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素堂と芭蕉の出会い

2020.11.18 01:49

http://kamanasi4321.livedoor.blog/archives/cat_29069.html?p=19 【素堂と芭蕉の出会い】より

**素堂と芭蕉**

 松尾芭蕉は古体の俳諧を革新し、芸術文芸にまで引き上げたとして、後世「俳聖」として崇められた。連歌より派生した俳諧が、松永貞徳により体系化され、北村季吟・西山宗因が堅苦しいマンネリ化した遊戯的俳諧を、独自の「さび.・わび・しおり・ほそみ・かろみ」などを極致とする俳風を開き、芸術的俳諧に高めた事による。

 芭蕉も最初からこの域に達していたのではない、初めは貞門俳諧の手解きを受け、同じ門葉の季吟に師事し、後に宗因の談林調に投じ、そして素堂の後援を受けて、独自の俳風に至ったのである。

 素堂と芭蕉の結び付は一般には唐突である、しかし、寛文年の末頃の素堂と季吟の接触にあると推察される。勿論、春陽軒加友や内藤風虎の仲介の有ってのことであろう。延宝二年に素堂が信章として季吟に会った時には、素堂は一通りの俳諧者として過ごしていた。この時期は風虎と季吟の間で書状の遣り取りが頻繁であり、宗因の江戸招致も宗因の都合で中々進まずにいたのである。風虎のサロン入りをしていた素堂は、信章として仕えていた主家(林家?)の所用上洛するおり、風虎の依頼で季吟に会い、次いで難波の宗因に会ったのである。<季吟廿会集・信章難波津興行(鉢敲序)>

季吟は宗房(芭蕉)に奥書「埋木」を与えたものの腰の定まらない宗房の、江戸での引き立て方を信章に依頼したのであろう。宗房は信章(素堂)の友人である京都の儒医・桐山正哲(知幾)に依頼して「桃青」号を付けて貰い、江戸に向かったらしい。しかし、江戸に向かう前に素堂に誘われて大阪に行ったとも考えられる。(素堂の名は見えないが芭蕉語録に芝居見物の話がある)此処で宗因化紹介されたのか、ただ見ただけなのかは判らないが、この後蓑笠庵梨一の「芭蕉伝」にあるように、季吟の門人ト尺(孤吟)に誘われ江戸に向かったのである。

素堂も宗因に会って風虎の依頼を伝えたものらしく、翌年初夏に宗因は江戸に到り、「宗因歓迎百韻興行」には、宗房改め桃青(桃青号の初め)は素堂こと信章と一座し、これと共に江戸風虎サロンにも紹介されたと考えられる、以後素堂は致仕するまで、江戸に在る時はいっしょして俳諧に一座していた。

 素堂の退隠後は、芭蕉はしばしば素堂のもとを訪れ、いろいろと学んでいたようで、門弟達と漢詩等の勉強会を開き、死ぬ元禄七年まで書物を借り出している。


**素堂の漢詩文について**

**素堂漢詩文**

(略)藤原惺窩は冷泉家為純の子で、若くして僧となった人で京都嗚相国寺の学僧、程朱の学を学び、桂庵玄樹の「朱註和訓」を学んで独自性を知り還俗し、朱子学を仏教より離して独立させた京学の祖である。朱子学の墓礎を確立し、儒学を貴族・僧侶の社会より解放したのである。後に徳川家康の招致で講援はしたが門人の林羅山を推し、仕える事はしなかった。惺窩も五山派の学僧であったのである。

博学強記と云う林羅山(道春)は京都の人で、祖は元武士で町屋に下って商いを営んでいた。羅山は弱年で五山の一つ建仁寺に入って学んだが、僧になるのを嫌って戻り、惺窩に師事して朱子学を学び、師の推薦により徳川家康の侍講に召し出された。当時は学問で立身する者は僧侶に限られていたことから、剃髪法躯を命じられた。以後儒学者は元禄二年に剃髪が廃止されるまで続けられた。

寛永七年、羅山は上野忍ヶ岡に土地を与えられ家塾を建てた。また尾州侯徳川義直の援助により先聖殿(孔子廟、後の湯島聖堂)が造られ、後に家塾は寛文三年に弘文院号を与えられた。元禄三年、将軍綱吉の命で忍ヶ岡より湯島に移転となり、先聖殿が湯島聖堂を、家塾が昌平と改められて、林家は歴代が弘文学士・国子祭酒を継承することになった。羅山もまた五の禅宗に関係していたのである

*素堂の漢詩文*

 山口素堂は漢学者であるが国文にも通じ、俳諧にも並々ならぬ素養を持ち、その見識は当時の先駆者的立場であった。しかし、俳諧の面では松尾芭蕉の後援者となり、後世、単なる好き者(別格の意もある)扱いをされ、多くはその評価も芳しいものではない。確かに漢詩文や鑑の作品の多くは興に乗っての即興即吟であるが、中に推敲を重ねての作品も多数ある。この傾向が現れるのは延宝末年の頃だが、これも俳諧集などの序跋文が多くなって来たこと根ざしていると考えられる。

素堂は寛文年末頃から俳階の幽古体からの脱却を目差したのと機を一にしており、漢詩文でも古典体に囚われない自由詩体を模索して、好事者の評価を得ていた。和歌にしても原安適や、用語の自由を主張して和歌の革新をとなえた戸田茂睡とも親交がある通り、今に残る作は少ないが機を一にしている。


山口素堂 芭蕉の瓢(米入)に四山の銘を四山瓢名(五言絶句)。貞享3年(1686)素堂、45才。

一瓢垂岱山。自笑称箕山。勿慣首陽山。這中飯顆山。一瓢は岱山より重く、白から笑ふて箕山と称し、首陽山に慣れること勿かれ、 這(こ)の中に米粒の山あり。

《解説》

…岱山一岱山(泰山)は中国山東省にある名山で五岳の一山。箕山一箕山は古代尭の代に許由が隠遁した故事で退隠の語を意味する。

…首陽山は周の武王が暴君殿の尉王を伐とうとしたおり、家臣の伯夷・叔斉の兄弟が君

 臣の道を説いて諌めたが聞き入れられず。□が滅び周が興った時「周の棄を食むを恥じて」首陽山に隠れ。蕨を採って噴い遂に餓死した故事を云う。

…素堂の云おうとしているところは、「この一瓢は揺るぎない岱山よりも重いが、自ら笑って退隠と称するなら、首陽山に隠れた伯東の兄弟に習うことはない。肩肘張らずに気楽にしなさい。この瓢の中には米粒が山ほど入っているよ。

