かわず飛び込む水の音
https://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/e/1c4153014b4ff3ba5cfbecdd06968876 【かわず飛び込む水の音】 より
◎古池真伝
松尾芭蕉は37歳の時、深川芭蕉庵で出家して、仏頂和尚に印可(悟りの証明)を受けた。俳句を詠むというのは、容赦のない現実に直面するという禅の現実認識の姿勢とは、一見相容れないところがあるように見える。そうした心境において、一種の歌心というべき心の余裕がないと俳句は詠めるものではないと思う。
さて仏頂和尚が、字は読めないが禅機鋭い六祖五兵衛居士を伴って、深川の芭蕉庵を訪れた。六祖五兵衛は門をくぐって、芭蕉の顔を見るなり、「庭の草木の中に仏法はありますか。」と問いかけた。
芭蕉は即座に「葉々は、大なるものは大であり、小なるものは小である。」と答えた。
今度は仏頂和尚が、「この頃の調子は、どうだい」と問うと芭蕉は、「雨が過ぎて、青苔を流している」と答えた。
更に仏頂和尚が「青苔がまだ生えないで、春雨がまだやって来ない時はどうする」と畳みかけるとその時ちょうど一匹の蛙が庭の古池に飛び込んだ。芭蕉は、「蛙飛び込む水の音」と答えた。
仏頂和尚は、これを聞くと、にっこりと微笑み、持っていた如意を与え、芭蕉の悟境を認める偈を与えた。本分無相(本来の自己に相はない)我是什麼者(私は、言葉では語れないそのものズバリである)若未会為汝等諸人下一句子(もしあなたがたが、もう一句に出会っていなければ)看看、一心法界法界居一心 (ちょと見てみなさい。一心は法界(真理・実相のこと)であり、法界は一心である)
その様子をつぶさに見ていた門人たちから、お祝いを述べるとともに、嵐雪が「これでは、冠の句がありません。どうぞ五文字をつけて下さい。」と申し出ると、
芭蕉は、「それでは貴方がたの意見を聞いてから決めよう。ためしに上の句を行って見てください」杉風は 「宵闇や」、嵐雪は 「寂しさや」、其角は「山吹や」、と出したが、いずれも平生の句より出来がよいが、どれも芭蕉の気にいらなかったので、自ら古池や 蛙飛び込む 水のおとに決めた。
(底本:禅門逸話選/禅文化研究所)
https://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/e/0ecca1606fc170e82356154fa7d7c476 【印可(悟りの証明)→千利休の悟境】より
◎西江の水
千利休の悟境は、大徳寺の古渓宗陳が、最近では利休ほど坐れる者はいないとほめていることからしても、そこそこのものであったことが知れる。
ただし利休は切腹に先駆けて、自分の財産を生前分与しているが、その中に塩魚の販売権や物資の保管輸送の利権、貸地代などが含まれており、自らは汗を流さず、利益を上げるという求道者としては最も忌むべき生業が含まれている。このように商人的な生業を捨てられなかったところを見ると、出家しない居士としても決して徹底してはいなかったことが想像されるのだ。
さて利休は、 古渓和尚から西江の水の公案をもらってそれを透過したことになっている。西江の水の公案とは、中国唐代の馬祖道一禅師が龐居士に与えたとされる公案。
この公案は、次のようなエピソードである。
ある日、龐居士が、馬祖禅師に「万法と侶(とも)たらざる者とはどんな人ですか」と問うた。」
すると馬祖は、「お前が西江の水を一口に吸い尽くしてきたなら言ってやろう」と答えた。
すると龐居士は、聞くやいなや大悟し、無為を学び、心空及第して帰るの偈を作り、呈した。
利休は、この公案を透過したが、 その心境を表明する偈はない。あろうことか、公案透過にあたって道号「抛荃斎」をもらい、更に後に道号「利休」を頂戴しているが、その道号をもらったことに感謝状を書いている。この公案を透過するほどならば、道号や、一片の紙切れが何の価値もないことを知っている。一休などは、印可状(悟ったことを証明する師匠の書面)を焼いたりしているほどなのに。
https://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/e/3a1210e71a7731286cb950fc6c17cd4b 【芭蕉の悟境→第三見牛】より
序(慈遠禅師)
声をたよりに躍り込んで、目についたその場で根源に出会う。
六つの感覚の一手一手が、行き違うことなく、日常の動きの一つ一つがズバリとそれを現してくる。水に含まれている塩分や絵の具の中の膠(にかわ)のようなものだ。目をかっと見開けば、まさしく他のものではない。
頌(廓庵禅師)
鶯は樹上に声を上げ続け、春光は暖かく、 春風は穏やかで、岸の柳は青い。ほかならぬこの場所より、他に逃れようはないのであり、威風りんりんたる牛の角は、画にもかけないほどである。
