円仁「入唐求法巡礼行記」
http://redbird.no-ip.info/Archives%5CLife_log/061102%E5%85%A5%E5%94%90%E6%B1%82%E6%B3%95%E5%B7%A1%E7%A4%BC%E8%A1%8C%E8%A8%98.html 【円仁「入唐求法巡礼行記」】 より
「入唐求法巡礼行記」という書物のあることを知った。題名からして難しそうな感がなくもない。僧侶の書いたものらしいことも分かる。
だが、聞けば、この書物は、玄奘の「大唐西域記」やマルコ・ポーロの「東方見聞録」と並んでアジアの三大旅行記とも言われると云う。そんな旅行記を日本人が書き残していたとはまるで知らなかった。さっそく興味がわいてきた。
どういう書物なのかと云うと、9世紀の高僧、円仁(えんにん、慈覚大師)と云う僧が、遣唐使の一行に加わって唐に渡って帰国するまでの9年間の旅行記らしい。円仁は、第19次遣唐使船に乗って唐に渡っている。838年のことである。これは実質的に最後の遣唐使だった。実質的というのは、このあと第20次の遣唐使が中止になり、以後派遣されなくなったからである。
玄奘やマルコ・ポーロの本は旅行から帰った後、口述筆記してできたものだが、円仁のものは旅行の途上、日々自ら書き誌したものらしい。いわば旅の日記であるから、当然ながら内容が新鮮な筈だ。思い違いも少ないだろう。そこに期待がもてる。
遣唐使として唐に渡った日本人は数多くいる。阿部仲麻呂を始めとして吉備真備といった政治家もいれば、鑑真を招聘すべく苦労した栄叡や普照といった僧侶もいる。無事に帰国できたのもいれば、そうでない者もいる。おそらく、帰国できたのはほんの一部だろう。
帰国しなかった者の中には、船の遭難で命を落とした者が多いだろうが、漂流先で現地人に殺害された者もいるし、還俗して妻帯し、そのままかの地の土になった者もいる。
ほとんど話題にもならないが、彼ら遣唐使を唐へ運ぶべく苦労した船員たちの存在も忘れてはならない。おそらく数から云えば彼らの犠牲の方がはるかに多いだろう。名もなく記録に残ることもなく、遣唐使たちの捨石になった彼らの存在を忘れることはできない。
遣唐使は「留学生」と云う身分だが、その期間はやたらと長い。たいていは10年、20年という長期間にわたる滞在生活が普通なのだ。そもそも遣唐使の派遣自体が20年おきくらいだから、一度渡れば次の20年後の遣唐使船で帰るのを待つ以外、帰国できる手段はほとんど期待できないのだからどうしようもない。 たまに別便で帰国できる機会があるにすぎない。
その上、航海の安全はほとんどなく、留学期間も長期に亘るとなれば、ほとんど人生を左右する事態と言っていいだろう。実際、遣唐使に選ばれたものの行くのを嫌がって逃亡した挙句、処罰された人もいる。
彼らは、当時の先進国である唐で、いったいどんな生活を送っていたのだろうか? どんな暮らしをしていたのか? どんなものを口にしていたのか?
