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素堂亭と芭蕉庵を探る

2020.11.18 02:04

https://plaza.rakuten.co.jp/miharasi/diary/201904300002/ 【素堂亭と芭蕉庵を探る】より

龍隠庵(りゅうげあん)

同所神田上水堀の端にあり、昔は真言宗にして安楽寺と名付ける。故ありて元禄十年黄檗宗に改め、洞雲寺の持ちとなり。〔割注〕洞雲(とううん)寺は音羽町八丁目の西裏にあり。」平石(へいせき)和尚従住する。本尊は観世音慈覚大師の彫像という。庵の前には上水の流れが横たわり、南に早稲田の耕田を臨み、西に芙蓉の白嶺を顧みる、東は堰口して水音冷々として禅心を凉しめ、後ろには目白の臺が聳えたり、月の夕べ、雪の朝の風光もまた備われり。昔上水開発の頃、芭蕉翁

〔割注〕芭蕉翁は通称松尾甚七郎と云い、藤堂家の士(さむらい)この水掘割の時、幕府が藤堂家へ普請を命ぜられしに、甚七郎此の事を掌りし故、其の頃この地に日々遊ばれしと云えり。」

 この地に遊ばれしにより、後世その舊跡を失わん事を憂い、白兎宗旦及び馬光などと云える俳師、この地の光景江州瀬田の義仲寺に髣髴(ほうふつ)たるを以て、

  五月雨(さみだれ)に隠れぬものよ瀬田の橋

 といえる翁の短冊を塚に築き、五月塚と号す。

芭蕉稲荷神社 

『芭蕉点描』松尾勝郎氏著 有精舎刊 1991発行 一部加筆

いま芭蕉庵跡とされているところは、地番でいえば江東区常盤一丁目3-13にあたり、そこには芭蕉稲荷神社と呼ばれるささやかな嗣が祭られている。そこは両側を民家に挟まれ、少し歩を運べばたちまち隅田川の護岸に突きあたる小道に面していて、向かい側は倉庫を兼ねたビル、小名木川に架かる万年橋の鉄骨を望める位置にある。ここを訪ねてきたものは、それぞれの胸中に描くところの市隠芭蕉のイメージと、あまりにもかけはなれた原景に当惑するかも知れない。

「茅舎の感」と題し(芭蕉野分して盟に雨を聞夜哉)と吟じた往事の感懐を、この場で想起することはむずかしい。およそ六坪ほどの稲荷神社は石柱の柵で結界を示し、鳥居のすぐ奥手に対の狐の石像、コンクリート造りの嗣を配し、たたずまいはまさにお稲荷さんそのものである。しかし、「芭蕉庵史蹟」の標識や、「史蹟芭蕉庵跡」と刻した石碑、「深川芭蕉庵旧地の由来」を記した掲示板などが、芭蕉ゆかりの地であるのを証している。

3、第一次芭蕉庵 『深川区史』(上)

『芭蕉点描』松尾勝郎氏著 有精舎刊 1991発行 一部加筆

「弟子の鯉屋杉風は幕府の御納屋で、初め彼を小田原町に住ませていたが、そこは芭蕉の気に入らなかったと見えて、延宝二年に深川の活簀屋敷にある六畳一間の茅屋を提供した。これが即ち後の〔芭蕉庵〕で、其頃薙髪して風存坊と号し、また夭々(ようよう)軒桃青とも呼んだ。」

と記し(入庵時を延宝二年としたのは、湖中の『芭蕉翁略伝』の説に依ったもの)、『江東区史』では前書の「活簀屋敷にある六畳一間の茅屋」

という具体的な記述は避けて、「弟子杉風の持家、深川六間堀の芭蕉庵に住み深川臨川寺の仏頂和尚に参禅したり、いろいろ苦心をかさねてついに調子の高い純文学として枯淡幽玄の芭蕉風の俳諧の道を樹立した。」 

