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芭蕉『奥の細道』俳句を読む ②

2020.11.21 03:41

http://czt.b.la9.jp/Book-Basyo.html  【芭蕉『奥の細道』俳句を読む】より

●「雲の峰幾つ崩て月の山」(出羽、月山)

芭蕉一行は出羽三山に登りました。その一つ月山を詠んだ句です。

雲の峰幾つ崩て月の山

夏の陽射しの中で見えていた猛々しい雲の峰はいつしか崩れ,月の薄明かりに照らされた月山がたおやかに横たわっている、と読めるでしょうか。芭蕉は、出羽三山でいくつかの句を詠んでいますが、それに付随する地の文が、他の場所を詠んだ句に比べて、異常なほど分量となっています。そのボリューム感を実感してもらうため、長くなりますが、出羽三山の分を下にまとめて引用します。

六月三日、羽黒山に登る。図司佐吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍梨に謁す。南谷の別院に舎して、憐愍の情こまやかにあるじせらる。

四日、本坊にをゐて俳諧興行。

有難や雪をかほらす南谷

五日、権現に詣。当山開闢能除大師は、いずれ代の人と云事をしらず。延喜式に、「羽州里山の神社」と有。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや、羽州黒山を中略して羽黒山と云にや。出羽といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記に侍とやらん。月山、湯殿を合て三山とす。当寺、武江東叡に属して、天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴且恐る。繁栄長にして、めで度御山と謂つべし。

八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行動の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こゞえて、頂上に攀れば、日没て月顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば、湯殿に下る。

谷の傍に鍛冶小屋と云有。此国の鍛冶、霊水を撰て、爰に潔斎して剱を打、終月山と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に釗を淬とかや、干将、莫耶のむかしをしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばにひられるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。行尊僧正の哥爰に思い出て、猶哀もまさりて覚ゆ。惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。

坊に帰れば、阿闍梨の需に依て、三山順礼の句々短冊に書。

涼しさやほの三か月の羽黒山

雲の峰幾つ崩て月の山

語られぬ湯殿にぬらす袂かな

湯殿山銭ふむ道の泪かな  曽良

地の文は単なる記録ではなく、この部分もひとつの表現手段となっているので、これだけの分量にしていることに、それ自体の意味はあるのだと思います。単に、エピソードが沢山あったとか、白装束の修験者に扮して苦労して登ったので、自然と長くなってしまったとかいったことではないと思います。芭蕉は、この最後のところに置かれている三つの句プラス曽良の句と一体となってひとつの表現として作っていると思います。だから、芭蕉は何らかの意図を以って、敢えて長い地の文にしたと思います。それは、例えば月山という場所が、これまで句を詠んできた歌枕や名所とは異質の普通でない場所であるからです。修験道の聖地ということですが、異界つまり死の世界と俗世間の生活空間との境界のような特別の場所ということ。そこで、観るものは、普通の俗世間でみえるものとは違うということ。例えば、この後で芭蕉は越後の出雲崎で天の川を詠みますが、それは他の人でも眼にすることができるのです。現代の技術でカメラで映像を記録して、こういうものと示すことができるのです。しかし、この月山は、実際にそこに行かなければ、しかも、苦労して登らなければ、そういうものとして眼に映らないのです。仮に、月山の風景をカメラに写しても、実際にそこにいかなければこの良さは実感できないのです。端的に言えば、風景に付加価値が付随しているのです(身も蓋もない言い方ですが)。登山を趣味とする人が北アルプスの山などに登ってきて、その時の写真を友人に見せて、実際は、もっと凄い。これは苦労して登らないとわからない、ということがあります。それと同じです。芭蕉は、その付加価値をつけようとしたが、いくら句をよんでも、登山趣味の人の写真と同じように登らない人に伝わらない。そこで、その付加価値を、苦労して山を登るという体験を擬似的に、長い地の文を読ませることで、読者に普通とは違うということを感じさせようとしたのではないか。そのために、文を長くして、登っている場面を細かく描写したのではないかと思います。

月山に登る芭蕉たちは、「木綿しめ」は白布で編んだ注連、「宝冠」は頭を包む白木綿という修験道の出で立ちで、強力と呼ばれる道案内について登りました。雲や霧が立ち込めて冷え冷えとした中を、氷雪を踏んで登る、しかも八里もです。「息絶身こゞえて」という、かなりキツイ行程だったわけです。そこで、辿り着いたのは、「日月行動の雲関に入かとあやしまれ」とは、まるで太陽や月が運行する天の入り口(雲の関所)に紛れ込むかのような気がするというのです。レトリックとしては『奥の細道』冒頭の文「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」に直結している。つまりは、冒頭の文が旅の入口であるならば、この地の文は異界への入口、敢えて言えば「わたくし、芭蕉は、これからゾーンにはいります」という入口というわけです。そこで、おもむろに句が示される。だから、読者にこの句は向こうにいっちゃってますよ、と最初から示しているわけです。

雲の峰幾つ崩て月の山

「雲の峰」は夏の季語で、強い上昇気流で湧き上がる入道雲です。昼間に登っているときには入道雲が月山を背景にして、天空を突く猛々しい雲の、湧いては消えてゆくありさまが「幾つ崩て」ということでしょうか。それが夜には昼に、大きく起立していた雲の峰はいつしか崩れ、静かに神々しい月の山が六日月の光に照らされて横たえている。ここには、月山の「雲の峰幾つ崩て」という登ってくるものに対して猛々しい月山と、「月の山」という静かに人を包み込むような月山の二つの月山があります。また、芭蕉は、今は、夜の「月の山」にいるわけで、「雲の峰幾つ崩て」は、数時間前の昼間に登ってきた過去、つまりは想起しているわけで、現在と過去の時間が混在しているのです。地の文にある「日月行道の雲関」「日没て月顕る」の天体宇宙世界の姿を凝視した者の胸に迫る時の流れが感受され、この句に凝縮されています。幾つも雲の峰が湧き、崩れ、そして変わらぬ月山がある。その月山も雲に隠れ、雲が崩れてその姿を顕し、時には月光を浴び、文字通り月の山となり、刻々見た目の姿を変える。雲の姿は変わり、月山の眺望も変化する。しかし、月山はそこにあり続け、雲が湧き、崩れる、その営みは太初から続き、いつまでも変わらないのです。雲の峰が崩れるのに対して、月の山は静かに存在する。動くものは動き、変化するものは変化しつつ、一切が悠久の時の中に存在する。それを、月山登山という「雲霧山気の中に氷雪を踏て」「息絶身こゞえて」という肉体の極限の中で、いま、人や物の音のしてこない宇宙の静けさの占める月の山で、天地の悠久な営みに眼を見張るのです。

●「涼しさやほの三か月の羽黒山」(出羽、羽黒山)

