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りょう太のZEN ― 目覚めのとき

2020.11.20 13:23

https://www.zenmangajp.net/story/  【りょう太のZEN ― 目覚めのとき】より

(前略)

「禅と日本文化」の第一章「禅の予備知識」の出だしは、「禅とは夜盗術を学ぶに似たるものだ」という説話から始まる。年老いた夜盗の父がその息子に商売を覚えさせるために、ある時息子を夜盗に連れて行き、騙して長持ちの中に閉じ込めて、自らは泥棒だと大声で叫んで逃げ出した。これは息子が自力で、危機一髪窮地を脱して逃げ帰る中で、どのように臨機の決断と応変の行動を学ぶか、実地の教育手法であった。禅を学ぶとは、それと同じことだという。

正しく生きる術は、論理ではなく、実地に身をおいて自ら体験する以外にないとして、禅のモットーは言葉に頼らない「不立文字」であるとする。

第二章の「禅と美術」では、日本文化の根底にある「わび(侘)」と「さび(寂)」について解説する。「わび」は飾り気の無い単純性を味わう日本人の心的習慣を通じてその生活文化に深く入り込んでいる。

雪舟など禅宗画家の絵や水墨画などに見られる、非均衡性、非相称性、孤絶性、単純性等の日本文化の特質は、「一即他、他即一」の禅の真理を中心から認識することに発するという。

第三章の「禅と武士」では、元寇の際蒙古軍を打ち払う決断をした北条時宗の意志力の背景に、仏光国師から学んだ禅の力があったことに触れている。禅が武田信玄、上杉謙信、伊達政宗など武将や武士の精神的よりどころになったのはなぜか?それは禅が「生と死の問題」を正面から扱い、死に直面することを迫るものだからである。昨今「武士道」が脚光を浴びているが、武士道の根源にあるのが生死の問題を超克する禅のこころなのである。

第四章は剣と禅の関係についてだが、これは前のとおりで省略する。

第五章の「禅と儒教」では、中国宋代の禅と朱子学の関係から、江戸時代の日本において禅と儒教と神道がどのように相関し、相互に影響しあって日本文化の基礎を固めていったかが述されている。

第六章の「禅と茶道」では、中国から茶を持ち帰った栄西以来、禅僧が茶を伝え、一休、珠光、利休とつないで茶の湯が完成された歴史を記述し、「和、敬、清、寂」という茶道の精神と禅との関係を解説している。

第七章の「禅と俳句」では、「悟り」と「宇宙的無意識」について論じ、直感、直覚、孤絶、風雅等の言葉で俳句と禅の不可分の関係を説明する。

松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」は、もともと禅の修業をしていたときの禅問答に発しているという。芭蕉がその師仏頂和尚のもとで参禅していた頃、和尚が「今日のこと作麼生(そもさん)」(近頃どうしているか)と問うたのに対し、芭蕉は「雨過ぎて青苔湿う」と答え、仏頂がさらに「青苔いまだ生ぜざるときの仏法いかん」と問うたところ、芭蕉が「蛙飛び込む水の音」と答えたという。「古池や」は、あとから十七文字の俳句にするため附加されたということのようである。

パラパラと本をめくっただけだが、広範な日本文化の根底に、Zenのこころがあることが理解できた。

すぐには、結果がでないが、なんとなく真の自己(自分探しの到達点)が見え、真理への目覚めへの準備が進行しつつあると実感するようになる。しかし剣道の試合、学科の試験に集中しきれない悩みは続いた。

夢で沢庵さんに悩みを訴えた。夢の中で沢庵さんは、二人の人を紹介してくれた。一人は鈴木正山という江戸初期の禅師、一人は山岡鉄舟という幕末から明治の剣豪。

鈴木正山の仁王禅。

関が原の戦や大阪の陣に参加した三河武士の出で、出家して庶民の立場からの禅のあり方を説いた。武士時代から常に生死について考えてきた正三は、特定の宗派に拘らず、より在家の人々に近い立場で、仁王・不動明王のような厳しく激しい精神で修行する「仁王不動禅」を推奨した。「弱気を払って、仁王像や不動像のように厳しい心、激しい心を持って坐禅をし、その気持ちを一日中持ち続けよ」 うるさい理屈は抜きにして、こぶしを握り締め、仁王のように睨みつけて、ドーンと坐ってみよ。

山岡鉄舟の無刀流

江戸から静岡まで決死の軍陣突破を試み西郷隆盛との会談を実現した話で有名。明治になって明治天皇のご養育係を勤めた。

明治13年3月30日に禅で大悟し、永年勝てなかった一刀流の浅利又七郎と対してこれを制し、無刀流を開く。大悟したとき、滴水和尚から与えられていた公案は、「両刃鋒を交えて避くることを須(もちい)いず。好手は還って火裏の蓮の如し、宛然として自ずから衝天の気あり(剣をもって相対し、心を一にして逃げずに向かえば、火の中にある蓮の花のように天を衝く働きがある)」であった。山岡鉄舟、勝海舟ともに、幕末から明治にかけて生き抜いた力はただ禅と剣の二つの修行から得たと述べている。

