ジョン・レノンと禅と荘子。
https://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5103/ 【ジョン・レノンと禅と荘子。】より
荘子です。
ジョブズ。
スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs(1955~2011)が亡くなったので、ここぞとばかりに書籍がジョブズまみれになりました。
参照:スティーブ・ジョブズと禅と荘子 その3。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5100
ジョブズを見るよりもジョン・レノンの方がもうちょっと分かりやすいかな、というわけで、ジョン・レノン(John Lennon(1940~1980))と禅と荘子です。
もともと、ジョブズの丸眼鏡というのは、ジョン・レノンの影響で、ジョン・レノンの丸眼鏡というのは、ガンディーの影響なんでしょうが、Appleという社名も示すとおり、ジョブズはビートルマニア丸出しでありました。ジョブズが東洋思想の中でも禅に傾斜した1970年代半ばという時代は、ビートルズが解散して、ジョンが禅に没頭し始めたころと重なります。
ジョン・ケージとオノ・ヨーコ。
ジョンの嗜好を決定づけたのは、やはり、彼女。
現在でも、世界で最も有名な日本女性、小野洋子です。写真は1962年。後ろにいるのはジョン・ケージです。(ちなみに、ジョンとヨーコが不仲になったときでも、ジョンの愛人はメイ・パンという中国女性でして、彼が東洋の女性に惹かれるという傾向は変わりませんでした。)
参照:ジョン・ケージと荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5096
>ヨーコ 鈴木大拙の授業には、サラ・ローレンスにいた時とあわせ2回、講演を聴いています。そう言うと、私が鈴木大拙さんの弟子だったと思われる方がいるかもしれませんが、そうではありません。ただ、私は学習院(大学)にいた頃にから禅にとても興味がありましたし、高校のころには鎌倉の禅寺にによく行っていたものです。そこでジョン・ケージと偶然出会ったというのも、まぁ偶然でもないんですけど、「(大拙の講義に)一緒に行きましょう」なんて話してましてね。
参照:オノ・ヨーコ 語る
http://www.geocities.jp/thebeatlescometogether/yoko/page1/shinjuku.html
ジョン・レノン筆 「DAY DREAM」
ジョン・レノンは、日本に滞在中、禅画に興味を持つようになります。この枯れた感じ。これは、禅仏教の影響としか見ようがない絵です。「大拙は大巧に似たり」という本質をちゃんと突いています。
ジョン・レノンの自画像。
それに、ジョンの自画像ってのは、世界で最も流通した「不立文字」と言えます。“JOHN LENNON”という自分の名前で自画像にしているので、目元が“OJO”でできているでしょ?日本で言うと「へのへのもへじ」ですが、文字では伝わらないものを画にしている。ジョブズもカリグラフィーやっていたし、この辺も似てます。
無題。
鈴木大拙が博多のせんがいさんの禅画を紹介したのが、1970年の初め。時代背景からいって、これも鈴木大拙の影響でしょう。ま、これが分かる西洋人というと、ジョン・レノンとドラッカーくらいしか知りません(笑)。
参照:『論語』と『荘子』のドラッカー。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5078
・・・じゃ、「ジョン・レノンは禅者か」というと、そうともいえないんです。
老子を読むジョンとヨーコ。
老荘思想は間違いなく入っています。『荘子』は本当に多いです。
>ヨーコ「老子といえば、ジョンと老子の話をしたことがありますよ。ジョンは老子に似たタイプだと思うんです。「あなたはそういう人ね」って言うと、とても喜んでいました。」(別冊カドカワ 『ジョン・レノン 夢の絆』より)
莊子曰「今子有大樹、患其無用、何不樹之於無何有之郷、廣莫之野、彷徨乎無為其側、逍遙乎寢臥其下?不夭斤斧、物無害者、無所可用、安所困苦哉。」(『荘子』逍遥遊 第一)
→荘子は言った。「あなたはせっかく大きな木を持っているのに、役に立たないなどと嘆いている。ならば、この役に立たない木を『無何有の郷』に植え替えて、広々とした大地でその木の周りをぼんやりと逍遥し、のんびり昼寝でもしたらどうだい?斧で切り落とされる心配もなく、無用なもののようでいても、少しも困ることはないよ。」
ジョンの魂。
『ジョンの魂』のジャケットは、まさに荘子の逍遙遊篇の「無何有の郷」なんですが、『荘子』からの引用は、ビートルズ解散後の方が多いです。“#9Dream ”は「胡蝶の夢」なんていうのは分かり易い方でして、“Old Dirt Road”は、マニアック。
参照:John Lennon - Old Dirt Road
http://www.youtube.com/watch?v=YobwNZO3SZE
“I said uh, hey Mr. Human can ya rainmaker too?