芭蕉一行は出羽三山にのぼり、それぞれの山について句を残していますが、そのひとつ羽黒山を詠んだ句です。

涼しさやほの三か月の羽黒山

ああ涼しいな。羽黒山の山の端にほのかな三日月がかかっている、といった内容の句ということでしょうか。月山に登ったときには、その模様や険しさを地の文で説明していますが、羽黒山に関しては。「羽黒山に登る。」としか記されていません。月山とは険しさが違うからでしょうか。同じ出羽三山でも、月山はひときわ険しく、それだけ俗世間から超越した別世界の観が強い。そのためどうしても厳しさとか、超俗さといった印象です。羽黒山は月山ほど険しくはない。夕暮れ、西の空に三日月がかかった。そのもとに羽黒山が黒々と鎮まっている。そういう光景で、羽黒山はたしかに威圧的ではありますが、月山の句のように猛々しさの要素はありません。むしろ、静まりかえって、物の動きがストップしているような静的な世界です。動きがないから熱量が生じない、だから「涼しさや」なのです。

夕暮の太陽が沈みきっていない薄暗い光景では、空に掛かる三日月はくっきりとは見えず、ほのかに霞んでいる。それが「ほの三か月」です。それに加えて、「ほの三か月」に「ほのみ-かづき」の読みで「ほのみ」に仄見を掛け合わせて、修行者の真如の月が仄かに垣間見えた気がする。それが、悟りの静かな世界に通じている。

したがって、「ほの三か月の羽黒山」は現実の風景ではあるのですが、そこから「涼しさや」という内面の世界が触発され、さらに、それを介して静けさの境地、つまり真如の月、他の言葉で言えば「無」を垣間見ている。

月山の厳しさとは、異なる面で、超越的な性格の表現となっています。

●「暑き日を海にいれたり最上川」(酒田)

最上川を下って日本海にでたところが酒田で、芭蕉は、地の文では場所等についてのほとんど説明らしい説明がなく、次の句を詠んでいます。

暑き日を海にいれたり最上川

酒田で海へ流れ入る最上川を眺めていると、何とも涼しい感じがするという内容です。というと、えっ?と不思議に思いますよね。この句のどこに何とも涼しい感じがあるのか、むしろ「暑き」という正反対の言葉が使われているではありませんか。その理由は、この句の成立の経緯を追いかけていくと明らかになります。この句は、当初はつぎのように発案されました。

涼しさや海に入たる最上川

「海に入たる最上川」(眼前の景)と「涼しさや」(心の世界)の取り合わせという句でした。ここに「涼しさ」という語があります。実際に芭蕉は涼しさを感じています。芭蕉は、涼しく感じているのを残しながら、大胆にも、「涼しさ」を反対の意味の「暑き日」と取り替えてしまいます。同時に「涼しさや」と切れ字により「海に入たる最上川」と間をおいて内心の世界と分けていたのを、「暑き日を」として「海に入たる最上川」とつなげて眼前の一連の景と様相を転換させました。これをつづけると暑い日を最上川が海に入れてしまうという、ということになりました。風景を描写しているようでありながら、現実にはありえない、芭蕉にはそういうように見えたというわけですが、荒唐無稽です。昼間の日中を暑くした爛爛たる太陽を最上川の勢いある流れが海に沈めているという景というわけです。しかし、それだけではないでしょう。「暑き日」として、太陽としてはいないのですから、日本語の「日」には一日と太陽という二つの意味があるからです。したがって、「暑き日」は暑い一日という意味でもあるわけです。それゆえ、最上川は暑い一日を日本海に流しているという意味と、最上川が太陽を日本海に沈めているという二つの意味を併せ持つわけです。暑い一日が海に流れ込んで冷やされ、それで涼しいということが生まれてきます。「暑熱に苦しんだ夏の一日も、夕べとなればどこからか涼しさが生じてくる。洋々と海にそそぐ最上川のあたりは、もう涼しい夕風がさつと吹き過ぎる。さては今日の暑い日も、あの大河の水に浮かべて海に流し入れてしまつた」という意味でです。

しかも、「海にいれたり」という言葉からは、暑い日が海に入ったのではなく、最上川によって入れられたというニュアンスになっています。最上川の勢いが太陽を流して海に入れてしまうのです。太陽が最上川に流され海に吐き出され沈められてしまうわけです。だから、涼しい夕暮の風景を大きなスケールで描写しただけではないのです。そこには、最上川の豊かな水量とエネルギッシュな水流とが想像され、また押し「入れ」られてゆく太陽の力感も想起されるのです。そのエネルギーの相克が、夏の夕暮の、涼しくなってきてはいても、夏という季節のエネルギッシュなところがここにあると思えます。

また。「暑き日」と言っているわけですから、暑さを感じているのは芭蕉です。暑さを感じるというのは触覚によるものですから、芭蕉はこのなかに居るということになります。視覚であれば、距離をとって遠く眺めるわけですが、触角は接触しなければなりません。それゆえに、この句の発案にはあった「涼しさや」という切れ字で間合いを置くことをやめたのは、芭蕉の内心と眼前の景という二つの世界を並列することをやめたということではないかと思います。一体化しているのです。芭蕉は眼前の世界を見ているのではなくて、その中に居る。だから間合いを置かない。つまり、この句には芭蕉の内心も眼前の景も一体となった世界そのものとなっていると言えるのではないかと思います。

●「象潟や雨に西施がねぶの花」(象潟)

松島と並んで、句よりも紀行文の文章に力が入っているのが象潟です。他のところに比べて紀行文が長く、しかも技巧を尽くした。

江山水陸の風光数を尽して、今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越、礒を伝ひ、いさごをふみて其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫作して「雨も又奇也」とせば、雨後の晴色又頼母敷と、蜑の苫屋に膝をいれて、雨の晴を待。其朝天能霽て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。江上に御陵あり。神功皇宮の御墓と云。寺を干満珠寺と云。此処に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海、天をさゝえ、其陰うつりて江にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築て、秋田にかよふ道遙に、海北にかまえて、浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。

