今日の芭蕉シンクロニティ 遺書四通(全) やぶちゃ附注――芭蕉の末期の病床にシンクロして――
http://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2014/11/post-24fd.html 【今日の芭蕉シンクロニティ 遺書四通(全) やぶちゃ附注――芭蕉の末期の病床にシンクロして――】より
松尾芭蕉遺書四通(全) 附やぶちゃん注
松尾芭蕉遺書――実兄松尾半左衛門宛
[やぶちゃん注:元禄七年十月十日附(グレゴリオ暦一六九四年十一月二十六日相当)。発信場所は花屋仁左衛門貸座敷。芭蕉の実兄(芭蕉は次男)で伊賀上野の当時の松尾家当主、松尾半左衛門宛の遺書である。
松尾半左衛門は生年不詳で、芭蕉と幾つ離れていたのかもわからない。いつもお世話になっている伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「松尾半左衛門」によれば、芭蕉の父松尾与左衛門の二男四女の長男であった。『弟であった芭蕉のような文学的才能も無かったと見えて俳諧に志すことは遂に無かった。伊賀上野のように狭い社会で、しかも伊賀蕉門は芭蕉を尊敬してやまなかったから、そのことが兄の得意でなかったわけはないにもかかわらず、俳諧にいささかもタッチしていないところをみると余程その方面の才能はなかったのであろう』。『他方、生活力も優れたものを持ち合わせなかったと見えて、経済的には相当に困窮していたようである。芭蕉が、少しでも俗世間的栄達、経済的野望を持っていれば援助は十分に得られたのであろうが、それは全く望むべくもなく、近江蕉門や伊賀蕉門門人たちからの何がしかの救済があったかもしれないが、それとても見るほどのものではなかったようである』。『「総領の甚六」の、優しい性格の持ち主であったようで、そのことが芭蕉の度重なる帰郷につながったのであろう。先妻を失い、再婚して』おり、芭蕉には半左衛門に宛てた芭蕉の書簡が六通現存しているとある。
底本は新潮古典集成富山奏校注「芭蕉文集」を用いたが、恣意的に正字化し、読点も追加したが、編者が附加した読みは遺書という性格上、除去した(原書簡は漢文体を呈し、異字も多く非常に読み難いので、これを底本とした旨、お断りしておく)。注は主に富山氏の注を参照した。]
お先に立ち候段、殘念思し召さるべく候。いかやうとも又右衞門たよりにになされ、御年寄られ、御心靜かに御臨終なさるべく候。ここに至りて、申し上ること、御座無く候。市兵衞・治右衞門殿・意專老を初め、殘らず、御心得、たのみ奉り候。中にも重左衞門殿・半左殿、右の通り。
ばばさま・およし、力落し申すべく候。以上
十月 桃靑(書判)
松尾半左衞門樣
新藏は殊に骨折られ、かたじけなく候。
□やぶちゃん注
・「又右衞門」兄半左衛門の息子。
・「御年寄られ」長生きなさって。
・「市兵衞」貝増(かいます)市兵衛。俳号、卓袋。通称、絈屋(かせや)市兵衛。「絈」は、元は紡いだ糸を巻き取るためのH又はX字型をした道具を指し、転じて、そこから外した糸や一定の長さの糸を一定の枠に巻いて束ねた「かせいと」の謂いで、「絈屋」は糸商人のこと。伊賀蕉門の一人で、伊賀蕉門の中でも特に活躍した商人(あきんど)俳人であった。芭蕉とは相当に親密であったと思われ、「猿蓑」「枯尾花」「渡鳥集」などに入集している。
・「治右衞門」伊賀藤堂藩藩士。俳号、苔蘇(たいそ)。