りょう太は、鎌倉円覚寺の居士林(寺に付属する一般の人の坐禅道場)に、一人で坐禅に行った。そして一つの得心を得た。牛を見た(見牛)。呼吸「三昧」の境地に達し、禅の素晴らしさを体験した。

Zenの追求・社会での実践

りょう太は心を落ち着けて受験に臨むことが出来、大学に進学できた。

大学でも剣道を続けたが、しばらく会っていなかった高校時代の先輩に再会し、自分より剣道も弱く何時も神経質な自信のなさそうなふるまいの先輩だったが、自信と威厳を備えたその人格の変容に心の底から驚いた。「どうしたんですか」と聞くと、井の頭の武蔵野道場で公案禅を修行しているとのこと。

武蔵野道場では、龍光先生という大学哲学科卒業の居士が指導していた。在家禅の師家ではあるが、日本では白隠禅師以来(したがってお釈迦様以来)の法系(悟りの系譜)を継いでおり、臨済系の公案禅で参禅者を指導する師家だ。

Zenとは何か。

Zenはお釈迦さま(釈迦牟尼仏)に源を発する修行であるが、狭い意味での宗教ではない。その意味では、宗派仏教に限られるものではなく、世界の宗教にも通じる側面をもつ、大きな広い概念で捉えられなければならない精神作用である。

在家禅(居士禅)とは何か。

坐禅は、禅宗のお寺で僧侶が修行のために行っているが、専門の僧侶だけでなく、一般の市井人(居士)が修行する必要があるとして、寺院以外の道場で禅会が行われている。すなわち江戸時代以前では、役人、百姓、商人、絵かき、彫刻家、詩人・俳人などが禅の修行を通じて日本文化の担い手となってきたことを踏まえて、明治以降にも学生、女性、サラリーマン、事業家など(僧侶に対して在家の人、居士と言います)市民一般が行う坐禅の場が必要と認識されたためである。

戒定慧の三学とは。

戒は正しい行いをすること。定はこころの落ち着き(禅定力)を得ること。慧は真理を見極めること。禅修行の基本はこの三学を修めることにある。りょう太の剣道部の先輩の自信と威厳は坐禅修行の結果身に備わったこの定(じょう)の力(禅定力)によるものであろう。

公案の説明。

公案とは、公府の案牘(あんとく)の略語で、公文書のこと。禅では弟子に与えられる質問(テーマ)のこと。師家が修行を誘導するため、一対一の問答を通じて弟子の心の状態を吟味する個別指導を「独参」という。公案が事前に与えられ、弟子は独参の合図で陰寮(師家の個室)に入って見解(けんげ)を示す。師家が見解を肯定すれば次の公案が与えられ、否定すれば直ちに退出を促す鈴が振られる。公案の数は1000を超え、修行には10年以上かかるのが通例である。

りょう太は、最初の公案をもらって、びっくりした。

「無字」の公案である。

「無門関」という禅書の第一則にあり、「趙州(じょうしゅう)無字」の公案ともいう。趙州和尚(中国の唐の時代の師家)にある僧が「狗子(犬)には仏性が有るのか無いのか」と問うたところ、和尚は「無(む)」と答えた。仏教の開祖お釈迦様は全ての生類に仏性があると言われた。それなのになぜ無と応えたのか。この無に参じよという公案である。

理屈で考え、頭で考えてもだめだ。何度も「まだまだ」と師家の鈴が振られ退出を余儀なくされる。

しかし、坐禅の時間をかけ、吐く息も「ムー」、吸う息も「ムー」と自己を忘じていくと、時節の到来とともに、虚無の無ではない、有無の無でもない、それらを超えた宇宙的な自己が顕現してくる。りょう太は、「無」に徹して、一つの境地を得た。

りょう太は、生来の高所恐怖症だった。それも極端で高いところに立つと足が震えて止まらなかった。ところが、そのりょう太がバンジー・ジャンプに挑戦し、見事自然に飛び込むことができたのだ。これぞ、坐禅のおかげだと、さらに人生に自信を深めることが出来た。

りょう太は卒業し、会社員になってストレス社会の中でもまれ、与えられた仕事上の問題解決に努力し、成長していった。企業組織の一員として、自分と組織集団の問題を公案のつもりで解いていった。全体と個、環境と自分の関係が問題であり、宮本武蔵の「観見」二つの目の目の付け所は、仕事の上でも常に意識できた。

自我を抑制し、全体の中で自分を生かす術が、組織運営のコツである。相手の立場に立つって世の中を動かすこと。日本文化の「おもてなし」もZenの心に通じるものがある。