Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

杉山 杉風

2020.11.20 02:27

http://urawa0328.babymilk.jp/haijin/sanpuu0.html  【杉山杉風】 より

通称藤左衛門または市兵衛。「鯉屋」の屋号で幕府御用の魚問屋を営む。別号採荼庵。衰翁・衰杖。

 正保4年(1647年)、江戸日本橋小田原町に生まれる。

 延宝8年(1680年)、杉風は芭蕉に深川の草庵を提供する。深川芭蕉庵である。

誹若土糞と云ふ。薙髪して風羅坊とも號し、又禾々軒桃青とも呼ふ。江戸の杉風といふ者(後衰杖)此翁を師として仕へて、小田原町に住しめ、後は深川に庵を結ふ。

『芭蕉翁全傳』

 天和2年(1682年)12月28日、芭蕉庵焼失。

又初雁村に杉風が姉ありしといへば、深川の庵焼失の後、かの姉の許へ、杉風より添書など持れて行かれしなるべしと云。

『芭蕉翁略伝』(湖中編)

 貞享元年(1684年)、杉風と芭蕉の付合がある。

何となふ(ふ)柴ふく風もあはれなり

   杉風

  あめのはれまを牛捨にゆく

   芭蕉

無季の句である。

 貞亨4年(1687年)、杉風は芭蕉に帷子を送っている。

門人杉風子夏の料とてかたひらを調し送りけるに

いてや我よきぬのきたりせみころも

『あつめ句』

 元禄6年(1693年)、芭蕉は杉風、曾良の勧めに応じて「水辺のほととぎす」を詠んでいる。

頃日はほととぎす盛りに鳴きわたりて人々吟詠、草扉におとづれはべりしも、蜀君の何某も旅にて無常をとげたるとこそ申し伝へたれば、なほ亡人が旅懐、草庵にしてうせたることも、ひとしほ悲しみのたよりとなれば、ほととぎすの句も考案すまじき覚悟に候ところ、愁情なぐさめばやと、杉風・曾良、「水辺のほととぎす」とて更にすすむるにまかせて、ふと存じ寄り候句、

ほととぎす声や横たふ水の上

と申し候に、また同じ心にて、

一声の江に横たふやほととぎす

宮崎荊口宛書簡(元禄6年4月29日)

 元禄6年(1693年)秋、芭蕉は杉風の別邸採茶庵の萩を見て句を詠んでいる。

白露もこぼさぬ萩のうねり哉

 元禄7年(1694年)閏5月21日、芭蕉の杉風宛書簡がある。

   荷兮かたにて

世を旅に代掻く小田の行きもどり

   野水隠居所支度の折ふし

涼しさを飛騨の工が指図かな

涼しさの指図に見ゆる住まゐかな

句作二色之内、越人相談候而住居の方をとり申候。飛騨のたくみまさり可申候[哉]。

 元禄9年(1696年)、芭蕉三回忌。

俤や火燵の際の此のはしら

『裸麦』

 元禄13年(1700年)、芭蕉七回忌追善集『冬かつら』(採荼庵杉風編・採荼庵梅人校)。

 元禄16年(1703年)10月9日、浪化は33歳で没。

はゝかりも風雅の御免神の霜

『霜のひかり』

 元禄16年(1703年)11月22日、関東大地震。29日、江戸大火。採荼庵類焼。

 宝永元年(1704年)、『枯野塚集』(哺川撰)刊。採荼庵杉風序。嵯峨野去来跋。

 享保2年(1717年)、『西國曲』(露川・燕説)板。杉風跋。

予一とせ深川にて杉風子の隱室を尋けるに衰老の床に臥されたる迚(とて)筆談に及て今江戸中に愚老を訪者一人もなし貴子遠境にして訪るゝことの風雅を感る迚悦れ鳬則挨拶の二句

八十四翁

初梅にさくらにかはり雪盛

   杉風

暮て行としとつれたつ我か身也

   々

『宗祇戻』(風光撰)

