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玄武仏の碑(臨川寺)

2020.11.19 02:38

https://www.pref.mie.lg.jp/TOKYO/HP/43214035397.htm 【松尾芭蕉と深川界隈】より

【採茶庵跡】江東区深川1-9付近(海辺橋南)

【清澄庭園内の芭蕉の句碑)】江東区清澄3-3-9

【芭蕉由緒の碑(臨川寺)】江東区清澄3-4

【芭蕉稲荷神社】江東区常磐1-3-12

紹介文

松尾芭蕉は、正保元年(1644年)、伊賀上野の城下(現在の三重県伊賀市)で生まれ、若くして、後に、江戸(江戸日本橋・深川)に移り住み、様々な俳諧活動を展開しました。

 その芭蕉が住んでいた深川には、芭蕉に関する様々なゆかりの地があります。

【採茶庵跡】

 海辺橋の南の「採茶庵(さいとあん)跡」には旅装束の芭蕉の像があります。この採茶庵跡の石碑には「芭蕉の門人鯉屋杉風は今の中央区室町一丁目付近において代々幕府の魚御用をつとめ、深川芭蕉庵もその持家であったが、また平野町内の三百坪ほどの地に採茶庵を建て、みずから採茶庵と号した。芭蕉はしばしばこの庵に遊び、「白露もこぼさぬ秋のうねりかな」の句をよんだことがあり、元禄二年奥の細道の旅はこの採茶庵から出立した。」と記載されています。

【清澄庭園内の芭蕉の句碑】

 清澄庭園の北北西400m程の所に深川芭蕉庵跡があり、かの有名な「古池や かはづ飛び込む 水の音」は、この深川芭蕉庵で貞永3年(1685年)の春に詠まれています。清澄庭園内にある「古池の句」碑は昭和9年に其角堂(えいかくどう)9代目の晋永湖(しんえいこ)という神田生まれの俳人が建てたもので、芭蕉庵改修の際、その敷地が狭いのでこの地に移したと言われています。

【芭蕉由緒の碑】

 延宝8年(1680年)に江戸市中から深川の草庵に移った芭蕉は臨川寺創始であった仏頂禅師と運命的な出会いをし、参禅していました。この臨川寺の境内に、「芭蕉由緒の碑」があります。この石碑には、「臨川寺は、芭蕉が朝夕に赴いた道場で、仏頂禅師が芭蕉の位牌をかいた因縁から、俳人神谷玄武が芭蕉門人の各務支考により京都にある林双寺に建てられた芭蕉墨直の墨跡を写して建立した」という趣旨の碑文が掲載されています。

 この「芭蕉由緒の碑」の横に、碑文にある林双寺にある芭蕉墨直の墨跡を写して、神谷玄武が建立した石碑「墨直しの碑」もあります。

【芭蕉稲荷神社】

 深川芭蕉庵は芭蕉没後、武家屋敷となり、幕末から明治にかけて消失してしまいました。また大正6年(1917年)の大津波の時、もともとあった稲荷神社付近から芭蕉が生前愛用していたものとみられる石造の蛙が見つかったことから、この地を芭蕉庵跡と推定し、祠に石蛙を祀り芭蕉稲荷としたそうです。この芭蕉稲荷神社境内には、俳聖芭蕉翁生誕百五十年祭記念碑や芭蕉庵跡の石碑もあります。

上記の他にも深川には、「江東区芭蕉記念館」や「史跡展望庭園」などもあります。


http://tokyokoto.blog.shinobi.jp/%E6%B8%85%E6%BE%84/%E7%8E%84%E6%AD%A6%E4%BB%8F%E3%81%AE%E7%A2%91%EF%BC%88%E8%87%A8%E5%B7%9D%E5%AF%BA%EF%BC%89  【玄武仏の碑(臨川寺)】より

所在地 江東区清澄3-4-6 (臨川寺)

 玄武仏は、宝暦から寛政(1751~1800)にかけて活躍した美濃派の俳人、神谷玄武坊のことです。小石川白山門前(文京区)に住み、俳号を俳仙堂・白山老人などと号しました。延享(1744~1747)のはじめ、各務支考により京都双林寺に建立されていた、芭蕉墨直の墨跡を写して臨川寺に建て、毎年3月に墨直会を催したといわれています。また、梅花仏(各務支考)の碑も建てたといわれています。

 臨川寺は、承応2年(1653)、鹿島根本寺(茨城県)の冷山和尚が草庵を結んだことに始まり、その弟子の仏頂禅師が幕府に願い出て、正徳3年(1713)「瑞甕山 臨川寺」という山号寺号が許可されました。延宝8年(1680)、深川に移り住んだ松尾芭蕉は仏頂禅師と親交が厚く、度々参禅に通ったと伝えられています。以来、芭蕉ゆかりの寺として「玄武仏碑」をはじめ、「梅花仏碑」「墨直しの碑」「芭蕉由緒の碑」などの石碑が残されています。

 平成5年(1993)3月  江東区教育委員会

https://tesshow.jp/koto/temple_kiyosumi_rinsen.html  【瑞甕山臨川寺|鹿島神宮と裁判していた根本寺の仏頂禅師が江戸滞在中に開創】 より

臨川寺の縁起

臨川寺は、承応2年(1653)鹿島根本寺の仏頂禅師が、根本寺と鹿島神宮とで争っていた寺領について寺社奉行に訴え、その間の住まいとして草庵を結んだことに始まり、冷山和尚の弟子の仏頂禅師が幕府に願い出て、師の冷山和尚を開山として正徳3年(1713)創建したといいます。

