仏頂面
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2010/06/post-9ebf.html 【「仏頂面」のお二方の表情からちょっとだけ】より
「仏頂面」とは、「苦虫をかみつぶしたような顔」(不機嫌な顔、不愉快そうな顔)である。今日は、その「仏頂(面)」を、但し腫れ物状態のお二人には触れない形で、若干のことをメモしてみる。
この「仏頂(ぶっちょう)」は、仏教に由来する用語であり、「仏頂尊」のことで、「お釈迦様の頭上(仏頂)に宿る広大無辺の功徳から生まれた仏」のこと。威厳に満ちているが不機嫌そうな表情にも見えることから「仏頂面」という言葉が生まれたと考えられている(あくまで説の一つ)。
松尾芭蕉が生涯の師と仰いだ人物は、仏頂禅師である。
「根本寺」という当時巨大な寺を受け継ぎ、二十一世住職に就任した。が、徳川家康に寄進された寺領を巡る鹿島神宮との争いに関わり、深川の臨川庵に住した(やがて臨川寺となった)。(「芭蕉と仏頂禅師について」参照)
延宝8年(1680年)の冬、芭蕉は江戸市中から深川の草庵に移った。落魄の最中だった。それまでの意気揚々たる前半生を断念し、交流や利権も捨てての都落ちだった。その深川で芭蕉は仏頂禅師と運命の出会いをし、「臨川庵に参禅する日々を送った」。
当時の深川は草深きド田舎である。 ほとんど世捨て人の気分だったろう。
但し、念のために断っておくが、芭蕉は軽妙洒脱な誹風を捨て、新しい(『奥の細道』に結実するような)誹風を創り上げるが、旅に明け暮れ、人生の侘び寂びを探求するとはいっても、決して世捨て人にはなっていない。
そうなるには、あまりに才能が、それ以上に人望があった。旅に行く先々で弟子を作るし、交流の輪を広げるし、声望を高めていく。
一度、芭蕉(ら)を泊め、交流の機会を持ったものは、もう一度、泊まってくれることを望むようになる。
その辺りのことは、例えば、芭蕉の俳文「幻住庵記」(『猿蓑』所収)などを一読するまでもなく、察せられるところだろう。
芭蕉の俳諧の世界を孤高の世界と単純に看做しては持ち味を汲み切れないことになるやもしれない。
心して味わうべし(← 自戒の念)!
深川時代、芭蕉は、日本橋時代の遊び軽妙洒脱、駄洒落の誹風を脱却し、やがて人生の侘び寂びを句にするようになるのだ。その転機を作ったのが、上記した仏頂禅師との遭遇だったのである。
貞亨4年(1687年)8月14日、芭蕉は、曽良、宗波とともに鹿島に旅し、根本寺山内に閑居する仏頂禅師とともに、観月のひと時を過ごした。
「「鹿島紀行」には、はるばる月を見に来たのに、月の光、雨の音といった情景がしみじみと心に感じられ、句を案じることができないなどの心情とともに、月見をした当日の様子が書き記されている」。
← 田中 善信【著】『芭蕉―「かるみ」の境地へ』(中公新書) 「本書は俳諧師の名乗りをあげた『貝おほひ』以降の作品を丹念に読みながらその足跡を追い、「俳聖」としてではなく、江戸を生きた一人の人間としての実像を描く」とか。人間芭蕉を知る好著。…と言いつつ、読んでいる最中である。
芭蕉は後年、旅に明け暮れる日々を送るが、最初の旅は、芭蕉41歳の頃(貞享元年)で、『野ざらし紀行』などに結実する。
彼が漂白の人生を送るようになったのは、一般に西行の影響が大きいとされる。
西行の影響自体は否定できないとしても、何ゆえ芭蕉41歳の頃(貞享元年)なのかは、依然、説明されるべきで、何かしらの切っ掛けがないと定住の庵を捨ててまで旅の生活へといった転換に踏み切るのは、中々容易ではないはずである。
さて芭蕉の人生の師・仏頂禅師は、寺領の争いに目途が付いた時(41歳のときに勝訴で解決)、根本寺の住職の座を譲り、寺を離れた。仏頂禅師は、根本寺山内に閑居するようになる。
その禅師のもとへ、後年、芭蕉は、弟子らとともに鹿島に旅し、『鹿島紀行』を残す。
そう、芭蕉が旅に出るようになったのは41歳。禅師が住職の座を辞した年齢と同じ頃なのである。ただの符合とは見ない研究者も。
田中 善信【著】の『芭蕉―「かるみ」の境地へ』(中公新書)によると、鹿島神宮との争いにケリが付き、「根本寺」の住職の地位を弟子に譲った際、寺社奉行から、お前は今後どうするのかと聞かれて、「山になりとも里になりとも、心次第につかまつるべし」と仏頂は答えている、という。
田中 善信によると、「おそらく仏頂は、その後心のおもむくままに行脚の修行に出たのであろう」。このとき仏頂は41歳で、「この年齢で由緒ある寺院の住職の地位を弟子に譲って、行脚の修行に出た仏頂の身の処し方に、芭蕉は強い感銘を受けたとみて間違いなかろう」。
「このことがきっかけとなって、行脚の修行に生きる禅僧の境涯に対するあこがれが、芭蕉の心に生じたのだと思う。彼は禅僧にならなかったが、そのあこがれを生涯もち続けていたと思う」とも、田中 善信は上掲書で書いている。(田中 善信は西行の影響は否定していない。)