《参考》素堂が芭蕉の死後書いた「芭蕉庵六物の記」の文中には、

……ある人芭蕉庵にひさこ(瓢)をおくれり。長さ三尺にあまり、めぐり四尺にみつ。

天然みがかずして光あり。うてばあやしきひびきをだす。これを鳴らして謳歌し、あるは竹婦人にばぞらへて納涼のそなへとし、また米をいるゝ器となして、朋友の許へ投ずれば持ち満ちて帰りぬ。予これに銘じていはく打ち虚しき時は

・・‥・・一瓢垂岱山 自笑称箕山 勿慣(莫習)首陽山 這中飯顆山

《参考》 芭蕉『四山瓢』

(前文略)中にも飯顆山は老荘のすめる地にして、李白がたはぶれの句あり。素翁李白にかはりて我貧をきよせむとす。かつむなしきとこはちりの器となれ。得る時は一壷は千金を抱きて、岱山もかろしとせむことしかり。

……ものひとつ瓢はかろき我よかな   芭蕉庵桃青


山口素堂 『慶分船 詩文』不角編。53才 元禄七年(1694)

五月あめ晴過る比慶分船をさしよせて、江の扉をたたく人有。この船や難波の春を始めて玉江のあしの夏狩りものせて是をおもしとせず。尚しほれ戸のからびたるも一ふしあるはそれすてみや。しばしかたらひ手をわかつとき

  鳩の巣や帰る目路成芦のひま    素堂

  春もはや山吹しろし萱苦し     素堂


山口素堂 『芭蕉書簡』曽良宛。53才 元禄七年(1694) 

(略)尚々宗波老へ預置申侯素堂書物早々かへされ候様に待ち奉り候に頼申よし御申候。浄久へも御伝被成候。


最終の芭蕉庵は素堂の抱え屋敷内にあった!!

延宝 四年(1676)☆素堂35才 芭蕉、33才

春 天満宮奉納二百韻、(信章、桃青両吟集 六年刊)

 梅の風の巻      

梅の風俳諧国に盛なり    信章  こちとうずれも此時の春   桃青(芭蕉)

世の中よ大名あれば町人あり 信章  柳は緑かけは取りがち    桃青

 此梅の巻       

此梅に牛も初音とつべし   桃青  ましてや蛙人間の作     信章

芭蕉発句       

天秤や京江戸かけて千代の春 「当世男」 此梅に牛も初音と鳴きつべし 「奉納両吟」

武蔵野や一寸ほどな鹿の声  「当世男」 山のすがた蚤が茶臼の覆かな

雲を根に冨士は杉形の茂りかな 「続連珠」 命なりわづかの笠の下

百里来たりほどは雲井の下涼み  詠(なが)むるや江戸にはまれな山の月

富士の風や扇にのせて江戸土産  夏の月御油より出て赤坂や

一百里きたりほどは雲丼の   けふの今宵寝る時もなき月見哉 「続連珠」

*延宝 四年(一六七六)『俳文学大辞典』角川書店

春、芭蕉ら、『江戸両吟集』を著し、宗因流新風に傾倒する。一二月、梅盛『類船集』刊。冬、宗因、伊勢へ下向。弘氏、伊勢談林の中心となる。

書『あまあがり』『大坂歳旦』『岳西惟中吟西山梅翁判十百韻』

『温故目録』『季吟廿会集』『草枕(旨恕編)』

『古今誹諧師手鑑』『言之羽織』『宗因五百句』『宗因三百韵』『練達珠』『談林三百韻』『天満千句』『到来集』

『誹諧当世男』『半入独吟集』『柾木葛』『武蔵野(重頼編)』『渡奉公』(『伊勢俳諧長帳』)

○惟中、秋、上洛か。

○宗因、一〇月二三日に伊勢山田の荒木田氏富に招かれる。

一二月二日、松坂を発って 帰坂。

○重頼、伊丹へ赴く。

*延宝四年(一六七六)(この項『俳文学大辞典』角川書店)

**素堂(三十五才)春、桃青と両吟二百韻興行。『江戸両吟集』と題し三月刊行。

**曾良(二十八才)このころ宗困流俳諧に心酔、間もなく江戸に下るか。

**嵐雪(二十三才)六月二十一日主君新庄民部直矩急死(徳川実紀・寛政重修諸家譜)により浪人したか。後、土方河内守に仕える(江戸廿四条)。

**許六(二十一才)十二月藩主井伊直澄に召し出される。

(侍中由緒帳)

**鬼貫、宗因に師事。

**松意『談林三百韻』、『宗因五百句』。

**宗因『天満千句』、『惟中吟、梅翁判十百韻』刊)6

**其角(十六才)このころ書を佐々木玄龍に、画を英一蝶に学ぶ。


素堂の動向

宗因歓迎百韻(談林百韻)西山宗因編 三年京都刊

 鎌倉内藤風虎邸で興行(梅翁俳諧集―早大本)

領境松に残して一時雨    信章(素堂)

  一生はたゞ萍におなじ    信章 (萍―うきくさ)

芭蕉の動向

▼5月、東下申の西山宗因歓迎の百韻に桃青号で一座。

連衆、宗因・幽山・桃青・信章・木也・吟市・少才・似春。

▼広岡宗信編『千宜理記』に「伊州上野宗房」として発句六句。

▼内藤露沽判『五十番句合』に発句二句入集(『芭蕉翁句解参』)。

芭蕉発句

人毎の口にある也したもみぢ  針立や肩に槌打つから衣

▼この年、夏、帰郷、猶子桃印を連れて江戸に下る。北村季吟編『続連珠』に発句六句、付句四句。巻末句引の「武蔵国」の部に「松尾氏、本住伊賀、号宗房桃青」と見える。

【註】この時代俳諧世界は大きな展開に際会していた。微温的な貞門俳諧の退屈なマンネリズムは、徳川の安定期の時代背景の中で育った新しい作家達の関心を繋ぎとめることはできなくなった。もっと無遠慮な、荒唐無稽な非合理の中に放笑を求めるような新風がおこり、それが非常な勢で俳壇を風扉した。

新風は文壇の長老、大阪天満宮の連歌宗匠西山宗因を担ぎ上げて大阪で起こった。芭蕉は『貝おほひ』を奉納した次の年、寛文十三年には、井原西鶴が『生玉万句』を興行刊行して、新風の峰火をあげ、その異風の故に「阿彌陀流」とよばれた。