と叙している。

4、第一次芭蕉庵 杉風持家説

『芭蕉点描』松尾勝郎氏著 有精舎刊 1991発行 一部加筆

杉風持家説は『杉風句集』に載る「杉風秘記抜書」に、 

その後此方深川元番所生洲の有之所に移す。時にばせを庵桃青と改られ候。

    古池や蛙とびこむみづの音   翁

  ばせを庵の傍に生洲の魚を囲ひし古池有り。後元禄十一寅年ばせを庵を外へ引。

とある記事を根拠としている。さらに遠藤日人は『蕉門諸生全伝』において、

六間堀元番所卜云処、杉風が別荘也。其処簀を藤右衛ニ譲リテ不用古池同前ニナル。

其処へ芭蕉翁ヲ置申せし也。折々ハ杉風、芭蕉庵杉風と云しハ庵地主故也トカヤ。

と述べている。守徹自亥編『真澄の鏡』にも、

  小田原町鯉屋市兵衛事杉風、其子小兵衛と入懇にて、此下屋敷深川にあり。是に住庵

を結び、ばせを庵と号す。

5、第一次芭蕉庵 杉風持家説「深川元番所」

『芭蕉点描』松尾勝郎氏著 有精舎刊 1991発行 一部加筆

「深川元番所」あるいは「六間堀元番所」とは、小名木川が隅田川に接するところに架けられた万年橋北詰にあった船番所跡で、当時江戸と下総行徳に往来する船を改めていたが、寛文元年(1662)中川川口に移された。延宝八年の「江戸方角安見図」には、万年橋北詰めに記され、橋の名も「元番所のはし」と表記されている。

 以上の所伝を要約すると、元番所跡付近に杉風の生簀小屋があり、それに手を加えて提供したが、その傍らにかつて生簀の魚を囲った古池も存したこと。同じく六間堀元番所跡付近に杉風は生簀を所有していたが、それは藤右衛門なる人物に譲渡したものの、近くには杉風の別荘があり、そこに住まわせたこととなる。この別荘は坐興庵とも芭蕉庵とも称され、庵主の杉風は一時みずからを芭蕉庵杉風と号したとも伝わる。生簀小屋と別荘との相違はあるものの、いずれにせよ杉風所有の持家を第一次芭蕉庵と定めたとする説は、これらの資料を根拠として広く流布してきた。

6、第一次芭蕉庵は杉風の別荘 

『芭蕉点描』松尾勝郎氏著 有精舎刊 1991発行 一部加筆

杉風の別荘についての記録は、婿養子の三代目鮭屋市兵衛が享保十七年(1732)二月に作成した資産目録に「深川六間堀西側、表拾弐間、裏行五十間余」とあり、その面積は約六百坪にあたる。

松平遠江守の屋敷拝領は宝永以後とされるので、享保十七年(1732)といえばすでに松平家の所有となっており、したがって別荘の位置が元番所付近ということはあり得ない。方角としては六間掘西側にあたるとしても、実際の場所は元番所からはいくらか北にはずれた深川元町か北六間堀あたりであったとも思われる。そうだとすれば、第一次芭蕉庵を杉風所有地内とする通説は疑問視されてくる。いまだにその所在を分明になし得ないこの第一次芭蕉庵は、二年後の天和二年(1682)末、大火による類焼によって消滅した。

第二次芭蕉庵

 第二次芭蕉庵に関しては、冬の位置を伝える信頼できる資料が残されている。それは尾州鳴海の旧家下里知足の日記で、『知足斎日々記』貞享二年(1685)四月九日の条に、

「江戸深川本番所森田惣左衛門御屋敷松尾桃青芭蕉翁一宿」

と書き留められている。森田惣左衛門なる人物については詳かではなく、古絵図にもその名を尋ねることはできないが、知足の「本番所」との記事からすれば、その屋敷は本所・深川地区の市街地開発事業に功績のあった知行四千石の旗本、関東郡代伊奈半十郎の支配する土地の一角にあったと考えられる。

このころ

「屋敷之内を町人等に借置候儀、前々より御制禁候、弥堅差置中間敷候」

(「元禄七成年六月御触書」)

素堂、深川に屋敷地購入(郡代伊那半十郎跡地)

 素堂の家(素堂の抱屋敷)

元禄九年(1696)

  地子屋舗帳の九冊目、深川の条、四百三十三坪 山口素堂四年以前酉年求置。

〔註〕酉年=元禄六年(1693)

元禄十五年(1702)

