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下野薬師寺

2020.11.22 14:04

https://blog.goo.ne.jp/kuritarou13/e/da0367087f3ca1e0f02f2663ec7223b4 【とちぎを歩く 下野薬師寺・八幡宮・龍興寺】より

現地説明会のあと、下野薬師寺跡へ。

かつての薬師寺のあった場所には、今は安国寺というお寺が建っている。

先日、奈良の唐招提寺で金堂の落慶法要が営われていたが、この寺も唐招提寺ととてもゆかりが深い。

先日のTBSテレビ唐招提寺特番では、鑑真和上の弟子・如宝役を中村獅堂が演じていたが、その如宝が、鑑真の晩年頃に赴任していたのがここ下野薬師寺なのだ。

寺の創建は天武帝の頃(白鳳8・680年)とも言われているが、定かでないらしい。

歴史の表舞台に登場するのは、なんといっても、鑑真和上によってこの寺に戒壇院が建てられたところから始まる。

当時、僧侶になるためには国家試験のような「受戒」を受けねばならず、東国(今で言うところの関東以北)の僧侶の場合、ここで受戒をうける決まりになっていた。

都にある東大寺、西国の観世音寺とならび、下野薬師寺は本朝三戒壇のひとつといわれ、ひろく全国に知れ渡った。

東国随一のエリート養成機関として、当時はここに一大学園都市が存在していわけ。

どれだけ隆盛を極めていた寺院であったか、想像に難くない。

しかし、のちに平安のころには、比叡山でも受戒を受けれるようになり、徐々に 衰退していった。

時代が過ぎ、室町幕府開幕の折。将軍足利尊氏は、戦没者供養の名目で全国各国に安国寺を建てた。

下野の場合は、ここ薬師寺を修理して安国寺と改称した。新たに建てる財源もなく、リホームで済ませたというのが真相かもしれない。

それでもまだこの頃までは七堂伽藍の堂宇を誇っていたというのだから、大きな寺院だったのは間違いない。

その後、戦国時代の元亀元年(1570)、小田原から出陣してきた北条軍の兵火によって、すべての建物が焼失してしまった。

現在、往時をしのぶものは何もなく、遺跡調査によってその全容を知るにすぎない。

名残と言えば、かつて戒壇院があったとされる場所に幕末に建てられた六角堂があるのみである。

 六角堂

近くの立て看板には、『・・瓦や土器・・の採取はご遠慮ください』とある。

つまり、いまでも土器とかがでてくる、ということなんだよね。

その東には、薬師寺八幡宮がある。

社殿の隣には、まっ黄色に色付いた銀杏の樹がまぶしかった。

境内には、源頼義の手植えと伝わるケヤキもある。

奥州平定の帰路というから、おそらく前九年の役の帰りだったんだろう。

さて、薬師寺ゆかりの人物といえば、道鏡を忘れてはいけない。

通説には、「時の権力者・孝謙女帝をたぶらかし、皇位を奪おうと画策した怪僧で、女帝の死後、薬師寺に左遷された」と言われている。

日本史上、悪人の名を挙げよと言われれば、必ずランクインする人物なのである。

しかし、どうも僕はそう極悪人とは思えない。藤原氏の作った歴史観の犠牲者のような気もするのだ。

その道鏡の塚が、安国寺を街道筋に南下してすぐの龍興寺の境内にある。

もともと、薬師寺の別院として建立された寺である。

この寺では現在、道鏡の名誉を回復すべく、「道鏡を守る会」が活躍しているらしい。

 本堂と、道鏡塚のある森。

 道鏡塚

道鏡の実像とは、どうだったのか。

もともと、重病に臥せった女帝の病を治して重用されるようになるのだが、野望を秘めてのし上がったというよりは、贔屓にされて舞い上がったお調子者、だったのではないかなあ。

考謙天皇といえば、聖武帝・光明皇后なきあと、ひとりきりで帝位の重圧に耐えた女帝という印象が強い。

女の盛りを過ぎようとした矢先、その張り詰めた日常にポッと現れた道鏡は、女帝にとって可愛い飼い犬のような存在だったのだろうか。

そして女帝亡き後、朝廷の主導権は藤原仲麻呂にうばわれ、庇護者を失った道鏡は、それまでの失政の責任をかぶせられて、遠く下野の地に飛ばされたのだと思う。

しかし、もし本当に伝え聞くとおりの悪僧であったならば、左遷程度で済まされずに、死罪に値する刑罰を受けているはずである。

むしろ、左遷くらいしか言い掛かりをつけられなかったのだと見るべきなのか。

それとも、わざわざそこまで手を煩わすほどの人物でもなかったということか。

とにかく真実の人物像は、いまさら闇の中だろう。

その道鏡は、寺の別当として赴任してきて二年後に、二度と都に帰ることなくこの地で死去するのである。

寺の裏手に周ると、鑑真和上碑が建っている。

この地で和上の訃報を聞いた如宝やその同僚の心中を想像すると、ちょっといたたまれない気がしてくる。

請われて、はるばる大陸からやってきた鑑真和上とその弟子たち。

辺境の日本の地に仏教の大樹を育て、大きな実をはぐくもうと希望を膨らませた来日だったろうけど、結果、冷遇された。

ここから北西に約5km。

田んぼの真ん中にこんもりとした森があり、そこには孝謙天皇神社なるお社がある。

道鏡を慕って考謙女帝がやってきた・・・とかいう話もあったりするけど、死んじゃってるから順番がおかしいわね。

たぶん、道鏡の左遷と一緒に流された女帝付きの女官がいて、その住まいがこの辺り。そして、塚か供養塔でも拵えたんじゃないかなあ。

近所の人の話によると、いまでこそ、周りは田んぼが広がり道も良くなったらしいが、以前は雑木林のなかのうっそうとした森だったそうだ。

どこか薄気味悪さが漂う神社だったようで、肝試しもしたという。今のこじんまりとした姿から想像もできない。

薬師寺あとに戻って、資料館を見学した。

資料館をでて西を望むと、真っ赤な夕焼け空に自治医大の建物がそびえていた。周りになにもないので、よく目立つ。

ああそうか。かつての薬師寺の五重塔は、おそらくこのくらいの威容を誇ったのだろう。

いやいや。それどころか、現代人が初めてスカイツリーを見るよりももっと、ぶったまげるくらいの威圧感だったんだろうなあ。

いまでは、奈良時代に東国の一大拠点がここにあったことすら想像しづらい、はるか遠い夢物語のようである。