芭蕉と佛頂和尚との関連については、「佛頂和尚」がとても参考になる。
ほぼ同じ説を既に書いておられる。
以上、本日午前、枢要の地位を辞した方々の仏頂面を見て、「仏頂」の語源や関連の話題をざっと(多くのことを端折って)だが、綴ってみた次第である。
http://tobifudo.jp/newmon/jinbutu/bucho.html 【仏頂面】より
■仏様の頭の頂=仏頂
■お釈迦様の頭上に宿った尊者=仏頂尊
■無愛想な顔つき=仏頂面
胎蔵界三部の徳 大定・大智・大悲
如来の五智 大円鏡智だいえんきょうち 平等性智びょうどうしょうち
妙観察智みょうかんざつち 成所作智じょうしょさち 法界体性智ほっかいたいしょうち
仏頂 ぶっちょう
仏様の頭の天辺あたり、マゲのように肉が盛り上がっている所を仏頂と言います。仏様の三十二相のひとつに数えられる吉相です。肉髻相にっけいそうとか無見頂相むけんちょうそうと呼ばれます。
肉髻も仏頂も烏瑟膩沙うしつにしゃの訳です。烏瑟膩沙はサンスクリット語の音写で、一般的にはターバンや冠をさします。
無見頂相は、仏様の頭の上は普通の人には見ることができない、と言う意味です。
仏頂尊 ぶっちょうそん
仏様の頭の上にやどる最勝最尊の智慧を、仏様化したものを仏頂尊ぶっちょうそんといいます。仏頂尊の分類に入る仏様は色々とあります。肉髻を仏様化したものも仏頂尊と呼びます。仏頂尊はいくつかのグループに分けられます。
●三仏頂 如来の胎蔵界三部の徳を表します。
広大仏頂 こうだいぶっちょう
極広大仏頂 ごくこうだいぶっちょう
無辺音声仏頂 むへんおんじょうぶっちょう
●五仏頂 如来の五智を表します。
白傘蓋仏頂 びゃくさんがいぶっちょう
勝仏頂 しょうぶっちょう
最勝仏頂 さいしょうぶっちょう
光聚仏頂 こうしゅぶっちょう
除障仏頂 じょしょうぶっちょう
●八仏頂 三仏頂と五仏頂を合わせたもの。
●九仏頂 八仏頂に摂一切仏頂せついっさいぶっちょうを加えたもの。
●十仏頂 九仏頂に普通仏頂を加えたもの。
いずれの仏頂尊も、お経によりいろいろな異名を持ちます。また密教的に見た場合の○○金剛という呼び名もあります。
いろいろとある仏頂尊のなかで、最も優れた徳を持ち、頂点に立つのが一字金輪仏頂いちじきんりんぶっちょうです。大日如来ゆかりのものと、お釈迦様由来のものがあります。
本来は一字頂輪ですが、勝れた教え=法輪=金輪に例えて一字金輪と呼ばれています。
仏頂尊の顔は・・・・
仏頂面ぶっちょうづらは、仏頂尊の恐ろしい顔に例えられたもの、とする説明もありますが、仏頂尊はおおむね如来ですから、恐ろしい顔はまずありません。ただ異国情緒豊かな仏像になると、多少怖く見えるかも知れません。
真剣に考えている時、宿った仏様が仏頂尊ですから、仏頂面は無愛想な顔、と言うことでしょう。日常生活でも考え事をしていて無愛想なのと、不機嫌なのとは見分けがつきにくく、困ることがあります。
考え事をしていたのに、不機嫌なように思われたら・・・日頃の行いが大切ですね。
仏頂面は、広大無辺の功徳から生まれた仏様の顔で、智恵に優れ、威厳に満ちた顔です。
http://www.gyokusenzi.com/butchozura.html 【信は種なり】 より
「仏頂面」
「霧の中を行けば覚えざるに衣しめる、よき人に近づけば覚えざるによき人となる也。」
これは、道元禅師が示されたたとえで(『正法眼蔵随聞記』)、よく知られている。
ドイツの作家、ゲーテのことばに、「不機嫌ほど大きな罪はない」というのがあった。
これを聞いたとき最初,わたしは人間がときに不機嫌になるのはやむを得ないのに、それを罪だと言われると困ってしまう・・・とおもった。
けれどもよく考えてみると、不機嫌は周りの人々まで巻き添えにする ものであって、その意味ではたしかに大きな罪なのである。
不機嫌な時こそ陽気にふるまって
不機嫌なとき、ひとはよく仏頂面をする。あの”仏頂面”という言葉は密教の仏に仏頂尊があって、これがおそろしい面相をしているからだという。
あるいは不詳面(ふしょうづら)という言葉が転じたものだともいう。
ともかく、無愛想な顔、不機嫌な顔を仏頂面と呼ぶのであるが、あれはよくない。
誰かが仏頂面をしていると周囲までもがその影響を受けて沈んだ雰囲気になりおもしろくなくなる。
逆に陽気さというものも大きな伝染力をもっている。陽気な人間は周りを明るくする。
だから我々はイヤな出来事にぶつかったとき、それで不機嫌になってはいけない。
自分が不機嫌になると、周囲まで不機嫌にしてしまいそれが自分に跳ね返ってくる。
いやな出来事にぶつかればむしろ陽気になるように努めるべきだ。
そうすると周囲も明るくなり早くいやな出来事が忘れられるであろう。