享保17年(1732年)6月13日、没。享年86歳。

石川県加賀市の全昌寺に杉風作の芭蕉木像がある。

 史跡展望庭園にある「芭蕉翁之像」は杉山杉風が画き、京都の画家 吉田偃武(えんぶ)が忠実に模写した芭蕉翁之像畫により作成したものだそうだ。

芭蕉翁之像

 明和9年(1772年)、『広茗荷集』(野桂編)によれば、白兎園宗瑞は雑司ヶ谷の本浄寺に「名月塚」を建立したようであるが、今はない。

杉風の句も刻まれていた。

名月や爰はあさ日のよい所

 天明5年(1785年)、平山梅人『杉風句集』刊。採荼庵二世となる。

 寛政5年(1793年)5月、芭蕉の百年忌に採荼庵梅人社中は芭蕉の句碑を建立。

白露もこぼさぬ萩のうねり哉

 裏面には杉風の「萩植てひとり見習ふ山路かな」の句が刻まれているそうだ。

 「玉川の水におほれそおみなへし」は『芭蕉句選』、『芭蕉翁發句集』、『俳諧一葉集』に収録されているが、誤伝で杉風の句。

霊泉寺温泉の白山神社に杉風の句碑がある。

明月や爰は朝日もよい處

 千葉県芝山町の芝山仁王尊にある「杉家歴代」の句碑に杉風の句が刻まれている。

散りしあとさかぬさきこそ花恋し

杉風の句

蕣や梢に垣の這あまり 『ありそ海・となみ山』

さく梅を作過たり横たをし 『桃舐集』

娘ミまかりけれは 不知夜月や我身にしれと月の欠 『続別座敷集』

そろそろと花の盛や女かち 『初便』

振あくる鍬のひかりや春の野ら 『小柑子』

しほみ居て恥すや霜の女郎花 『藁人形』

里いそく夜道をとめし梅おろし 雨次も月みる後の菜大こん はつ雪を持ちからなく落葉かな 『枯野塚集』

唐までも行くか千鳥の浦めぐり 『俳諧千鳥掛』

梅見たる紙衣もけふがわかれかな 月見るや庭四五間の空の主 『西国曲』

枕ひとつ今宵の月に友もなし 『通天橋』

下風とはいへどふかぬよ雲の峰 『北国曲』

笑れに行はや花に老の皺 『門司硯』

影ちるや葛の葉裏の三日の月 川そひの畠を歩行月見かな 『三日月日記』

花鳥に隙ぬすまはや春もたち 『俳諧伝灯塚』

山の井や墨の袂に汲かはづ 『蛙啼集』

雪の松折れ口みれは猶寒し 『白兎余稿下』

冬籠夜昼竹の嵐哉 『俳諧百一集』

かつくりとぬけそめる歯や秋の風 『おもかげ集』

むつくりと岨の枯木もかすみ鳧 『芭蕉庵再興集』

我目にも師走八日の空寒し 『岱表紙』

賤か子は薺見る目のかしこさよ 『続深川集』

影二夜たらぬ程見る月夜かな 『さらしな記行』

娘身まかりけるに十六夜や我身にしれと月の欠 『おらが春』

時雨つゝ雲にわれぬる入日かな 『雪のかつら』


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E6%9D%89%E9%A2%A8 【杉山杉風】 より  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

杉山 杉風(すぎやま さんぷう、正保4年(1647年) - 享保17年6月13日(1732年8月3日))は、江戸時代前期から中期の俳人。蕉門十哲の一人。通称は市兵衛、または藤左衛門。名は元雅。別号は採荼庵、荼庵、荼舎、蓑翁、蓑杖[注釈 1]、五雲亭、存耕庵。隠居して一元。

経歴

正保4年(1647年)、江戸日本橋小田原町の魚問屋・杉山賢永の長男として生まれる[注釈 2]。家業は幕府御用を務めた富商で、屋号は鯉屋といった[1][2][3][4]。杉風の祖父・藤道有は摂津国今津の人。その次男である父・賢永の代に江戸へ出て魚商として成功[5][6][7]。父・賢永も仙風という俳号を有し、俳諧を嗜む人物であった[6][7]。

杉風は、はじめ談林派の俳諧を学び、延宝3年(1675年)、菅野谷高政が編んだ『俳諧絵合』に《幕はなし羽織剥取姥さくら》の句が入集している[8][9]。また、延宝6年(1678年)の岡村不卜編『江戸広小路』、延宝7年(1679年)の池西言水編『江戸蛇之鮓』にも入集が確認できる[6]。

