「ルノワールの女性たち」2 第一回印象派展①「踊り子」
のちに「印象派」と呼ばれることになる若い画家たちは、1859年から62年のあいだに、パリのアカデミー・シュイスとグレールのアトリエで出会った。アカデミー・シュイスは自由な私塾で、貧しいが学生たちがモデルつきで自由に絵を描くことのできる場だった。ここにはモネ、ピサロ、セザンヌらが通っていた。一方、スイス人画家グレールの主催する私塾では、ルノワール、モネ、バジール、シスレーらが学んでいた。この二つのグループを結びつけたのはカフェ・ゲルボワ。パリのバティニョール街にあったこのカフェには、革新的な画家マネが足繁く通っており、彼を敬愛する若い芸術家たちが集まっていた。しかし、この交流は1870年に勃発した普仏戦争とパリ・コミューンで一時中断されてしまう。
そして1873年12月、一つの共同出資会社が設立された。年60フラン払えば平等な権利を持つことができる組織で、無審査の展覧会の開催、作品の販売、美術雑誌刊行の三つを目的に掲げていた。中心メンバーには、ピサロ、モネ、ルノワール、シスレー、ドガが名を連ねた。1874年4月15日から5月15日まで、パリのカピュシーヌ大通り35番地で「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社の第一回展」が開催された。これがのちに「第一回印象派展」と呼ばれることになるグループ展である
【作品3】「踊り子」1874年 ワシントン・ナショナル・ギャラリー
この作品は1874年の第1回印象派展に出品された。この主題は、ルノワールよりはむしろドガにふさわしいが、ルノワールは、あれほどドガを魅了した踊り子の動き、態度、身振りの把握よりも、彼女の個性をつかまえることにより強い興味を抱いた。また、ドガがデッサンの方に執念を燃やしたのに対して、ルノワールは光の戯れをなんとかして捉えようと最大限の力を注いでいる。彼はおびただしい筆触を用いて(リボンと飾り帯の青、ピンクの靴、首の黒いリボンに響き合うのは黒いブレスレット)、コスチュームのやわらかな生地の上の光の戯れのように、もっと微妙な色彩の変化を探求している。
この作品はここにはルノワールの人物に対する関心、特に女性像に対する関心が示されている。この若く、いくぶんふっくらした少女は、ドガが『踊りの稽古』(個人蔵)のなかで描いている大勢の踊り子たちの表現とは対照的である。彼女は意識してポーズをとっており、薄く透き通ったチュチュは、ブレスレットや首の黒いリボン、そして髪の淡い青のリボンと、注意深く組み合わされている。
そのポーズとぼんやりとした空間によって、この絵はマネがスペインの踊り子を描いた作品『ローラ・ド・ヴァランス』(オルセー美術館)と関連付けられるが、色の使い方はマネの絵に比べてはるかに繊細で抑制されている。首の黒いリボンは、少女の色白の肌と赤毛の髪を強調し、似たような明るい色調でカンヴァスが満たされることによってそれが単調になるのを防いでいる。
この作品は、ルイ・ルロワの愚弄と酷評の対象となった。
「もっと上手にデッサンすればいいのに、なんと残念なんだろう。バレリーナの足はチュチュのボイル地と同じようにたるんでいる」
しかし、全体としては1874年の展覧会を論じた批評家たちから好意的に受け止められた。彼らはこの絵を「優美で」「魅力的で」「調和的」な作品だと書いた(その後も展覧会に出品され、ルノワールのパトロンの獲得に貢献することになる)。プルヴェールは左翼新聞『ル・ラペル』で、こう評している。
「彼の若い踊り子は魅力的な肖像画である。濃い赤褐色の髪の毛と、あまりに青白い頬、赤すぎる唇とによって、彼女はテオドール・ド・バンヴィルがその『パリの女たち』のなかで、実に残酷に描写した13歳の少女を思わせる。幼いころからの練習で、彼女の脚はすでに太くなり、バラ色の繻子の靴の中の足先はとても可愛らしいとはいいがたい。しかし、かぼそく長い腕は、子供のものだ。そして少年のような胸の下に青いベルト、初聖体のベルトが、バレリーナの膨らんだスカートの上に垂れ下がっている。まだ小さな女の子だろうか。多分、もう女か。おそらくそうだ。無垢な娘か?――いや、決して」。
ルノワール「踊り子」1874年 ワシントン・ナショナル・ギャラリー
ドガ「踊りの稽古」1878頃 個人蔵
マネ「ローラ・ド・ヴァランス」1862 オルセー美術館
ルノワール「画家シスレー」1864
ルノワール「クロード・モネの肖像」1875
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