コロナ禍で表現、或いは演奏し続けること
2020.11.17 12:30
表現する際に表現者はどれ程、受けてに思いを馳せることができるのだろうか。
果たしてコロナ禍に於いて表現の質は変化したのであろうか?
もちろん表現の場が失なわれたり、今までとは違う環境、(無観客、動画配信など)発信する場は違ってしまったかもしれない。
しかしコロナ禍とコロナ前で、表現者が表現をする際に何が変わっただろうか。
自粛期間には誰しも己の存在意義に疑問を持ち、生き方そのものを問われた。
しかしそれはコロナ以前も変わらぬことではないだろうか?
表現者は常に自分の存在意義に疑問を持っている。
常に自分の外にも内にも絶えず疑いを持って生きているはずだ。その疑いこそが探求心であり、好奇心であり己の創造の源なのである。
この様な物の言い方は語弊があるかもしれないがある意味合いにおいては各々の方向性をクリアにする必要な時間であったように思う。
なにも大衆に向かって何かを叫ぶ必要はなく
自分の心の中にある何かに向かって表現するのではないだろうか。
それが共感を得ようと得ずとも。
表現し続けなければいけないのだ。というより表現者であるということを自負しているものは自ずと表現しているのではないのであろうか。色んな情報に左右され道に迷い戻れなくなりそうになろうとも結局は自分の信念を拠り所にして進んでいくしかないのだ。
詰まる所どんな状況に置かれても表現者は表現せざるを得ないのだ。
そして、やはりそこに聴衆や人が居ればなお更Happyなのである。