石山の石より白し秋の風
http://www.tomiokahachimangu.or.jp/sH1604/htmShaho/p02.html 【「石山の石より白し秋の風」】より
「石山の石より白し秋の風」
『奥の細道』にこの句を記した松尾芭蕉は現在の江東区常盤1丁目、万年橋のたもとに芭蕉庵を構えて創作活動の中心としたところから、深川には俳句史跡が点在し、当神社に所縁の俳人が大勢います。芭蕉誕生360年を迎えた今年、深川俳諧の足跡を少したどってみたいと思います。
御本殿東側に建つ合末社のうちに「花本社」があり、御祭神は松尾芭蕉命です。このお社は享保年間(1789~1800)に江戸の俳諧師有志によって建立されたものです。芭蕉は37才の時に日本橋小田原町(現・中央区日本橋室町)から郊外深川へ転居します。このことが、都市の言葉遊びの域を出なかった当時の俳諧から、定型詩としての俳諧、自然と人間とを見つめる俳句誕生のきっかけとなったと考えられています。
芭蕉の深川転居から自然、彼の門人が深川近辺に集うようになり、深川は文学・俳句の揺籃の地ともなったのです。芭蕉の門人のうち、ことに深川と縁が深いのは杉山杉風、宝井其角、度会園女でしょう。 芭蕉古参の弟子である杉風は深川に別邸を構え、そこの生簀の番小屋を改装したのが最初の芭蕉庵です。芭蕉が『奥の細道』の旅へ出発した採荼庵(現・三好1丁目~深川1丁目付近)も杉風別邸の1つでした。
菊畑おくある霧のくもり哉 杉風
宝井其角は蕉門第一の弟子といわれる俳人です。師の芭蕉が静寂な自然を好んで題材としたのに対し、其角は大都会・江戸の情緒を好みました。彼の作品は発展の一途をたどる江戸のありのままの姿を映しています。ぴりりと洒落た作風は深川好みとも言えましょう。
鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春 其角
度会園女は蕉門の女流俳人。伊勢山田の出身ですが大阪に住み、元禄7年9月に芭蕉を迎えて連句会を催しました。
白菊の目に立てて見る塵もなし 芭蕉
紅葉に水を流す朝月 園女
この句会からわずか半月後に芭蕉は世を去り、俳聖最後の句会となりました。医師であった夫の没後、園女は江戸へ出て当神社門前で眼科医を営み、境内に36本の桜を寄進しました。これは「歌仙桜」と呼ばれ、江戸の人々に親しまれましたが、残念ながら残っていません。今は深川公園内に歌仙桜の碑があります。
また、現在は失われましたが八幡宮境内に其角の弟子、稲津祇空を祀った「祇敬霊神祠」があり、往時は功勝社とも呼ばれていたようです。祇空は摂津池田の人で八幡宮の氏子である箱崎町に住み、師・其角の華やかな作風とは異なった、芭蕉に似た穏健平明な俳風を立てました。その生涯も旅を愛し、芭蕉を思わせます。祇空は神職の家系に生まれ、敬神の念篤い誠実な人柄だったらしく、この小祠も彼を慕った門人達が三周忌にあたり建立したようです。今はこの小祠の来歴を記した碑だけが永昌五社稲荷近くに残っています。
名月や十二のそらに海ひとつ 祇空
このほか、境内弁天池周辺には大橋杣男、蒲丈、完来、平花庵雨什の句碑があります。彼らもまた芭蕉の所縁を慕ったのかもしれません。
今や英語俳句なども生まれ、もっとも短い定型詩として世界中に愛好者がいる俳句。文学の秋、日本発祥の俳句に身近な感動を詠んでみてはいかがでしょう。
http://www.basho.jp/senjin/s1410-2/index.html 【石山の石より白し秋の風】 より
芭蕉 (おくのほそ道)
小松(石川県)の那谷寺での句。句意は「那谷寺の境内にはたくさんの白石があるが、それより白く感じる秋の風が吹いているよ」。
