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レイリーブルー(2)

2020.11.19 05:06

二、漁火と水魚の交わり


「……メイス!」

「ああ、ゲーラ」

 夢の中でずっと描き、ずっと待っていた大切なもの。目の前の彼はまさしくそうで、そこに存在した引力は確かに彼の元へ俺を運んだ。

 写真よりも少し髪が伸びたようだが、満天の星色をしたビロードのような質感は変わらない。中性的で涼しげな鼻梁は俺の想像とは全く違って、服装の雰囲気も相まって都会的な印象を受けた。彼が言葉を発するたび、その低音が体の奥まで染み渡り心が躍る。声がうわずりそうになるのを押し殺しながらちいさな碧眼を見ると、彼も穏やかに笑いかける。

「メイスだろ、すぐわかった」

「よくわかったな、なにも言わなかったのに」

「俺、ずっと前からメイスって名前知ってたんだ。だからわかったのかも」

 彼からほんの少し煙草の香りがしたので驚いた。薫風に乗ったそれは複雑な、花の蜜のように惹きつけられる甘さだった。よく聞くと彼も幼い頃からゲーラという単語が頭の中にあったらしく、聡明な彼はすぐにそれが人の名前で自分の運命だとわかったという。

「運命? ほんとかよー?」

 休憩として入ったコーヒーショップで思わず笑いがこみ上げた。向かいのソファ席に座るメイスは至極真面目な顔で頬杖をつき、コーヒーカップの取っ手のまるみを大事そうになぞっている。

「ああ、俺そういう勘は働くんだよな。男だとも、同世代で絶対いるとも思ってた」

 お前が俺の運命の相手だ。そう優しくも鋭い眼光を向けられて、つい、手にかいた汗をジーンズで拭う。

 メイスは驚くほど俺の目に、耳に馴染んで、初めて会ったとは思えないほどだった。彼の醸す雰囲気を俺は許容することができたし、彼もまた俺を受け入れてくれた。これまでの寂しさが嘘のように消えていく。霞がかった心がみるみる溶けて、ジンジャーエールの飴色さえ宝石みたいに輝きだす。何度も繰り返したあの言葉はやはりこの人のことなんだと再認識した。

「凄ぇな、本当にいたんだ、メイス」

「あぁ、ちゃんとお前の目の前にいる」

「なーんか、変な感じ」

 それから沢山のことを話した。今過ごしてる街のこと、学校のこと、家族のこと。俺の中の空想のメイスが厚みを増して自由に動き、血の通った存在に成長する。それがとても嬉しかった。

「ねぇ、運命ってさ、なにするんだろうな」

「なにって?」

 難しいけど、と前置きし、あのクラスメイトの言う運命とはなにか、ろくろを回すような手つきで首を捻りながら漠然と説明する。

「なんつーか、愛とか、恋とかしてさ、こう……家族になってずっと一緒にいることだと思うんだけど、俺たちは男同士だし、運命っていうよりは親友? いや、それはまだ早いか? でもそんな感じだと思うんだよな」

 メイスはうろうろと動く俺の手をぼうっと見ながら、左耳をかり、と掻く。

「そうか、俺は親友か」

「あ、イエ、俺が勝手にそう思っちまっただけで、迷惑だったら……」

「遠慮すんなよ。俺とお前は唯一無二の親友だ」

 やけに説得力のある声でそう言うから、そうかと炭酸を飲み込んだ。喉を焼く液体の中で氷が溶けて崩れるさまに、普遍的な言葉を乗せて見つめる。

「平坦な道を歩くことなんて簡単だ。同性なことを障害だと思うなら、むしろその方が燃えるだろ?」

 メイスはこてんと首を傾げ、可愛らしく言う。楽しそうにカーブのかかった目元。その奥はいつだって澄んでいて、形を変えるたびに見惚れてしまう。

「はは、燃えるような恋でもすんのかよ」

「ゲーラは、女の子がすき?」

「え? んーまぁ、そうかな。俺はあんまり考えたことねーなぁ」

 まだ高校生だし。そう言うとメイスはまだ半分近くあったカフェラテをぐいっと飲み干し、そろそろ行こうと俺の手を取る。思ったよりも熱く硬い指先にどきっとしていると、強い力で引かれた。

「年齢とか性別とか、別にたいしたことじゃない。音楽界隈にはゲイもビアンもバイもいる。まぁお前のいる学校にもきっといるさ、お前が知らないだけで」

 振り向き様の飄々とした語り口に要領を得ないまま黙っていると、メイスはさらに手の力を強めてにや、と笑った。

 コーヒーショップを出てから十分程経っただろうか。薄暗い通りに差し掛かると、密集した建物の壁には大げさな落書きや大小のポスターが貼られ、その数は徐々に増えていく。ビビットで艶めかしいスプレー塗料の匂いが背筋を粟立たせ、メイスにつかまれたままの手が痛い。引かれるままに歩を進め、ふと空を見ると鱗雲がビルの合間から覗く。それは日光に反射し、勢いよく敷かれたテーブルクロスのように爽快だった。

