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「奥の細道」仏頂和尚

2020.11.19 08:52

https://4travel.jp/travelogue/10591920  【仏頂和尚の山居跡「雲厳寺」】より

当旅行企画会社配布の資料によると、昔当寺の境内に”千丈岩”と云われる巨岩が有り、”雲厳寺塔(虎丘塔)”と呼ばれた中国・蘇州の”虎丘山”に似ていることから「雲厳寺」と名付けられたとの事。

その後臨済宗妙心寺派の禅宗の寺院となり、禅宗日本4大道場の一つと云われようにる。

赤い欄干の太鼓橋「瓜(か)てつ橋」を渡り、その名声通りの立派な山門を登ると、正面に見える「仏殿」の端正な姿が目に留まる。

仏殿の屋根越しに鬱蒼とした森を背負った「方丈」、その右手には「書院」の建て物が控える。

山門の右手に「鐘楼」が建ち、左手に「経臓」が望める。

更にその左手の木陰に、仏頂和尚の歌と芭蕉の句を併彫した碑が建っていた。

  竪横の五尺に足らぬ草の庵(いお) 結ぶもくやし雨なかりせば  仏頂

  啄木鳥(きつつき)も庵(いお)を破らず夏木立         芭蕉

(案内の先生から芭蕉の句に関し次の様な解説あり

 ”540~550年頃、仏教伝来に反対し寺や仏像を焼き払った物部守屋を、崇仏派の曽我馬子が殺害した。物部守屋の霊は啄木鳥(きつつき)となり、寺でらをつつき破るようになる。

仏頂和尚の庵はその啄木鳥でさえその徳を敬しつつき破らない)

仏頂和尚は鹿島根本寺の住職で、江戸深川の臨川庵に寄宿して、鹿島神宮相手の訴訟を起こし、勝訴する。芭蕉はその間深川で仏頂和尚の知己を得、禅を学ぶ。

訴訟に勝訴した仏頂和尚はあっさり住職の地位を捨て修行僧となる。

仏頂和尚の生きざまは西行と並んで、芭蕉の理想とする世捨て人の姿で、その庵跡を訪ねる事が芭蕉を「雲厳寺」と向かわせた。

仏頂和尚の庵はやや危険な崖の上にあるらしく、一般には公開されていない。

「仏殿」の西側を通って裏にある階段を登り「方丈」に参拝、その庭先から緑に包まれた甍を眺める。

修行僧と思える人が、庭木の剪定をしていたが、これだけの美しい庭を維持するのは並大抵であるまい。

お陰ですがすがしい気分で山を降りた。


https://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/e/1e90d6a51e46f536d25a495dc6b0b595 【芭蕉の師仏頂和尚のこと】 より

◎仏頂の純粋な道心をしのぶ

一休の狂雲集も相当な禅的学識のほとばしる作品であるが、芭蕉の俳文集も相当に禅的素養がないときちんと読み込めないように思う。片言切句に、禅の故事などが散りばめられているからである。そういうところは大学受験にはまず出ないだろうが。

芭蕉の師仏頂和尚は、常陸郡鹿島郡札村の人。32歳で鹿島根本時住職となり、鹿島神宮との所領争いの調停のため、江戸深川の臨川庵にしばしば滞在。この頃、松尾芭蕉と師弟の関係となったようだ。

おくのほそみちで下野の国黒羽に芭蕉が仏頂和尚が、庵を結んで修行した旧居を訪問する件りがある。仏頂和尚が、その狭い庵住まいの時に

「竪横(たてよこ)の五尺に足らぬ草の庵

むすぶもくやし雨なかりせば」という歌を炭で近くの岩に書きつけたと聞き、この旧居跡をを訪ねてみたのである。庵は、谷沿いの道をはるかに進んだ雲巌寺の奥にあり、岩屋を背にして、石の上に小さい庵が作ってあるのを、後ろの山の上から見つけた。

これを見て、南宋の原妙禅師は、杭州天目山の張公洞に入り「死関」の扁額を掲げて15年間出なかったことなどを思い起こした。

木啄(きつつき)も庵はやぶらず 夏木立

夏木立のしんと静まりかえったなかにきつつきの音だけが響いている。庵の姿が往時と変わらないことに芭蕉の時間を超えた静謐さを感じさせる。


https://tamegoro.exblog.jp/27184768/  【「奥の細道」仏頂和尚の和歌の意味】より

数日前に書きました。

「奥の細道」4月5日 栃木県大田原市の雲巌寺に禅の師匠であった住職・仏頂和尚を訪ねる。

  木啄も 庵はやぶらず 夏木立

 これを、

  和尚の和歌

  竪横の 五尺にたらぬ 草の庵    むすぶもくやし雨なかりせば 

 これに対する評ではないかと書きました。

 それで、和歌の意味を考えてみました。当然、裏のね。

 竪横の五尺にたらぬ草の庵=方丈

 むすぶもくやし雨なかりせば=雨中=宇宙

 仏教における「方丈に全宇宙が内在している」という考えを詠んだと思われます。

 さーて、この歌、芭蕉先生はどう思ったでしょう。

  木鐸も 範をやぶらず 夏ごたつ(不用)

 と解読して「あーあ、つまんない」と思ったのだろうと書きましたが、和歌を解読しても、考えは変わりません。

 こういうの、芭蕉先生は褒めないと思います。

坊さんなら「世を宇治山」くらい達観しないとダメーっ。

魯山人だったかなあ、書について「坊主くさい」というようなことを言っていました。抹香臭いとも言います。自然と出ちゃうらしいのね、臭さが。その世界に染まっているからでしょう。何となく解りますよね。

 俳句や和歌をやっている皆様、いかがでしょうか。