本所深川抱屋舗寄帳。地子屋舗帳之内、四百三十三坪と有之(訂正)四百二十九坪。

深川六間掘続、伊那半左衛門御代官所、町人素堂所持仕候地面四百二十九坪の抱屋敷、

  元来所起立より町屋地面に而、町並家作仕、尤家作何方へも無断仕来候得共、

先年武士方所持之節、町並家作中絶仕、御改之節、抱屋敷御帳に相載り、

其以後素堂乞請所持仕候得共、町並家作不相成、迷惑仕候、

右六間掘町一同之地面之儀に御座候間、先規之通り抱屋敷御帳御直し、

家作御免之町屋並に仕度旨、所之名主一同連判之一札を以、願出候に付、

半左衛門方承合候処、願之通、無粉、今以町並御年貢諸役相勤来候旨、

委細書状を以、申越候、依之、場所遂見分、宝永元甲申七月申上処、願之通、為仕候

様にと、被仰渡候、則半左衛門方にも相達之、願主名主召寄、申渡之候間、帳消之御

張紙差上候。

九月十二日之貴墨、一昨廿四日伊兵衛持參、再三於レ今不レ止拝見候*。御下血再發之義(儀)、偖々無二心元一奉レ存候。ぜゞ・大津之内、彼是御馳走に而、殊老醫も御連衆之内に有レ之候故、御心之儘に御養生被レ成候由承、先は乍二案堵一、それにも御心づかひ等も可レ有レ之かと、又無二心元一奉レ存候。如レ仰、此方は乍二御不自由一定りたる御住所程之事に候へば、御心安キ方は可レ有レ之かと存候へども、御文言之趣に而は當年之御下りは不定之様に被レ察、一入御馴 (懐)ケ敷存候*。先書にも申上候通、野子*も當年は様々之煩共に而、息災成間無レ之候故、空草庵に一年を暮申候。随分致二養生一候。若年内御下りも無レ之候はゞ、春は早々乍二御迎一罷上り可レ申と奉レ存候*。其内にも何とぞ御下向と願斗に候。いが (伊賀)にも御住所被レ求、御門弟中待被レ申候由、尤かと被レ存、半左衛門殿御息災と聞へ申候。先日従レ是も書通仕候。此元替事無二御座一候。昨日杉風にも逢申候故、御書中見せ申候。左衛門殿金出不レ申上に、當年は大分鮭荷參り、毎日仕切金夥敷、此間少々あぐまれ候程之躰に見へ申候。それ故やしき調候事も、一日一日と延申候。暮には今之苦にかはり快候半と存候。多ク之御門弟之中、只此仁ノ眞(親)切のみ替事無レ之候。

一、露(路)通事、高橋の手前の裏に店かり、春迄は江戸住と見へ申候。折々此方へも參候。御書中之通りにては、野子など出會も無用之事にや、重而思召ひそかに承度候。先はいか様之すべ共委不レ存故、不レ替躰にもてなし候へども、貴翁御通シ無レ之者に出會候も不レ快候故、御内意承度候*。

一、ひさご集ノ事、かねて及レ承候。キ角より露(路)通かり參候由及レ承候間、かり見可レ申候。キ角などは心に入不レ申候様に承候。御發句共御書付被レ下忝奉レ存候。かすかにさびたる意味得心仕ながら、例之念入病除不レ申、それのみ杉風とは申事に候。十三夜無二御座一候。外にも聢々無レ之との事に候。

茄子の木を引すつるにも秋の果

何とやらん重く不快に御座候。いか様ひさご集見申候而心付候はゞ、おい仕上ゲ可レ申と存候。杉風句ども反古之内より見出し申候故、懸二御目一候。是も重くした(ゝ)るく聞へ申候。先日武(蔵)野へ同道仕候。發句・文など書見せられ候。書出しなどいかヾと乍レ存、外へ見せられも不レ被レ致候故、先能出来候分に仕置申候。嵐雪集出来、其袋と申候。自序にて御座候。中々出来申候。素堂、去年名月十三句入申候。巻頭季吟にて御座候。

一、宇加(賀)神弁財天の事、別紙書付懸二御目一候。別而御覧不レ分かと無二心元一奉レ存候。素堂きくの句之事得二其意一候。此間にかゝせ申候而、重而上せ可レ申候。幻住庵之記之事畏入存候。拝見仕度候。

一、匠印封入進申候。去年に出来有レ之由にて候。桃印甚兵へ無事、次郎兵衛事等、委猪兵へ申上候由故略レ之申候。苔翠・夕菊・道意・ゝ因へも申届候。宗波息災に候。貴翁庵、平右より夕菊母義(儀)へゆづり、平九跡へ表ノ方苔翠、裏ノ方平右、苔翠跡へ夕菊母義(儀)、貴庵へは中々愚痴成浄土之和尚隠居移り、九本佛可夕がにせ被レ致、十念出し、偖々やかましく候。大屋より被レ止候故、此間に外へ移り申筈に普請二つ目の邊に仕候内、跡賣に成申候。わづか成内に數變、おかしく存候。又いか成ものが入かはり候半と存候。野子も庵六ケしく候故、賣候而住所なしに可レ仕と存、買手も有レ之候内に○○下り居申候故、無二是非一罷有候。いかゞ御舊庵此方へ取申候而、御下りを待可レ申哉と存候。明神ノ能も廿三日に過申候。放(寶)生にて御座候。其外替事無レ之候。先早々右之書付進じ可レ申迄に如レ此に御座候。追々御状可レ被レ下候。

