは縄文人と弥生人の混血という説があり、民族的にはアイヌ民族と共通があるが、この港川人のその後については謎で「空白の期間」となっている。

今日は綺麗な蝶と出会った。初めて見る蝶だ。大型のアゲハチョウで、ひらりひらりと優雅に飛び回っていた。蝶を写真に撮るのは難しい。スマートフォンで撮っているので、ズーム機能も悪く、蝶に近づき過ぎると飛び立ってしまう。鮮明には撮れなかったが、それでもそのきれいな姿はわかるだろう。調べるとナガサキアゲハという蝶で、昔は九州以南に生息していたのだが、今は関東でも見られるそうだ。

今日で旧具志頭村の集落巡りは終了。次回からは糸満市にある集落巡りに入る。明日からは数日間、図書館で糸満市の下調べとなる。


参考文献

  • 具志頭村の文化財 具志頭村文化財要覧 第1集 (1997 具志頭村文化財保護委員会)
  • 具志頭村史 第2巻 歴史編・教育編・沖縄戦編 (1991 具志頭村史編集委員会)
  • 具志頭村史 第4巻 村落編 (1995 具志頭村史編集委員会)