石山を滋賀の石山寺とする説もあるが、本文中で「奇石さまざまに、(中略)殊勝の土地なり」と那谷寺の石のことを書きながら、わざわざ句に他の寺の石のことを持ち出すとはちょっと考えにくいので、那谷寺の石とする。
中国でも白秋や、素風(白い風)と言われているように、秋の風が白いは芭蕉の新しい発想ではなく、句としても格別なものとは言えない。句の出来以上に広く知れ渡っているのは、「石山の石より白し」と「石」をたたみかけていること、芭蕉は意識してないかもしれないが「いしやまのいしよりしろし」という「し」の多用が、独特のリズムと味わいをもたらしたせいだと私は思っている。
『去来抄』で「句調(ととの)ハずんバ舌頭に千囀せよ」と芭蕉が言っているように、何度でも読んでリズムを整えるのも魅力ある句を詠むのには必要ということであろう。
(文) 安居正浩
https://blog.goo.ne.jp/yo88yo/e/f872d82f511ca1e60b2558cbf3569613 【石山の石より白し秋の風】より
いつのまにか、夏から秋に季節が変わろうとしている。騒がしかったセミの声もまばらになり、夜になると虫の声がさかんになった。日射しはまだまだ強いが、空気が透きとおってきたように感じる。四季にはそれぞれに色があるらしい。春は青、夏は朱、秋は白、冬は黒だという。
秋は白い季節なのだ。俳句などでも白い秋とか白い風といった表現があるようだ。
「石山の石より白し秋の風」(松尾芭蕉)
目には見えないが、白い風が吹いているのだろう。虫たちの声が、ますます風を白くする。
夏の燃えるような暑さから解放されてみると、いっしゅん気抜けしたような空白がある。そのイメージが白だろうか。
ある種の虫たちにとっては、空気はネバネバしているという。
人間にとっても、夏のあいだの空気はネバネバしていたような気がする。
そのネバネバが次第に薄められて白く澄んできたようでもある。あちらこちらに空気の隙間ができたみたいでもある。ネバネバの空気に抵抗してきた身には、さらりとした空気は反って頼りないさみしさもある。勝手なものである。
秋の夜長です そとは虫の声ばかり かごめかごめ 誰かが誰かを呼んでいる
うしろの正面だあれ さがしているのは誰でしょう 彼であったり
彼女であったり どこの誰だかわからない 黙って去った人でしょうか
https://note.com/alice_teles/n/n3f9913cb326a 【石山の石より白し秋の風】 より
石山の石より白し秋の風(芭蕉)
芭蕉の立ち寄った、石山は確か石川とか新潟とかの寒い地方だったような、秋といえども
ひんやりな土地だったと思う。
まず、石山の白い石について考えてみよう。石といえば、冷たくて、重くて、硬くて、そんなイメージですね。さらに、白い石とくれば、さむ~い感じ。透き通るような北陸の寒さ。そんなイメージ。おそらく、そのような人に例えたのだと思う。冷酷で、頑固で、不親切な感じの人物像ですよ。
では、後半の、秋の風について考えてみよう。
まずは風から、風といえば、石とは真逆の存在。柔らかくて、自由で、目に見えない、気持ちの良いものですよね。
さらに、秋風となれば、哀愁漂い、行楽とかの朗らかさ、詩的な美しさ、芸術的、いいイメージしかないですよ。そんな人物を想像してみてください。
自由で、親切で人当たりがよく、誰といても頼もしい、気持ちの良い存在。
しかし、なぜ、芭蕉は、石より白いと言ったのか?
ふんわり心地いい感じの人は、冷たくて堅苦しい人より、信用ならぬのか?
厳しい警句ですが、・どんな時も丁寧な言葉で慰めてくれる友人・誉めも叱りもしない穏やかな父親・上品で市民に優しく寄り添う政治家・テレビで国民の気持ちに同情してくれる好感度高めのタレントさん
今日も秋の風のような、気持ちの良い人たちを、求めている。果たしてそれで良いのか・・・?