(海や山、河川など景色のいいところをこれまで見てきて、いよいよ旅の当初の目的の一つである象潟に向けて、心を急き立てられるのだった。象潟は酒田の港から東北の方角にある。山を越え、磯を伝い、砂浜を歩いて十里ほど進む。太陽が少し傾く頃だ。汐風が浜辺の砂を吹き上げており、雨も降っているので景色がぼんやり雲って、鳥海山の姿も隠れてしまった。暗闇の中をあてずっぽうに進む。「雨もまた趣深いものだ」と中国の詩の文句を意識して、雨が上がったらさぞ晴れ渡ってキレイだろうと期待をかけ、漁師の仮屋に入れさせてもらい、雨が晴れるのを待った。次の朝、空が晴れ渡り、朝日がはなやかに輝いていたので、象潟に舟を浮かべることにする。まず能因法師ゆかりの能因島に舟を寄せ、法師が三年間ひっそり住まったという庵の跡を訪ねる。それから反対側の岸に舟をつけて島に上陸すると、西行法師が「花の上こぐ」と詠んだ桜の老木が残っている。水辺に御陵がある。神功后宮の墓ということだ。寺の名前を干満珠寺という。しかし神功后宮がこの地に行幸したという話は今まで聞いたことがない。どういうことなのだろう。この寺で座敷に通してもらい、すだれを巻き上げて眺めると、風景が一眼の下に見渡せる。南には鳥海山が天を支えるようにそびえており、その影を潟海に落としている。西に見えるはむやむやの関があり道をさえぎっている。東には堤防が築かれていて、秋田まではるかな道がその上を続いている。北側には海がかまえていて、潟の内に波が入りこむあたりを潮越という。江の内は縦横一里ほどだ。その景色は松島に似ているが、同時にまったく異なる。松島は楽しげに笑っているようだし、象潟は深い憂愁に沈んでいるようなのだ。寂しさに悲しみまで加わってきて、その土地の有様は美女が深い憂いをたたえてうつむいているように見える。)

初めのところは、夕暮の雨に煙る象潟の風景をみて、中国杭州にある景勝地として有名な西湖になぞらえて文章は書き始めます。その表現は北宋の詩人蘇軾が西湖を詠んだ詩句に想を得たものとなっています。なお、この詩の3行目に「西子」と出てくるのは春秋戦国時代の美女西施のことで、「象潟や雨に西施がねぶの花」でうたわれている人です。

西湖     蘇軾

水光瀲灧として晴れて方に好く、

山色朦朧として雨も亦た奇なり。

西湖を把って西子と比せんと欲せば、

淡粧濃抹總て相ひ宜し。

「雨朦朧として鳥海の山かくる。」は上の詩句の「山色朦朧として」のパラフレイズであろうし、「闇中に莫作して「雨も又奇也」とせば」と書いているのは、まさにこの詩から一部を言っています。また、この「闇中に莫作して」は戦国時代の天竜寺の僧、策彦周良が西湖で詠んだ詩の引用と言われています。

晩に西湖を過ぐ    策彦周良

余杭門外日将に晴れんとす

多景朦朧として一景無し

雨奇晴好の句を暗じ得て

暗中模索して西湖を識る

翌朝は晴れたので舟を出して島々をめぐり、「「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。」と地の文にある桜の木を「花の上ぐ」と詠んだ歌は、次の歌だそうです。

象潟の桜は波に埋もれて花の上漕ぐあまの釣り場

「此寺の方丈に座して簾を捲ば、」以降が蚶満寺からの象潟の風景です。しかし、この文の中では前のほうで「寺を干満珠寺と云。」と書いています。これは、この寺の古い寺号で、敢えて今は使われていない古名を書いているのは、芭蕉の勘違いなどではなく、ここに虚構が意識的に加えられているからです。つまり、西行の歌を引用したりして、芭蕉はここにいにしえの光景を見ている。さらに、方丈に座って、簾を巻き上げれば、一望の元に景色が見渡せたと書かれていますが、実際には見えないので、これも事実ではなく芭蕉が脳裏に描いた風景か、表現の都合上で虚構にしたものです。そして、松島と対比させて「松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。」という有名な一節が導かれます。

田中善信という人は『奥の細道』には現代の我々からみると、奇異な表現や日本語の語法に反すると思われる表現が少なくないと指摘します。この象潟のところでは、例えば「風景一眼の中に尽て、」の「一眼」というのは「一望」が通常使われるので、誤用とみなされてもおかしくない。「東に堤を築て、」には主語が示されていないし、本来自動詞が使われるべきところに他動詞がおかれている。また「海北にかまえて、」通常は言われることがない言い方です。そういう目で象潟の文章を見ていくと不思議な文章と言えるのです。しかし、それだからこそ、他の類をみない破格で大胆な表現となって、強いインパクトを読む者に与えていると言えるのです。それが『奥の細道』のユニークな魅力のひとつとなっている。

象潟や雨に西施がねぶの花

その意味はおおよそ、象潟の海辺に合歓の花が雨にしおたれているさまは、伝承にある中国の美女、西施がしっとりうつむいているさまを想像させる、といったもの。地の文との関連で読めば、前半の夕暮の雨に煙る象潟の風景をみてのものと思えます。引用されていた蘇軾の詩の西子(西施)から、松島の対比で松島が楽しげに笑っているのに対して、象潟は深い憂愁に沈んでいる。寂しさに悲しみまで加わってきて、その土地の有様はこの美女が深い憂いをたたえてうつむいているように見えると地の文の終わりのところで言っているのが、この句の雨の象潟の印象ということです。合歓の花は日暮れ近くに咲いて、翌日の午後には散ってしまう一夜花で、咲きながら大量に散っているイメージがあります。地の文で「象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。」という印象を、この句は「ねぶの花」の詩句に凝縮させている。もしかしたら、西施は春秋戦国時代の呉越の抗争の中で、越から呉に献上されたされた人で、彼女の望郷の悲しみと、象潟はうらむがごとしという印象を重ねて、芭蕉は個人的な感情を込めていたのかもしれません。

●「文月や六日も常の夜には似ず」(越後、直江津)

文月や六日も常の夜には似ず

7月6日、直江津での句です。明日がいよいよ七夕(たなばた)の夜だと思うと、前日の今日七月六日の夜も、何となくいつもの夜とは異なって、夜空のたたずまいも趣深く感じられる、と詠んでいます。

この句や「荒海や佐渡によこたふ天河」の句を詠んだ越後路の説明は、次のような簡略そのものです。

酒田の余波日を重て、北陸道の雲に望。遙々のおもひ胸をいたましめて、加賀の府まで百丗里と聞。鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行を改て、越中の国一ぶりの関に到る。此間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず。

この行程は、「暑湿の労に神をなやまし」とあるように梅雨の蒸し暑さと海岸の単調な行程で、「病おこりて事をしるさず」と書いてしまうような不快さもあったのでしょう。しかし、そのことによって、かえって、天空への思いが切なるものとなり、雨が身に沁みこむように、芭蕉の中に深く浸透していったのではないか。

文月や六日も常の夜には似ず

この句は七夕前日の「六日」の夜空の様相を詠んでいますが、芭蕉は、越後路の単調な行程の中で折々に七夕の事を思いつつ日を重ねてきた。「六日も常の夜には似ず」は七夕前日の空の様子ですが、その日に至るまでの思いの集積としての感慨でもあるでしょう。村上を発ち、出雲崎を経て直江津に入る時間を、星のこと、天空のことにしきりに思いが行っていた。越後路は天空への思いが色濃い旅路であったと思います。