翌延宝二年には宗因の『蚊柱百韻(かばしらのひゃっく)』をめぐって旧態派からの攻撃があり、宗因流の方からは、翌三年に論客岡西惟中が登場してこれを反撃、さらに惟中の『俳諧蒙求(はいかいもうぎゅう)』が出て、新風はあらたな論的根拠を得ることになる。すなわち、俳諧の本質を寓言にありとし、「かいてまはるほどの偽をいひつづけるのが俳諧」だといい、「無心所着」の非合理、無意味の中に俳諧があるという奔放な詩論が生れる。

そしてこの年宗因の東下によって江戸俳壇にも宗因流が導入されることになるのであるが、この五月、深川大徳院で興行された宗囚を迎えての百韻には、「宗房」を「桃青」と改めた芭蕉も、幽山・信章(素堂)似春などとともに、一座している。

芭蕉年譜 櫻井武次郎氏著

○この春、 時節嘸伊賀の山ごえ華の雪  杉風  身は宴元に霞む武蔵野   桃青

 以下の両吟歌仙成るか。翌年帰郷の際の餞別とする説もある。

〇五月、江戸大徳院礎画事典行の宗因歓迎百韻に一座。

天理図書館蔵『談林俳諧』(写本)に「延宝三卯五月 東武にて」と端作りしてみえるもので、連衆は、宗因・磁画・幽山・桃青・信章(素堂)・木也・吟市・少才・似春・又吟。

これが文献にみえる桃育号の初めである(顕原退蔵「宗因一座の芭蕉連句」『頴原退蔵著作集』二)。

〔周辺の動き〕

▽季吟ら『花千句』  ○宗信『千宜理木』 ▽高政『誹諧絵合』

▽『信徳十百韻』   ▽松意『談林十百韻』▽『大坂独吟集』

▽重徳『新続独吟集』 ▽西鶴『独吟一日千句』 

▽難波津散人『糸屑』 ▽胡今『到来集』

○惟中、四月京坂に上り任口・宗因に会い、任ロの跋を得て『俳諧蒙求』を刊。貞門俳諧および「軽口俳諧」を批判。

『しぶ団返答』(九月序)では『蚊柱百句』を批判した去法師の『渋田』に反駁。    

○宗因、江戸から帰坂の途、京に立ち寄り、六月二十九日、重頼を訪ねる。

○似船、六月二九日、万句興行。

○北峯正甫、この年没か。

○露沾判『五十番発句合』(原本不明。『芭蕉翁句解参考』による)に発句二以上入集。


素堂の知友、人見友元事蹟 『武徳大成記』

堀田氏の家系に、

 天和三年十一月九日、御当家御記録御改被成候旨、阿部豊後守正武、堀田下総守正仲両人吟味可仕旨仰付候

 貞享二年八月五日下総守御用掛リ御免

『営中日記』

天和三年十一月十三日ノ条ニ

 御書物御用被仰付候 阿部豊後守 堀田下総守 可受差図旨被仰付候     

林春常 人見友元 木下順庵

貞享三年九月七日

 御記録出来差上候ニ付

  時服十      阿部豊後守

  銀二十枚 時服三 林春常 

  銀二十枚 時服二 人見友元 木下順庵

  銀五十枚     弟子五人へ

 右者御書物御用被 仰付候ニ付被下之


素堂の抱え屋敷に重なる芭蕉庵の位置について

芭蕉庵の位置について

 参考資料 『定本』奥の細道 大薮虎亮氏著 昭和29年刊 一部加筆

元禄二年(1689))頃は前述の如く今の江東区新大橋三丁目の辺(新大橋の東、即ち元の六間掘りの辺りと信ずる。従来の説や予が考えていた番にも疑いを起したので、次に述べる。

新大橋三丁目辺は、北は千歳町二丁目に接し、その北は竪川、また南は常磐町に接し、その南は小名木川(をなぎがは)で、三丁目の西方には新大橋が隅田川に懸かっている。

これよりさき芭蕉は延宝八年(1680)の冬の頃か、今の江東区(元の深川区)内の庵に初めて入ったが、それから二年後即ち天和二年の冬類焼にあって焼け出され、翌三年甲斐国に旅行して江戸に帰り、本船町の小沢卜尺の家に寄寓したりして、その冬再築の庵に入った(素堂再建観化簿)。芭蕉は此の庵から杉風が別墅に移ったのである。

 さて最初の庵はどこにあったか。頼確な記録が無いのは遺憾であるが、これの第一資料たる芭蕉の作品をしらべてみても、単に深川とあるのみで、的確に場所を書いたものは見当たらない。予は深川方面の地図について、古くは寛文十一年(1671)頃(之は後の地図の基礎となつたもの)、延宝四年(1676)、天和三年(1683)、貞享五年(1688)、元禄二年(1689)、同三年(1690)、同六年(1693)の地図をしらべてみたが、得るところが多い。地図と実地踏査其の他の点から考察して、前述の如く新大橋三丁目の辺と断ずるのである。

 新大橋三丁目辺は昔深川村と称した所で、大間堀の西側に掌り、寛文十一年の地図に深川村と見え、芭蕉の奥羽施行の元禄二年の地図にはまだ深川村とある。すでに元禄六年の地図には見えない。深川と云う名が漸次広い地域にまで広がっていったのは、もと此の深川と云う村名から起ったものと思う。之については詳説を省く。芭蕉の文(延宝八年冬の作)に「市中に住み侘びて、居を深川のほとりに移す……」(『続深川』)とあるのも、後の深川区ではなくて、深川村の辺という意味で、ほとりとあるのに注意すべきである。

 次に小名木川が隅田川に注ぐ辺(今の常磐町一丁目)に万年橋が懸かっていて、今は近代式の立派な橋である。此の橋は昔、元番所橋と称したもので、寛文十一年地図に「本番所のはし」、延宝四年の地図には「元番所ばし」とある。享保十年(元禄二年から三十六年後・1725)のには既に「万年橋」と変っていて、江戸砂子に、長二十三間とある。此の万年橋附近に芭蕉庵があったと云う説があるが、疑わしいので、之について述べる。

万年橋の四方隅田川岸に近い所に今小祠があって、内に高さ一尺くらいの芭蕉翁の陶製の像が安置してある。その傍に小さな稲荷の社があって、藤棚がある。予が三回目に訪うた時は五月頃で、薄紫の藤娘が汐風にそよいでいた。この芭蕉堂の前に立札が立っていて、左の記事がある。