 一軒の背の低い建物の前で立ち止まり、今晩はここでライブをするという。振り返った表情は嬉々として、見開かれた目がほんの少し菫かかっていた。

「ゲーラに見て欲しい、そのために今日来たんだ」

「えっ! 俺ライブハウスとか入ったことねぇよ」

「スタッフについてもらうから大丈夫、言い寄らせたりはしないから心配すんな」

 そう言うことじゃないんだけど。突然の誘いに驚きは隠せない。親には遅くなるとは伝えてはいるけど、それでも深夜になるかもしれない。どうしようかと思案しているとメイスは心配そうにまた俺を引き寄せる。

「なんだ、用事?」

「え、いやー、大丈夫!」

「これから少しリハがあるから、それも見ててくれ」

 簡単に返事をして、母にはあとでメールをしておこうと携帯をちらりと見た。

 黒い壁の一番奥、ステージ袖にはマイクやギターが所狭しと置いてある。照明、アンプ、ドラムセット、後ろの方にはテレビでしか見たことのない様々な音響設備のボタンがチカチカと光っていて、ほとんど未知の世界があった。メイスは同い年なはずなのにこんなところで生活してるんだと、なぜか俺が清々しくなる。

 後方に椅子を用意してもらい、大人たちの輪の中で楽しそうに話すメイスを見ていた。俺とふたりだけの時とは全然違う、凛々しくもあどけなさを残した表情が眩しかった。終わったらまた出れるからと言われて、お構いなく、と心で思ってまた縮こまると、上からハスキーな声がする。

「君がゲーラ君かぁ、かーわいいねぇ」

 名前を呼ばれて見上げると、ピンク色のおかっぱ頭の女性が俺を見下ろしていた。体の線が細く、緑色のキャッツアイをぱっちりと見開いて、大きな赤い唇でにぃっと笑う。好奇心にあふれた緑と赤のコントラストに吸い込まれそうになるが、俺のリアクションなんて気にせずに彼女は続けた。

「メイスがいーっつも言ってたのよ君のこと。ゲーラはこうでああでーって。写真は? って聞いたら会ったことないって言うからさぁ、騙されてんじゃねーの? とか言って。あは! あ、ごめんね気にしないでね?」

 早口で言われて返事をする間も与えられない。彼女はどうやらメイスと親しいらしく、家が近所なこと、風刃という名前がメイスの芸名にあたること、メイスがこの日をとても楽しみにしていることなどを話してくれた。俺はと言うと彼女のマシンガントークに呆然とし、バンドってやっぱり派手な人が多いんだな、と率直な感想しか思い浮かばなかった。

 一方的に次の話題へ移り、話し上手の彼女の手によってものの五分で俺のプロフィールも彼女の頭に収納されてしまった。ぽかんとしているとリハーサルを終えたメイスが駆け寄ってくるのが見える。

「ゲーラ、終わった。行こうか」

「あんた連れほっといてんじゃないよ、怖がってるだろ?」

「お前に怖がってんだろーが、もう離れろ」

「そんなことありませーん。他の奴に持ってかれないように見張っといたんですー!」

 俺の前に両手を広げて立ちはだかる彼女に、メイスは眉間にしわを寄せて心底嫌そうな顔をする。おかっぱさんと言い合いをしているその表情は初めて見るなぁなんて呑気なことを思っていると、ぐいっと腕を引っ張られる。

「そりゃ悪かったな、行こうゲーラ」

「え、あ、うん」

「ゲーラ君取って食われないようにねー!」

 ひらりと手を振るおかっぱさんにうるせぇと悪態をつき、メイスは俺の背をぐいぐい押して外へ出させた。

 行きたい所があると言って連れてこられたのはアクセサリーショップだった。個人的にはあまり興味はなく、以前友人に連れて来られた時も、皿についたカラフルなポップを流し見している程度だった。今日のメイスはシンプルな服装をしているけれど、おしゃれなどにも気を遣っているのだろう。

 入り口の大きな観葉植物の鉢を通り過ぎると、ウッド調のインテリアとサンダルウッドのアロマが丸みを帯びて甘く香る。ひしめく商品棚の隙間を縫うように進み、目当ての棚の前で彼はここだと目で合図した。