そして、直江津の手前の出雲崎で芭蕉は「荒海や佐渡によこたふ天河」の句を詠んでいます。「荒海や…」の句が天地宇宙の悠久の相をつかみ取った一句であるとするなら、「文月や…」の句は人間の天空へ向かう眼差しと思いを、その憧れと孤愁を把握したものなのです。そこには、旅人芭蕉の感慨の昇華があります。芭蕉が、自らの思いの深さを人間存在への思いへと広げ、深化してゆく気配があります。「荒海や」で天地宇宙の相を顕し、「文月や」では自らの思いを投影した人間の思いを示した、と言えると思います。

●「荒海や佐渡によこたふ天河」(越後、出雲崎)

越後で芭蕉は二句を詠んでいますが、その説明は簡潔です。

鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行を改て、越中の国一ぶりの関に到る。此間九日、暑湿の労に神をなやまし、病やまひおこりて事をしるさず。

文月や六日も常の夜には似ず

荒海や佐渡によこたふ天河

病気のためと断っていますが、9日間かけて通過したという程度で、そのあと二つの句が何の説明もなく、とってつけたように置かれています。そこには書きべきこともあったのだろうけれど、芭蕉は敢えて越後の記述を捨て去ったのではないか(これについて、このサイトにおいて詳しく調べて論証されています)。それは、ポツンと取り残されたように置かれた二句が夜の句であるからです。つまり、芭蕉は、越後での物事を捨て去って空白にしてしまった。つまり、「無」あるいは「闇」「沈黙」です。闇とは夜の暗さに通じます。そこに、二つの句が置かれている。ここで、『奥の細道』の世界は、夜空となり、天に展がり宇宙となり、この沈黙の宇宙を背景に二つの句の星が灯り、天の河が輝き、絢爛たる交響詩を奏でることになるのです。この二つの輝きは、暗闇が深ければ深いほど増していく。暗闇、それは「光」を生む「闇」であり、「音」を生む「黙」であり、「有」を生む「無」です。そういうものの総体としての暗闇が、徹底した省略によって生み出された。すべてが生起し帰結する悠久。その無限と沈黙。そこに、暗闇の中に海が咆哮し、暗闇の中に銀河が光る。動くものは動き、変化するものは変化しつつ、一切が悠久の時の中に存在する。そのことを最も効果的に提示する為に、旅路の詳細を一切「省略」し、そこに大きな暗闇を天空のごとく置いたと言えないでしょうか。

しかし、ここで腑に落ちないのが2点あって、ひとつは「荒海や」という言葉です。慥かに冬の日本海は怒涛のような荒海ですが、季節は七夕で夏です。越後の夏の海は穏やかで、とくに出雲崎近辺は波も穏やかだったからこそ港として繁栄したところです。そんな穏やかであるはずを、この句では敢えて「荒海や」と詠んでいるんです。その理由は、隔てた向こう側の佐渡です。佐渡は順徳院、世阿弥をはじめ多くの文人たちが流された島で、そういった人々の運命のさまざまに思いをよせ、その慟哭を身に引き寄せた芭蕉にとって、「荒海や」という言葉になったのでは。したがって、これは眼前の風景ではなく、芭蕉の心の中で時化ている海なのではないかと思います。それだけにいっそう、眼前の天の川の静かな輝きと、その背後の夜の闇の深さが人の運命を呑み込んでしまうように大きく広がっている。

もう一点は、「佐渡によこたふ」という言い方は文法的におかしいのではないかということです。これは、おそらく、この句は「荒海に佐渡よこたふや天河」というのが、もともとの形ではなかったかと推測した人がいます。それでは、単なる風景句なので、酒田で詠んだ「暑き日」の句と同じく、切れと結びの切り替えによって、いまの形にしたのではないか、と。「荒海や」と切ることによって、芭蕉の思いを乗せた激しさが際立ち、その奥で天の川の人の運命から超然として広がっているという。そして、その奥には、すべてを呑み込み、あるいは、そこからすべてが生まれてくる無限の暗闇が深く沈黙している。読者は、その中に立たされている。そういう句になっていると思います。

酒田で詠んだ「暑き日」の句で芭蕉は、自らの内心も眼前の景も一体となった世界をつくりだしました。それがここでは、その一体となった世界を生み出す根源的で、すべてを包み込むような宇宙があるのではないかと思います。

夏の夜空に天の川が煌く、千古の昔より変わらない風景です。このときの天の川のかかった夜空は、長く深い時間の厚みを通して存在している。例えば芭蕉の見ている時間は、かつて佐渡に流された人々が思いを込めてみた時、その時その時に見た人々の経験の総体を巻き込むようにして、ただ一回限りの極点のように生起しています。それを表わした句を読む人には、その都度、その瞬間がその句に込められた時間の厚み含めて、そのただ一回限りの極点が反芻されるわけです。それは句を介して深い夜空を受け取るということであり、そこには積み重ねられた反芻が余韻のように読者に響いてくる。この句は、夜空にかかった天の川を、そのような一度しかできないような体験させるものであることを読者に気付かせ、それが、天の川を見つめる芭蕉の感慨として伝えられる。

似たようなことは、例えば、リルケは「生きとしいけるすべてのものと一つになる」体験として、文字通り「体験」というエッセイに書き記しています。トリエステのドゥイノの館で、「一冊の本を携えてぶらぶら歩きながら」、「とある小さな樹の、肩の高さほどのところにある叉にもたれかかった」ところが、えもいわれぬ「快いからだの安定と休息とを感じて、本を読むつもりだったことを忘れてしまい」、「自然に身を任せきって、自分でもそれと知らぬまに自然の奥処に見入っていた」というのです。リルケにとって、こういう体験は決して稀ではなく、エッセイの後半では、カプリ島のある館の庭で、鳥の声が「外部の空間と彼の内面とのけじめをわかたず」響き渡った体験を書き記しています。「彼」とはリルケ自身のことで、「そのとき、この星空の仮面にかくれて、宇宙の顔が彼に相対していたのだ。そして彼が、このような経験にいつまでも堪えていたときには、万象が彼の心の澄明な溶液の中で完全に溶けてしまい、彼の体内に全宇宙の味わいがしみわたったほどであった」というのです。神秘体験といっていい。リルケは幼いころからこの種の体験に見舞われていて、それは「陰鬱な幼時をふり返ってみても、このような捨身の時が、宇宙と合一する瞬間が、あったようにおもわれてならなかった」と。

リルケは、心身にしみわたり、内外との境界が溶けてしまうような体験として述べているのに対して、芭蕉の句では。突然、瞬間的に、生々しい感覚として全身で体験する。それが俳句という極端に短い詩句に凝縮して集中しているのです。だから、読者は体験を味わう間もなく、一瞬にして連れて行かれてしまうのです。

●「一家に遊女もねたり萩と月」(越後、市振)