〔史蹟〕 一 芭蕉庵址 

俳聖芭蕉翁草庵ヲ結ビテ古池ノ句ニ知ラレタル所

       大正十三年(1924)四月 東京府

 

此の記事はおそらく杉風秘記などに拠って認定したものかと思われるが、ここを庵址とするのは疑わしい。杉風秘記披書(杉風句集に載するもので、此の句集は天明五年(1785)杉風四世抹茶庵梅人編。抹茶席の事は後に云う)に云う

「……その後此方深川元番所生簀の有之所に移す時にはせを翁桃青と改名せられ供」

とあって、次に古池やの句が載せてある。杉風秘記は信じ難い点が少くないが、右に引

く条も疑わしい。芭蕉が深川に始めて移り住んだのは延宝八年の頃であるが、その頃は前述の如く深川村と云う村が六間堀の西にあって、元番所(今の萬年橋)の辺とは大分位置が隔っている。そこに生洲が在ったと云うのも疑わしく、一朝大川が有水すれば流失しそうな所で、今は河岸が高くなっているが、それでさえ増水すれば危険な所である。生別のあるような所は六間堀の辺が尤もだとうなずかれるのであり、万年橋の北の辺は往来の要路に寄り、隙栖者の住むような併ではない。

第一此の北詰の辺は既に寛文の地図にもある如く、伊奈半十郎の大邸宅の在った所で、その北は尾州中納言とあり、之も大邸宅であった。伊奈氏は深川方面の地図には元禄にかけて必ず書入れてあるので、こゝに略述しておく。

伊奈氏の祖は家康に仕えて産業土木等に抜群の功があり関東郡代となり、以後代々同じ職にあり、代々水利土木等に傑出していた。寛文の頃は二代で、二代目から代々俗称を半十郎と云った。延宝から元禄にかけては三代目四代目の頃であった。此の邸内に杉風の生洲があったとも思われず、又芭蕉が住んだとも思われず、たとえ部外の地先としても、往来の要衝ではあり、大川の浸水氾檻等の危険が度々あり、到床静間な住居をなすべき場所とは思われないのである。

曰人の『蕉門諸生全伝』に

「六間掘元番所卜云處杉風か別荘也。其處ヲ藤右衛門ニ譲リテ不レ用古池同前ニナル。其處ヘ芭蕉翁ヲ置申セシ也」

とあるのは、右の秘記に依ったらしく、又「六間堀元番所」と云うのは怪しく、六間堀と元番所とは方角も異なるのである。

また前述の如く天和二年に類焼にあったのであるが、元番所の辺は類焼もありそうに思われない。やはり深川村附近即ち今の新大橋三丁目の辺で、延宝天和頃の地図や、延宝五年刊『江戸雀』などを見ても、此の辺りは町並も在ったので、類焼したことがうなずかれる。此の火事は今の本郷から両国橋に延焼し、隅田川を越して本所から深川へと移ったのであつた。武江年表天和二年の条に云う

「十二月廿八日未下刻、駒込大圓寺より出火、本郷、上野、下谷池の端、筋連御門、神田の辺、日本橋まで、浅草御蔵、同御門、馬喰町辺、矢の御倉、両国橋焼落、本所深川に至る、夜に入て鎮火す。此火事に邁ふて財賓を失へるもの、或は焼死怪我人等著しく、天神の臺死人多く、道路に悲泣のさまを哀憫して、学寮の了翁僧都四年来貯へ置れし書籍の料一千二百両の余を貧人に施せり……深川の芭蕉庵も急火にかこまれ、翁も潮にひたり烟中をのがれしといふは此時の尋なるべし」云々。翁の記事は大分誇張して書かれている。

江戸名所図会などに

「芭蕉庵は萬年橋の北詰松平遠州侯の庭中にあるとあるのは俗伝と思われるし、又前述の如く信じ難い説である。旧記では梨一の『菅菰抄』中の芭蕉翁伝が極めて簡単ではあるが最も正確であろう。いわく

「……其後東武へ下向ありて、深川の六間堀といふ處に庵をまうけ、天和二年まで在住ありしに、其庵囘禄の災にあひて暫らく甲州に赴き、彼国にて年を越え、翌三年の夏の末ならんか深川の舊地へ帰り」云々。

 そこで強いて憶測すれば、初庵は六間堀の川が小名木川に灌ぐ西の辺(今の常磐町二丁目の辺)であったろう。

再庵は此の辺から六間堀の川に沿うて北の方、深川村に移ったのであろう。三度目の庵も此の附近である。

 芭蕉が其の庵を「泊舶堂」と号した事は越人の『鵲尾冠』などに見える。同書上、

似合しや新年古き米五升 の句について、

「此発句は芭蕉江府舶町の囂(かまびす)に倦、深川泊船堂に入れし次る年の作なり」云々。これらに依りて芭蕉は初庵を泊船堂と号した事か知られるが、之に依って大川の河岸近く庵が在ったと推測するのは誤りで、六間堀も小名木川も舶を通じていたものである。又「芭蕉を移詞」(元緑五年作)に

舊き庵もやゝちかう三間の茅屋つきづきしう、杉の柱と清げに削りなし、竹の枝折戸安らかに、葭壇厚くしわたして、甫にむかひ池にのぞみて水樓となす。地は富士に対して、柴門景を追うてなゝめなり。浙江の潮、三ツまたの淀にたゝへて、月を見る便よるしければ、初月の夕より雲をいとひ雨をくるしむ」云々。

「舊き庵もやゝちかう」とあるに依って三度目の庵は二度目のに近かった事が知られるが、「浙江の潮三ツまたの淀にたゝへて」とあるので、いかにも庵が三叉の近くの河岸にあった如く思われるが、之は六間堀の辺から大河も見え、三又も眺められるので、大まかに書いたのである。三又は六間堀の庵から西南方に見えていた所で、河筋が三又の如くなり、隅田川の一名處であった。今は流域が変遷していて、位置が違っているが、今の清洲橋(きよすばし)の辺に当る。貞享四年(元禄二年から二年前)作、鹿島紀行に「門より舟に乗りて行徳といふところにいたる」とあるが、之は庵の前近くにある六間堀(幅が六間ある)を舟に乗って小名木川(既出)に出て、この川を遡って行徳にあがったのである。河合曾良の随行日記にも、出発の日「深川出舶」とある。

