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みかきもりの気ままに小倉百人一首

2020.11.22 13:15

http://www.hi-ho.ne.jp/hase/100nin1syu/data/090621_kentoushi.htm  【みかきもりの気ままに小倉百人一首】 より

小倉百人一首の作者には3人の遣唐使(同行の派遣者を含む)がいます。本当に唐に行ったのは1人ですが。

この3人の遣唐使の歌から当時の歴史を感じることができます。

 阿倍仲麻呂   天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも

できごと

天平勝宝5年(753)、鑑真が6回目にして来日を果たす。

養老元年(717)、阿倍仲麻呂、遣唐使に同行して長安に留学する。

奈良初期、日本は仏教を国教とするが授戒伝律の制度が確立できておらず、税金逃れのために勝手な出家も多かった。

天平5年(733)、朝廷は興福寺・栄叡、大安寺・普照を唐に派遣して授戒伝律の適任者の招請をはかる。 (渡航の危険のために応じる者がなく、鑑真に出会うまでに9年かかる)

737年、玄宗皇帝の寵妃武恵妃の薨去。その後、玄宗皇帝は楊貴妃を見出して溺愛。(唐の傾国の始まり)

748年11月、鑑真は5回目の渡航の途中で激しい暴風にあい、14日間の漂流の末、海南島へ漂着する。

751年、海南島から揚州に戻る途上、端州の地で栄叡が死去し、鑑真もまた両眼を失明する。

752年、藤原清河ら遣唐使一行が来唐。鑑真のもとに訪れた清河らに鑑真は渡日を約束する。

753年、藤原清河ら遣唐使一行は阿倍仲麻呂を伴い帰国の途につく。 唐が鑑真の出国を禁じたため、大使藤原清河は鑑真一行の乗船を拒否する。 副使の大伴古麻呂が独断?で鑑真を自身の船に乗せる。

753年11月、暴風により藤原清河と阿倍仲麻呂の乗る第一船は唐南方の驩州(ベトナム)に漂着するが、 大伴古麻呂と鑑真、普照の乗る第二船はもちこたえる。

753年12月、鑑真を乗せた第二船は薩摩の秋妻屋浦(坊津)に着く。

754年1月、鑑真と弟子たちは平城京に入り、聖武上皇以下の歓待を受ける。

754年4月、日本で最初の正式な授戒伝律が行われる。(聖武上皇・孝謙天皇はじめ440名以上)

[みかきもり]

この「天の原」の歌は、天平勝宝5年(753)、遣唐使藤原清河らに従って日本に帰国する際に人々が催してくれた送別の宴での歌です。 この歌から阿倍仲麻呂の望郷の情が感じられます。

この阿倍仲麻呂と鑑真は同じ日本に向かう船団でした。 しかし、仲麻呂の乗る第一船は日本に帰れず、鑑真の乗る第二船は日本に到着することができました。 これも運命のいたずらなのでしょうか。 鑑真が日本に来たことで戒律ばかりでなく、経典、建築、彫刻、薬学など日本に大きな影響を及ぼしました。

「天の原」の歌からは鑑真来日が連想できます。

それゆえ、定家はこの「天の原」の歌を選んだのではないでしょうか。

天の原ふりさけ見れば春日なる

三笠の山(御蓋山)に出でし月かも

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日本の仏教界を見ると、鑑真が春の太陽のように平城京に現れました。

授戒伝律をして、煩悩の山を明るく照らしているなあ。

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三笠の山:春日大社の後方にある御蓋山(みかさやま)

  御蓋→五蓋(ごがい)=5つの煩悩

     1) 貪欲蓋(むさぼり求める煩悩)

     2) 瞋恚蓋(怒り、恨む煩悩)

     3) 睡眠蓋(心が暗くなったり、沈む煩悩)

     4) 掉悔蓋(くよくよして、落ちつかない煩悩)

     5) 疑蓋 (疑い深い煩悩)

日・月 :漢字の組合せで「明るい」

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11 小野篁  わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ海人の釣舟

できごと

承和5年(838)、事実上最後の遣唐使派遣となる。(円仁が乗船)

承和元年(834)、小野篁は遣唐副使に任ぜられる。

承和3年(836)、出航するも難破して渡唐に失敗。

承和4年(837)、出航するも難破して渡唐に失敗。

承和5年(838)、三度目の遣唐使派遣のとき、大使藤原常嗣の船に欠陥があり、大使が勝手に副使小野篁の船と交替させる。 小野篁はこれを不満として病気と称して乗船を拒否する。