一家に遊女もねたり萩と月

“思いがけなく同じ宿に遊女が同宿し一つ屋根の下で寝ることになった。澄んだ月明かりが萩の花の上に降り注いでいる。”という内容と言えます。この句には、状況の説明が必要で前文のような長い地の文がつけられています。

今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と、泪を落す。不便の事には侍れども、「我々は所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護、かならず恙なかるべし」と、云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし。

少し長くなりますが、見ていきましょう。親不知、子不知、犬戻り、駒返しは越後から市振にいたるまでの海沿いの道の難所です。宿について、隣の部屋から漏れてくる声を聞くともなく聞いていると、どうやらお伊勢参りにゆく新潟の遊女二人と見送りの老人らしい。遊女たちはあす新潟に帰る老人に手紙や言伝をあれこれ託しているようだ。この文の中の「白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなし」という一節は遊女たちの嘆きで、『和漢朗詠集』にある次のような遊女の歌を踏まえたものです。

白波のよするなぎさによをすぐす海人の子なればやどもさだめず   遊女(『和漢朗詠集』)

「白浪のよする汀に身をはふらかし」は、波の寄せる渚にわが身をうち捨て、ということ。「あまのこの世をあさましう下りて」は、波に舟を浮かべて漂う漁師のようによりどころのないこの世に落ちぶれ果てて、ということ。「定めなき契」は、夜ごと異なる相手に身を任せているということ。「日々の業因、いかにつたなし」は、のような罪深い日々を送るようになった前世の因縁はどんなにひどいものだったのだろう、と嘆いていること。翌朝、遊女たちから芭蕉は「伊勢まで一緒に旅をさせてほしい」と頼まれます。「衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」は、墨染めの衣を着ていらっしゃる、その情けによって、仏の大慈大悲の恵を垂れて、仏縁を結ばせてくださいという内容。しかし、この遊女たちの切ない願いを芭蕉は断ります。「神明の加護、かならず恙なかるべし」とは、お伊勢参りゆく人は道中、すでに天照大神に守られているというのだ。そして翌朝、遊女たちは芭蕉に「伊勢まで一緒に旅をさせてほしい」と頼むのでした。「衣の上の御情に、大慈のめぐみをたれて、結縁させ給へ」は、墨染めの衣を着ていらっしゃる、その情けによって、仏の大慈大悲の恵を垂れて、仏縁を結ばせてください、と。この遊女たちの切ない願いを芭蕉は断ります。「神明の加護、かならず恙なかるべし」とは、お伊勢参りゆく人は道中、すでに天照大神に守られているというわけです。

このエピソードは芭蕉の純然たる創作でフィクションということだそうですが、あまりにも出来すぎの物語は、謡曲「江口」の“旅僧が江口の里を通りがかり、ここで西行法師が遊女に宿を断られた話を思い出し、その時の和歌を口ずさむ。すると女が現れ、世を捨てた僧だから、遊女の宿に近寄らないように諫めただけ。「私は江口の君の幽霊」と言って消える。僧が弔っていると江口の君が他の遊女を伴い、舟に乗って現れる。境遇のはかなさ、この世の無常などを語り、やがて普賢菩薩となり、白象となった舟に乗って西の空に消えてゆく。”あるいは、そのもととなった西行の『撰集抄』江口遊女の事“西行が天王寺に参詣するため、江口の里まで来て、遊女の宿に泊まろうとすると断られた。そこで「世の中を厭ふまでこそ難からめ 仮の宿りを惜しむ君かな」とつぶやく。すると「世を厭う人とし聞けば仮の宿に 心とむなと思うばかりぞ」という返歌がきた。”になぞらえているかもしれません。

一家に遊女もねたり萩と月

伝統的な和歌の世界では、「萩」は、ふつう「鹿」と取り合わせ、恋の心を重ねて詠み継がれてきました。萩を鹿の妻と見なしてきたのです。それに対して、「萩」を「月」と取り合わせたところに、和歌のパターンをひっくり返した俳諧のパロディの笑いがあるといえます。「月」は和歌の世界では、仏教的な悟りや清浄感、清らかさの象徴として詠まれてきています。芭蕉は遊女と一つ家に泊まり合わせながら、「遊女」を象徴する「萩」に、「鹿」のように萩を慕い啼く恋の涙を注ぐ代わりに、仏のように、清らかな慈愛の光を注いでいるのです。

後に蕪村が、おそらくはこの芭蕉の句を心に置いて、

萩の月うすきもののあはれなる

と詠んでいるように、なめかしい女性を思わせる萩の上を、うっすらと照らす月の光、淡い慕情と宗教的慈愛の入り交じった情感には、深い、もののあはれが、漂っています。地の文の最後で、「哀さしばらくやまざりけらし」と言っているのは、そうした芭蕉の、深い人間的な愛と悲しみから出た言葉といえるのではないでしょうか。西行の江口遊女の事が男女の粋でユーモラスなやり取りになっていたのと、対照的に芭蕉の場合は悲劇的な色合いが強くなっていて、二人の資質の違いが、ここで明らかに出ていると思います。

●わせの香や分入右は有磯海」(加賀、那古の浦)

くろべ四十八が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出。担籠の藤浪は、春ならずとも、初秋の哀とふべきものをと、人に尋れば、「是より五里、いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、蜑の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿かすものあるまじ」といひをどされて、かヾの国に入。

わせの香や分入右は有磯海

北陸の豊かな早稲の香りに包まれて加賀の国に入っていくと、右側には(行くのを断念した)歌枕として知られる有磯海が広がっている、という内容でしょうか。前文の括弧の行くのを断念したというのは、句の前書の地の文で「蘆の一夜の宿かすものあるまじ」といひをどされて」と、つまり、行く先には泊めてくれる宿もない」とおどされ、断念と書かれていることからです。芭蕉は歌枕で有名な有磯海に行きたいけれど、行くことができなかった。これは、この前の市振で遊女から旅の同行を求められて断ったことと、気分がつながっているのではないでしょうか。片や、望みを叶えてやりたかった図画断った、片や、行きたかったけれど断念した。市振の最後で「哀さしばらくやまざりけらし」と書いていた気分を、ここまで引き摺っていた、と考えてもいいのではないでしょうか。

有磯海というのは本来は普通名詞で荒磯海だったのが古歌に詠まれてから固有名詞化し、歌枕になったといいます。

かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波も見せましものを    大伴家持

越中に赴任して間もない少壮の国守であった家持が、都から弟死去の報を受け、悲嘆のうちに詠んだ歌の一つであで、「こんなことになると知っていたら、越の海の荒磯(ありそ)に寄せる波を見せてやったのに」と痛恨の情をうたっているものです。ここにも出来なかったことの悔いが織り込まれています。富山湾に流れ込む庄川の西北が、このような荒磯で、反対の東南側が那古の浦は波穏やかな海で、こちらも歌枕として知られているそうです。