 さて元禄二年頃の庵の風情は前に引いた『鵠属冠』にある初庵の記事や、前端「芭蕉を移詞」にある三度目の庵の記事などに依って推測され得る如く旧庵と同じような住居で極めて簡素な茅屋であったと思われる。

人見竹洞(元禄時代幕府儒官)

六月十日、人見竹洞等が二三の友と素堂亭を訪れる。【素堂の家(『人見竹洞全集』所収。国立国会図書館蔵)】

素堂の家

癸酉季夏初十日与二三君乗舟泛浅草入。

 川東之小港訪素堂之隠窟竹径門深荷花池凉。

 松風續圃爪茄満畔最長広外之趣也。(『俳句』朝倉治彦氏紹介。)

はせをくら 芭蕉の重要事項

はせをくら

増訂『一話一言』 巻二十二

                 一部加筆

俳優権田某なる者、さいつ年雑談のあまりに、この駿河臺中坊某君の藩に、元禄の昔、はせを(芭蕉)翁、伊賀より初めて大江戸へ来たり給い、居を卜し蔵ありと言いしにも、其の頃は世のたつきひまなく心にもとめざりしに、去年霜月の頃偶々浅草へ罷りにしに、古本屋にて、この「はせをくら」の本を求めて閲すれば、彼の権田氏の言いしと実に符合せり。

 この辰四月二十七日、ものへまかりけるに、ふと思い出して中坊公の屋敷に立ち寄り、舊相識服部甚左衛門央勝(つちとし)に対面し折から、この「はせをくら」の事を問えば、甚左衛門が言いけるは、この三月頃より、「はせをくら」修理にかかり、昔の如く建て替え、今は大かた作事が出来てと言いしによりて、その御蔵を見たしと乞えば、服部氏自ら案内して見せけり。倉は長さ五間二間(十坪)計りの足高の蔵なり。今大工たちがここかしこをこしらえていて、未だ土をば塗らであり、即ちその御蔵の古き材を乞い得て帰り、一つの聯にし、今ご府内に楼川を築く宗匠なければ、江戸座古き宗匠満葉庵平砂〔二代目〕年七十有余、赤羽の辺りに庵しけるを行きて、この「はせをくら」の古き材へ「古池や蛙飛び込む」の句を題書させて、西川蔵珍とする。

 また服部氏の言いけるは、はせを翁伊賀より来たりし頃は、この屋敷の主人、奈良奉行にて、江戸のおはしまさず、明暦の災い(明暦3年)にこの蔵残りて有りしに、この藩中浜島〔当時の家老市之進〕とはせを翁と親類のよしみ有て、浜島に頼りしに、」未だに普請も出来ず有れば、この土蔵のうちに、はせをしばらく僑居なせしと言う。これより深川へ庵を結ぶと也。

 旭和居士〔当時坊長兵衛様より四代先讃岐守様〕〔花入れへ泰里の記文浜島氏より権方へも恵れたり〕楼汕君〔今小川町二千石 森喜右衛門様也〕長兵衛様大叔父也、中坊より御養子に御入被遊候中坊御舎弟也〕〔中坊長兵衛様御内〕服部甚左衛門央勝〔権二三十年之舊識也〕遊中坊御舎弟也〕

  文化六年(1809)巳十一月五日 西川権


芭蕉は江戸に来て水道工事に関わっていた。

芭蕉 神田上水工事 勤務

喜多村信節編『嬉遊笑覧』文政十三年(1830)引用

      『筠庭雑録』天保十四年(1843)引用

延宝八年六月「役政日記」による。

六月十一日

 一、明後十三日、神田上水水上惣掛有之候間、致相封候町々は桃青方へ急度可申渡侯。桃青相封無之町へ爲行持、明十二日早天に杭木かけや水上に致持参、丁場請取可申候。勿論十三日中は水きれ申候間、水道取候町々は、左様相心得可相場候。若雨降り候はゞ、惣払い相延候間、左様相心得可申候。以上

  六月十一日 延宝八年 町年寄三人

【註】町年寄三人(喜多村彦兵衛・奈良屋市右衛門・樽谷藤植右衛門)

  覚

 延宝八年の神田上水惣払 町触に、

六月二十日

一、明二十三日、神田上水道水上惣払有之候間、桃青と相対致候町々ハ、急度可申候。相対無之町々者、人足に道具を為レ持、明早天、水上佳之へ罷出可レ被レ申候。勿論明日中水切可申候間、町中不レ残可レ被二相觸一候。少も油断有間敷候。

   

【註】信節は江戸時代末期の考証家として著名であり、決して無根の言をなす人ではないから、この資料も信頼できるものと思はれる。これによって延宝八年六月に、芭蕉が神田上水の工事に関係したことが明らかになるのであるが、彼と水道工事との関係は、信節よりもはるかに早く、『本朝文選』の芭蕉伝に、

 嘗世爲レ遺レ功、修二武小石川之水道一四年成。速捨レ功而入二深川芭蕉庵一出家。

年三十七。

〔読み下し〕

「明後十三日、神田上水道、水上総掛りこれ有り候ふ間、相対致し候ふ町々は、桃青方へ急度申し渡すべく候。」の記事と、「明二十三日、神田上水道、水上総掛りこれ有り候ふ間、桃青方へ相対致し候ふ町々、急度申すべく候。相対これなき町々は、人足に道具を持たせ、明早天に水上へ差出し申すべく候。勿論明日中、水きれ申すべく候ふ間、町中残らず相触るべく候。


人見竹洞と山口素堂

『升堂記』にみる素堂と竹洞

『芭蕉と三人の友』 沾徳・素堂・安適伝参考 小高敏郎氏著より 一部加筆 

先ず、『升堂記』の記事だが、これはすでに沾徳の項でふれた。勘兵衛の名でなく、山口素堂の号になっているから、のちに書き入れられたものであろう。入門の時期は荻野氏の推定のごとく、寛文初年(1661)二十才ごろ鵞峰に入ったと見做すべきであろう。しかし、この記事によって、今まで不確実であった、素堂の林家入門の事実が確証を得られたことは、注目すべきであろう。また、人見竹洞との雅交が、鵞峰門下の誼みに始まるという推定も有力になる。