http://www2.odn.ne.jp/kotowaza/sub15-1-kuuzan-kaisetu.htm 【空山 解説】 より
文中に その日は登山する人は少なく、あたりは深閑としていた。時折、下から登ってくるらしい人声が聞こえ、それがかえって静けさを増すように感じられた。とありますが、これは、参考書の解説にある<承句に「人語の響き」をとらえたのは、そのかすかな「動(物音)によって逆に「静」を印象づけようとする手法である>を意識して書いたものです。
この手法を用いた代表的なものに、俳句では、
古池や 蛙飛びこむ 水の音 (芭蕉) しづかさや 岩にしみいる 蝉の声 (芭蕉)
があり、漢詩では、 鳥啼いて山更に幽なり (王籍)があります。「幽」は(かすか)と読ませます。
木漏れ日が差し込んで足元を照らす情景は、王維の『鹿柴』さながらであった。
空山人を見ず 但だ人語の響きを聞くのみ 返景深林に入り 復た青苔の上を照らす
一幅の絵を見るような詩で、「詩中に画あり、画中に詩あり」と評された王維の面目躍如たる名作である。「詩中に画あり、画中に詩あり」は、蘇軾が王維を評して言ったものです。王維は大詩人であるばかりでなく、<南画の祖として山水画をよくし、書家としても名を知られ、音楽にもすぐれた才能を示し>というすごい才能の持ち主です。また<熱心な仏教信者でもあった>ことから、詩仏と称せられました。
これは、李白の詩仙、杜甫の詩聖に対するものです。日増しに秋が深まっていく。秋の色は白、白秋である。そして秋は風までが白く感じられるという。
石山の石より白し秋の風 芭蕉
「石山の石より白し秋の風」は、芭蕉の『奥の細道』の中の「那谷寺」の章に出てくる句で、意味は、この那谷(なた)寺の石は、あの近江の石山寺の石よりももっと白く枯れた感じであるが、折から吹きわたる秋風は、それ以上に白く寂しい感じがするよ。
https://036san.at.webry.info/201809/article_2.html 【石山の石より白し秋の風 芭蕉】より
あゝ、鬱陶しい天候が続く日々ですね、仙台も。そこどこで大台風、大地震、災害が続き、なんかやりきれません。
亡くなった方、その家族、被災にあわれた方々、その不運に慰めの言葉もありません。
気圧が安定しないこの時季、私の体調も、当然よくありません。
でも、そんなことは自分のなかに閉じ込めておくべきですね。
やがて、この先「天高く」「秋高し」「秋日和」「秋の色」「秋の声」大気が澄み、晴れわたった空が高く感じられまた山、草原、街路樹などが色づきはじめ、海、みずうみ、また川が澄み、渡り鳥が北へ南へと向かいます。
こんな秋気に満ちあふれるいい日々が来ることでしょう。
水澄みて金閣の金さしにけり 阿波野青畝
秋は空ばかりでなく水も澄む季節、水面は「水鏡」というにふさわしい。金閣寺の荘厳な姿、その金色が池の水をいっそう澄明にしている。単純な写生では「映しけり」だろうが、それを「さしにけり」に、透明さを強調した。青畝の俳誌「かつらぎ」に習う母の師だった。
とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな 中村汀女
高原かどこかは知らぬが、歩を止めると赤蜻蛉が、一匹、二匹…、やがてこんなにたくさんいたのかと驚くほどの数、とんぼが歩みを止めた人に親しみおぼえて集まってきたかのようだ。ただ私の好きな句。
石山の石より白し秋の風 芭蕉
近江の石山寺、その石のこと。石より白い風とは?私が若いころ、「ほととぎす」の同人土山紫牛先生から教わった陰陽五行説の秋は白、「白風・素風・色なき風」(いずれも秋風の別称・傍題)だと。それを踏まえた感覚的な句。実は俳句を長くやってきて、歳時記をじっくり読み、やっと理解しえた俳句なのです。
この齢になると、妙に幼いころの記憶が鮮明に蘇るときがある。
母の後年は「赤貧洗うがごとし」の暮らしだったけど、力いっぱい全身で生きていた。
母は唯一俳句を生き甲斐にしていたかも知れない。
この赤貧は親父と一緒になって後年からのこと。母の苦労は、すべてこの駄目親父の所為。
このことは、いつかこのブログに残しておきたい。
そこで母の遺句集の中から、寂しい句を
辛ければせめても月にもの言はん よしの
虫を聴く忘るることのやすらぎに よしの
ちょっと主観が入りすぎの感が・・・。