あゆの風いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟漕ぎ隠る見ゆ    大伴家持

芭蕉一行は、このあたりを日盛りのなか歩いてきて海山の迫る地形から解放されて、おだやかな浜に出ました。そこから加賀に入っていくわけです。

わせの香や分入右は有磯海

ここで、芭蕉は有磯海、つまり荒々しい磯へは行かず、「わせの香や」と「分入」というやわらかく響く言葉をもちいています。那古の浦は和の浦ともいい、和のイメージを募らせています。それは、この先の加賀の国の金沢には自分を心待ちにしている人たちがいるのであり、そのことに安堵するとともに、心弾むような思いが、ここに表われていると思います。

●「塚も動け我泣声は秋の風」(金沢)

芭蕉一行はお盆に金沢に入ります。金沢の若い俳句熱心な商人一笑と会うのを芭蕉は楽しみにしていましたが、前年の冬になくなっていました。その初盆で追善の句会が開かれているに、芭蕉も出席します。

卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日也。爰に大坂よりかよふ商人何処*と云者有。それが旅宿をともにす。一笑と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬、早世したりとて、其兄追善を催すに、 

塚も動け我泣声は秋の風

塚も動け。弟子の死をいたんで私の泣く声は、秋風となって塚の上を吹きめぐる、といった内容で、「塚も動け」という慟哭のような言葉が強い印象を残します。芭蕉は、風の音を自身の泣き声として、句を読む者に聞かせています。「塚も動け」と。「塚も動け」という上句には、一笑の死に対する否定の念が強く感じられます。故人が墓に納まることを拒むような響きがあります。

一笑の追善の句会で詠まれたからかもしれませんが、そこに演技しているような、悲しみを煽るようなところがあると思います。『奥の細道』が終盤に入ってきて、別れを詠んだ句が増えてきているという雰囲気をつくるのに、この句もつかわれているのかもしれません。

●「あかあかと日は難面もあきの風」(金沢)

この句の前書に途中吟と書かれていて、金沢の記述があって、この句が置かれ、その後に小松の記述が続くので、金沢から小松への道中で詠まれたような体裁となっていますが、日記では金沢に至る道中で詠まれたものらしいです。『奥の細道』を制作するプロセスで、様々な前書が作られ、構成とともに検討され、置く場所も金沢の後に移して、現在の形に収まったそうです。その理由として考えられるのは、金沢の前にすると、「わせの香や分入右は有磯海」の句に続くことになって、この句を続けると、「わせの…」の優雅な句が霞んでしまうことになってしまう。また、金沢の「塚も動け…」の慟哭の句の後で「秋涼し…」という続きのあとにつけると、一手後押しして趣向を印象的にできる。いかにも、『奥の細道』が創作であって、いかにそれらしく読ませるかを熟考して作られていることを示していると思います。

それだけ、この句の印象が強くて、この置き方によって全体の印象が変わってくるほどだということを、芭蕉自身も把握していたからこそなのでしょう。

途中唫

あかあかと日は難面もあきの風

立秋も過ぎたというのに、夕日は相変わらず素知らぬふうに赤々と照りつけ、残暑はきびしいが、さすがに風だけは秋の気配を感じさせる、だいたいこのような意味でしょうか。この句は古今集の藤原敏行朝臣の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」を踏まえた句であるように言われています。この和歌と同じように、「秋の風」を題材にしているのですが、芭蕉の句には多様なイメージの重なりが感じられるのではないでしょうか。それは、芭蕉の句には旅をしている実感が伴っているからです。

「あかあかと日は難面も」は「あかあかと」という繰り返しをすることで、擬音のような効果で、昼間に歩き続ける旅人にたいして太陽が容赦なく照りつける景を強く印象付けます。秋とはいえ、日の光は強いのです。だから「難面も」、つまりつれないのです。つれないを辞書で調べると、冷淡だ、ままならない、何事もない、などの意味があります。つまり、太陽は、旅人の辛さなどお構いなしに、強く照りつけてくる。旅人には、どうしようもない。これが、太陽が出ている間は変わらない。そういう光景です。そのつれない太陽に、夕暮になると秋の風が涼しさを感じさせる。「難面も」という詩句の「も」という一文字が、そこに旅人のほっと一息つく感慨を含ませています。

それと同時に、と同時に、月日の過ぎ去るのは早く、もう秋になってしまったのかという不安感や焦燥感も表れているのではないでしょうか。藤原敏行朝臣の和歌とは違って、「秋の風」は安堵でもあり、不安でもあるというような多様なイメージの重なりが感じられると思います。

旅人とは芭蕉自身ですが、旅をしているからこそ、深読みができる。つまり、春先から旅を始めて、夏中、暑い陽の下を彼は歩き続けてきたわけです。夏の太陽は薄情にも、長旅に疲れ、もう若いと言えない彼をジリジリと照らし辛い思いさせてきました。それが今は、次第に吹き始めた涼しい秋の風が彼をほっとさるようになってきました。四季を通して旅を続けている者にとって、あかあかとした夏の太陽はままならないもののひとつ。だがそれも、時が来れば秋の風に取って代わる。寒くて寂しい秋の風が、今度はままならないものになるのだ。本当は過ぎ行く時(日)が一番ままならないものなのかも知れないのです。日毎に季節は動いている。市井の日々は何事もなく過ぎていくようだが、旅をしていると、その変化が身に沁みて感じられ、旅の中で暑い夏を終え、旅の中で秋を迎えている。夏が終わったら、今度は寒い冬がやってくるのだ。そういう時の経過と季節の変化の多層なイメージが、この短い句の中に込められて、まるで旅人の孤独な述懐のようにしんみりと読者に浸透してくる。そういう句になっていると思います。

●「むざんやな甲の下のきりぎりす」(小松、太田)

むざんやな甲の下のきりぎりす

この句は、一句は、木曽義仲の家臣樋口次郎が、実盛の墨に染めた白髪首を検分し、「あなむざんやな」と落涙した、その言葉をそのまま裁ち入れ、甲の下の暗がりで鳴くこおろぎの悲しげな声に、実盛をいたむ思いを託したものです。それには経緯の説明がないと「むざんやな」や「甲」が何だか分からないでしょう。

此所、太田の神社に詣。実盛が甲・錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ、 竜頭に鍬形打たり。真盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁起にみえたり。