旅行記が面白いのはそういう記述があるからだと思うが、円仁の「入唐求法巡礼行記」にはそういうことを期待できるのではなかろうか。
http://haijimadaishi.com/nyoirin/%e6%85%88%e8%a6%9a%e5%a4%a7%e5%b8%ab%e5%86%86%e4%bb%81%e8%ae%83%e4%bb%b0%e3%80%8c%e5%85%a5%e5%94%90%e6%b1%82%e6%b3%95%e5%b7%a1%e7%a4%bc%e8%a1%8c%e8%a8%98%e3%80%8d%e7%a0%94%e7%a9%b6/ 【慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その1-】
はじめに
慈覚大師円仁「入唐求法巡礼行記」は、その概略を本誌『如意輪』の「元三大師のお話し」で紹介したことがある。しかし、最近各方面から「入唐求法巡礼行記」が取り上げられ、その中には著しく事実を誤り、それが慈覚大師御自身のお気持ちを全く理解していない説明が行われていることを眼にするにつけ、それは大師讃仰とは全く逆、大師の壮挙の価値を無にする由々しき事態であると思い、慈覚大師円仁讃仰の気持ちから「入唐求法巡礼行記」研究というべきその詳細な紹介を企図した次第である。研究は二部構成でまず、第一部では「入唐求法巡礼行記」の忠実な現代語翻訳・訳註、第二部で慈覚大師円仁の仏教とその時代ということにしたい。大方の御批判を願うところである。
『入唐求法巡礼行記』巻一
承和五年(八三八)六月十三日、午の時(昼の十二時)、第一・第四両舶遣唐使は舶に駕る。順風が無く、(那津に)停宿すること三箇日。
十七日、夜半、嵐風を得、帆を上げ、櫨を揺かして行く。巳の時(午前十時)、志賀島の東海に到る。信風(西へ向かう貿易風)が無いために五箇日のあいだ志賀島に停宿した。
二十二日、卯の時(午前六時)、艮風(北東から南西へ吹く風)を得て進発できた。さらに澳(寄港地)を求めず、夜をついて暗みを行く。
二十三日、巳の時(午前十時)、有救島(五島の宇久島)に到る。東北の風が吹き,行く者留まる者別れを惜しむ。夜に入り暗みに行く。両舶の火信あい通ず(灯りをたよりとしての連絡が取れた)。
二十四日、第四舶が前を往くのを望見した。円仁が駕る第一舶との距離は三十里ばかり(十五㎞、ただし海上里程の実数は不明)、遙かに西方を往く。遣唐大使は始めて観音菩薩像を画いた。請益・留学の法師らは、あい共に読経し誓願祈願した。亥の時(夜十時)、両舶の火信あい通ず。その灯りは星の灯りのようだ。暁になると見えなくなった。艮巽の風(北東の風と南東の風)に変化が有ると雖も、漂流の驚きは無い。大竹・蘆根・烏賊(いか)・貝など、おお波に漂い流れる。釣りを下して取って看るに、或いは生き或いは枯れている。海の色は浅緑色、人びとは陸地が近いという。申の時(午後四時)、大魚が船に随い遊行する。
二十七日、平鉄が波に衝かれて、悉く脱落した。疲れた鳥が船を頼って泊まり飛び立たない。それでも二三の鳥は西へ飛んだがすぐに帰還する。それを何度も何度も繰り返す。海の色は白緑色。夜もすがら帆柱に登り、陸地の山や島を見ようとした。ことごとく「見えない」という。
二十八日、早朝、鷺鳥が西北を指して二羽飛び立った。風はなお変らないようだ。帆を側だてて坤(西南)を指す。巳の時(午前十時)、白水洋に至る。その色は黄泥のようだ。人びとは皆いう、これは揚子大江の流水であると、人を帆柱に高く登らせて見せた。それが申すには、「いぬいのところより南方に直流している。その寛さは二十余里(十㎞)。前方を望見すると、海水はまた浅緑色。暫く行くも変わることなく、終に先の見張りがいうごとくであった。遣唐大使は海の色がまだ浅緑色であるのを深く怪しんだ。新羅人の通訳金正南が申していうには、「聞くならく揚州の掘港は横切るのが難しいと。今すでに白水洋を越えた。疑うらくは掘港も越えたか」と。未の時(午後二時)、海水はやはり白い。人びとはみな怪しんだ。帆柱に登らせて陸島を遠望させたが、なお見えないという。風の吹き方は変わらない。海は浅く波は高く、衝鳴すること雷のようだ。縄をもって鉄を結び、これを海中に沈めてみると、わずかに五丈(十五メ-トル)。