第三図にして早くも絶対なるものを見てしまった。こんなに早く神を見ていいのか。
安心して下さい。神をちら見することを、禅では見性(けんしょう)というが、日本でも見性できた坊さんは数えるほどしかいないはず。全然簡単ではありません
鶯の声が聞こえ、春光は暖かく、 春風は穏やかで、岸の柳は青い。これほどありのままに、すべてのものを感じ取ることができれば、立派な牛の角ははっきりと見えすぎるほどである。
ここで感受性を深めていくことが、牛(仏、神、宇宙意識)を見るためには必要であることがわかる。
丹田禅の効果は、気力、生命力、意思力、不動心であり、血液の循環がよくなり、エーテル体を強靱なものにすることができる。丹田禅は、冥想法としては、感受性を高めるタイプの修行法ではないので、これだけでは、見性(牛をちらっと見ること)することは、まずないため、丹田禅に透徹することが必要となる。
牛(仏、神、宇宙意識)を見る手法というのは、必ずしも丹田禅である必要ではなく、只管打坐でもクンダリーニ・ヨーガでも、ラーマクリシュナのようなバクティ・ヨーガ(神と一体であるという信愛に溶け込むタイプ)などいくらでもある。
中国の唐代に、禅と念仏を一所に修行する禅浄双修と呼ばれる修行法があったが、丹田禅でハラ(肝)を作った後、感受性を高めるためにマントラ禅をやるというそれなりに合理的な発案だったように思う。
しかし臨済義玄(臨済宗の始まりの坊さん)に象徴される、『絶対なるもの』から直接喝を食らわすというような手法が主流になったのは、その後の禅の正当性を守ったのではあるまいか。つまり禅は、牛を発見するだけのためのものではなかったのである。
https://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/e/68a4e8d9d907f8addfdb3d30a22f7882 【法界(真理・実相のこと →中心太陽への旅-図解】 より
内容がややむずかしいという方もいらっしゃるので、図解を作ってみました。
中心太陽はいわゆる霊界太陽(神、仏、大日如来、宇宙意識、太極、(禅でいう)無、(仏教で言う)空)です。
宇宙の絵が入っていますが、宇宙のことではなく、あなたの中の世界です。
そして現代人のテーマはメンタル体のアナハタ・チャクラ(胸・ハートのチャクラ)を開けるかどうかです。
第一身体から第七身体というのは、精神世界で言う次元のことです。次元が変わるとか言うのは、それを指します。
http://www.asahi-net.or.jp/~zu5k-okd/house.4/haiku/basyou/basyou.1.htm 【古池や蛙飛びこむ水の音】 より
これは、よく知られている松尾芭蕉の名句です。さて、この“水の音”とは、どのよう
な音だったのでしょうか。画像、動画、サウンド等を駆使し、この芭蕉の聞いた水の
音を表現できないでしょうか。
<名作を募集します。ただし、私自身が未熟なもので、受入態勢ができていません。
そのうちに準備します。どうも、こうした環境整備は苦手です。>
この句ができた前後の風景を少し描写しておきます。この頃、芭蕉は江戸深川の
芭蕉庵に住んでいました。この芭蕉庵からは、上野の寛永寺や浅草が見えたと言わ
れます。いずれにしろ、草深い閑静な所だったようです。いかにも、芭蕉らしいといえ
ば、まさにそのとおりであったでしょう。
さて、ここにある日、芭蕉の禅の師匠である仏頂和尚が訪ねました。その時、和尚
の供の者(六祖五平)が、こう言ったと言われます。「 如何なるか是れ閑庭草木中の仏法 」(この閑静な中での仏法は、如何なるものか)と尋ねました。禅問答であり、また挨
拶のようなものでもあります。
「 葉葉大底は大、小底は小 」(大きい葉をもっているものは大きいし、小さいものは小さい。)と、芭蕉は答えました。
「 近日何の所にか有る 」 仏頂和尚が、今度は直々に芭蕉に心境を尋ねました。むろん、これも禅的な心境のことです。
「 雨過ぎて青苔を洗う 」雨がさっと降って、青い苔が鮮やかである)と、芭蕉は答えました。 (ここからが大事な所です)
「 如何なるか青苔未生前(みしょうぜん)春雨未来前の仏法 」
間髪を入れず、仏頂和尚が鋭く切り返しました。この問いかけは、禅的には極めて重
要です。(では、その青い苔がまだ生じない以前、春雨がまだ降っていない前の仏法とは、どのようなものであるか。)
「 蛙飛び込む水の音 」 芭蕉は、ふと蛙が水に入るのを見て、こう答えました。これはもう、ごちゃごちゃと説明を加えるよりも、芭蕉の言ったこの言葉の方がすっきりとしています。“如何なるか、これ仏法”と問われ、手元にあった麻(あさ)三斤ほどをつかみ、“麻三斤”と答えたのと同じです。“水の音”も“麻三斤”も、それは部分ではなく、絶対主体性の中での
全体なのです。このあたりは、禅的な“悟り”の中の風景です。