寛文12年(1672年)の松尾芭蕉東下の際、芭蕉は杉風(または父賢永)の家で草鞋を脱いだとされ[注釈 3]、以後は芭蕉に学んだ[1][2][3][9]。延宝8年(1680年)の『桃青門弟独吟二十歌仙』では、《誰かは待つ蠅は来りて郭公ほととぎす》を発句とする独吟歌仙で巻頭を得ている[8][9][10][11]。同年9月には、自らの句に芭蕉の判詞及び跋を得て『常盤屋句合』を刊行している[6][12]。

採荼庵跡 (東京都江東区)

蕉門における最古参格であり、芭蕉の後援者として、所有する深川六間堀の生簀の番屋(いわゆる芭蕉庵[注釈 4])を提供するなどの経済的援助を行った[1][3][13][14]。 のちの『おくのほそ道』の旅において、芭蕉が旅立った「杉風が別墅」についても、杉風が所有していた採荼庵のことであると考えられている[15]。

天和の大火による深川芭蕉庵焼失に伴って、芭蕉が甲斐谷村藩家老の高山麋塒のもとへ身を寄せていた天和3年(1683年)には、蕉風発展の前駆として重要な、宝井其角による『虚栗』の編纂に助力した[10][16][17]。

篤実な性格で芭蕉の信頼を得、芭蕉からは、「去来は西三十三国の俳諧奉行、杉風は東三十三国の俳諧奉行」と戯評されたとの逸話が残る[2][9][10]。宝井其角や服部嵐雪が蕉風の変化に従うことができなかったのと異なり、「軽み」をはじめとする師風に忠実に従った[1][2][14]。

元禄7年(1694年)、芭蕉の発句《紫陽花や藪を小庭の別座舗》を巻頭に、江戸蕉門の句を編んだ子珊の『別座鋪』編集に協力[18]。『別座鋪』は、杉風ら深川連衆[注釈 5]による「軽み」の実践であったが、服部嵐雪が『別座鋪』を批判したことから、嵐雪の一派と杉風ら深川連衆の間に軋轢を生じた[19][20]。その頃、上方にあった芭蕉は、杉風からこのことを知らされ、杉風への手紙で、『別座鋪』の上方での評判を伝えた上、「其元宗匠共とやかくと難じ候由御とりあへ被成まじく候」などと、嵐雪らに構わないよう伝えていた[21][22]。

しかし、両者の確執は、同年の芭蕉の死によっても解けることはなく、同じ日に、嵐雪は高野百里ら自己の門下と、杉風は天野桃隣、河合曾良、志太野坡らと、別々に芭蕉追悼会を行うという状態であった[21]。

芭蕉の追悼としては、杉風はこのほか、深川長慶寺に、芭蕉自筆の《世にふるも更に宗祇のやどり哉》の短冊を埋めた芭蕉塚(時雨塚)を築き、元禄14年(1701年)の芭蕉の七回忌に当たっては、芭蕉追慕の集として《ことの葉をこまかに慕へ冬かつら》の自句に名を取った『冬かつら』を刊行している[23][24][25]。

芭蕉没後の江戸蕉門においては、宝井其角の一派、服部嵐雪の一派とは別に、蕉門の古老として第三の勢力を保った[26][27]。宝永2年(1705年)の岱水による『木曾の谷』刊行にも協力したと見られる[28]。

家業は、長女のかめに迎えた婿養子(元次郎、号は随夢)に譲り、隠居後は名を一元と改め、晩年は蓑杖、蓑翁などと号した[4][12][29]。

享保17年(1732年)、江戸で没。86歳(一説に76歳)。法号は釈一元居士。墓は、築地本願寺内の成勝寺にあったが、関東大震災後の寺の移転により、現在は世田谷区宮坂の成勝寺境内にある[6][30][31]。移転後の墓には、臼田亞浪が揮毫した墓碑銘がある[30]。