次には、竹洞との関係について考えてみたい。竹洞は人見卜幽の姪である。卜幽は、羅山門下の俊足で、のち水戸光圀に仕え、始めて水戸の儒臣となった。その縁で、竹洞も業を羅山の子鵞峰に受け、幕府に仕えて儒臣となった。素堂との交友については、嘗て私は、同門の士として交わりはあったが、素堂よりも二十二才の年長であり、学者としての地位のちがいもあるから、その交友はさして密接だったとは考えられない、と述べたことがある(「芭蕉と同時代文壇について」解釈と鑑賞三十四年二月号)。

だが、その後朝倉治彦氏の御厚意により、竹洞全集を通読するに及んで、案外二人の交が密だったと認識を改めた。素堂の母の遠忌によばれたり、はるばると素堂の隠居に遊んだりしているし、あるいは素堂の嘱に応じて、硯の銘なども撰している。竹洞という人が、羅山、鵞峰、鳳岡など林家代々の人のごとく、カデミックな学者でなく、隠遁を好む餘裕のある、文人タイプの性格だったからかもしれない。また、『続猿蓑集』によれば、素堂に琴を贈ったりしているが、これも真に琴を愛したかららしい。竹洞は琴を愛し、明人心越禅師が帰化してくると、その琴に詳しいのを聞いて、これに学び、『琴弾指法』なる二書を著したという。耳もよく、音感がたしかであったようだし、次の逸話も竹洞全集に見える。すなわち、成化年中李大用の作った琴を心越禅師がもっていたが、これを修補しよう思い立った。そこでわざわざ材を伊予大津山中の古桐に求め、その藩主に乞うて之を得るや、竈の上に五六年も置いて枯らし、さらに数ケ月を費してその頭部を作り補ったという。器用だし、全く音楽好きであったわけである。竹洞はこういう性格だったから、俳諧などにも興味を有したであろう。すれば、『曠野』に載る

ひらひらとわか葉にとまる胡蝶哉  竹洞

の竹洞は、明証はないが、やはり人見竹洞とすべきであろう。ただ、蕉門の盛期に先立って、元禄九年に六十九才で歿しているから、その作品が他に載らないのではないか。隠遁を好み音楽を愛するような人だから、芭蕉とも仲よくなれたろう。生きていたら、素堂・沾徳・安適らと一緒に、芭蕉の追悼詠ぐらい手向けたかもしれない。

だが、素堂を介して、芭蕉と竹洞の交渉を考えるのはいいが、だからといって性急に石川丈山の漢詩の影響が芭蕉に与えられたとすることには、まだ躊躇を感ずる。たしかに芭蕉庵の六物は石川丈山の六物を模したものであり、芭蕉は丈山の高風を知らなかったわけではない。また竹洞も、その隠遁を好む性格から、丈山や木下長嘯子を敬愛したようである。竹洞が寛文六年に西遊した折の日記『寛文六年・1666 丙午添長日録』には、親友野間三竹が、

「自分は半百の齢になるまで多くの古老に会ったが、丈山と長嘯子ほどの人物はない」、

と語った由を録している。だが、竹洞はこの西遊のとき、三竹の介紹で丈山にはじめて会っただけで、その後寛文十二年(1672)には丈山が九十才で歿しているから、二人の交渉はさして密であったとは思えない。加えて、芭蕉と竹洞との交友もどの程度であったのかわからないのだから、この点から特に芭蕉と丈山を結びつけるのには躊躇するのである。そうでなくても、丈山の声名は当時の文壇に高かったから、その著述をよんで芭蕉が影響を受けるという方が、考えやすいように思う。だが、沾徳といい、素堂といい、当時の江戸文壇においては、かなり広い交友群を有した正規の漢学者であった。芭蕉はこの二人を介し、直接にまたは間接に、儒者と知り合いもし、漢文学の知識を得たことであろう。これは単に芭蕉と竹洞との交渉とか、「ほととぎす」の句の勝劣などという些事に止まらない大きな問題である。芭蕉に及ぼせる中国文学の影響というものを考える上に、芭蕉がこういう当時の漢学者グループと交渉があったことを想定することができるのである。芭蕉が素堂に漢学を学んだとか、『虚栗』は漢学の教養の深い素堂の影響だなどという性急な論にはやはり従えないが、漢学者グループの影響という観点から、芭蕉と中国文学の関係を揣摩する一つの手がかりが与えられるように思う。


素堂消息 水間沾徳と素堂

**参考資料 『芭蕉と三人の友』 沾徳・素堂・安適伝参考 小高敏郎氏著 

**参考資料 『俳文学大辞典』

**参考資料 『一字幽蘭集』

**『江戸市井人物事典』北村一夫氏著。

『芭蕉と三人の友』

元禄六年四月、初夏の訪れと共に、深川の芭蕉庵では、郭公の声がさかんに聞える。閑静な水辺の地で、待ちつ(づ)けたこの郭公を聞くのも逸興とばかり、杉風、曾良など門人たちがつれだって芭蕉庵の戸を敲き、師の吟懐を尋ねた。だが、芭蕉は、猶子桃印が、旅先のこの庵で他界して間もないこととて、郭公の声にも、蜀王望帝の流離のうちに歿したことが思い出され、一人桃印死去の悲しみを強めるから、ほととぎすの句は詠まないと断わった。しかし杉風、曾良が更にすすめたので、ふと思いついた

ほととぎす声や横ふ水の上

一声の江に横ふやほとゝぎす

の両句を示し、共に前赤壁賦の「水光接天白露横江」をふまえた同想の句だがと、その勝劣を問うた。

右は有名な荊口宛真蹟書簡(元禄六年 1693 四月二十九日附) の伝えるところで、今更云々する必要もないが、この頃の芭蕉と親しい門入との一情景、雅交の雰囲気を紙髣髴とさせて楽しいので敢て引いた。

さて、この書簡には次の一節が続いている。

ふたつの作いつれにやと推稿難定処、水沼氏沾徳と云もの吊来れるに、かれ物定の博

士となれと、両句評を乞。沾曰、横江の句、文二対〆考之時ハ句量尤いミじかるべけ

れば、江の字抜て水の上とくつろげたる句のにほひよろしき方ニおもひ付べきの条申

出候。兎角する内、山口素堂・原安適など詩寄のすきもの共入来りて、水上の究よろし

きニ定りて事やミぬ。

この気のおけない集まりのところに、水間沾徳が訪れて来て、がやがやとした論義の判者となり、さらに詩寄のすきもの素堂・安適がやって来たというのである。だが、この三人には、杉風や曾良などの門人とちがって、芭蕉も多少気のおける、友人のような口吻が感ぜられる。