すこし経って鉄を下し、海の浅深を試験したら、わずかに五尋(七・五メ-トル)。遣唐大使は危惧した。ある者はいう、「すぐに碇石を下して停るのがよい。明日また往こう」と。別のある者はいう、「須べからく半ば帆を下し、小艇を馳せ、前途の浅深を知ってから、はじめてだんだんと進行するのがよい」と。停留の説は妥当しない。相談は酉戌(午後六時から八時)に及んだ。この時に東風がしきりに扇ぎ、波濤が高く猛しい。船舶は卒然として海渚に趨り昇る。驚きながら帆を落とした。柁角の砕け折れること両度。東西の波が互いに衝き舶を傾け、柁葉は海底に着き、舶の柁はまさに破れんばかり。柁を截り海に棄てた。舶は波濤に随って漂蕩し、東から波が来れば、船は西へ傾き、西から波が来れば、船は東へ側つ。波水が船上を何度も洗い流す。船上の人びとはただひたすら仏神の加護を頼むだけ。対策は浮かばない。遣唐大使より水手船頭に至るまで、すべて裸身で褌を締め直した。船は座礁して動かない。そこで艀の櫨軸に趨走して、なんとか命だけは助かろうと思う。大波に衝かれ、みなすべて脱落した。左右の高欄の端に縄を結び牽引し、競って活路を求めた。淦水(泥水)が船中に充満してきた。船中の官私の種々な物品は泥水に随って浮沈している。 二十九日、暁、潮が涸れ、泥水もようやく竭きた。人に底を見せたが、悉く破裂し、沙に埋った搙栿(鋤状農具)のようだ。衆人は相談して、今舶はすでに破裂している。もし再度潮汐が生じたら、恐らくは砕け散ってしまうと。そこで帆柱を倒し、左右の櫨棚を截り落とした。舶の四方に棹を建て、纜を搙栿に結んだ。亥の時(午後十時)、西方を望見するに、遙かに火光が有るのが見える。これに対して忻悦しない者は居ない。夜通し瞻望しても、山島は見えない。ただ火光が看えるのみ。
七月二日、早朝、潮が生じた。進み往くこと数百町、西方に島が見える。その形は双舶が並ぶようだ。ちょっと進むと、ようやく陸地だと分かる。少し漂流して行くと、二本の潮が回流するに逢い、横流すること十余町、船は泥に沈澱して、進まず退かず。潮水は強くほとばしり、舶辺の泥を掘りえぐる。泥が逆流、船体は傾き、ほとんど埋もれようとする。人びとは驚き懼れ、競って船側に寄り、各々帯や褌を締め、諸処に縄を結び、繋いで死を待つばかり。舶は左に覆り、人びとは右側に遷った。覆るに随って処を遷すこと数度に及ぶ。船底の二重底の布は流れている。人びとはたまげて泣き出すばかり、そこで極楽往生を発願する。戌亥の角に当たり、はるかに浮遊物を見る。そこへ唐人が数人現れた。
【研究】『続日本後記』巻七、承和五年七月庚申五日の条に、「大宰府奏す、遣唐使第一・第四舶進発せり」とあるが、これは九州大宰府から京都の朝廷に遣唐使出発の報告があった日付けを記したものである。円仁「入唐求法巡礼行記」巻一では承和五年(八三八)六月十三日に第一・第四船が出港した。なお、今回の遣唐使船は二年前の承和三年(八三六)五月十四日に大阪の難波津を出港した。丸二年で九州に来るまでに第三船は難破した。第二船は後れて出航という。承和の遣唐使は事実上最後となった。遣唐大使藤原常嗣、宗祖最澄の遣唐使藤原葛野麻呂の子息である。円仁は第一舶に駕る。中国大陸に難破船さながら着いたのが翌月七月二日、円仁の日記の筆は具体的である。中国大陸沿岸近くで船と乗員は大変な状態、円仁のその後の労苦を暗示するようだ。以下次号
http://haijimadaishi.com/nyoirin/%e6%85%88%e8%a6%9a%e5%a4%a7%e5%b8%ab%e5%86%86%e4%bb%81%e8%ae%83%e4%bb%b0%e3%80%8c%e5%85%a5%e5%94%90%e6%b1%82%e6%b3%95%e5%b7%a1%e7%a4%bc%e8%a1%8c%e8%a8%98%e3%80%8d%e7%a0%94%e7%a9%b6%ef%bc%8d%e3%81%9d/ 【慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その2-】 より
承和五年(八三八)七月三日、丑の時(午前二時ころ)、潮が生じた。路を知る船が、前を先導して掘港庭(大運河の町)に赴いた。巳の時(午前一〇時ころ)、白潮口に到った。逆流がはげしくほとばしる。大唐の人が三人と日本から来た水手船頭たちが、船を曳き流れを横切り、岸に到って纜(ともづな)を結び、しばらく潮の生じるのを待つ。