以上

    九月廿六日                       曾良拝。

元禄三年、近江地方を漂泊しでいた芭蕉に宛てた曾良書簡の中の一節、

 貴翁御庵、平右より夕菊母義へゆづり、平九跡へ表ノ方苔翠、裏ノ方平右、苔翠跡ヘタ菊母義、貴庵へは中々愚痴成浄土之和尚隠居移り、九本仏可夕がにせ被致、十念出し偖々やかましく候。大屋より被止候故、此間二外へ移り申等ニ普請ニッ目ノ辺ニ仕候内、跡売に成申候。わづか成内ニ数変、おかしく存候。

貴庵へは中々愚痴成浄土之和尚隠居移り、九本佛可夕がにせ被レ致、十念出し、偖々やかましく候。大屋より被レ止候故、此間に外へ移り申筈に普請二つ目の邊に仕候内、跡賣に成申候。わづか成内に數變、おかしく存候。又いか成ものが入かはり候半と存候。野子も庵六ケしく候故、賣候而住所なしに可レ仕と存、買手も有レ之候内に○○下り居申候故、無二是非一罷有候。いかゞ御舊庵此方へ取申候而、御下りを待可レ申哉と存候。明神ノ能も廿三日に過申候。放(寶)生にて御座候。其外替事無レ之候。先早々右之書付進じ可レ申迄に如レ此に御座候。追々御状可レ被レ下候。

以上

    九月廿六日                       曾良拝。

を重視するならば、それは草庵という言葉から連想されがちな独立家屋ではなく、どうやら惣左衛門の差配する貸し店の一戸で、近隣の騒がしさも伝わってくるような住居であったようだ。

 また、其角の「芭蕉翁終焉記」は、復興した第二次芭蕉庵に入居した折の事情を、

「それよりヨリ『三更月下入無我』といひけん、昔の跡に立帰りおはしければ、人々うれしくて、焼原の旧草に庵をむすび」

と記している。其角のこの記述は信頼してよく、結局のところ第一次と第二次の草庵は、ともに森田惣左衛門の屋敷内にあったとみられるのである。与して、元禄二年(1689)の春、この庵は平右衛門なる人物に譲り渡された。そのときの感懐を『おくのほそ道』に

「住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、草の戸も住替る代ぞひなの家 面八句を庵の柱に懸置」

と記している。

**第三次芭蕉庵

第三次芭蕉魔の所在については、芭蕉自身

「猶このあたり得立さらで、旧き庵もやゝちかう」(「芭蕉を移す詞」)

と語り、これまでの二つの芭蕉庵とは異なる場所であることが知れる。この新庵は「芭蕉を移す詞」の初稿とみられる草稿に、

「既に柱は杉風・枳風が情を削り、住居は曽良・岱水が物ずきをわぶ」

(『蕉翁文集』)

「杉風一人の施主と成りて、聯か枳風が志を相兼、住居は曽良・岱水が物ずきに任せて」(芭蕉翁全伝』)

という経過で新築された、

「三間の茅屋つきづきしう、杉の柱いと清げに削なし、竹の枝折戸安らかに、葭(あし)垣厚くしわたし」(「芭蕉を移す詞」)

た建物で、資金の調達、設計と施工のすべては杉風をリーダーとする門弟四人の尽力によって新築の運びとなった。

 この第三次芭蕉庵について、荘内藩士であった池田玄斎の「病開襍抄(天保十五年・1884 成)にきわめて興味深い記事が伝わる。

 

 小寺信正九歳のとき有翁歿せられたり、其庵を叔父の素羊につれられ見に行たるに、上の間は八畳、次の間は六畳の庵にて、前には芦垣あり、芭蕉もうゑてあり、垣の外に土をとりたる大穴あり、是則古池也蛙飛込、また池を廻りてよもすがらときようぜられたる池也、其後十四五年を経て尋ねしに、加藤遠江守とのゝ北の方へ囲み入たり、庵南向なりしと記せり 玄斎云、信正は蕉翁とは対面なし、曽良、素堂などには度々逢ひしといへり