さらに「西道謡」という遣唐使を風刺する詩を作り、これが嵯峨上皇の怒りに触れ、 小野篁は官位を剥奪されて隠岐への配流となる。 この「わたの原」の歌は、その配流の折の歌です。

[みかきもり]

新羅との交易を認めず(唐人を前に出すことで抜け道)、大きな人的損失のリスクを伴った遣唐使制度を維持することは、 2度の難破で多くの人を失った経験をした小野篁には時代にそぐわない政策に映ったと思われます。 ただ反対するにしても他に方法はなかったのだろうかと思いますが…。

この時代は新羅人が東アジアの交易のネットワークを持っており、張保皐(チャン・ボゴ)がその中心人物です。 筑前太守・小野末嗣は承和の遣唐使派遣で乗船した円仁に張保皐に宛てた書状(紹介状?)を渡しています。 張保皐と小野末嗣との関係がうかがわれます。 小野篁は博識で知られますが、おそらく小野末嗣に頼んで新羅商人にいろいろ文物を調達してもらったのではないかと思います。

さて円仁ですが入唐から帰国までの9年間の旅行記「入唐求法巡礼行記」を記しています。 この9年にも及ぶ旅で円仁は張保皐の築いた新羅人の交易ネットワークにいろいろとお世話になったようです。

「わたの原」の歌からは「入唐求法巡礼行記」を書いた円仁が連想できます。

それゆえ、定家はこの「わたの原」の歌を選んだのではないでしょうか。

わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと

人には告げよ海人の釣舟

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大海原を数多くの島を渡って唐に行く遣唐使船が漕ぎ出して行きました。

張保皐さんによろしくお伝えください。海人(新羅人)の交易船の方々。

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菅原道真  このたびは幣も取りあへず手向山 もみちの錦神のまにまに

できごと

寛平6年(894)、菅原道真の建議により遣唐使停止。

874年、唐にて黄巣の乱がおこる。

880年、長安に入った黄巣は国号を斉と定め皇帝を称号する(880~884)。(唐の実質的な滅亡)

8xx年、黄巣の部下・朱全忠、政治能力のない黄巣を見限り、蜀にいた唐の将軍の王重栄と内通する。

8xx年、朱全忠、黄巣を裏切って追い落とす。

8xx年、朱全忠、節度使に昇進する。

8xx年、朱全忠、李克用との唐朝内部での主導権争いに勝利する。(唐の支配は長安一帯のみ)

寛平5年(893)3月、在唐の僧中瓘、新羅商人の王訥らに託して唐の状況を報告する。

寛平6年(894)8月、菅原道真、遣唐大使に任ぜられる。

寛平6年(894)9月、菅原道真の建議により遣唐使が停止される(唐の凋弊、渡唐の危険性が理由)。

904年、朱全忠、昭宗を殺害し、その九男である13歳の昭宣帝(哀帝)を帝位につける。

905年、朱全忠、唐の高官30余人を処刑する。

907年、朱全忠、昭宣帝から禅譲を受けて国号を梁と定め新しい王朝を開く。(唐の滅亡)

908年、朱全忠、山東の済陰王に降格した昭宣帝を毒殺する。

[みかきもり]

遣唐大使に任じられた菅原道真は遣唐使を停止する建議をし(請令諸公卿議定遣唐使進止状)、 その結果遣唐使が停止されることとなります。

607年小野妹子が「日出処の天子……」の国書を持参した遣隋使 (第1回は600年だがこのときは国書がなく外交の体をなしていない) から始まった国家事業としての中国からの制度や文化の吸収が一つの区切りを迎えます。

「このたびは」の歌からは遣唐使停止の建議が連想できます。

それゆえ、定家はこの「このたびは」の歌を選んだのではないでしょうか。

このたびは幣も取りあへず手向山

もみちの錦神のまにまに

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この度の遣唐使派遣についてすぐに止まねばならぬと提言いたします。

唐では黄巣の乱がおこって現在は黄巣を追い落とした朱全忠が権力を持っていますが、 唐は長安一帯を支配するだけになってかつての隆盛はなく、 こうした唐に大きな危険を冒してまで遣唐使を派遣することは日本の国益に適わないと考えます。

御心のままにご判断ください。

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このたび     この度

たび・幣・手向  遣唐使

取りあへず    すぐ

山        やま→止ま

もみちの錦    黄や紅→黄巣の乱、朱全忠

神のまにまに   御心のままに