He said I guess it's O.K. ya know the only thing we need is water
Cool, clear water, water ”
・・・「人間様、水をっ!」ってのの出典は、間違いなく『荘子』の「轍鮒の急」です(笑)。
参照:轍鮒の急と天地不仁。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5080
『大聲不入於里耳,《折楊》、《皇?》,則?然而笑。是故高言不止於衆人之心,至言不出,俗言勝也。以二缶鍾惑,而所適不得矣。而今也以天下惑,予雖有祈嚮,其庸可得邪?』(『荘子』天地 第十二)
→本物の音楽は、俗人の耳には入らない。卑俗な音楽なら、人々は声を上げながら喜ぶ。本物の言葉は、衆人の心には届かない。至言が人の耳に届かないのは、下卑た言葉がそれを濁らすからだ。分かれ道で迷いだすと、目指す場所には届かない。そして今、天下は迷っている。道を人に伝えようとしても、それをかなえることができようか?
ジョンの音楽性さえも諭せるのは荘子の他にいません。禅ではこれはムリ
『戴晋人曰「有所謂蝸者、君知之乎?」曰「然。」「有國於蝸之左角者曰觸氏、有國於蝸之右角者曰蠻氏、時相與爭地而戰、伏尸數萬、逐北旬有五日而後反。」君曰「噫!其虚言與?」曰「臣請為君實之。君以意在四方上下有窮乎?」君曰「無窮。」曰「知遊心於無窮、而反在通達之國、若存若亡乎?」君曰「然。」曰「通達之中有魏、於魏中有梁、於梁中有王。王與蠻氏、有辯乎?」君曰「無辯。」客出而君尚然若有亡也。』(『荘子』則陽第二十五)
→戴晋人は尋ねた。「王様は蝸牛(かたつむり)というものをごぞんじですか?」恵王「無論。」「そのかたつむりの左の角の上に触氏の国がありました。また、右の角の上には蛮氏の国がありました。あるとき、両者は領土の争いで数万の犠牲を払いました。そして、残敵を十五日間にもわたって追いかけた末、ようやく引き上げたそうです。」恵王「それは、単なる戯言ではないか。」すると、戴晋人は、「では、現実の話に戻しましょう。王様は、宇宙の東西南北と上下に際限があると思われますか?」王「無限だろうな。」」戴晋人「ならば、この無限の世界からみて、我々が行き来している国などは、大きな存在だといえるでしょうか?」
王「ん~~。」戴晋人「この国々の中に魏という国があり、魏には梁という都があり、梁の中にあなた様がいらっしゃいます。天の視座に立ったとき、蝸牛の争いと、王様の争いに何の違いがございましょうか?」王は答えた「違いなどないな。」客が去ると、王はぼんやりとしてしまった。
・・・トルストイは『老子』の「兵は不祥の器」に感動したんですけど、ジョンは荘子ですね。
参照:老子とトルストイ。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5072
かぐやによる地球の出の映像。
大鵬の高みから見下ろせば、人間の争いに価値などありません。
参照:大鵬図南と"From a Distance"。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5084
『天地與我並生、而萬物與我為一。』(『荘子』斉物論第二)
→天地は私と共に並び生じ、万物は私と共に一つのものなのだ。
そんな夢想家がその昔いたんです。
『イマジン』というのは、まさに荘子。
・・・ただ、“brotherhood of man”は荘子でも禅でも難しいですね。いっそのこと、『論語』の、
『司馬牛憂曰、人皆有兄弟、我獨亡、子夏曰、商聞之矣、死生有命、富貴在天、君子敬而無失、與人恭而有禮、四海之内、皆爲兄弟也、君子何患乎無兄弟也。』
→司馬牛憂えて曰く「人は皆兄弟がいるものなのに、私だけ兄弟がいないんだ。」子夏曰く、「生き死にも富貴も天の思し召しだと聞き及びます。君子が相手を敬って落ち度がなく、相手に礼を失することがなければ、四海の内は皆兄弟みたいなものでしょう。現実に兄弟がいないことなど悲しむことでもありません。」
「四海の内は皆兄弟たり」でもありかな・・。