本稿では、この三人をとりあげて、芭蕉との関係をも揣摩憶測してみたいと思う。

〔註〕揣摩憶測=自分だけの判断で物事の状態や他人の心中などを推量すること。

沾徳については、いままでかなり研究されているし、最近、白石悌三氏の労作「水間沾徳年譜」(連歌俳諧研究第十九号) によって、その伝記的研究の基礎資料も整った。しかし、従来の沾徳観はあまり芳ばしいものではない。出身は不明とされながらも、『俳家奇人談』にいう磨工説が、暗々裡に論者の意識に影響を与えているようである。

したがって、譬喩俳諧と称せられる、その知に偏し技巧にはしった作風も、素堂など知識人作者にありがちな衒学癖のためと解釈されず、ろくな学問もないくせに、都会人らしくわるく気取った結果と見做されているようである。

〔註〕 衒学=学識をひけらかし、傲慢な態度を見せるような人物のこと。

また、享保時代には、江戸俳壇の中心人物になったことや、大名の内藤風虎、露沾父子をはじめ、貴顕の家に出入し、その辱知をうけたことも、彼の文学的才能と教養、あるいは文壇的地位が然らしめたという点への配慮がなされず、専ら支考、蓼太のごとき、世俗的な手腕、顕門にへつらういやらしさを予想するようである。これには在色が江戸に来たおり、「鍔もあり間の宿などほととぎす」なる沾徳の発句の趣向を尋ね、その愚昧さにあきれ、「かくの事知らぬ者として、此道の宗匠をして、点料をかすめ、初心を誣して、物知り顔するは、よくも愚盲の至なり。言語に絶たり」(俳諧解脱抄、享保三年・1718成)などという、侮蔑の辞が影響してもいよう。しかし、古来より同業は相妬むものである。ことに俳壇では、貞門、談林以来、論戦の態をなさず口ぎたないだけの攻撃が多い。だから在色の罵言にも江戸の俳壇に君臨していた沾徳への嫉視反感が考えられる。『解脱抄』の悪口をそのまま受けとるのはいかがであろうか。

もちろん、私は沾徳の文学的才能をさして高く評価するものではない。また、沾徳の世渡り上手を否定するものでもない。だが、従来の沾徳観は、多少偏頗であって、全面的にはやはり同感できないものがある。すなわち、若し、沾徳が磨工あがりの無学な人間で、世渡り上手の俗物だったなら、前引の芭蕉書簡に見られたように、何故、その批評の座の「物定の博士」にされたのか。年齢からいっても、当時の沾徳はいまだ三十三才(白石氏「水間沾徳年譜」。従来の説によれば三十二才、芭蕉・曾良・杉風たちより二十才ほども年少なのである。

これは沾徳が門人でなく、友人、客分としての配慮があったのだろう程度の憶測では解釈がつかない。沾徳は、芭蕉はじめ他の門人から敬重されるような学問があったのではないか。  

『一字幽蘭集』水間沾徳編。内藤露沾序。

『俳林一字幽蘭集ノ説』素堂序あり。

元禄5年(1692)素堂、51才

「俳林一字幽蘭集ノ説」

沾徳子甞好俳優之句遂業之來撰一字幽蘭集儒余于説幽蘭也應取諸難騒而除艾長蘭之意 我聞楚客之三十 恂不為少焉雖餘芳於千歳未能無遺梅之怨矣斯集也 起筆於性之一字而掲情心忠孝仁禮義智始終本末等總百字之題以て花木芳草鳴禽吟蟲四序當幽賞風物伴載而不遺焉何有怨乎叉原斯集之所従来前岩城の城主風虎公所撰之夜錦 櫻川 信太浮島此三部集。愁不行於世也 仍抜萃自彼三部集若干句副之句之古風時世之中其花可視而其實可食者畫拾之纂之其左引證倭歌漢文而為風雅媒是編者之微意也可以愛焉従是夜錦不夜錦浮嶋定所櫻川猶逢春矣雖然人心如面而不一或是自非他謾為説誰知其眞非眞是各不出是非之間耳若世人多費新古之辯是何意耶想夫天地之道變以為常俳之風體亦是然寒附熱離時之勢自不期然而然者也強不可論焉沾徳水子知斯趣之人也

 為是 素堂書 佐々木文山冩    

読み下し

沾徳水子は、甞って俳優の句を好みて遂にこれを業とす。ちかごろ一字幽蘭集を撰びて予に説を求む。それ幽蘭なるは、まさにこれを離騒に取りて艾を除き蘭長ずるの意なるべし。我聞く楚客の三十もことに少しとなさず芳せを千歳に余すといえども、未だ梅をわするゝの怨み無きことあたはず。その集や筆を性の一字に起こして、情心・忠孝・仁禮・儀智・始終・本来総て百字の題を揚げ、以て花木・芳草・鳴禽・吟中四序、まさに幽賞すべき風物を伴ひ載せてこれおわすれず。何ぞ怨有らんや。又その集のよりて来る所をたずぬるに、さきの岩城の城主風虎公撰したまふ所の夜の錦・櫻川・信太之浮嶋この三部の集、世に行なはざれしを愁いてなり。すなはち萃して彼の三部の集より若干の句を抜きてこれに副るに、古風、いまよう姿の中、その花を視るべくして其のミ実食すべきはこれを拾い尽くして、これを纂め、以てその左に倭歌漢文を引證して風雅の媒と為す。是を編める者の微意なり。以てめでつべし。是により夜の錦、夜の錦ならず浮嶋も所を定め、櫻川猶春に逢がごとし。しかれども人の心面の如くにて一ならず。或は自らを是とし他を非なりと謾る説を為す。誰かその真非真是を知らん。各是非の間を出でざるのみ。しかのみならず世人の多く新古の辨を費やす。これは何の意ぞや。想ふに、それ天地の道変を以て常とし、俳の風体もまたこれに然り。寒に附き熱にさかる時の勢ひ、自ら然ることを期せずしてる者なり、強いて論ずべからず。沾徳水子その趣きを知る人なり。

    これが為に素堂書す佐々木文山寫す

『一字幽蘭集』発句四入集。沾徳編。

   河骨やつゐに開かぬ花ざかり       素堂

   一葉浮て母につけぬるはちす哉      素堂

   魚避て鼬いさむる落葉哉         素堂

   茶の花や利休が目にはよしの山      素堂

   