ここで遣唐使第四船が北方に漂着した聞いた。午の時(正午一二時)、至近距離の海陵県白潮鎮の管内守捉軍(守備隊)中の村に到った。ここで先に海上で別れた録事山代氏益ら三〇余人が迎えに出た。再会ができたので、皆悦び集まり、涙を流して懐旧の思いであった。ここで一同一緒になった。この間に小船で国信物(1)を運び、ならびに海水などでびしょびしょに濡れた官有物や私物を洗い乾かした。唐岸に到着以来数日が経っているが、未だ州県地方官の慰労の出迎えはない。各自が便りを得て宿所を探した。辛苦は少なくはない(2)。請益法師と留学僧(3)とは同じ宿に一処に停宿した。東梁豊村(4)より去ること一八里(九キロメ-トル)、延梅村(5)があり、村裏に寺があり、国清寺(6)と寺名がある。遣唐大使らは漂着の労を憩うためにここに宿住した。
七月九日、海陵鎮(7)大使劉勉が来り遣唐使らを慰問し、酒餅を贈り、兼ねて音声を設けた(8)。あい従う官健(9)・親事(10)は八人。大使劉勉は紫の朝服を着ている。当村押官(11)もまた同じく紫衣を着ている。巡検の手続きの事が畢ると、県家(12)に帰った。
七月一二日、東梁豊村より水路で随身物を運び、寺裏に置いた。同日午後、唐側の迎船の催促のために通事大宅年雄(13)、射手大宅宮継らを派遣し、水路より県家に向かわせた。申の時(午後四時ころ)、雷が鳴ってきたが、東梁豊村に往った留学僧はいまだ到着していない。
七月一三日、大いに熱い。未の時(午後二時ころ)、雷が鳴り、初めて漂着して以来、蚊や虻が甚だ多い。その大きさは蠅のようだ。夜になると人びとを悩まし、五月蠅い。辛苦は極りない。申の時になって、東梁豊村からこちらに向かった留学僧が到着したが疫痢に罹っている。
七月一四日、辰の時(午前八時ころ)、州県の迎船が来ないので遣唐大使一人、判官二人、録事一人、知乗船事一人、史生一人、射手・水手など総数三〇人水路で県家に向けて去った。その時、揚州開元寺(14)の僧元昱が来て、筆言(筆談)で情を通じた。頗る文章を識る。まま日本国の風を知るので僧元昱にも土物(みやげ)を贈った。彼の僧からは桃菓が贈られた。寺の近くにその院が有った。しばらく話して帰っていった。暮れ際、雷が鳴った。大雨が降った。驚き慌てること甚しい。
【研究】(1)国信物は国信の物、国信とは国の便り、すなわち日本国から唐帝国へ国家間の儀礼物である。因みに日本国から唐帝国へ贈る物は貢ぎ物ではない。(2)各自が便りを得て宿所を探した。辛苦は少なくはないとは、当然遣唐使以下の随行者や円仁らの宿泊費用は有料である。無料宿泊接待があったわけではない。(3)円仁は日本国が必要とする仏教教義儀礼を将来するために正式に派遣した請益法師であり、それに随伴して勉強修行する円載らの単なる留学僧とは区別される。(4)東梁豊村は揚州海陵県白潮鎮桑田郷東梁豊村、ただしこの村は日本のムラとはことなり、行政区画ではなく、単なる地名である。村は邨とも書くように、人家が数戸たたずむ所である。(5)延梅村の地点は不明。
(6)国清寺は天台山国清寺、すなわち陳隋国師の天台大師智顗禅師が本拠にした浙江台州の寺と同名である。(7)海陵鎮は海陵県白潮鎮の誤記であろう。(8)音声を設けたとは歌舞音曲の芸事で客を娯楽させること。(9)官健は健児の別名であり、この唐の兵制度は奈良時代から平安時代初期に日本でも施行された。(10)親事とは近侍の者の意であるが、円仁が入唐した時代の唐後期では官健とともに節度使配下の直属部将である。(11)当村押官も節度使配下の直属部将、村という地点に配置された守備兵である。(12)県家は県の役所のこと。県公署。司馬光『資治通鑑』巻二四九、唐宣宗大中八年(八五四)の条には、「唐人は諸道節度使及び観察使を謂いて使家となし、諸州は州家となし、諸県は県家となす」という。いずれにしても唐後期の節度使藩鎮跋扈の時代の言い方である。天下が乱れ、唐皇帝の権威が失墜して、地方が分裂割拠の状態になったようすを示すものである。(13)通事大宅年雄は帰朝後累進して従五位に上る。(14)揚州開元寺は鑑真和上縁の寺。開元寺は唐玄宗開元二六年(七三八)に天下の州府に一寺の建立を勅額で定めた寺院。わが諸国の国分寺の先例の一である。