編著に、前記のほか、元禄2年(1689年)刊の『隅田川紀行』、元禄11年(1698年)刊の『さらしな紀行』など[9][32]。

門下として中川宗瑞(白兎園)がある。これを継いだ広岡宗瑞(二世白兎園)は、天明4年(1784年)、『杉家俳則』を編み、さらにその門下の平山梅人は、天明5年(1785年)、『杉風句集』を編んだ[33][34]。

杉風が描いた芭蕉像

俳諧以外においては、遠州流の茶道を嗜んだほか、大竜寺の和尚に禅を、狩野昌運に絵を学んだ[3][6][9][35]。杉風が描いた芭蕉像は、写実的で、芭蕉の風貌をよく伝えるものとして高く信頼されている[6][30][36]。

評価

森川許六は、『俳諧問答』の同門評において、「杉風は二十余年の高弟、器も鈍ならず、執心もかたの如く深し。花実は実過ぎたり。」と評した[37]

後代の俳諧師である吉川五明は『小夜話』において、「杉風、野坡は浅くして淡し」と、三津川于当は『関清水物語』において、「杉風、野坡はこゝろひとつにして、只かるみに遊ぶ 」と評した[30][38]。

建部綾足は『蕉門頭陀物語』において、「杉風は蕉門の子貢」と評した[39][40][41]。

村上鬼城は、自身と同じく聴覚障害があったとされる杉風について、大正4年(1915年)、『杉風論』を発表。《きのふけふ音ぞ聞ゆる春の水》など、敏感な聴覚を示した句の多さなどに注目した[42]。

代表句

がつくりと抜け初むる歯や秋の風

朝顔やその日その日の花の出来

橘や定家机のありどころ

時雨づく雲にわれたる入日哉

鳴く千鳥富士を見かへれ塩見坂

襟巻に首引き入れて冬の月

春雨や鴬這入る石灯籠

ふり上る鍬の光や春の野ら

うの花にぱつとまばゆき寝起哉

痩せ顔に団扇をかざし絶し息 (絶句)

門流

採荼庵歴代[43]

代 名 生没年 備考

初 杉山杉風 1647年 - 1732年

二 平山梅人 1744年-1801年

三 垂井梅弟

四 太田萬里

五 鯉屋杉露

六 大沼杉舟

七 松井杉郷

八 重田石丈

登場する作品

元禄繚乱(1999年、NHK大河ドラマ 演:野村信次)

注釈

^ 『蕉門十哲』53頁には「衰杖・衰翁」、『江戸名所図絵第四冊』巻之七搖光之部1753頁には「衰翁衰杖すゐをうすいぢやう」、『芭蕉事典』320頁には「蓑翁・衰杖」とある。初め「蓑翁」といったが、大病ののち衰えた杉風を見た芭蕉が「蓑」を「衰」にしたらよいと戯れに言い、晩年の杉風において「衰翁」を別号にしたものという(『図説江戸の芭蕉を歩く』104頁)。

^ 『杉風秘紀抜書』には「杉風本国三河」とあるが、これは杉風の娘婿(三河池鯉鮒生まれ)との混同による(『俳諧人名辞典』127-128頁)。

^ 芭蕉の江戸出府当初の寄寓先については、杉風とする説(平山梅人『杉風秘記抜書』、泊船居竹二坊『芭蕉翁正伝』)のほかに、小沢卜尺とする説(菊岡沾涼『綾錦』、蓑笠庵梨一『芭蕉翁伝』)や、鳥羽屋三右衛門のち三枝主水とする説(武田村径『二書一巻聞書』)もある(「芭蕉の初期江戸寄寓一説」59頁)。

^ 深川芭蕉庵は時代により3つある。杉風が提供した生簀の番屋であった第1次芭蕉庵は天和の大火で焼失。天和3年(1683年)、山口素堂らの働きで第2次芭蕉庵が建てられるが、元禄2年(1689年)、おくのほそ道の旅に先立って人に譲渡。元禄5年(1692年)、杉風、枳風らによって第3次芭蕉庵が建てられた(『奥の細道の旅ハンドブック』8-10頁)。

^ 芭蕉庵のあった深川周辺には、杉風の採荼庵や、河合曾良、宗波らが集う山口素堂の庵があり、清閑を楽しむ蕉門の一群があった(『俳人の書画美術』82頁)。