 文中の小寺信正とは荘内藩士で禄高五十石、十三歳で江戸定府を命ぜられ、のち酒田亀ヶ崎城付となり、宝暦四年(1754)に七十三歳で没したという。ここに記された芭蕉庵の規模は「芭蕉を移す詞」の「三間の茅屋つきづきしう」「芦垣厚くしわたして、南にむかひ池にのぞみて水棲となす」とまさに符合する。ただ「加藤遠江守」とあるのは「松平遠江守」を取り違えたのであろう。そうした誤謬はあるものの、この記事はまさに芭蕉庵址が松平遠州侯の邸内にあったことの傍証とも受けとれるし、それが第三次芭蕉庵を指していると考えてよい。

「加藤遠江守とのゝ北の方へ囲み入たり」

の記述に留意するならば、第二次芭蕉庵よりやや北方に位置がずれていることとなり、あるいは杉風の遺言状にみえる杉風所有の土地に建てられていたかとも推測できる。

 

ところで別に、第三次芭蕉庵の所在を、いまの森下二丁目にある長慶寺の門前とする説もある。すなわち、出羽荘内藩に関する文献を抄出した『藩邸記』 に、

芭蕉翁桃青居士の閑居も長慶寺門前にて、船に成る風の芭蕉哉 名月や池を廻りてよもすがら是等の発句此庵室にての事の由、庵の辺に小池有之、今は塵に埋りて名のみ残れり、

という。また荘内藩槍術師範武藤幸山の「武藤幸山旧聞抄」 にも、

 

芭蕉翁文桃青居士卜云フ俗称松尾甚七郎、江戸深川三ツ目通高橋ノ通ニテ森下町長慶寺門前ニ居ル、此所ニ池アリ、今ハ只名ノミ残レリ。

 

三代酒井忠義(若狭国小浜藩主)は万治三年四月家督、天和元年十一月没し、四代忠真嗣ぎたれば、深川屋敷の抱へ入りは元禄以前にして、幕府の用地となりしは元禄十年忠真の時代なり。依て長慶寺門前の芭蕉庵とは道を隔てて相対し、藩士の同好者は屡々芭蕉庵を訪ねしことなるべし。元禄二年芭蕉の来荘後は荘内の俳人は芭蕉との風交愈々親密となり、俳句を送りて添削を請ふもの、又は芭蕉庵を訪ふるもの繁くなり

と伝える。『藩邸記』の記事は、元禄以前から設けられてきた荘内藩深川高橋御抱屋敷を、四代酒井忠実の代の元禄十年(1697)、幕府の用地として返上した事情を記した文書の一部で、「船に成る」の句は芭蕉誤伝の作とされる一つだが、実は(船になる帆になる風の芭蕉かな)なる芳賀一晶の句である。

「旧聞抄」も『藩邸記』も、共に芭蕉庵を「長慶寺門前」と設定している。特に芭蕉の「おくのほそ道」の途次の荘内地方巡遊を契機として、風雅に志のある藩士や荘内の俳人たちがこの芭蕉嵐を訪れ、風交を深めたとする「旧聞抄」の記述は、長慶寺門前説に重みを感じさせる。そして、「おくのほそ道」の旅が芭蕉と荘内俳人を結びつけたとする記述から、ここにいう芭蕉庵とは第三次芭蕉庵を意味しているのはいうまでもない。だが、目下のところこの説についての真偽をたしかめるすべもなく、芭蕉庵をめぐる一説として紹介しておく。

 長慶寺は曹洞宗に属し、寛永七年(1630)四月、三代将軍家光の創建になる古刺で、江戸城西の丸の残材で建てられたことから残木(こっぱ)山とも呼ばれ、境内に楠の老樹のそびえていたため楠寺とも呼ばれたという。

芭蕉との関連については、参禅した寺とも、仏頂和尚と面識を得たところともいわれ、支考も『笈日記』のなかで「是は阿叟の生前たのみ申されし寺也」と記している。

杉風はのちに亡師の落歯とその手蹟(よにふるもさらに宗祀のやどりかな)を壷中に納め、「時雨塚」を築いた。境内には芭蕉五十回忌の寛保三年(1743)に眠柳居麦阿の建立した其角と嵐雪の供養塚の他、乙由・眠柳・霜後・大蕪の碑などもあったというが、戦災によって破壊され、時雨塚は無残な姿となり、その他のものもいまほとんど痕跡を留めていない。