この経緯は詳しく説明したほうがいいでしょう。この太田神社(現在の多太神社)には斉藤別当実盛の遺品が宝物として保管されています。この斉藤実盛という人は、もともともは源氏方の武将で、保元・平治の乱では源義朝に従い、平治の乱で敗れて東国へ落ちのびようとした義朝が比叡山の荒法師に待ち伏せされた時、一計をもって窮地を救ったひとです。その後、縁あって平家に仕えることになりました。その後の源平の争乱での実盛の最後は『平家物語』に詳しく記されています。倶利伽羅峠で木曽義仲の軍に大敗し、押し戻された平家の軍勢は加賀の篠原で義仲を迎え撃とうとしたが、ここでも惨敗し手てまいます。この敗走する平家の軍勢の中に実盛の姿もありました。このときの実盛は既に70歳を過ぎた白髪の老人でしたが、「老武者とて、人の侮らんも、くちをしかるべし」と、白髪を墨で黒く染め、「赤地の錦の直垂に、萌葱縅の鎧着て、鍬形打つたる甲の緒をしめ、金作りの太刀を帯き、二十四さいたる切斑の矢負い、滋藤の弓持つて、連銭葦毛なる馬に金覆輪の鞍置いて乗つたりける」という若武者の出で立ちで出陣していました。しかし、実盛はあっけなく義仲軍に討ち取られてしまいます。戦がおわって首実検の際に、その討ち取られた首に義仲は見覚えがありました。赤ん坊のころ、父が討たれたとき、しばらく実盛のもとで養われていたことがあったからです。しかし、実盛は、そのころから既に「白髪の糟生」つまり白髪混じりの髪でした。今なら髪は真っ白のはずなのに、目の前の首は髪が黒々としています。そこで、義仲は乳兄弟の樋口次郎兼光を呼んで、首を検分させました。「樋口次郎たゞひと目見て、「あな無慚、斉藤別当にて候ひけり」とて、涙を流す」。兼光の言うとおり、その首を水で洗うと、白髪の実盛の顔が現れた。

むざんやな甲の下のきりぎりす

「むざんやな」の対象は甲の下のきりぎりすではなく、平家物語でこの同じ言葉を吐いた兼光がそうだったように、若武者を装って出陣した斉藤実盛の最期に対してです。きりぎりすは、そのきっかけを作るものです。「甲の下のきりぎりす」は眼前の景で、それを見たか芭蕉は、それによって「むざんやな」という言葉を吐いてしまう実盛を思い起こした。この句でも外景と芭蕉の心の中の光景がシンクロしています。「甲の下のきりぎりす」というのは、おそらく、置かれていた甲を取り上げたか、覗き込んだので、こおろぎをみつけたのでしょう。その手振りは、まるで合戦の後の首実験において首桶を取り上げるしぐさと同じようで。そうすると、平家物語では首桶を取り上げると黒髪の実盛の首が現れたわけですが、ここでは甲を取り上げると全身が黒いコオロギの姿があったという趣です。なお、古語では「きりぎりす」は現代のコオロギのことです。おそらく、この句で芭蕉が吐いた「むざんやな」は実盛に向けられたものでしょうが、それだけでなくて、その向こうの遙か、つまり、その実盛を討ち取った木曽義仲に対しても向けられていたのではないでしょうか。

●「石山の石より白し秋の風」(小松、那谷)

石山の石より白し秋の風

小松を出て、山中温泉の手前、西国三十三箇所巡礼の札所にもなっている那谷寺で詠んだということになっています。奇岩がならぶ名所だったらしく、次のように地の文で説明されています。

山中の温泉に行ほど、白根が嶽跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇、三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷と名付給ふと也。那智、谷汲の二字をわかち侍しとぞ。奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也

この句は、那谷寺の境内は、石の山といってよいほど、灰白色の岩ばかりである。そこに秋風が吹きわたると、いっそう白い感じになる、という内容でしょうが、この解釈をめぐって二つの説があるといいます。一つは冒頭の「石山」を近江の石山寺とする説で、この那谷寺の石は近江の石山寺の石より白い。そこを秋風が吹きわたっているという内容になります。この解釈では「石山の石より白し」の主語は句の直前の地の文にある那谷寺の石です。つまり、この句を「石山の石より白し」と「秋の風」の取り合わせと見るのです。もう一つは、「石山」を那谷寺にある石山とする解釈です。この解釈では、那谷寺の石よりもさらに白い秋風がこのあたりを吹いているという内容になり、「石山の石より白し」の主語は「秋の風」となります。しかし、前者の解釈では、主語が句の中になくて、その前の地の文にあるというのでは、そもそもこの句が独立して成立していないことになるし、地の文でも石山寺については何も触れられていません。したがって、前者の解釈は無理があるのではないか。そうすると、残った後者の解釈ということになるのでしょうか。那谷寺の石山よりも白い秋の風が吹くということになって、白い秋というのは五行説による、青春、朱夏とならぶ白秋から来ているということで、その白がより白いといったのは、秋が深まっているのを強調しているということになると思います。

しかし、那谷寺の石山よりも白い秋の風という内容であれば

石山の石より白き秋の風

と白が秋の風を修飾するようにしたほうが、ストレートです。この句は、「石より白し」として「し」は切れ字です。したがって、「白し」と「秋の風」とは区切られていると考えるのが自然です。例えば、今、那谷寺にいて眼前の岩山の石より白いなあ、と芭蕉が思っている。それは秋の風に吹かれて、そう思ったと考えられないでしょうか。蝉の声を聞いて、無のような静寂を思ったというのと同じ構造です。では、白いというのは何を想ったのかというと、この那谷寺の直前の小松の多田八幡のことです。そこで遺品を見た斉藤別当実盛の白髪です。ここで

むざんやな甲の下のきりぎりす

の句が遠く呼応している。きりぎりすは現代語ではコオロギです。コオロギは全身が黒いのですが、芭蕉はそれを白髪を黒く染めた実盛に見立てたわけです。この句では二つの白を比較しているのは、実盛の白髪が視覚を超越した幽玄の気配として思い起こされていることを表わしているのではないでしょうか。

そうなると、この句は秋の風が深い空しさを芭蕉の中に生じさせるという趣になってくると思います。

●「寂しさや須磨にかちたる浜の秋」(敦賀、種の浜)

寂しさや須磨にかちたる浜の秋

敦賀湾の北西の種の浜(現在の色の浜)で読んだ句とされています。その内容としては、光源氏が配流された須磨は淋しい場所として知られるが、ここ種の浜は須磨よりはるかに淋しいことよ、と言えるでしょう。

須磨は『伊勢物語』の行平、『源氏物語』の光源氏の隠栖、流謫の地として、王朝文学の“あわれ”を代表する地名です。この句の「須磨にかちたる」というのは、この種の浜の秋の風情は須磨に勝っているということ。「かちたる」という勝ち負けの身も蓋もない言い方をしていますが、婉曲的な表現ではなくストレートに言ってしまうのは、句の冒頭の「寂しさや」という芭蕉の気持ちをそのまま直接的に表わす表現とつながっていると思われます。それだけ、この句は芭蕉の思いが迸るように流れ出た句と言えます。この句は、「寂しさや」で切れているので、「須磨にかちたる浜の秋」が現実の眼前に広がっている世界で、そこで寂しさを覚えた。そして、「寂しさや」を冒頭に持ってきたことで、強調している、という構造になっています。