江東区教育委員会掲による臨川寺の縁起

臨済宗妙心寺派の瑞甕山臨川寺は、承応2年(1653)鹿島根本寺の冷山和尚が草庵を結んだことに始まり、その弟子の仏頂禅師が幕府に願い出て、正徳3年(1713)瑞甕山臨川寺という山号寺号が許可されました。延宝8年(1680)深川に移り住んだ松尾芭蕉は仏頂禅師と親交が厚く、度々参禅に通ったと伝えられています。以来、芭蕉ゆかりの寺として「玄武仏碑」をはじめ、「梅花仏碑」「墨直しの碑」「芭蕉由緒の碑」などの石碑が残されています。(江東区教育委員会掲示より)

「江東区の民俗深川編」による臨川寺の縁起

臨川寺

臨川寺初代の仏頂禅師は寛永一九年(1642)、常陸国鹿島郡白鳥村字札(現在の茨城県鹿島郡大洋村札)に生まれた。仏頂禅師は鹿島根本寺の冷山和尚に出家、延宝二年(1674)、根本寺二一世に就任。当時、根本寺の寺領一〇〇石のうち五〇石を鹿島神宮が取り上げてしまったため、禅師は鹿島神宮宮司を相手取り寺領返還を寺社奉行に訴え、そのときの江戸の住まいが臨川庵になる。この事件は天和二年(1682)禅師四一歳のときに根本寺の勝訴で解決、寺領が返還され、禅師は寺を頑極和尚に譲り、江戸の庵を寺院とするために幕府に願い出て、正徳三年(1713)に臨済宗妙心寺派瑞甕山臨川寺と許可され、その二年後、正徳五年に生涯を閉じた。亡くなられた地は、仏頂禅師が親交厚かった徹通和尚が四五世であった霊巌寺の山庵であった。また、延宝二年に禅師は深川に居を構え、延宝八年(1680)に芭蕉と出会い、「師弟以上の関係に発展」し、芭蕉が桃青と名乗ったのは、禅師によるものだという(「臨川寺と芭蕉翁」)。

貞享四年(1687)に成立したとされる芭蕉の紀行文「鹿島詣」に、曽良と宗波を伴い、芭蕉庵から鹿島根本寺までの行程が記され、仏頂和尚の歌一首 「おりおりにかはらぬ空の月かげも ちぢのながめは雲のまにまに」と芭蕉らの句一三句が記されている。

臨川寺の境内に「玄武仏」碑が残され、「御府内寺社備考」によれば、玄武坊とは江戸の医師で美濃派の俳人神谷玄武坊であり、玄武坊は京都双林寺に各務支考により建てられた墨直の墨跡を写して臨川寺に建て、墨直会を催したという。「御府内寺社備考」の臨川寺境内図には玄武碑以外に、碑(現芭蕉由緒の碑)、芭蕉碑(現墨直しの碑)、梅花仏 (各務支考)の碑がある。玄武碑以外は戦災のために破損し、昭和三七年に再建されたものである。なお、開基芭蕉木像は関東大震災で焼失し、昭和六三年に復元されている(「寺社めぐり21」)。(江東区の民俗深川編より)

臨川寺所蔵の文化財

玄武仏碑(江東区登録文化財)

玄武仏は、宝暦から寛政(1751-1800)にかけて活躍した美濃派の俳人、神谷玄武仏のことです。小石川白山門前(文京区)に住み、俳号を俳仙堂・白山老人などと号しました。延亨(1744-47)のはじめ、各務支考により京都双林寺に建立されていた、芭蕉墨直の墨跡を写して臨川寺に建て、毎年三月に墨直会を催したといわれています。また、梅花仏(各務支考)の碑も建てたといわれています。(江東区教育委員会掲示より)


http://www.shitamachi.net/joho/0101-6304.htm  【芭蕉墨直しの碑】 より

臨川寺は、仏頂禅師が寛文の頃(1661~)に創立したものです。芭蕉が宗房と称し、深川に庵をさだめた天和の頃(1681~)臨川寺にいた仏頂禅師と親交し、ここに参禅したと伝えられています。その時の問答に、 仏頂「梅子熟せりや」 宗房「桃の青きが如し」 というのがあり、その時から松尾桃青と号したといわれています。延享の頃(1744~)、江戸小石川(文京区)の神谷玄武坊白山が、蕉門の各務支考が京都双林寺に建立した鑑塔の墨跡をここにうつして、墨直しの碑と称しました。

 白山老人が建立した碑は、戦災のため損傷しましたが、昭和37年に再建されました。 その碑文はつぎのとおりです。

 「我師は伊賀の国に生れて承応の頃より藤堂に仕ふ。その先は桃地の党とかや。その氏は松尾なりけり年また四十の老をまたず武陵の深川に世を遁れて世に芭蕉の翁とは人のもてはやしたる名なるべし。道はつとめて今日の変化をしり、俳諧に遊びて行脚の便を求むというべし。されば松島は明ぼのの花に笑ひ象潟はゆふべの雨と泣とこそ。富士吉野の名に対して吾に一字の作なしとは古をはばかり今をおしふる辞にぞ漂泊すでに廿とせの秋くれて難波の浦に世を見はてけむ。その頃は神無月の中の二日なりけり。さるを湖水のほとりにその魂をとどめて彼木曽寺の苔の下に千歳の名は朽ざらまし。東花坊ここに此碑を建る事は頓阿西行に法縁をむすびて道に七字のこころを伝ふべきと也」