「よく来る? こういうとこ」

「まあな、割と好きなんだ。お客さんがギター弾いてる指も見てくれたりするし」

「指輪? へぇ、さっきのメイスもすごくカッコよかったもんな」

「……本当か?」

 陳列台を漁るメイスが俺を振り返り、伴って何束かの髪がパサリと肩から落ちる。ほんの少し、ハッとしたように手が伸ばされたが、俺には触れず、すぐに握り込められた。

「ああ、リハーサルの時すごかった! 俺楽器とかわかんねーからさ、うまく言えないけどキラキラして。ギター上手いんだな。どれくらい練習するもんなの?」

「まぁそれは、結構、練習したから……」

 メイスは手に取っていた指輪を、手持ち無沙汰にいじりながら俺の質問にぽつぽつと答えた。俺はおよそ上の空になりながら同じ棚を見回し、青い正三角形のピアスを見つけて光に照らしながら眺める。それらに集中しだした頃、おもむろにメイスは口を開いた。

「ゲーラ、何号?」

「何号?」

「指輪だよ、サイズ」

「え? えー、わかんねぇ」

 言うや否やメイスは俺の手をパッと掴んで適当に取った指輪をはめ始めた。合わないとまた違うものをとり、サイズがわかると今度はデザインを選び始める。されるがままになって見ていたけど、触れられてる指が何を表してるかは十分に理解していて、しかし引っ込めようとしてもだめだと言われて余計に強く握られてしまう。

 メイスの手は白くて熱い。俺の乾燥した肌とは全然違う。他人の体温をこうも目の当たりにすることはなかなか無く、途端に周りの視線が気になりカッと熱くなる。

 黙々と、棚と俺の指先を行き来する視線に狼狽つつ、冷や汗をかきながら少しだけ店内を見渡す。当然の事ながら他の客は自分の買い物に専念しているようでこちらに見向きもしていなかった。

「これ、俺割と好きなデザインだけど、ゲーラどうだ?」

 ようやく決まったらしい。メイスはぱっと髪をかきあげ、わくわくしながら俺の返事を待っている。それはシンプルな雲を全体にあしらったシルバーリングで、所々に稲妻模様が入っている。指を曲げるとその稲妻がちくりと皮膚を刺す。

「あ、いいね、派手じゃないし俺も好き」

「風神雷神ぽくていいだろ。お揃いな、俺レジ行ってくるわ」

「俺も……」

 安堵の表情を浮かべるメイスにつられて俺も頬が緩んだ。財布を取り出そうとするとまた柔らかい視線が間近にさして、カバンに入れた手を抑えられた。

「プレゼントしたいんだ。代わりに晩飯おごって、な」

 左手を照明にかざして雲行きを眺める。稲妻模様がキラキラと反射する。右を向けば黄色の、左を向けばピンク色の照明が、小さな霊芝雲文(れいしうんもん)の陰影を仰々しく照らしている。

 せめて別の指にしたかったけどメイスがあんまり切ない顔をするので根負けしてしまい、さっきから慣れない拘束感にドキドキした。

「はいどーぞ、炭酸いける?」

 声のする方を見るとさっきのおかっぱさんがドリンクを持ってきてくれた。大きな紙コップになみなみに注がれたそれは、彼女の奢りだと言う。

「え……すみません、ありがとうございます」

「あんたたち本当に仲良しなのね。てかさ、それさっき無かったよね、メイスも持ってたけどお揃い? しかもそこ⁉︎ はー! あいつヤバイね!」

 隣に座り込む彼女の怒涛の質問責めについぼーっとしてしまう。するとなにかを察して哀れそうに頭を撫でてくる。香水が強く香って、開いた口が塞がらない。メイスが遠くで叫ぶ声が聞こえた。

「ドラ! てめぇゲーラに何してんだよ!」

「はいはい、ちょっかい出してんの! やること終わらせて早く相手してやんな!」

 メイスは小さく舌打ちをして俺に目配せをする。気をつけろなのか待ってろなのかわからなかったけどなんとなく頷いたら、口元だけふっと笑って向こうへ行ってしまった。

 二人でその細腰を見送り、彼女は俺に耳打ちをする。

「あいつねぇ、君のこと本っっ当に大事みたいで、まじでそればっか話してんのよ。可愛げないけどいい奴だから、仲良くしてやってね?」

 ドラ、と呼ばれたおかっぱさんはもう一度俺の頭を撫でて、じゃあゆっくりね、と手のひらをいっぱいに開き準備中のステージへ上がっていった。

 開演は二十時。帰りが遅くなると母にメールをすると、早く帰りなさいと返信が来た。日付が変わるかもしれないと送ると電話が来た。フロアは既に客でいっぱいで、母の強い口調も聞き取れない。携帯を当てた反対の耳を指で押さえながら外へ出た。