その「寂しさや」の内容を少し穿ってみると、「須磨にかちたる」と言っていますが、芭蕉自身が須磨の浜を実際に見たのは貞享5年4月20日のことで、『笈の小文』のなかで回想しています。

月はあれど留守のやう也須磨の夏。

月見ても物たらはずや須磨の夏。

卯月中比の空も朧に残りて、はかなきみじか夜の月もいとゞ艶なるに、山はわか葉にくろみかゝりて、ほとゝぎす噴出づべきしのゝめも海のむかたよりしらみそめたるに、上野とおぼしき所は、麦の穂浪あからみあひて、漁人の軒ちかき芥子の花のたえゞに見渡さる。…

(卯月中ごろの空だが、朧な春の夜の風情を残している。はかない短か夜の夜の月もいっそう艶やかに、山のわか葉は早朝の景色の中に黒っぽく見え、ほととぎすが鳴き始めそうな東の空も山ではなく海の方角からはやくも白みかかってくる。須磨寺一帯の上野と思われる所は、麦の穂波が赤らんで、漁師の家の近くには芥子の花が途切れ途切れに見える。)

…かゝる所の秋なりけりとかや。此浦の実は秋をむねとするなるべし。かなしささびしさいはむかたなく、秋なりせばいさゝか心のはしをもいひ出べき物をと思ふぞ、我心匠の拙なきをしらぬに似たり。

(「かかる所の秋なりけり」と『源氏物語』にも書かれている須磨の浦の趣深さよ。この海岸の味わい深いのはやはり一番は秋だ。悲しさ、寂しさ、言い表しようもなく、秋なのだから少しは心の端をも句にしようと思ったのは、自分の心を句にする表現力のつたなさをわかっていなかったようだ。)

この回想の風景と、この句の風景を比べて「須磨にかちたる」と言っているのでしょう。この回想では実際に見た風景から理想の風景を想像しています。それを句にすることが出来なかったという回想です。そういう須磨の秋に勝る光景を眼前に見た。それは、種の浜の秋色を賞めている以上に、『笈の小文』のなかで回想されたような須磨の秋に寄せる長年の思いも叶えられたと告げる気持ちがあり、叶えられても猶、末の身は如何ともしがたいという悲哀が余る。ということで、この句の「寂しさや」は眼前の光景に触発されたというだけではないのです。それゆえに、同じ『奥の細道』の中でも、「閑さや岩にしみいる蝉の声」や「荒海や佐渡によこたふ天河」といった句のような宇宙的な拡がりではなく、芭蕉個人の内心の思いに深く呼応したのです。それが、この句の直情的な表現となって表われている。

その一方で、『奥の細道』の旅は、この後の大垣で終わります。したがって、この浜の秋の風景は旅の最後の情景といっていい。「耳に触れていまだ目に見ぬ境、もし生きて帰らば」と願って発足した、この旅の、いわば結論、到達点といっていい。それが北国の風土の寂しさの極致ともいうべき、漁師の小家の点在する浜辺の夕景でした。“詫び”“さび”といいうと、こじつけかもしれませんが、長い旅が終わるという寂しさに、種の浜の寂しさがシンクロした、それだけ身に沁みる。そこも芭蕉個人の思いとして表われているのではないかと思います。

●「蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ」(大垣)

露通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子・荊口父子、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、 

蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

芭蕉が大垣に集まった親しい人々との別れに臨んで詠んだ『奥の細道』最後の一句です。長い旅を終えた芭蕉のところに門人等の人々が集まってきます。前書で、「蘇生のものにあふがごとく」と書かれているのは、死んだと思った者が生き返って帰ってきたという、ややオーバーな表現かもしれませんが、それだけ困難な旅路であったことと、『奥の細道』という歴史や和歌といった幻想の世界から現実の世界に戻ってきた、ということでしょうか。しかし、芭蕉はひとつのたびが終わって落ち着く間もなく、伊勢の遷宮を見るために旅立ちます。その旅立ちで、集まった人々と別れることになります。その際に詠まれたとされる句です。

『奥の細道』の旅立ちの時の句が

行春や鳥啼魚の目は泪

芭蕉は『奥の細道』の旅立ちに当たって、深川から見送りの人々と舟で隅田川をさかのぼり、千住で舟から降りると、別れに臨んでこの句を詠みました。そして、終わるに当たって、大垣で舟に乗り、人々と別れ旅立ちます。「行春」の季節の別れの中で人々と別れ、「行く秋」の季節の別れの中で人々と別れ旅立って行く。『奥の細道』という作品が、旅立って、旅を終えて家に帰るところで終わるのではなく、再び旅立つところで終わります。まるで旅はずっと続く、人生は旅なのだ、といっているように読めます。それを計算して作品の構成を考えている。そういう目で全体を見ると「行春」と「行く秋」の照応を底辺に、五月雨の奥羽山脈を分岐点(頂点)とする前半と後半を両辺にとる二等辺三角形の構図とみることができると言います。前半はみちのく歌枕を訪ねての旅で、後半は出羽から北陸をまわって宇宙的な境地にいってしまう。その間の照応関係としては、例えば前半の松島に対して後半の象潟が平泉に対しては出羽三山がというように照応するように配置されている。

「行春や…」の句と「蛤のふたみに…」の句は、その構成の一環として一対のようになっている。「行く秋」どちらの句も別れの句であり、舟にかかわりがあり、背後に川が流れています。このように、『奥の細道』の最初と最後の句にはいくつかの共通点があるのですが、その詠みぶりには大変な違いがあります。「行春や…」の句は「鳥啼魚の目は泪」といい、やや大げさな悲壮感のような芝居がかった感じがするが、「蛤のふたみに…」の句には、そういう構えたところがありません。別れは辛いけれど、その辛さを分かった上で、それを感じさせなくする工夫をしています。

蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

「蛤のふたみにわかれ」で、蛤で有名な二見が浦(伊勢)に行くので皆と別れるということと、蛤が蓋と身の二身に分かれるということに掛けている言葉の遣い方です。蓋と身に分かれるのは蛤にとって身を裂かれることであり、蛤は耐えがたい痛みを感じているはずで、私(芭蕉)もその痛みに耐えて皆さんとここで別れるという。つまり、別れの辛さはあるのです。しかしまた、二見が浦に蛤を結び付けたのは、西行の次の歌を踏まえているからです。

今ぞ知る二見の浦のはまぐりを貝合せとて覆ふなりけり   西行(『山家集』)

ふたみの蛤を貝合わせに興じている。つまり、別れた貝を合わせている。別れだけではないのです。新たな出会い(合せ)を含んでいるのです。この句では離別の情を蔽って、なお、この後でめぐり合うものへの期待の念が強い。

このように、『奥の細道』という作品は、旅が終わって完結したという作品でなくて、新たに出会いに期待して再び旅立つところで終わります。