阿倍仲麻呂
https://sekainorekisi.com/glossary/%E9%98%BF%E5%80%8D%E4%BB%B2%E9%BA%BB%E5%91%82/ 【阿倍仲麻呂】 より
阿倍仲麻呂 文武天皇2(A.D.698)年頃〜宝亀元(A.D.770)年
717年に留学生として入唐。唐朝に仕官して、開元の治を行う玄宗皇帝に重用され、李白らと交友。唐名朝衡ちょうこう。753年、帰国途中で風波に遭い帰れず、藤原清河らと唐に留まり長安で死去した。
阿倍仲麻呂
717年に留学生として入唐。唐朝に仕官して、開元の治を行う玄宗皇帝に重用され、李白らと交友。唐名朝衡ちょうこう。753年、帰国途中で風波に遭い帰れず、藤原清河らと唐に留まり長安で死去した。
「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に出でし月かも(阿倍仲麻呂)」
月百姿(阿倍仲麻呂の歌)
唐で生涯を終えた遣唐留学生
遣唐留学生けんとうるがくしょう。唐名は朝衡ちょうこう。717(養老1)年、吉備真備らとともに渡唐。753(天平勝宝5)年、帰国の途中で船が難破したため、再び唐にもどり、玄宗(唐)に仕えた。李白・王維ら唐の文人と交際して文名が高かった。在唐54年、異境の地で生涯を終えた。
律令国家の形成
遣唐使
多くの犠牲を伴いながら入唐した遣唐使たちの一部は、唐の長安におもむいて先進的な政治制度やインド・西アジア・西ヨーロッパにまで及ぶような周辺諸民族が集まる国際的な文化を吸収することができた。遣唐使の中では、長期にわたって唐で学んだ阿倍仲麻呂あべのなかまろ・吉備真備きびのまきび・玄昉げんぼうらが名高い。
阿倍仲麻呂・藤原清河ふじわらきよかわは帰国することができないまま玄宗(唐)の寵を受けて高官に上り、結局、唐で死去した。無事に帰国できた吉備真備や玄昉は、20年近い在唐中に得た新しい政治・軍事・文化・仏教などの知識や文物を日本にもたらし、奈良時代の文化に大きな影響を与えるとともに、聖武天皇に重用されて政界でも活躍することになった。
遣唐使の苦労
732(天平4)年に任命され翌年唐に渡った遣唐使の帰路は、苦難の道のりであった。任を終えて734(天平6)年10月に帰国するとき、長江河口を出発した四船は暴風に遭い散り散りとなった。 大使の船は同年11月に種子島にたどり着いたが、副使が帰着して帰国報告をしたのは遅れて736(天平8)年8月のことであった。判官の平群広成へぐりのひろなりら115人が乗った船にいたっては、東南アジアの崑崙こんろん国に漂着して兵に捕らえられて殺されたり、逃亡したり、90余人が疫病で死に、平群広成ら4人のみが生き残り、崑崙王の元に拘留されたのである。
735(天平7)年、唐から帰国した崑崙人商人の船に潜り込んで唐に戻った平群広成らは、玄宗(唐)に信任されていた阿倍仲麻呂のとりなしを得て、今度は渤海国経由で帰る許可を得、738年5月、渤海国にいたった。そこで渤海王に帰国を懇望し、渤海からの遣日本使の予定を早めて日本に送り届けてもらうことになった。しかし、その船も波浪に遭って1隻が転覆し、渤海使節の大使ら40人が日本海に沈んでしまった。平群広成らはようやく出羽国に到着し、奈良の都に戻ったのは、739(天平11)年10月のことであった。しかも、残る1船についてはまったく消息が伝わらない。たまたま大使の船で帰国できた玄昉げんぼうや吉備真備きびまきびが、その後活躍したことと明暗をなす話である。
唐文化の波及と東アジア諸国
日本のヤマト政権では氏姓制による豪族を中心とする支配が続いていた。6世紀になると豪族間の対立抗争が表面化した。6世紀末に推古天皇の摂政となった聖徳太子は、十七条憲法を制定するなど諸制度を整備し、小野妹子らを遣隋使として派遣し、積極的に大陸の新しい知識や仏教を取り入れようとした。
聖徳太子の没後、政権は蘇我氏によって壟断ろうだんされたが、中大兄皇子(天智天皇)・藤原鎌足らによって蘇我氏が打倒され(大化の改新 645)これを契機として、中央集権的な律令国家が形成されることとなった。中国文化を輸入するためさかんに遣唐使が派遣された。なかには阿倍仲麻呂あべのなかまろ(中国名:朝衡ちょうこう)のように唐(王朝)朝廷に仕えて高官(安南都護)になるものもあった。 8世紀、大宝律令(701)や養老律令(718)の制定、唐都長安を模した平城京(710)や平安京(794)の建設は、律令国家の完成を示すものであった。
文化面では、白鳳文化(7世紀前半)・天平文化(8世紀)など、仏教や中国の文化的影響の強い文化が形成されたが、9世紀後半、唐(王朝)混乱により、遣唐使が廃止されると、貴族的要素の強い国風文化が形成されていった。