  沾徳の消息

 『沾徳随筆』に、素堂の逝去に対して、

 山素堂子、去る仲秋みまかりぬ。年行指折で驚く事あり、予を入徳門に手を引き染めて四十年、机上の硯たへて三十年、今に持来りて窓に置く。云々。

 《注解》 『沾徳随筆』

俳諧随筆。享保三年(1718)稿。素堂追悼句文掲載。

寛文二年(1662)生、~享保十一年歿。年六十五才。

 はじめ門田沾葉、のち水間沾徳。江戸の人ではじめ調和門調也に師事し、調也に随伴して内藤風虎の江戸藩邸に出入りし、同藩邸の常連である素堂の手引きで林家に入門、また山本春正、清水宗川に歌学を学び、同門の原安適と親交を結んだ。貞享二年(1685)頃立机、素堂を介して蕉門に親しむ。

合歓堂沾徳  『江戸市井人物事典』北村一夫氏著。

   帯程に川も流れて汐干かな

   折りてのちもらう声あり垣の梅

などの句でしられる合歓堂沾徳は、京橋五郎兵衛町(現在の八重州口六丁の

内)に住む通称水間治郎左衛門という刀剣の研師である。飛鳥井雅章が和歌

のことで問題を起こし、岩城平に左遷された時、沾徳は俳 諧の師でもあり

城主である内藤露沾に選ばれて御伽衆として雅章に仕えた。雅章は配所に三

年ほどいて京都に帰ったが、その時沾徳に「汝必ず和歌に携わるべからず。

只俳諧のみ修業すべし」と言い残した。(『俳諧奇人談』)

沾徳は気骨のある人で播州顔赤穂の大高子葉(源吾)、富森春帆(助右衛

門) 神崎竹平(与五郎)、茅野涓水(三平)などの門人がいる。赤穂浪士

の遺文中に俳句が多いのは沾徳の力に大いに預かっている。


素堂、芭蕉『のざらし紀行』跋文

▽『野晒紀行』素堂跋(濁子本)

こがねは人の求めなれど、

求むれハ心静ならず。

色は人のこのむ物から、

このめば身をあやまつ。

たゞ、心の友とかたりなぐさむよりたのしきハなし。

こゝに隠士あり、

其名を芭蕉とよぶ。

はせをはおのれをしるの友にして、

十暑市中に風月をかたり、

三霜江上の幽居を訪ふ。

いにし秋のころ、

ふるさとのふるきをたづねんと、草庵を出ぬ。

したしきかぎりハ、これを送り猶葎をとふ人もありけり。

何となく芝ふく風も哀なり  杉風

他ハもらしつ。此句秋なるや冬なるや。

作者もしらず、唯おもふ事のふかきならん。

予も又朝かほのあした、夕露のゆふべまたずしもあらず

。霜結び雲とくれて、年もうつりぬ。

いつか花に茶の羽織見ん。

閑人の市をなさん物を、

林間の小車久してまたずと温公の心をおもひ出しや。

五月待ころに帰りぬ。

かへれば先吟行のふくろをたゝく。

たゝけば一つのたまものを得たり。

そも野ざらしの風は一歩百里のおもひをいだくや。

富士川の捨子ハ其親にあらずして天をなくや。

なく子は獨リなるを往来いくはく人の仁の端をかみる。

猿を聞人に一等の悲しミをくはえて今猶三聲のなミだだりぬ。

次のさよの中山の夢は千歳の松枝とゞまれる哉。

西行の命こゝにあらん。

猶ふるさとのあはれは身にせまりて、

他はいはゞあさからん。

誠や伯牙のこゝろざし流水にあれば、

其曲流るゝごとしと、

我に鐘期が耳なしといへども、

翁の心、とくくの水うつせば句もまた、とくくしたゝる。

翁の心きぬたにあれば、うたぬ砧のひゞきを傳ふ。

昔白氏をなかせしは茶賣が妻のしらべならずや。

坊が妻の砧ハいかにて打てなぐさめしぞや。

れは江のほとり、これはふもとの坊、地をかゆともまたしからん。

美濃や尾張のや伊勢のや、狂句木枯の竹斎、

よく鞁うつて人の心を舞しむ。

其吟を聞て其さかひに坐するに同じ。

詞皆蘭とかうばしく、山吹と清し。

しかなる趣は秋しべの花に似たり。

其牡丹ならざるハ、隠士の句なれば也。

風の芭蕉、我荷葉ともにやぶれに近し、

しばらくとゞまるものゝ形見草にも、

よしなし草にも、ならばなりぬべきのミにして書ぬ。

山口素堂の抱え屋敷と芭蕉庵は重なる


**芭蕉庵十三夜**

ばせをの庵に月をもとあそびて、只つきをいふ。越の人あり、つくしの僧あり、まことに浮艸のこへるがごとし。あるじも浮雲流水の身として、石山のほたたるにさまよひ、さらしなの月にうそぶきて庵にかへる。いまだいくかもあらず。菊に月にもよほされて、吟身いそがしひ哉。花月も此為に暇あらじ。おもふに今宵を賞する事、みつればあふるゝの悔あればなり。中華の詩人わすれたるににたり。ましてくだらしらぎにしらず、我が国の風月にとめるなるべし。

もろこしの富士にあらばけふの月見せよ 素堂

かけふた夜たらぬ程照月見哉 杉風

後の月たとへば宇治の巻ならん    越人

あかつきの闇もゆかりや十三夜 友五

行先へ文やるはての月見哉       岱山

後の月名にも我名は似ざりけり     路通

我身には木魚に似たる月見哉    僧 宗波

十三夜まだ宵ながら最中哉       石菊

木曾の痩もまだなをらぬに後の月   はせを

仲秋の月はさらしなの里、姨捨山になぐさめかねて、猶あはれさのみにもはなれずながら、長月十三夜になりぬ。

今宵は宇多のみかどのはじめてみことのりをもて、世に名月とみはやし、後の月あるは二夜の月などいふめる。

是才士文人の風雅をくはうるなるや。閑人のもてあそぶべきものといひ、且は山野の旅寐もわすれがたうて人々をまねき、瓢を敲き峯のさゝぐりを白鴉と誇る。隣家の素翁、丈山老人の、一輪いなだ二部粥といふ唐歌は、此夜折にふれたりとたづさへ来れるを壁の上にかけて、草の庵のもてなしとす。狂客なにがししらゝ吹上とかたり出けれは、月もひときははへあるやうにて、中々ゆかしきあそびなりけり。

貞享五戊辰菊月中旬  蚊足著

物しりに心とひたし後の月    蚊足