・「意專老」窪田猿雖(えんすい)。本名、窪田惣七郎。猿雖が俳号で、意専は法名。伊賀上野の門人で内神屋(うちのかみや)という屋号で手広く商いを行っていた富豪であり、芭蕉の信頼厚く、土芳に次ぐ伊賀蕉門の重鎮であった。
・「心得」別れの挨拶方。
・「重左衞門」山岸重左衛門。俳号、半残(はんざん)。伊賀上野の古くからの門人(父子ともに門弟で同号を名乗った)。あるデータでは、この父の方と思われる人物は芭蕉の姉の夫であったという記載もある。
・「半左」「はんざ」と読む。蕉門十哲に加えられることもある「三冊子」の作者服部土芳のこと。服部半左衛門保英。藤堂藩藩士であったが、三十歳前に致仕して芭蕉の門人となり、伊賀蕉門の重鎮となった。
・「ばば樣」兄半左衛門の当時の妻。先妻病没後の後妻である。
・「およし」芭蕉の妹(富山氏の注に『末妹』とあるから後妻の腹違いの妹か)。年齢や詳細不詳。
・「力落し」「力落しなどせそと」の謂いであろう。
・「新藏」片野新蔵。伊東洋氏の「芭蕉DB」の「片野望翠」によれば、伊賀上野の商人で、『井筒屋の主人。名は良久。通称新蔵。芭蕉の妹の亭主とも言われているが不詳』とある。「有磯海」「枯尾花」などに入集しており、蕉門の門人であった。別情報では、この『妹』とは先の「およし」ではなく、芭蕉のすぐ下の妹としている。
松尾芭蕉遺書三通
[やぶちゃん注:元禄七年十月十日附(グレゴリオ暦一六九四年十一月二十六日相当)。於花屋仁左衛門貸座敷。以下は先の実兄宛遺書に続いて筆録させた三通である。
底本は新潮古典集成富山奏校注「芭蕉文集」を用いたが、恣意的に正字化、編者が附加した読みや書名を支持する括弧等は遺書という性格上、除去した(原書簡は漢文体を呈し、異字も多く非常に読み難いので、これを底本とした旨、お断りしておく)。なお、【その一】冒頭の目録を除き、「一」の後、文が続いて二行目以降に渡る場合は底本では一字下げとなっている。各注は富山氏の注を主に参照した。]
【その一】
一、三日月の記 伊賀にあり
一、發句の書付 同 斷
一、新式 これは杉風へ遣さるべく候。
落字これ有り候あひだ、本
冩を改め、校せられべく候。
一、百人一首・古今序註 拔書。これは支考
へ遣さるべく候。
一、埋木 半殘かたにこれ有り候 。
江戸
一、杉風かたに、前々よりの發句・文章の覺書、これあるべく候。支考、これを校し、文章ひきなほさるべく候。いづれも草稿にて御座候。
一、羽州岸本八郎兵衞發句二句、炭俵に拙者句になり、公羽と翁との紛れにてこれ有るべく、杉風よりきつと御ことわりたまはるべく候。
□やぶちゃん注
冒頭、自身遺愛の目録とその所在とその一部の形見分けを明記、江戸に残る遺稿の校閲を、目の前にいる、この遺言代筆者本人である支考に厳として命じ、杉風には気になっている誤伝錯誤の釈明を当該人物に必ず伝えよと注する。芭蕉という句狂人の強烈な覚悟が見てとれる一通である。
・「三日月の記」「三日月(みかづき)日記」とも。元禄初年頃に江戸深川の芭蕉庵に来訪した門人たちの発句を編集した稿本「芭蕉三日月日記」を、この元禄七(一六九四)年の七月から九月、郷里伊賀上野滞在中に精選、完成させたもの(それ以前の元禄五年に芭蕉庵で稿本が完本化されており、これは芭蕉からその時に訪問した「奥の細道」の旅で世話になった山形羽黒山山麓の手向村の近藤呂丸(ろまる)に譲られている。呂丸はしかし先立つ元禄六年に京で客死してしまう)。結局、本作は支考の編に委ねられ、後に日の目を見ている(享保一五(一七三一)年序)。因みに、呂丸は死の直前に支考を訪ねている。何か、妙な因縁を感じるのは私だけだろうか?