「ああ、母さん? ごめんなに?」

『あんた何してんの? 早く帰ってきな!』

「友達がライブするから見てから帰るって、言ったじゃん」

『何時に終わるの? もう、帰りはタクシーで帰りなさいね!』

 ぶつん、と勢いよく切られた通話に理不尽すら感じられ、相変わらずの過保護に辟易する。でも仕方がない、まだ俺は子供だから。突然ぽっかりあいた空洞に何も埋めることができず、空虚を飲み込んで画面を閉じた。

 電話を終えて客席へ戻るとドラさんが隅っこに場所を用意してくれた。椅子はないから壁に寄りかかり、一緒にメイスのバンドの番を待つ。

 今日のライブは複数のバンドが順番にパフォーマンスをする、いわゆる対バンという形式らしい。よくわからなかったけど、メイス達の順番は三番目でまだ少し時間はあると言われた。名前を呼ばれたバンドのメンバーが出て来ると、毎回ファンと思しき人たちが黄色い歓声を上げて、楽しそうにしてる。

 きらびやかな髪の色、衣装、力一杯に叫ぶ声に体がビリビリする。人の熱気で蒸し暑くて、もらったドリンクは一杯では足りなかった。

 人口密度が高い。一組目、二組目と曲が披露されるたびに会場のボルテージは上がっていく。演者も観客も自然と声が大きくなり、空気が激しくぶつかり合い沸騰しそうだ。

 通路の向こうの人達の飽和してはち切れそうな圧がこちらにまで届く。鈍器のような重たい音。隣の人の声もよく聞こえない。

「次だよーメイスんとこ」

 ドリンクのおかわりを差し出すドラさんの声がかすかに聞こえた。

 急に舞台が暗転し、今までざわざわしていた観客たちが一斉に大声で歓声を上げる。

 ラントさーん! とか、ムーちゃん! とか、その中に「風刃」とメイスを呼ぶ声もあって、いよいよかと寄り掛かった壁から離れ、身を乗り出す。

 上手上から下手舞台へ、下手上から上手舞台へ、ドラムセットへ、それから中央から真下へ。喝采はかき消され、カンカンカンカン! とリズミカルに真っ白なスポットライトが点灯する。すでに下手の光の中にメイスは立っていた。

 その姿はさっきまでの同世代の少年ではなく、一人の大人の男性だった。

「えっ……」

 ピンク色のタンクトップとスタッズのついたライダース。長い髪をポニーテールに結い上げて、涼しい目元は色濃いアイシャドーでメイクをしているようだ。

 観客の声援は最高潮で、ボーカルがすっと息を吸い込むのに同調し、メイスのギターのヘッドが上がる。次の瞬間、流麗に泳ぐ彼の指が、厳かに雄叫びを上げた。

 一瞬にして飲まれた。

 会場の床が抜けたみたいにふわっと体が舞い上がり景色はコマ送りでゆっくりと進み、着地した途端、ドラムセットの重厚な礼砲を何発もたたみかけられる。脳天を掻き乱すその衝撃はこの場の全員が感じ取ったようで、辺りはジャンプしたり両手を上げたりして、みんなメイスの音に聞き惚れている。

 ストロボがすごい速さで明滅し、目眩を催す。ぐらついて腰が抜けそうな俺とは正反対に、視線の先のメイスは涼しい目を乱さず自分の演奏に集中している。かっこ良くて釘付けになる。空気の振動とはまた別の痺れに俺は頭から食われてしまった。

 高い温度を保ちながら一曲目が終わると挨拶になった。メイスは呼ばれると愛想なく礼をして中央のボーカルの人を見ている。全員の紹介が終わると突然ボーカルの人がメイスに話を振ってきた。

「ふーじん、今日嬉しいことあったでしょー?」

 会場は大きくざわついた。女の子たちがヒソヒソと騒ぐのが聞こえるが、メイスは表情ひとつ変えずに顔の前で手刀を振っている。

「えっ、いや、べつにないっすよ」

「いーや、絶対あった。前室ですっげーニヤニヤしてて、えっ、誰も見てないの?」

 メイスあんな顔出来るんだなぁ、とボーカルの人は泣き真似をして笑いを誘う。茶化されてもまるで無反応な彼をよそに他の三人の会話はますます盛り上がり、メイスはそれにあえて入らず黙ったままその様子を見ている。話の中心はメイスのことなのに心ここに在らずで、どうしたんだろうと首を傾げた。

「絶対良いことあったよなぁ、俺にはわかる。な、ふーじん?」

 突如また話しかけられたメイスは、今度はさらりとこう言った。

「俺、隅に置けないんです」

 途端に観客の女の子たちが色めき出して、甲高い歓声の中でメイスは俺の方を見た。

 お返しに微笑み返すとメイスはふふっと声を出して笑い、でもそれには誰も気づかないみたいだった。

 やっぱりあれは俺の知ってるメイスだ。それだけでとても満たされた気持ちがした。