「 珍重珍重 」仏頂和尚は芭蕉の答えに満足し、こう言って芭蕉を許しました。“古池や”の前句は、この後で付けたと言われます。
いずれにしても、ここで芭蕉の俳句を研究しようと言うのではありません。それは専
門家にお任せします。私がここで述べているのは、“水の音”を創作するための資料
です。その、“永遠の水の音”とは、どの様な音だったのでしょうか。また、絶対主体
性の中で聞いた、この伝説的な“水の音”を、どのように表現したら良いのでしょう
か。 <少し、アホらしくなってきました。が、がんばって先に進みます>
池あらば飛んで芭蕉にきかせたい 古池や芭蕉飛びこむ水の音
(上記の二句は、仙崖和尚の句です。仙崖の崖の字が、間違っているかもしれません。芭蕉よりも、だいぶ後の人です。)
新池や蛙飛び込む音もなし(良寛さんの句です。良寛さんは、芭蕉のこの句を評し、“古池”
が良いのであって、“新池”ではまずいと言っておられます。)(1997年7月29日・追加)
(この“古池”という前句ですが、そこに居合わせた芭蕉の弟子其角が、“山吹や”と付けたといわれます。しかし、芭蕉はそれを許さず、“古池や”と決めたといわれます。)
では、なぜ、“新池”や“山吹”ではまずいのでしょうか。むろん、俳句としては、まずくはないと思います。しかし、ここに芭蕉の時間概念が表現されます。また、仏頂和尚を前にしてのことであり、禅的な時間概念です。
つまり、“絶対現在”であり、“永遠の今”であり、その“水の音”に、“古い”という時間の流れをかけたのです。
これが、“山吹や”では、単なる写生になってしまい、伝説的な“永遠の音”は生まれてこないのです。まさに、芭蕉が芭蕉であるためには、ここは絶対に“古池”でなくてはならなかったのです。そうでなければ、芭蕉が仏頂和尚に答えた“蛙飛び込む水の音”が、本来の意味を失ってしまうのです。芭蕉は、“青苔未生前春雨未来前の仏法”に答えたのであって、水の周りをスケッチしたのではないのです。
この時、蛙は一匹か二匹かと言うのは、無意味だと思います。何故なら、芭蕉はそんな事は何も言っていないからです。しかし、これが禅問答であり、禅的な意味から言えば、一という概念は重要です。唯心とは、唯一絶対の主体性です。しかもこれは、自我の無限の拡大ではなく、無我となり、自分を無にすることによって全宇宙と同一化します。こうした意味か
ら、芭蕉の聞いた音は、三でも二でもなく、絶対的な唯一の音だったと解釈したいと思います。また、芭蕉の文学全体の流れから、この“水の音”に、芭蕉の匂いを感じ取ることは必要です。単なる禅的な悟りの風景だけでは、どうも私には満足できないものが残ります。それなら、何も芭蕉でなくても良いのです。
マルチメディアでこの音を創作するには、単なる永遠の音ではなく、風雅の達人である芭蕉の心が、ぜひとも必要ではないでしょうか。 ところで、前の朱文字で、“少し、アホらしくなってきました”と書きました。
ここで、その意味を説明します。私は何も、不謹慎でそのようなことを言ったのではないのです。そもそも、芭蕉の聞いた“永遠の音”は、芭蕉以外には聞くことが不可能な音なのです。したがって、それを再現するなどは、無意味なことです。
そこは芭蕉の世界であり、第三者に想像はできても、そこに入ることはできません。もっとも、私の提案も、その芭蕉の世界に侵入しようなどと言っているのではありません。芭蕉の聞いたその音を、より芭蕉に接近し、再現してみようと言っているのです。むろん、芭蕉の境涯に迫るのは、容易なことではありません。
もう少し、分析を続けます。そもそも、“永遠の水音”は、“悟り”の中の音なのです。唯心、つまり絶対主体性の中での、唯一無二の波動音なのです。唯一全体の波動音なのです。このような音を聞けるのは、“悟った”人です。
“水の音”は、芭蕉の禅的境涯の証です。それを、聞け、作れ、という方が無理な話です。マルチメディアで創作してみようなどといって、ハイそうですかと作れる道理が無いのです。いや、何よりもこれは、作るものではなく、修行して悟るものなのです。これが、つまり、常識的な立場です。
しかし、では、本当にこの“水の音”は、作れないのでしょうか?この“水の音”を作るという行為は、全く無意味なのでしょうか?可能性は、皆無なのでしょうか?実は、私はそうは思っていません。また、だからこそ、この芭蕉の聞いた“水の音”を、創作する提案をしているのです。
これはちょうど、仏像を彫るのに似ているかもしれません。仏像は木であり、それが仏になるはずがありません。そんなことは、誰もが知っています。しかし、魂を入れ、修行を重ね、一生懸命に彫ります。そして、ふとある時、一心不乱のその行為が、仏になることがあります。“如何なるか、是仏法”と問われれば、まさにその無心の創作の境地でしょう。
過不足なく完璧なリアリティーの中では、無駄なことは一切無いのです。ましてや、私たちの行為に、一片の無駄も、あろうはずが無いのです。