・「新式」「連歌新式」。正式名称は「連歌新式追加並(ならびに)新式今案(こんあん)等」。南北朝時代の連歌式目で「応安新式」とも称する。二条良基の編になり、文中元・応安五 (一三七二)年の成立。それまで各連歌集団毎に行われていた様々な式目の修正・統一を図ったもので「建治の新式」を元にして救済(ぐさい)らの協力を得て成ったもの。富山氏の注によれば、土芳の「三冊子」にも『俳諧の作法の根幹は、この書に基づく旨を説いている。但し、芭蕉の筆写本』と附言されてある。
・「杉風」杉山杉風(すぎやまさんぷう 正保四(一六四七)年~享保一七(一七三二)年)は蕉門十哲の一人。伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「杉山杉風」によれば、『江戸幕府出入りの魚問屋主人。生れ。蕉門の代表的人物。豊かな経済力で芭蕉の生活を支えた。人格的にも温厚篤実で芭蕉が最も心を許していた人物の一人。芭蕉庵の殆どは杉風の出資か、杉風の持ち家を改築したものであった。特に奥の細道の出発に先立って芭蕉が越した杉風の別墅は、現江東区平野に跡が残っている採荼庵(さいとあん)である。早春の寒さを気遣った杉風の勧めで旅の出発が遅れたのである』。一時、第五代将軍綱吉による生類憐の令によって、『鮮魚商に不況がおとずれるが、総じて温和で豊かな一生を送った。ただ、師の死後、蕉門の高弟嵐雪一派とは主導権をかけて対立的であった』とある。芭蕉の江戸蕉門の代表格であると同時に彼の有力なパトロンでもあった。三通の遺書には総てに「杉風」の名が記されており、名実ともに芭蕉が最も信をおいていた門人であったことが分かる。
・「落字」脱字。
・「本冩」正式なものとして作っておいた写本。
・「校し」一応、「けふし(きょうし)」と読んでおく。校合(きょうごう)し。
・「百人一首」京での芭蕉の師で歌人・歌学者でもあった北村季吟の著わした「百人一首拾穂抄(しゅうすいしょう)」のこと。富山氏注に、『但し、芭蕉の抜書本』とある。
・「古今序註」同じく芭蕉が抜き書きした、了誉著の「古今集序註」。了誉は南北朝末から室町中期に生きた鎮西流浄土宗第七祖である聖冏(しょうげい 興国二・暦応四(一三四一)年~応永二七(一四二〇)年)。号は酉蓮社了誉(ゆうれんじゃりょうよ)。常陸国椎尾氏の出。浄土教を中心に天台・密教・禅・倶舎・唯識など広く教学を修め、宗徒養成のために伝法の儀式を整備、五重相伝の法式などを定めたりしている。神道・儒学・和歌に精通し、「古今集序註」はその代表作で、江戸小石川伝通院の創建者としても知られる(以上はウィキの「聖冏」に拠った)。
・「埋木」「うもれぎ」と読む。北村季吟の手になる俳諧奥義書「俳諧埋木」。芭蕉は延宝二(一六七四)年三月十七日に師季吟より直接これを伝授されたとする。延宝元年刊行されているが芭蕉が受けたのは直筆の書き本であったらしい。ここに出るのもそれであろう。これは現在、藤堂家本写本として残り、ネット上の情報によれば、その巻末の識語(しきご)には、『此書、雖爲家傳之深祕、宗房生依誹諧執心不淺、免書寫而、且加奧書者也、必不可有外見而巳。 延寶二年彌生中七 季吟(花押)』(本文のやぶちゃん書き下し:此の書、家傳の深祕と爲すと雖も、宗房生、誹諧の執心淺からざるに依つて、書寫を免して、且つ奧書を加ふる者なり、必ず外見有べからずとのみ。)という、芭蕉に俳諧秘伝伝授を許して書写させたことが季吟の自筆で記されてあるとする。
・「半殘」前の実兄宛遺書に既注の山岸重左衛門。
・「江戸」江戸蕉門宛。
・「羽州岸本八郎兵衞」出羽国鶴岡(現在の山形県鶴岡市)酒井藩藩士の蕉門俳人(「奥の細道」の旅で出会って入門した)。俳号を公羽(こうう)と称した。
・「拙者句になり」私めの句として載ってしまっており。
・「公羽と翁との紛れにてこれ有るべく」「公羽」という縦二字の文字列と私を指す「翁」という一字とを混同してしてしまった結果の誤りと思われるによって。
・「きつと御ことわりたまはるべく候」必ず直ぐに、こうした事情で誤記してしまいましたと、釈明と侘びを伝えておくようお願い申し上げる。
【その二】
一、猪兵衞に申し候。當年は壽貞ことにつき、いろいろ御骨折り、面談にて御禮と存じ候ところ、是非なきことに候。殘り候二人の者ども、途方を失ひうろたへ申すべく候。好齋老など御相談なされ、しかるべく料簡あるべく候。
一、好齋老、よろづ御懇切。生前死後、忘れ難く候。
一、榮順尼・禪可坊、情ぶかき御人々、面上に御禮申さず、殘念のことに存じ候。
一、貴樣病氣、御養生隨分御つとめ有るべく候。
一、桃隣へ申し候。再會叶はず、力落さるべく候。いよいよ杉風・子珊・八草子よろづ御投かけ、ともかくも一日暮しと存ずべく候。
元祿七年十月
支考、このたび前後の働き驚き、深切まことを盡され候。この段、賴み存じ候。庵の佛はすなはち出家のことに候へば遣し候。
ばせを
(朱印)
□やぶちゃん注
・「猪兵衞」「ゐへゑ(いへえ)」と読む。松村猪兵衛。山城国加茂の出身で、江戸に移住後、芭蕉と身近な間柄になった人物であるが、詳細は不詳、と富山氏の別書簡注にある。
・「壽貞」寿貞尼(じゅていに ?~元禄七(一六九四)年六月二日)。既に各所で注しているが、芭蕉の生涯に立ち現われた非常に重要な謎めいた女性であるので、ここで伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「寿貞尼」の記載本文と注を例外的に全文引用させて戴く。
《引用開始》
判明している中では芭蕉が愛した唯一の女性。 出自は不祥だが、芭蕉と同じ伊賀の出身で、伊賀在住時において「二人は好い仲」だった。江戸に出た芭蕉を追って彼女も江戸に出てきて、その後同棲していたとする説がある。ともあれ、事実として、寿貞は、一男( 二郎兵衛)二女(まさ・ふう)をもつが彼らは芭蕉の種ではないらしい。「尼」をつけて呼ばれるが、いつ脱俗したのかなども不明。芭蕉との関係は若いときからだという説、妾であったとする説などがあるが詳細は不明。ただ、芭蕉が彼女を愛していたことは、『松村猪兵衛宛真蹟書簡』や、「数ならぬ身となおもひそ玉祭」などの句に激しく表出されていることから読み取ることができる 。ただし、それらを異性への愛とばかり断定できない。
寿貞は、芭蕉が二郎兵衛を伴って最後に上方に上っていた元禄7年6月2日、深川芭蕉庵にて死去。享年不詳。芭蕉は、6月8日京都嵯峨の去来の別邸落柿舎にてこれを知る。
なお、伊賀上野の念仏時の過去帳には、元禄7年6月2日の條に中尾源左衛門が施主になって「松誉寿貞」という人の葬儀がとり行われたという記述があるという。言うまでもなく、この人こそ寿貞尼であるが、「6月2日」は出来過ぎである。後世に捏造したものであろう。
寿貞尼の芭蕉妾説は、風律稿『こばなし』のなかで他ならぬ門人の野坡が語った話として、「寿貞は翁の若き時の妾にてとく尼になりしなり 。その子二郎兵衛もつかい申されし由。浅談。」(風律著『小ばなし』)が残っていることによる。これによれば、二郎兵衛は芭蕉の種ではなく、寿貞が連れ子で母親と一緒に身辺の世話をさせたということと、寿貞には他に夫または男がいたことになる。ただし、野坡は門弟中最も若い人なので、芭蕉の若い時を知る由も無い。だから、これが事実とすれば、野坡は誰か先輩門弟から聞いたということになる。
浅談:浅尾庵野坡のこと。
風律著『小ばなし』:風律は多賀庵風律という広島の俳人。ただし、本書は現存しない。
芭蕉の種:寿貞の子供達は猶子桃印(芭蕉甥)を父親とするという説もある。この説は、芭蕉妾説と同根である。すなわち、芭蕉の婚外の妻として同居していた寿貞と桃印が不倫をして駆け落ちをした。そうして彼ら二人の間に出来たのが二郎兵衛ら三人の子供だというのである。出奔した二人は、よほど後になって尾羽打ちはらして芭蕉の下に戻ってきた。そのときには桃印は結核の病を得ていたという。
なお、この説では、芭蕉の深川隠棲のもとになったのも彼ら二人の駆け落ち事件が絡んでいたともいう。すなわち、駆け落ちをして行方不明になった桃印は、藤堂藩の人別帳のチェックが出来なくなったので、芭蕉は困り果てて、桃印を死亡したことにしてしまった。そこで、一家は日本橋に住むことは不都合となって、芭蕉は仕方なく深川へ転居したのだというのである。
《引用終了》
個人的に私は、「數ならぬ身となおもひそ玉祭」の追悼吟、芭蕉の甥桃印という男の不明の生涯、彼や二郎兵衛(次郎兵衛)に対して芭蕉が異様な愛情等々から、彼女はやはりかつて若き日の芭蕉の内縁の妻であったが、後にはこの甥桃印と関係を持つこととなり、その間に生まれたのが芭蕉が最後に抱かれて亡くなったところの、少年次郎兵衛だったのではないか(だったのだと思いたいというべきか)と考えている。芭蕉という男の他者への特異な恋愛や愛情の在り方の地平には、この寿貞と桃印そして次郎兵衛の三人がいる――そう感じているのである。
・「いろいろ御骨折り」芭蕉の長い不在中、先の猪兵衛は深川芭蕉庵で病い(労咳か)を養う寿貞の世話から没後の処理を中心になって執り行ったものらしいことが富山氏の注に記されてある。
・「殘り候二人の者ども」前注に出た寿貞のの、「まさ」及び「おふう」という娘二人(父は不詳。物謂いからは凡そ芭蕉の子とは私には思われない)。
・「好齋老」「かうさいらう(こうさいろう)」と読む。芭蕉の知人で、深川芭蕉庵近くに庵を結んでいた芭蕉よりも年長と思しい隠者であったが、親身に寿貞らの世話をして呉れていたことが先行する書簡から分かる。
・「料簡」取り計らい方。
・「榮順尼」富山氏注に、『深川の芭蕉庵近くに住み、寿貞らの世話をした人。詳細は不明』とある。
・「禪可坊」『栄順尼と同様に、芭蕉庵の近くの住人で、寿貞らの世話をした人。詳細は不明』(富山氏注)。
・「面上」直接に逢うこと。
・「貴樣」先の猪兵衛を指す。先行する杉風宛書簡で、寿貞の面倒を見て貰っている彼の病気につき、その病気介護を門人桃隣(次注参照)に命じているらしいことが分かる。
・「桃隣」江戸蕉門の天野桃隣。本名は天野勘兵衛。芭蕉の縁者で、芭蕉に従って江戸に出、橘町の仮住まいでは芭蕉と同居していることが先行書簡から分かるが、詳細な事蹟は不詳。芭蕉没後の元禄九(一六九六)年には芭蕉の「奥の細道」の後を辿って「陸奥鵆(むつちどり)」(元禄十年跋)を編している。ここの叙述から、門弟としても芭蕉の愛情一方ならぬ人物であったことが分かる。
・「子珊」「しさん」と読む。江戸蕉門末期の門人。出自等詳細は未詳であるが、富山氏の別注によれば杉風と特に親しかったと記されてある。
・「八草子」「はつさうし(はっそうし)」と読む。『江戸蕉門の一人。杉風・子珊とらと親し』かったと富山氏注にある。
・「御投かけ」「おんなげかけ」の「なげかく」は、体を他人に凭れかかるようにするの意で、頼りにすることを指す。既に先行する猪兵衛宛書簡中にも彼にこの二人の指導を仰ぐように伝えてほしいという芭蕉の記述が現われている。
・「一日暮しと存ずべく」日々を篤実平穏に暮らすように。篤実と入れたのは、富山氏注にこの桃隣が営利的で賭博的要素を持った点取俳諧(てんとりはいかい:職業俳諧師である点者に句の採点を請い、点の多さを競うもので、当時はこの即吟即点が流行していた。かつては芭蕉自身も熱中し、其角なども点取り競争を煽った。後の享保期(一七一六年~一七三六年)の江戸・京都・大坂で爆発的に流行して百韻を中心に連衆(れんじゅ)の点を計算して順位を定め、景品も添えるといった体たらくとなる。以上は平凡社「世界大百科事典」の記載を参照した。)を志向していたことに対して強く諫める意識が働いていると考えられるからである。詳細は富山氏の当該注(新潮日本古典集成「芭蕉文集」二八七頁注一四)を参照されたい。
・「庵の佛」深川芭蕉庵に置かれていた釈迦出山(しゅっさん)の尊像(永い修行にも拘わらず悟りを得られずに山を出る釈迦の姿を描いたもの)を指す。これは貞亨元(一六八四)年頃に第二次芭蕉庵完成に際して江戸蕉門の文鱗が芭蕉に贈ったもので、芭蕉はこれを愛し、芭蕉庵の本尊としていた。
・「出家」支考は還俗していたが、生涯を僧形で通した。
・「ばせを/(朱印)」ここだけは支考の代筆でなく、芭蕉自らが署名捺印している。
【その三】
一、杉風へ申し候。ひさびさ厚志、死後まで忘れ難く存じ候。不慮なる所にて相果て、御いとまごひ致さざる段、互に存念、是非なき事に存じ候。いよいよ俳諧御つとめ候て、老後の御樂しみになさるべく候。
一、甚五兵衞殿へ申し候。ながなが御厚情にあづかり、死後迄も忘れ難く存じ候。不慮なる所にて相果て、御いとまごひも致さず、互ひに殘念是非なきことに存じ候。いよいよ俳諧御つとめ候て、老後はやく御樂しみなさるべく候。御内室樣の相變らざる御懇情、最後迄もよろこび申し候。
一、門人かた、其角は此方へのぼり、嵐雪を初めとして殘らず、御心得なさるべく候。
元祿七年十月
ばせを
(朱印)
□やぶちゃん注
・「老後の御樂しみになさるべく候」富山氏は、芭蕉は『決して、俳諧を安易な老後の慰みと考えていたのではない』とされて、ここに非常に長い注を附しておられる。そこでは、『即ち、芭蕉の探求する高次元の芸境は、精進を積んだ老練の境に至ることを必要とした』のであり、『ここでも芭蕉は、俳諧を老後の楽しみとする前提条件として、「いよいよ俳諧御つとめ候て」と、一層の精進を』一番の高弟である杉風にさえ『要望している点に注目しなければならない』と結んでおられる。非常に説得力がある。詳しくは是非、富山氏の注を参照されたい。
・「甚五兵衞殿」美濃蕉門の中川甚五兵衛(生没年未詳)。名は守雄。俳号、濁子(じょくし)。大垣藩士で、江戸詰めの際に蕉に入った。絵もよくし、「野ざらし紀行絵巻」(芭蕉跋文附)を描いている。杉風と親しく、また赤穂事件の大石良雄とも親交を結んでいる(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。
・「門人かた」江戸蕉門連中への最後の呼びかけ。
・「嵐雪を初めとして殘らず、御心得なさるべく候」蕉門十哲で其角と双璧をなす、芭蕉最古参(芭蕉より十歳年下)の高弟服部嵐雪(承応三(一六五四)年~宝永四(一七〇七)年)は淡路国三原郡小榎並村(現在の兵庫県南あわじ市榎列(えなみ))の出。参照したウィキの「服部嵐雪」によれば、『服部家は淡路出身の武家で、父服部喜太夫高治も常陸麻生藩主・新庄直時などに仕えた下級武士で、長男である嵐雪も一時、常陸笠間藩主の井上正利に仕えたことがある。若い頃は相当な不良青年で悪所(遊里や芝居町)通いは日常茶飯事であった』。延宝元(一六七三)年、松尾芭蕉に入門、蕉門で最古参の一人となり、元禄元(一六八八)年に「若水」を刊行して立机、宗匠となったが、芭蕉没年の元禄七(一六九四)年の「露払」の撰に関して深川蕉門と深刻な対立を生じた。『作風は柔和な温雅さを特徴とする。芭蕉は嵐雪の才能を高く評価し』、元禄五(一六九二)年の桃の節句に「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」と称えているが、『芭蕉の奥州行脚にも嵐雪は送別吟を贈っていないなど』、既にして芭蕉没前に師弟関係には軋みが発生していたことが分かる。芭蕉逝去から十日後の十月二十二日、江戸で芭蕉の訃報を聞くと、嵐雪は『その日のうちに一門を参集して芭蕉追悼句会を開き、桃隣と一緒に芭蕉が葬られた膳所の義仲寺に向かった。義仲寺で嵐雪が詠んだ句は、「この下に かくねむるらん 雪仏 」であった。其角と実力は拮抗し、芭蕉をして「両の手に桃と桜や草の蛭」と詠んだ程であったが、芭蕉没後は江戸俳壇を其角と二分する趣があった』と記す。この遺書でも、遂に江戸蕉門の重鎮たるはずの嵐雪への直接の言葉かけはなく、ただ――「其角は此方へのぼり」――たまたま其角は来阪していて幸いにも逢うことが出来た、されば彼に――「嵐雪を初めとして殘らず、御心得なさるべく候」――嵐雪を初めとして江戸の門弟たち皆々へ、どうかよろしく、とお伝え下さるように――という末尾には、これ、なかなかくるものがあると言わざるを得まい。
・「ばせを/(朱印)」これも【その二】と同じく、ここのみ、芭蕉自らが署名捺印している。